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人間はどこから来たのか


 人間の味覚とか視覚、聴覚というのは魂の働きなのです。五官とも言います。魂は死んでもなくならないのです。犬や猫は死んだらしまいになるのです。人間には五官があります。理性と良心が与えられています。これは人間自身の力ではないのです。人間以上の力なのです。人間を人間としている力なのです。日本ではこれをお天とう様と言っています。

 人間が人間として生きているということは、その原因があるに決まっているのです。人間が生まれたいと思って生まれたのではないのです。生まれたいと思わないのに生まれてきた、不思議な五官を持っているのです。理性と良心というものを持っている。理性と良心に基づいて考えることができるという、非常に不思議な命を経験しているのです。これはどこから来たのでしょうか。精神の力をどこでもらってきたのでしょうか。これが分かれば死なない命が分かるのです。

 魂というのは英語でリビング・ソール(living soul)と言います。リビングというのは生きているということです。生きているといことが霊魂の本質なのです。生きているという本質を一体誰からもらったのでしょうか。これが日本人には分かっていないのです。

 命の本源、命の本質的な出所はどこかということです。これを知ろうと思いますと、聖書を信じるしかないのです。聖書といってもキリスト教の聖書ではありません。キリスト教ではない聖書のことなのです。キリスト教の聖書はキリスト教的にしか説明できません。

 仏教もそのとおりです。日本の仏教は、仏という言葉を仏教的にしか説明しません。仏教の仏は仏教の中にあります。キリスト教のキリストはキリスト教の中にあります。これは本当のキリストとは違うのです。日本には、本当の仏ということが分かっている人はいないのです。釈尊の悟りを説明できるお坊さんは、日本には一人もいないのです。

 どこが間違っているかと言いますと、人間の魂がどこから出てきたかということを、全く知らないのです。現在魂で生きていながら、魂がどこから来たのか説明ができないのです。これが説明できないから皆死んでしまうのです。

 生活に一生懸命になっているから分からないのです。結婚をして何かいいことがあったのでしょうか。つまらないことばかりでしょう。やがて死んでしまうのです。商売をしてお金がたくさん儲かった。儲かってそのお金をどうするのでしょうか。家を建てたとか、保険に入ったとか、子どもを大学へやったとか、そんなことをして何になるのでしょうか。学校へ行くのもいいでしょう。お金儲けをすることもいいでしよう。まず知るべきことは、生まれる前に人間の魂はどこにいたかということです。生まれた時に、既に味覚神経が働いていたとすれば、その味覚神経は生まれる前にあったものに決まっているのです。

 人間は頼みもしないのに生まれたのです。生まれたいと思わないのに生まれたのです。誰が産んだのでしょうか。どういう目的でこの世へ出て来たのでしょうか。これが分かっていないから人生に土台がないのです。ふらふらしているのです。上ばかりあって根っこ全然がないから、命についての確信を持つことができないのです。

 困った文明です。こういう文明が全世界にまき散らされた元凶は、煎じ詰めれば一部のユダヤ人ということになってきます。いきなりこういう言い方をすると、奇異に思われるかもしれませんが、歴史におけるユダヤ人の役割をつぶさに調べていきますと、そう結論せざるを得ないのです。一部のユダヤ人がキリストを裏切った。ユダヤ人が神を裏切ったのです。その結果、このような悲運が世界に及んだのです。原子爆弾を造ったのはユダヤ人学者です。フランス革命で自由、平等、博愛、人権ということを言いふらしたのはユダヤ人です。ユダヤ人の政治原理、経済原理、教育原理が世界中に広がった。これが今日の日本の原理になっているのです。だから今の日本人は命、霊魂ということがまるで分からなくなっているのです。

