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般若心経と聖書を一緒に学ぶ

 私は当たり前のことを当り前のように申し上げているのです。

 ところが、皆様が私の話をお聞き頂きますと、とんでもない事を言う人だと思われるかもしれません。

 人間の文明が始まってから、だいたい六千年経過していますが、未だに人間とは何かということが全然分かっていないのです。人間とは何かという根本問題が分かっていない人間が、文明を造ってきたのです。

 私たちは理性的にも良心的にも、万人に共通する意識を持って生きているのです。本能的には万人共通のあり方で生きているのです。白人と黒人、黒人とアジア人とが自由に結婚できるということを考えましても、人間は万人共通の機能によって生きていることが分かるのです。私は世界一周を二回して、色々な国の人々と話してきましたので、このことがよく実感できるのです。

 質的に言いますと、人間は一人しかいないことになるのです。人間文明が六千年続いてきましたから、人間が一人しかいないという観点から申しますと、人間存在の年令が、六千年になるということです。ずいぶん年をとったものだと思います。

 仙人でも六千歳の仙人はいないでしょう。人が六千歳になった結果、人間文明が心理的に意識朦朧としてしまっているようです。

 これは六千年も生きてきた結果の自然の現象と言えることかもしれません。人間が何のために生きてきたのか。また何のために生きていかねばならないのか、皆目分からなくなっているのです。

 人生に矛盾や苦労や悲しみがなぜわだかまっているのか分からないし、核兵器の廃絶という分かりきった問題でさえも、全然実現しないのです。

 一体これはどういう事なのか。これが人間文明が老化している証拠であると言えるでしょう。 人間文明は確実に老化しているのです。この老化現象の原因は何か。なぜこういう事になったのかと言いますと、持って生まれた本能性を間違えた形で用いてきたからです。

 人間の本能性というものは、先天性の生命の根幹になるのです。これを人間が肉体的に存在するという立場から用いてきたのです。

 人間存在という言葉は二つの存在が極めて密接な状態で、複合しているのです。二つの人柄、二つの在り方が張りついているのです。

 人間には肉体的に存在するという面と、魂として存在する面と、両面があるのです。これは言葉で言いますと簡単ですけれど、実は全く異質の存在の二面性になるのです。

 霊魂的に存在する面を本質的な人間であるとしたら、常識的に生きている肉体人間は異質の人間であることになるのです。

 人間は異質の人間であるという意識が強すぎて、本質的な意味での人間存在が全く忘れられたような状態になっているのです。このような状態で六千年経過したのです。

 現在では、人間文明がにっちもさっちもいかなくなっているのです。よほど優秀な政治家でも現在の世界に本当の平和を実現することはできないでしょう。人間文明は非常に大きな危険に向かって進んでいるのです。

 人間が自分の本質である霊魂を考えないで、肉体生活の面だけを考えてきたのです。自分の生活のためにだけ自分の本能性を用いすぎていたのです。

 人間の本能性は人間存在の基本的なものですが、肉体的な人間を人間と認める状態だけでこの本能性を用いますと、命の本質を見失ってしまうことにならざるを得ないのです。

 現代文明の欠陥はこういう形で現われているのです。

 日本人は般若心経を愛していますけれども、空という理念がほとんど分からないのです。日本では般若心経を読んだり書いたりをしている人は、一千万人はいるでしょう。もっと多くいるかもしれません。

 テレビ番組のドラマの場合で、葬式のシーンになりますと、般若心経を読誦しています。それほど般若心経は日本人に愛されているのですが、五蘊皆空をほとんど取り上げていないのです。

 日本人は生活的には非常に熱心です。世界第三位の経済大国になりましたけれど、ただ生活的に生きるということだけを考えてきたのです。生活的に生きるという事は、皆様の人生の場合には八十年が九十年くらいのものです。よほど長生きした人でも百歳くらいでしょう。

 聖書も人間の一生は七十歳か八十歳にすぎないと言っています。七十歳か八十歳にすぎない生活が、果たして自分自身の命の全部であるかどうかという問題です。

二通りの不滅

 私たちの命の本質は本来不滅のものです。霊魂不滅という言葉がありますように、霊魂は不滅ですが、恵まれた形で永遠に存続することと、苦しまねばならない形で永遠に存続することと、二通りの不滅があるのです。

 恵まれた状態で永遠に存続するか、苦しみと悲しみの中におしひしがれた状態で、永遠に存続するかどちらかの違いになります。これは大変な違いになります。

 皆様が数十年の間生きている状態で、そのどちらかを決定しなければならないことになるのです。

 ただ生活的に一生懸命になりすぎていますと、本来なさねばならない事がらがもぬけの殻になってしまって、何のためにこの地上に生きていたのかさっぱり分からない状態でこの世を去らねばならないことになるのです。

