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  • 管理人chaya

はじめに


 般若心経は非常に短い経典ですが、これは仏教全体の結論を端的に現わしたことになるようです。もっとも仏教と言いましても、原始仏教と中世の仏教と、現代の日本仏教とでは非常な違いがありまして一口には言えませんが、般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という思想は、小乗、大乗仏教全体を貫いており、仏教の根本精神と言えるでしょう。

 仏教と言いますと、今日、各教派に分かれている宗教のことですが、仏教といえば、悟りそのものの原則のようなものを指すのでありまして、これは今日の日本で行われております、いわゆる仏教というものとはだいぶ違っているのです。

 釈尊は、生老病死、即ち人間が生きていること、また、死んでいくこと、病気になって年をとること、これが一体何であるか、早く言えば、人間はなぜ生まれて死んでいくかということを突きつめて考えた。それが仏法の中心命題になっているようです。

 日本では曹洞宗の道元禅師が、正法眼蔵の中で、「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と言っています。これは修證義という簡単な経文の中に出ていますが、生をあきらめるというのは、生きているとはどういうことなのかということを明らかにすること、死をあきらめるとは、死ぬとはどういうことなのかということを、明らかにすることです。あきらめるとは、明らかにするということなのです。これが人間一大事の因縁であるということを道元禅師が言っておられるのです。

 これが仏教の根本精神です。つまり人生とは何であるかということを、しっかり見極めなさいと言っているのです。浄土真宗のいわゆる浄土まいりは、死んでから浄土、極楽へ行くという考えですが、その本来の目的は、やはり死ぬということ、生きるということを根本的に究明することが、目的になっているようです。大無量寿経とか、仏説阿弥陀経というものをよく見ていますと、そういうようになっています。とにかく、人間が現世に生きていることをしっかり見極めることが、般若心経の結論になるのです。現世に生きていることが、一体何であるか、何のために生きているかを煎じつめて見極めていくことです。

 般若心経では、経典の中ごろから少し後に、究竟涅槃という言葉がありますが、涅槃を見極める、突きつめるという意味です。涅槃というのは、現世に生きているという考え方を解脱して、本当の人生を見極めるということです。

 般若波羅蜜多というのが、般若心経の題目になっています。般若というのは人間の常識ではなく、知恵のことを言っているのです。学校で教えるような知識、常識ではなくて、人間が生きているということについての悟りを意味する知恵です。波羅蜜多というのは、向こう岸へ渡ることです。現在、皆様方が生きていらっしゃるのは、こちらの岸で生きておいでになります。これは死んでしまうに決まっている命なのです。死んでしまうに決まっている命のままで生きていますと、必ず死なねばならないことになります。

 般若心経を読んだり、写経なさることは大変結構です。写経はただ紙に文字を書くことですが、それよりもう一歩進んで、般若心経の心を、般若波羅蜜多の心をそのまま皆様方の胸に書き記して頂きたいのです。つまり、自分の心に般若心経の文字を刻みつけるような書き方をすることが、写経の目的です。

 現在、写経をして、それに千円をつけて寺へ送るということが流行しています。百万写経ということをしている寺があります。千円のお金を百万人から集めますと、十億円になります。それで、寺を建てるという話です。宗教というのは、そういうことをしているのです。

 般若心経というのは、宗教のためにあるのではなくて、皆様ご自身の魂のためにあるのです。寺のために般若心経があるのではありません。皆様方の心を建てるためにあるのです。これが宗教ではない般若心経になるのでありまして、皆様方の心を般若心経の原理に基づいて、建てている人は、ほとんどいないようです。

 般若心経を読んでいる人は、何百万人といるでしょう。写経をしている人も、何十万人といるでしょう。ところが、本当に、自分の心に般若心経を書き記す人は、めったにいません。また、書き記すだけではなくて本当に般若心経の文字を、例えば色即是空という文字、不生不滅という文字を、そのまま生活している人は、ほとんどいないでしょう。

 宗教というものと、本当の般若心経とは、それくらい違うのです。論語読みの論語知らずという言葉がありますが、心経読みの心経知らずをしているのが今の日本人です。本当に般若波羅蜜多をしていないから、こういうことになるのです。向こう岸へ渡らないで、こちら岸にいるままの状態で般若心経を読んでいる。これでは般若波羅蜜多という題目からすでに分かっていないということになるのです。般若心経を読まれるからには、読みがいのある読み方をして頂きたい。こちら岸にいますと、必ず死んでしまいます。向こう岸へ渡るというのは、そんなに難しいことではないのです。

 皆様方が現在生きておいでになるのは、現実に命を持っておられるからなのです。命を持っていながら命の本当のあり方が分からない。命とは何かと言われると分からないのです。これは、般若波羅蜜多になっていないから分からないのです。どうすれば般若波羅蜜多になれるかと言われるかもしれませんが、まず五蘊皆空、色即是空を悟って頂きたいと思います。

 般若心経は空ということを教えています。般若心経は全体で二百七十六文字ですが、その中に、空という文字と無という文字を合わせて三十五、六文字もあります。一割以上も空とか無とかいう言葉があるのです。般若心経は、空、無を教えているのです。現在、皆様がこの世に生きておいでになることは、空しいものだということを、般若心経は端的に説明しているのです。

 般若心経には空の悟りはあります。しかし、命とは何かという教えはないのです。これが般若心経に不足している点です。だから般若心経の悟りに、新約聖書の神の命、永遠の生命をつけ加えて勉強すれば、鬼に金棒になるのです。般若心経は仏教の経典ではありません。人生の事実なのです。新約聖書もまた人生の事実でありまして、キリスト教の教典ではありません。

 仏教は般若心経を利用しているのです。キリスト教は聖書を利用して商売をしているのです。ところが、般若心経と聖書は、本来宗教ではありません。全く宗教ではありません。人生の事実そのものなのです。

 実は、般若心経の空がはっきり分かっていない人は、新約聖書を学んでもキリスト教になるばかりで、本当の命というものは分かりません。まず般若心経で空を学ぶこと、それから新約聖書で命を学ぶこと、この二つを学んで頂きたいのです。般若心経と聖書を一緒に並べて勉強しますと、宗教ではないことがよくお分かり頂けると思います。宗教なら聖書なら聖書、般若心経なら般若心経と、どちらか一つにしておきます。仏教とキリスト教でも、二つを並べたら宗教にはならないのです。宗教にならないように勉強していただきたいのです。

 人生の事実というものは、宗教ではありません。死んでしまうに決まっている人生から出てしまって、死なない人生に移り変わること、般若波羅蜜多になること、これを皆様にして頂きたいと思うのです。

 人間の文明は六千年ほど続いてきたのですが、一体文明というものが何のためにあるのか、六千年経っても未だに分からないのです。これが人間の無明というものなのです。魂が無明のために死んでいるのです。死んでいる文明を、六千年も続けてきたのです。

 そういうわけでありまして、般若心経のいわゆる観自在菩薩といい、聖書のイエス・キリストといい、宗教信者ではなかったのです。人間として、本当の真理を極めた人なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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