 人の魂は生まれる前に原因があったのです。今、肉体的に生きています。肉体的に生きるためには、その原因がなければならないのです。肉体的に生きているというのは一つの結果です。生まれてきたという結果です。生まれてきたという結果が現われているから、生活しているという状態があるのです。生活しているという人間の原因はどこにあるのか。どこかにあるに決まっています。これを見つけたら人間の命の原因というものが分かります。そうすると死なない命が分かってくるのです。

 現在の人間は肉体と霊魂の二本立ての生活をしているのです。だから何が善か、何が悪か、何が神か仏か分からない。そして命も死も分からないのです。

 人間の五官の働きは霊魂の作用のことなのです。甘いとか辛いとか、目が見えるとか、耳が聞こえるというのは霊魂の働きなのです。それが五感となって感じられるのです。

 五官は生まれる前にあったのです。一体どこにあったのか。その場所の名前のことを神というのです。神と言わなければしょうがないのです。神ということについて、自分の命について本当に悟りを開く状態を仏と言うのです。仏になれば神が分かるのです。分かる、分からないということをあまり問題にしないで、自分自身が生きているという事実を見るのです。人間は現在命を持っていながら命が分からないのです。この命を知らない状態で、七十年も八十年も命と付き合ってきたのです。命を一生懸命にかわいがってきたのです。体の調子が悪いと病院へ行きます。それほど大切に扱ってきた命ですから、その命を見極めるのです。

 命があるのは原因があるに決まっています。どこかに命の原因がなければ、今、ここに命があるという結果が発生するはずがないのです。今の人間は、命についての知恵が全くないのです。生活の知恵ばかりです。何も分かっていないのです。まず魂の目を開く必要があるのです。今までの常識を棚上げにして、心の目を開くのです。そうすると人間がどこから来たかが分かってくるのです。

1.人間はなぜ生まれてきたのか

 皆様は人間がいる、自分がいるという前提に立って考えることが習慣になっています。例えば現在の世界文明があることが何になるかということです。何にもならないのです。文明には一切目的がありません。学問にも目的がないのです。科学にもありません。生活を便利にしようという目的はあります。生活を便利にして、どうするか分からないのです。

 人間の生活目的、存在目的がはっきりしないままの状態で、科学がいくら発展してみたところで、しかたがないのです。私は、科学は無用だというのではありません。科学は科学としての意味があると思います。ところが、科学が何をしようとしているかということを、科学者は考えていないのです。これは科学だけではなくて法律も、哲学も、政治、経済もそうです。文明に目的がありませんから学問にも目的がないのです。

 アメリカの大統領が目的を持っていないのです。アメリカの大統領として政治をすることが、目的のように考えているだけです。これは人生目的とか、人生の理想とは違うのです。

 皆様方も現在の目的はあるでしょう。どこかへ旅行したいとか、家を新築したいとか、大学へ入りたいという近視眼的な目的はあるでしょう。そういう目的ではなくて、生きていること自体の目的なのです。全世界の人間が、一人も本当の目的を持っていないのです。目的を持っていない人間ばかり集まって、現在の文明ができているのです。だから、文明も目的を持っていないのです。

 人間がこの地球上に生きていても、何もならないのです。命という点、人間存在の真実という点から考えますと何もならないのです。人間は生きていますけれど、何のために生きているのか返事ができないのです。これが、人間が生きていないことの最も簡明な証拠になるのです。

 目的を持っていないということが、宇宙が認めていないことになるのです。もし宇宙が現在の人間を認めているとすれば、人間に目的がないというばかなことはあり得ないのです。ところが現実の人間には目的がないのです。

 日本という国は、国家目的を持っていないのです。人間も社会も、世界全体が目的を持っていないということは、実はそういう人間は存在していないということなのです。 

 人間は大変な間違いをしているのです。誰もが自分がいると思っているが、自分はいないのです。自分がいるのではなくて、生かされているという事柄があるだけです。リビングということがあるのです。これはとてつもなく大きいものです。ところが人間は、リビングに目を向けようとしていないのです。