 皆様は既に数十年の間現世を経験してきました。その結果、皆様は何を掴まえたのでしょうか。

 現世における数十年の生活が、生活というポイントだけに一生懸命になっていたでしょう。その生活から何が捉えられたのでしょうか。命の本質に関する勉強がどれだけできたでしょうか。

 これは宗教の問題ではありません。皆様の命の実質の問題です。

 実は宗教家も般若心経の空を知らないのです。また、キリスト教の牧師さんが、新約聖書に現われた新しい命が分かっていないのです。だからキリスト教会へ何年行っても、永遠の命の実物を皆様に与えることができないのです。

 仏教も同様です。もし五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃が日本の仏教界で具体的に、また実体的に取り上げられているとしたら、現在の日本の伽藍仏教は成立しなかったでしょう。

 般若心経や聖書は本来宗教ではないのです。これは人間存在の生命の本質について的確に、また深刻に命の本質を指し示しているのです。

 こういう考え方は今日の宗教社会では通用しないでしょう。般若心経や聖書を文字通りに正直に取扱いますと、宗教経営は成り立たなくなるのです。

 宗教は所詮一つの経営です。経営者という観点から考えますと、営業政策のような神経を働かさなければならなくなるのです。人間を集めなければ経営が成り立たないからです。

 般若心経は人間を集めるためにあるのではありません。新約聖書も人間を集めるためにあるのではありません。人間が現在生きている状態が空であることを般若心経は教えているのです。

 人間は新しく生まれなければならないことをはっきり提唱するために新約聖書があるのです。

 イエスは復活したのです。人間は死ななくても良いことをイエスが証明したのです。ところが、今の人間は死ななければならないと思い込んでいるのです。自分自身の本質を全く間違えているのです。

 キリスト教では死んでから天国へ行くと言います。こんなことは新約聖書に書いていません。もしキリスト教を信じている人が、死んでから天国へ行けなかったら、どうなるのでしょうか。

 死んだ後の世界は他界していますから、現世ではありません。他界した場所には寺も教会もありません。そこで誰に向かってどういう文句を言うのでしょうか。

 死んでから天国へ行く、極楽へ行くというのは、宗教経営上のテクニックです。

 私たちは目の黒いうちに、永遠の生命の実物を掴まえなければならないのです。自分自身の魂に対して、そうしなければならないという、絶対的な責任があるのです。ですから、生活のために一生懸命になることをやめて、命のために一生懸命になって頂きたいのです。

 宗教というのは日本の憲法が言うように信教の自由でありまして、信じても良い、信じなくても良いのです。しかし命の問題は信じてもよい信じなくてもよいという問題ではありません。

 そこでどうしても宗教ではない般若心経と聖書を勉強しなければならないのです。宗教家は仏教という垣根、キリスト教という垣根があるように思い込んでいるのです。垣根があると考えるのが宗教観念です。人間の妄念です。

 二〇一五年現在、世界に七十三億の人間がいるように思えますが、世界に命は一つしかないのです。もっと広く言えば、宇宙に命は一つしかないのです。人間は一人しかいないのです。知らなければならないこと、信じなければならないことは一つしかないのです。

 般若心経によって私たちは空を悟らなければならないのですが、空を悟っただけではだめです。人間の霊魂は現世を去っても永続するものです。恵まれた形で継続するか、苦しむ形で継続するか、どちらかです。

 死んだ人は現在黄泉(よみ)で眠っていますから、呼び出すことができるのです。皆様は五十年、六十年の間現世に生きてきましたが、人間の常識だけで人生を割り切ることができないのです。このことをよくお考え頂きたいのです。

 皆様はこの世に生まれたと考えています。生まれたとはどういう事かが分かっていないのです。生まれたとは思っていますが、生まれたという事が分かっていないのです。

 誕生とはどういう事かを考えてみたいと思います。生まれたことはあります。分かったような気持ちでいるのです。ところが生まれたということがどういう事なのかが分かっていないのです。

 これはおかしいことです。生まれたということは確かにあるように思えるのですが、生まれたという事がらの意味が分かっていないのです。

 人間は一体どこから生まれてきたのか。生まれたという事はどういう意味なのか。これが分かっていないのです。これが問題なのです。

 人間がこの世に生まれてきて、何十年間の間生きている。これはどういう事なのか。これを知るためには、生まれたという意味を正しく理解しなければならないのです。もし生まれたという意味を正しく理解しなければ、この世に生きていることが虚しいのです。