 人間に目的がないということは、死んでいるということなのです。死んでいる人間が地球という住み処に、巣くっているだけです。命を考えない生物がいるだけなのです。

 ところが人間は、精神構造という恐ろしいものを持っているのです。実は、人間という動物がいるのではないのです。人間はただの生物です。ところが、人間の中にある精神構造と人格構造という驚くべきものがあるのです。これが人間という格好で顔を出しているのです。これが分かれば驚くべき世界が分かってくるのです。

 人間が地球に生まれた目的は、生きることを見つけるためです。生きることを見つけるために生きているのです。

 こういうことを、難しいと考えてはいけないのです。皆様が常識にこだわっているから難しいと思うのです。皆様の常識は、死んだ人間の考え方なのです。または死ぬに決まっている人間の考え方なのです。

 学理学説は、死んだ人間が残した理論ばかりです。死んだ人間ではない理論は、人間社会の中には一つもないのです。すべて死んだ人間の理屈が残っているのです。皆様はそれを勉強して学問をしたと言っているのです。死んだ人間の思想をのみ込んだだけなのです。科学も哲学も法律、宗教も全部死んだ人間が残したことばかりです。ノーベル賞をもらった人も皆死んだのです。

 現代の人間社会が、目的を持っていないことをよく考えることです。これを考えないのは、皆様が自分の精神を知らないからです。皆様は自分の人格を知らないのです。

 皆様の理性と良心は、永遠の理想を求めています。ところが人間としての皆様は永遠の理想を全然考えない。目の前の利害得失だけを考えている。

 皆様は、自分の精神構造、人格構造を自分で裏切っているのです。

 要するに、皆様はシビアー(severe)に考えないからいけないのです。常識として妥協しているのです。生活と妥協しているのです。人間の伝統と妥協しているのです。そうして現世で得をしようと考えているのです。そういう妄念を捨てるのです。

 人間がいるのが間違っているのではありません。自分がいるという考えが間違っているのです。自分がいるのではなくて人格があるのです。精神構造があるのです。人間という厖大な精神構造があるのです。

 これが宇宙存在の将来に対して、宇宙を完成するための驚くべきエネルギーになるのです。地球はすばらしい状態で完成されなければならないのです。宇宙完成、地球完成という大きな目的のために、皆様が協力しようという誠意があるかどうかです。自分のことは考える必要がないのです。初めから自分はいないのです。地球の完成というすばらしい大事業に対して、皆様方に本当の誠意があるかどうかです。理想を考えようとしない人間、命を見つけようとしない人間は、生きていてもしょうがないのです。

 永遠が人間の霊魂の理想です。精神構造の本当の理想は、永遠であって生活ではないのです。日本の国を良くしようということとは違うのです。日本という国は、あってもなくてもどうでもいいのです。もし日本が、地球の完成のために役に立つのなら、日本があることは大変いいのです。ところが、日本人は日本のことだけを考えているのです。

 とにかく、理想は地球が完成することです。現在の地球は地震があり、砂漠があります。人間がどんどん死んでいく地球です。こんな地球は間違っているのです。人間は地球完成という目的のために、地球に生まれてきたのです。

2.病気の原因

 命には、医学で考える命と、医学では考えられない命と二つあるのです。医学で考えている命は肉体的な命です。肉体的な命は近代学の対象の命です。特に最近の医学は、十三世紀以後のヨーロッパの医学の考え方を基本にしているのです。

 人間が肉体的に存在しているというのは、正しい見方ではありません。これは一種の幻覚なのです。このことをよく知って頂きたいのです。

 医学で考えている命は、病気があると考える命です。肉体があることを前提にして考えますと、魂が考えられなくなるのです。

 近代の学問は医学だけではなくて、法律学でも、政治学、経済学、哲学でもすべての学問は専門学です。専門的というのは部分的ということです。専門学をしていますと、全体的な考えが持てなくなるのです。