 生まれたということはどういうことなのかが、今の日本人には分かっていないのです。どんな宗教家も分からないのです。そこで宗教の教えというのは、単なる情報になってしまうのです。単なる知恵にすぎないのです。教義、教説を説いていることになるのです。

 神仏を説くからには、神の実体、仏の正体を明らかにしなければならない責任があるのですが、日本の宗教はそれをしていないのです。

 キリスト教は聖書を用いて神を説いているつもりです。ところがキリスト教の説明だけをしているのです。キリスト教の教義、神学の説明をしているのです。

 人間の命を実体的に取り上げていないのです。ただ宗教的な感覚だけで、神や仏を信じようとしている。これが現代文明を腐らせている非常に大きい原因です。

 今の文明は腐っています。アメリカ、ロシア、中国が核兵器廃絶に耳を貸そうとしていないことは、現代の世界を指導している国のリーダーが、人間の命を軽んじている証拠です。

 命よりも文明の方が大切だと考えているようです。文明は人間が生活している状態をよりよいものにしようと考えているのです。

 生まれてきたことの意味がよく分からない状態で生活していましても、全く無意味です。

何のために生きているのか

 人間の文明が始まってから、だいたい六千年位になります。文明、文化意識ができて人間がこの世に生き始めてから、だいたい六千年ぐらいになりますけれど、六千年もこの世に生活していながら、未だに人間が何のために生きているのか分かっていないのです。

 このことをおかしいと思わないのでしょうか。皆様ご自身はどうでしょうか。何のために生きているのでしょうか。

 何のために人間が生きているのかがはっきり分からない状態で、人間は六千年の時間をむだに過ごしてきたのです。

 現在の人間は、何のために生きているのかということを認識しないままの状態で生きているのです。これはむだに生きていることになるのです。

 自分の命は何のためにあるのか。何のために国があるのか。何のために社会が存在するのか。この事が明確に認識されないままの状態で生きている。これを虚しいことだと思わないのでしょうか。

 私たちはこういう根本的な問題を、しっかり考えていかなければならないのです。

 生まれたことは分かっているつもりでいる。生まれたことが何となく分かっているような気持ちでいるけれど、何のために生まれてきたのか。生まれたということはどういうことなのかが分からないままの状態で生きている。これは何十年もの人生をむだに使ってきたことになるのです。

 皆様は三十年、四十年、六十年、七十年と、それぞれ生活してきましたが、何のために生きてきたのでしょうか。

 商売をしていたとか、会社勤めをしていたとか、何かを造っていたということはあるでしょう。これは現世における人間生活の義務であって、命の本質に関する責任を全うすることにはなりません。

 生活をしていたという事は言えるでしょう。何のために生活をしていたのか。この事が分からないままの状態でこの世を去ることになりますと、皆様の魂はこの世に出てきたことの責任を果たさないままでいたことの責任を追求されることになるのです。

 これは自分の人生を虚しくしてしまう、棒に振ってしまうことになるのです。

 国は何のためにあるのでしょうか。家庭は何のためにあるのでしょうか。こういうことの本質を考えないままで、家庭を造り、社会を造ってみた所で、やがて消えてしまうのです。

 人間文明自体が虚しいものです。般若心経はそれをずばりと指摘しているのです。人間は虚しい気持ちを持ったままで、虚しい生活をしているのです。これを般若心経は遠慮せずにはっきり言っているのです。これが釈尊の本当の悟りです。

 ところが、釈尊の悟りが日本に正確に伝わっていないのです。仏というのは悟るとか、悟った者とか、正しく悟った者、正覚者という意味を持っているのです。ブッダというのはこういう意味です。

 法というのは則です。宇宙構造の実体が則、法です。これを悟ったことが仏法です。

 宇宙構造の実体的な原理は何であるのか。これが分からないままの状態で日本人はただ無意味に仏教を信じているのです。

 仏教というのは宗教であって、悟りではありません。親鸞とか日蓮とか、弘法大師とかいう人が、釈尊の悟りを色々な角度から説明をして教を説いたのです。これが仏教です。

 日蓮の悟りが日蓮宗になっている。親鸞の悟りが浄土真宗になっている。法然の悟りが浄土宗になっているのです。自力とか他力とかいう言い方で仏の教えが説かれているのですが、これは教えであって、はっきり言いますと情報です。

 日蓮は日蓮の立場から情報を伝えたのです。親鸞は親鸞の立場から情報を伝えたのです。

 宗教とか学問というものは、すべて人間が造った情報です。情報が良いか悪いかは別として、情報は事実ではありません。

 例えば、親鸞聖人が仏を見た見方が教えになっている。見方というのは情報です。親鸞の見方、日蓮の見方、空海の見方が日本にあるのです。しかし釈尊の本当の悟りが日本にはないのです。

 釈尊は法を悟ったのです。釈尊は宇宙の大法をどのように悟ったのか。これが日本には全然伝っていないのです。これは困ったことです。

 皆様は生まれたことは分かっていますけれど、生まれたというのはどういう意味なのか、現在生まれていながら生まれたということが分かっていないのです。

 人間は何のために生きているか。このことが分かっていないのです。宗教ばかりを信じているのです。宗教を信じることは必ずしも悪いことではありませんが、仏教は仏法に到達するための入口です。これが宗教です。

人間存在の出自

 仏教は入口であって、終点ではありません。仏教は人間が何のために生まれたのか。何のために生きているのか。どこをどのように考えたら分かるのか。人間存在の出自が分かればいいのです。自というのは初めという意味です。出自とはどこから出てきたのかということです。

 人生には生まれてくる前の過去世と現世と、この世を去った後の来世があるのです。過去世とは何なのか。これが仏教では全く分からないのです。人間がどこから出てきたのか分かっていないのです。

 私たちは今この世に存在しています。この世に存在しているということは、結果です。このような結果が現在あるのですから、その原因がなければならないのです。原因がなければこういう結果が現われるはずがないのです。

 森羅万象は太陽光線の恵みを受けて輝いているのです。万物は太陽の光を受けて喜んでいるのです。万物があるのは地球があるからです。地球はどこから出てきたのか。地球の出自が問題です。

 地球がなければ人間はありません。地球はどこから出てきたのか。このことを素朴に、正直に考えるという事が、日本にはないのです。

 日本という国ができたのは、まだ千二、三百年位前です。日本ができた時には、中東地方、インド、中国、ギリシアには、立派な文明が堂々とあったのです。中国文明は、五千年の歴史を持っているのです。中東のエジプトでも、五千年の歴史を持っているのです。

 日本の国家組織ができたのは、今から千二、三百年前です。日本の国はどこから出てきたのか。地球はどこから出てきたのか。従って人間の命はどこから出てきたのか。日本人の出自が全く分かっていないのです。

 皆様の生活の原理となっている基本的な条件が全然分かっていないのです。

 何のために子供を教育するのでしょうか。何のために生活しているのでしょうか。何のために結婚するのでしょうか。何のために死んでいくのでしょうか。これは全て人間の出自に関係があるのです。

 人間はどこから来たのか。どこへ行くのか。これが分からないままの状態で生きている。従って、皆様の人生には目的がないのです。

 生活目的はあるでしょう。生存目的がないのです。人間自身の命の目的が分からないままの状態で生きている。だから死んでからどうなるかが、全く分かっていないのです。ここに日本人の非常にあやふやな妄念があるのです。

 これには日本人の島国根性が大きく関係していると言えるでしょう。

 一体人間の誕生とは何であるのか。人間自身の根本はどこから来たのか。どこから出てきて、どこへ行くのか。この事をはっきり考えなければならないのです。

 日本で般若心経を愛好している人は沢山います。一千万人位いるでしょう。ところが般若心経の真意が全く取り上げられていないのです。

 般若心経を愛している人は沢山いますけれど、その内容が全然分かっていないのです。ところが、日本の明治時代以前には、まじめに人生を考えようという風潮があったのです。現在ではそういう風潮はほとんど見られないのです。

 般若心経の内容を綿密に見ていきますと、現代の人間の誤りを遠慮会釈なく厳しく指摘していることが分かるのです。これは日本人だけでなく世界全体の人々に、知らせなければならない内容です。

 現在の政治のリーダーで命が分かる人は一人もいません。政治というのはそういうものなのです。現在の政治家あるいは教育者は、この世の生活しか考えていないのです。これは本当の政治とは言えないのです。

 本当の政治というのは日本的に言いますと政(まつりごと)になります。人間の生活は人間の御霊(みたま)をまつることです。これが分かれば、自ら柔和謙遜になれるのです。そうして自分自身の命を磨くことになるのです。

 例えば、スーパーマーケットへリンゴを買いにいくにしても、そのことが天の命に密接な関係があるのです。どういう気持ちでリンゴを買うのか。このことが人間存在の本質、永遠の命に重大な関係があるのです。

 ちょっと人と話をする時でも、又、電話をかけるにしても、人間生活そのものが、まつりごとになっているのです。

 人間の心臓が動いていること、目が見えることが御霊(みたま)の作用です。御霊というのは聖書の用語ですが、たまというのは人間の命が現実的に働いていることです。人間の命を現実に働かせていることがたまです。