 医者は、自分は医者だから宗教は分からないとか、哲学には関係がない、政治には関係がないと言います。これは現代の学問の欠点なのです。現代学の欠点をよく承知して学問をする必要があるのです。病気は肉体が患うのではなくて、宇宙構造の一部に病気の原因があるのです。呼吸機能は、呼吸するということが肺臓になって現われるのです。地球があるのではなくて宇宙が先にあるのです。地球があって人間があるのです。この順序を今の学問は間違えているのです。

 専門学を世界にまき散らしたのは、ユダヤ人学者たちです。ユダヤ人学者が十三世紀以降に、専門学を作ってまき散らしたのです。現代の白人文明はユダヤ人の文明なのです。ユダヤ人たちは、肉体的に人間が生活することだけを考えている。医学でも肉体的な健康を第一に考えるのです。そういう考え方もありますが、これは現代文明の欠陥なのです。

 般若心経は、肉体があるという小さなことだけを問題にしていない。人間存在を全体的に取り上げているのです。般若心経は専門学ではなくて、全体学なのです。こういう考え方が本当の学なのです。

 現代文明は行き詰まっています。原水爆の廃絶ができないのです。廃絶どころか、どんどん拡散しています。地球を何十回も破壊できるほどの原水爆を造っている。なぜこんなばかな物を造っているかということです。国と国、民族と民族が、ただ自我意識によってけんかをしているのです。原子爆弾を造らなければならない問題とは違うのです。

 そのように現代文明は行き詰まっているのです。これは専門学に一生懸命なったからです。専門学を徹底すれば、地球そのものを破壊するような恐ろしい兵器を造る所まで行ってしまうのです。

 専門学を基礎にして考えることが、現代の思考方式になっていますけれど、人間の生活は専門学的にしているのではないのです。皆様の生活には政治的な面もあり、経済的な面もあり、芸術的な面もあるのです。宗教的な面もあります。生活は、学問全体をひっくるめたようなものです。だから専門学に一所懸命になったことが、文明が間違った原因なのです。

 ユダヤ文明は困ったものです。私はユダヤ人を憎んでいるのではありません。ユダヤ人を心底から愛しているのです。ユダヤ人の魂を徹底的に愛しているのです。ユダヤ人は、日本人よりもはるかに優れた民族です。日本人よりも優秀です。優秀だから悪いことを考えるのです。

 専門学はユダヤ人のトリツクです。専門学を世界に普及すれば教育を支配することができる。世界の教育を支配すれば文明全体が支配できるからです。ユダヤ人が世界全体を支配することを狙っているのです。こういった世界全体のあり方をよく考えて頂きたいのです。ただ自分が生活していることだけを考えないで、現代の文明が間違っていることを考えて頂きたいのです。

 魂のことは自分で考えるしかないのです。

 病気はなぜあるのか。現在の物理的宇宙存在に、非常に大きな矛盾があるのです。つまり、現在の地球存在のあり方が間違っているのです。だから地球には地震があり、台風、洪水、旱魃、病気、砂漠、飢饉があるのです。

 地球には大きな無理があるのです。これをもう少し小さく考えてみますと、肉体的に皆様が生きておいでになることに矛盾があるのです。それが病気になって現われるのであって、大きな観点から考えて頂きたいのです。

 般若心経は、人間が目で見ていることは妄念だと教えているのです。だから大学で学理学説を研究した人は、せいぜい般若心経を勉強するといいのです。

 現代文明は大きな幻覚に陥っているのです。五蘊という幻覚に陥っている。ばかばかしい幻覚に陥っているのです。

 私たちは、無条件で文明を信奉しなければならない必要はありません。文明のために人間があるのではありません。人間の魂のために文明がなければならないのです。学問の欠点が文明の欠点になっている。これが西欧文明なのです。