 皆様の命のことを玉の緒と言います。人間が生きていることが玉です。人間が肉体的に生きている状態を「しい」と言います。「しい」というのは試みに生きているという意味です。

 たましいというのは、現世において命を試みていることです。これが魂です。嬉しいとか、おいしいとか、悲しいとかいうことを皆様は経験しているのです。

 神の御霊を祭るということは、毎日、毎日、命の訓練をしているのです。これが本当の生き方です。そのように人間の現世の生活は政です。

 仕事をすることもまつることです。仕事をするとは事に仕えることですが、これはそのまま祭っていることになるのです。お互いに祭り合うことです。

 人間全体のまつりごとがあるのです。このまつりごとの世話をするのが政治です。だから政治のことをまつりごとというのです。国民全体のまつりごとの世話をするのが総理大臣の仕事です。ところが総理大臣自身がまつりごとの意味を知らないのです。

 世界全体の政治のリーダーが、まつりごとを知らないのです。結局文明が悪いのです。国家経営の責任を担っている人が、まつりごとを知らないのです。

 人間が肉体的に生きていることが魂です。魂の世話をすることがまつりごとです。人間とは何であるかということさえ分かれば、核兵器廃絶と言わなくても、こんな危ないものは初めから製造しないのです。

 現在の学問はどれもこれも目的を持っていないのです。科学も目的を持っていません。政治学も目的を持っていないのです。専門学というと立派に聞こえますけれど、専門学は人間が地球上で生活するために存在しているのです。

 何のために人間が地球に存在しているかという根本的な問題を、究明しようと考えていないのです。これが現代文明です。

 私たちはでしゃばりですけれど、霊魂のボランティアをさせて頂いているのです。

 生きているとは何かと言いますと、生きているそのことが神と付き合っていることです。これをご承知になって、本当の命の掴え方を勉強して頂きたいのです。

 皆様が生きているということは、大変なことをしているのです。天気が良いとか、雨が降るとか、月が照っていることが分かるのです。こういう風光を見たり、自分の生活のあり方を見たりしているのです。これは神の御霊が試みに人間の形になって生活を経験しているのです。これが魂です。

 自分というのはどこにもないのです。ところが人間は自分が生きていると思い込んでいるのです。自分が生きているという感覚は、悪魔が造った感覚です。実は皆様が今経験している命は神の御霊を経験しているのです。だから魂というのです。

 生きているということ、これを英語ではザ・リビング(the living)と言います。ザ・リビングがリビング・ソール(living soul)、生ける魂です。リンゴ一個を買いに行くということが、魂の働きです。人間がリンゴを買いに行くのではなくて、リンゴを買いに行くという気持ちが生活を営んでいるのです。

 生きるということを営んでいることが、魂のあり方をさすのです。魂のあり方は、そのまま神のあり方を示しているのです。神のあり方を人という格好で生きているのです。だから魂というのです。

 皆様が生きているという事実は、どこにもありません。自分が生きているという考え方は、ただ今の文明の根本的な間違いです。自分が生きているという考え方を捨ててしまうことができない人は、火の池という地獄へいかなければならないことになるのです。

 自分が生きているという事実はないのです。ところが自分が生きていると思い込まされているのです。これが文明思想の間違いです。

 皆様は自分で生まれてきたいと思ったのではありません。自分で生まれたいと思ったのではないのに、自分が生きていると考えているのです。

 私も以前は自分が生きていると思っていたのです。今はそう考えていません。私という格好で神の御霊が生きていることがよく分かっています。これが分かると死ななくなるのです。

 これは私だけではありません。皆様一人ひとりが生きているということが、神の御霊の働きです。これが人間という格好で現われているのです。

 私たちは天地の命を経験しているのです。だから太陽光線が分かるのです。風の音が分かるのです。そのように目で見たり、耳で聞いたりしているのですが、これが神を経験していることなのです。

 これに気がつけば死なない命が分かるのです。これは何でもないことです。イエスはこれに気がついたのです。そこで見事に死を破ったのです。

日曜日は死を破った記念日

 毎月、四回日曜日があります。日曜日はイエスが復活した記念日です。これは宗教ではありません。歴史的事実です。

 今年は西暦二〇一五年です。人間が死ななくなってから、二〇一五年も経過しているのです。人間が死ななくなってから二〇一五年も経っているのに、イエスを正しく理解しないために人間はどんどん死んでいくのです。

 人間歴史の実体は人間が死なないようになっているのです。この神の処置を心得ないために、人間は勝手に死んでいくのです。

 死んでいくのはいいのですが、死後に地獄という恐ろしいものが待っているのです。

 人間の魂は神を知るだけの力を十分に持っているのです。私は神が分かって、現在生きているのは私が生きているのではない、神の御霊が生きているということがよく分かるのです。手に取るように分かるのです。

 これは誰でもできることです。これが霊魂の唯一無二の目的です。イエスはこれを実行したのです。皆様もこれを実行したら、死なない命がすぐに分かるのです。

 今皆様は自分が生きていると思っています。しかし、自分が生きているという事実はありません。自分が生きていると思っている人は必ず死にます。だから人間は死ぬために生きているようなものです。

 人間は遅かれ早かれ、必ず死ぬのです。必ず死ぬに決まっている命を、自分の命だと思っていることが間違いです。自分の命があると考えている人は、必ず死んでしまいます。この命を脱ぎ捨ててしまって、死なない命をもう一度着たらいいのです。

 目の黒いうちはやり直しができますから、命を替えることはできるのです。この事をよくお考えいただきまして、思い切って命をやり直して頂きたいと思います。

 聖書の世界観は普通の日本人に分かりません。聖書の根本原理がよく分からないので、日本人はなかなか聖書を理解できないのです。

 現在生きている人間は死ぬべき人間です。そこで生きている間に命を取り替えるのです。今生きている死ぬべき命は、業(ごう)による命です。考え違いの命です。五蘊の命を生きているのです。

 五蘊による命を空じてしまうのです。そうすると、新しい命を掴えることができるのです。新しい命というのはイエスが経験していた命です。

 日本人は聖書はキリスト教の教典だと考えているのです。聖書を宗教の書物と考えているのです。キリスト教は聖書の入口です。キリスト教は間違っているというのではなくて、聖書の入り口を教えているのです。聖書の初歩を説いているのです。

 入口を説いていますが、入口に入ったら座敷に入ったような説明をするのです。これがキリスト教の間違いです。カトリックもプロテスタントも、キリスト教は世間一般の人間を相手にしています。世間一般の人間は自分の命があると思っている人ばかりです。

 こういう人を相手にするためには、この世に生きている人間を認めなければ宗教になりません。そうしないとキリスト教という宗教ができません。そこで世間に生きている人間におべっかを言っているのです。現世に生きている人間に迎合しているのです。

 キリスト教の先生は本当の命を説いていないのです。キリストを信じて本当に罪が許されるということを、はっきり受け取っている人は日本にも、世界にも、一人もいません。

 聖書が本当に分かりますと、自分の命ではないもう一つの命が分かるのです。

 イエスは、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができない」と言っているのです(ヨハネによる福音書3・3、5)。イエスは神の国に入れと命令していますが、この命令をキリスト教は実行していないのです。

 キリスト教の人々は、水からと霊とから新しく生まれるということが分からないのです。神の国へ入るということが分からないのです。牧師が新に生まれていないのです。日本どころか、世界中のキリスト教の牧師、神父さんが新に生まれて神の国に入るということを実行していないのです。

 キリスト教の先生はキリスト教の教義の説明をしているのです。聖書はキリスト教ではありません。聖書は神の言葉です。本当の神の命が分からなければ、神の御霊の命が分からなければ、聖書の言葉を正しく説くことはできません。

 皆様は現在、自分が生きていると考えています。これが大きな間違いです。学校教育の名において、皆様は文明によって教育されてしまったために、生まれながらの命を忘れてしまったのです。自分の命の本質が何であるかが分からない人間になってしまっているのです。文明というのは恐るべき害毒があるのです。

 皆様の命は現世に生きるためにあるのではないのです。命は神の御霊そのものであることが分かって、魂という言葉の本当の意味を皆様が経験すれば、皆様はこの世を去ってから本当の命があることが分かるのです。

 皆様の人生は生活するためのものではないのです。神の国に入って、神のヘルパーとなるためにあるのです。皆様の人格をよくご覧なさい。理性や良心が何を求めているのか。これをよく考えて下さい。皆様の五官は何を経験しているのか。皆様が魚を食べて味っているのは永遠の命の味です。

人間は死なない命を経験している

 花の色、形はそのまま死なない命の現われなのです。死なない命を皆様は五官によって、毎日、毎日経験しているのです。死なない命を経験していながら、自分が生きていると思っているために、せっかくの命を棒に振ってしまう事になるのです。

 この命を見る事が般若心経の目的です。ところが常識があるために命が分からないのです。般若心経は五蘊皆空といって、人間の常識が根本から間違っていると言っているのです。人間の物の見方がはっきり間違っているというのが、般若心経です。

 般若心経を正確に理解しなければ、聖書を信じることはできません。現在皆様は五官によって生きているのです。五官の感覚は死なない命の感覚です。死なない命の感覚を現在皆様は経験しているのですけれど、頭の考えが間違っているのです。

 人間の常識が間違っているのです。そのために死んでしまうのです。私が全世界の人間に言いたいのは、文明を信じてはいけないという事です。

 文明はこの世に生きていくための靴みたいなものです。

 文明は靴のように履いて歩いたらいいのです。電車でも飛行機でも、文明の利器を利用して生活したらいいのです。現在の文明に惚れ込んで、文明の考え方に従って生きていますと大変なことになるのです。

 文明は神を捨ててしまえ、命を捨ててしまえ、魂のことを考えないで、ただ生活のことだけを考えたらいいと言うのです。だから現在の人間の精神状態は、全く間違っているのです。

 皆様は死ぬに決まっている命を、なぜ自分の命だと思うのでしょうか。死ぬに決まっている命をなぜ自分の命だと思うのでしょうか。文明によってそういう間違いを押しつけられているのです。

 今の人間は東洋人がいる。西洋人がいるという考え方をしているのです。西洋人がいるのだから、西洋の宗教がなければならない。東洋人がいるのだから、東洋の宗教がなければならないと考えるのです。

 国や民俗は歴史がありますから、そういうものがあると思えるのですけれど、本当は人間は一人なのです。砂糖をなめたら黒人でも白人でも、皆甘いと感じるのです。塩をなめたら辛いと思うのです。

 私は世界一周旅行を二回して、アジア、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、南米、中南米、北米の色々な国を訪れて、多くの人々と話し、色々なものを食べてきました。そうして五官の働きは人類共通だということを実感したのです。

 世界中の人間が経験している命は、一つしかないのです。命は一つしかないのです。この事をよくお考え頂きたいのです。西洋人の命とか、東洋人の命とかいう考え方は、根本から間違っているのです。

 命は一つしかありません。従って本質的に言いますと、仏教とか、キリスト教とかいう考えは、成り立たないのです。仏教とかキリスト教というのは、人間の常識から生まれてきたのです。

 人間の常識は皆間違っているのです。人間の考えが人間を迷わせてしまったのです。人間は無明から生まれてきた無明です。何も分からない状態で生まれてきて、そのまま地球に住みついているのです。人間は無明から生まれて無限の無明の中に沈殿して、無明のうちに死んでいく。大無量寿経はこういう言い方をしていますけど、そのとうりです。

 仏教があると思うのが間違っているのです。キリスト教があると思うのも間違っているのです。

 キリスト教は聖書への入口です。仏教は仏法への入口です。仏法と仏教は全然違うものです。

 般若心経には、無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽、無苦集滅道と書いています。つまり唯識論の根本原理である四諦八正道と十二因縁をはっきり否定しているのです。

 無明から始まって老死に終るのは十二因縁です。苦集滅道という悟りを説いているのは四諦八正道です。これは大乗仏教の唯識論の根本思想です。これを般若心経は無と言っているのです。

 仏教の経典を、般若心経は頭から否定しているのです。般若心経は仏教を否定していますから、仏教の経典と考えるのはおかしいのです。仏教を否定している般若心経を、お寺のお坊さんは有難いお経として唱えているのです。写経をして千円をつけて寺へ送るとご利益があるという。一体何をしているのかと言いたいのです。一般民衆はこれほどばかにされているのです。

 般若心経を仏教の寺で読むのがおかしいのです。大乗仏教の唯識論を堂々と否定している般若心経がお寺で読まれていますから、どれほど般若心経が誤解されているかということの証明になるのです。

 日本の仏教家は、般若心経を全く知らないのです。般若心経を知らない薬師寺のお坊さんが、般若心経を写経して千円をつけて送ればご利益があると言っているのです。 六百万人の人が写経して千円をつけて送っていますから、薬師寺は六十億円儲けたのです。宗教はこういう事をしているのです。これが宗教商売です。

 仏教は仏法ではありません。宗教です。お釈迦さんの本当の悟りではないということをよくよくご承知頂きたいのです。

 般若心経は人間ではない人間の悟りをそのまま説いているのです。般若心経は自分を真っ向から否定しているのです。これは般若心経のすばらしい見方です。

 般若心経を正しく了解しなければ、イエス・キリストを信じる事は絶対にできません。だからキリスト教でイエス・キリストを信じている人は一人もいないのです。信者はキリスト教の物語を聞いているだけです。

 般若心経には悟りがあります。五蘊皆空、究竟涅槃と言っています。究竟涅槃は自分が消えてしまう事です。自分が消えてしまうということが涅槃です。

 自分が消えてしまうというところまでは言っていますけれど、消えてしまって自分の命はどうなるのか。今自分の心臓が動いているという事がどのように説明できるのか。説明できないのです。

 これはキリスト教ではない、聖書を見るしかないのです。聖書はキリスト教の教典ではありません。般若心経も仏教のお経ではありません。

宗教を否定している般若心経と聖書

 般若心経は仏教を否定しているのです。聖書はキリスト教を否定しているのです。この世の教えを信じるなとイエスは言っているのです。キリスト教の教えを信じるなと言っているのです。神の言葉を信じなさいと言っているのです。

 キリスト教の人々はキリスト教の教えを信じているのです。聖書と宗教は何の関係もないのです。ところがキリスト教は聖書を売り物にして宗教が成り立っているのです。

 皆様が救われたいと思うのは大間違いです。皆様は迷いの塊です。常識の塊です。学校教育の塊です。常識とか教育は、人間をこの世の考え方で縛っているのです。

 皆様は自分の命について、自由に考えることができないでしょう。人が生きているのは、自分が生きているのではない。神の御霊が自分という格好で生きているのです。神の御霊が生きていることを、私は認識しているのです。

 御霊が生きていることを経験するのです。この経験をする人をイエスというのです。

 イエスを信じるというのは、イエスと同じ経験をするということです。これはキリスト教の話ではありません。

 人間は自分の気持ちで自分を迷わしているのです。これが日本人の悪い癖です。自分の気持ち、自分の経験、自分の都合があると思っているのです。これが間違っているのです。

 皆様は自分の気持ち、自分の経験、自分の考え方を踏まえて、本当の考え方の中へ入って頂きたいのです。そうするための勇気を持って頂きたい。

 宗教を信じている人は、必ず死んでしまいます。死ぬに決まっている自分を脱ぎ捨てるのです。寝巻きを脱ぎ捨てるように、死ぬべき命を脱ぎ捨てて、イエスを着るのです。そうすると死ぬに決まっている人間から抜け出して、死なない人間になることができるのです。

 今までの経験にこだわっていたら、皆様は必ず死にます。死ぬのが嫌だったら、死を破った人の所へ行ったらいいのです。

 イエスが死を破ったというのは、歴史的事実です。イエスが死なない命を持って地球上に生まれたので、西暦紀元が始まったのです。人間が死ななくなってから、既に二〇一五年になるのです。

 ところが、世間一般の人は未だに死んでいるのです。毎日、毎日、沢山の人が死んでいくのです。せっかく生きていながら、生きているという命を掴まえないので、死んでいくのです。

 この世を去ったらどうなるのでしょうか。寺も教会もない所へ行くのです。仏教とかキリスト教は、この世に生きている間は役に立ちますが、この世を去ってしまえば、宗教が言う事は一切役に立ちません。だからこの世の宗教の考え方から出てしまうのです。そうして般若心経と聖書を勉強して頂きたいのです。

 今まで般若心経と聖書を一つにして勉強している人がいませんでした。仏教の根本原理と、聖書の本当の命をこれを一つにして見るのです。

 般若心経の五蘊皆空という足台がなかったら、キリスト教ではない聖書を見ることはできません。

 常識が皆様の宗教になっているのです。皆様は常識を通して文明を頼りにしていますけれど、文明を頼りにして何になったのでしょうか。

 文明は人間の魂を殺しているのです。文明を信頼していると、皆様は文明と心中することになるのです。やがて人間文明はめちゃくちゃになるでしょう。大崩壊するでしょう。もう崩れかかっているのです。

 文明はこれから何百年も続くものではありません。だから、死を破ったイエスを勉強するしかないのです。イエスが復活したのは歴史的事実です。

 イエスを掴まえるためには、自分がいたのではじゃまになるのです。これを空じてしまうことを般若心経でしなければいけないのです。

 空じるとは自分が自殺するのではない。今までの自分の気持ちが間違っていたということを、素直に認めるだけのことです。これは誰にでもできることです。これが、般若心経の五蘊皆空、究竟涅槃です。これを実行しなければ、自分の思想を乗り越えることはできないのです。

 まず般若心経の悟りがいります。それから聖書の福音を学ぶのです。般若心経には悟りはありますが、救いはありません。そこで悟りをしっかり掴まなければいけないのです。これを踏まえて聖書の救いを信じることです。

 悟るというのは成仏することです。成仏すれば神を信じることができるのです。まず仏さんになることです。そうしたらイエスの命を掴まえることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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