 こういうことをしっかり弁えて、新しい世界観を創造する必要があるのです。本当の世界平和とは何か。本当の健康とは何か。霊魂の完成とは何かを見い出す必要があるのです。

 般若心経の般若波羅密多という思想は、世界の文化の中で最も優れたものです。しかし、般若心経は命を与えることができないのです。間違っていることを空じることはできますけれど、信じることはできないのです。何を信じていいのか分からないのです。

 般若心経の空を、全世界の文明はしっかり学ぶ必要があるのです。現在の文明が世界を滅ぼそうとしているのです。専門学の欠点が全世界を行き詰まらせている。文明の行き詰まりが政治の行き詰まりになっているのです。

 このことをよく承知して、文明の概念をひっくり返すような感覚を持つのです。そのためには、まず空をはっきり体得する必要があるのです。本当の命は何であるか。魂とは何であるか。何のために生きているかをしっかり考えて頂きたいのです。

 生きているうちに命をつかまえないと、死んでからではどうにもならないのです。目の黒いうちに命をつかまえるのです。文明の本質をやりかえるくらいの度胸がいるのです。アメリカはだめです。イギリスもドイツも、ロシアもだめです。西欧文明は当てにならないのです。だから私たちがしなければならないのです。

3.病人に真理を話すために

 病人の人柄、病気によって一人ひとり違いますから、こうだという言い方はできないかもしれませんが、本人が現実に生きているとすれば、その人に理解力があるかないかということです。理解力があるとすれば、命は自分のものではないことをできるだけ平易に言うことです。そして今まで生きてきた生き方が独断的で間違っていたこと、命のルーツを考えようとしないで、現実的な生活だけを念頭に置いていたことが、間違っていたことをできるだけ話すのです。そうすると、その魂が神に通じる可能性が少しでも開かれるのです。

 現在の文明で一番大きい問題は、イエス・キリストが死を破って復活したという事実です。キリスト教ではそれを教義として扱っていますが、復活という事実が、現実に私たちの魂とどのような係わりを持っているかということを、ほとんど説明できません。

 もし魂を真剣に考えている人であれば、その人の魂とイエス・キリストの復活が、既に係わりを持っているのだということを、教えることが一番効果的です。しかしそれが理解できる人は非常に少ないでしょう。それができない場合は、自分が生活してきたことが人間の常識、肉の思いだけで生きてきたことについて、できるだけ本人の反省を促すことをすることです。

 人の霊魂が率直に悔いを改める形をとれば、そこに必然的に神との繋がりが発生することになります。神とは宗教観念でいうところのものではなくて、人が生きている事実をいうのです。その人の心臓が動いているのです。病気であっても心臓が動いていることが、神の実物なのです。神の実物を、神として取り扱っていなかったことが、本人の非常に大きな誤りであったことを痛感させればいいのです。そうすると、心臓が動いていることが神だという、恐るべき事実を発見できるかもしれません。生きている状態において、神が自分と一緒にいるのだということを、認識することができるとすれば大変な効果があるのです。

 結局人間が生きていることは、世間で考えているようなものではないことを、できるだけ砕いて言ってあげるのです。自分の生き方が間違っていたことを、認識させるように話してあげるのです。これが基本的な原理なのです。

4.人間の間違い

 人間は生活することには大変熱心ですが、命についてはまるで不熱心です。これはおかしいことですが、事実、現在の日本人はそういうおかしな心理状態で生きているのです。宗教を信じている人はずいぶんいます。自分が幸せになりたいから宗教を信じるのでしょう。

 自分が幸せになりたいという場合の自分とは、一体何でしょうか。人間は自分がいると考えている。ところが人間の本性は霊魂そのものでありまして、自分という人格はないのです。自分という人格は英語で言いますと、エゴ(ego)であって自我です。これは本当の自分ではないのです。英語にはエゴという言葉と、アイ( I )という言葉と二つありますので分かりやすいのですが、日本語には私とか自分という言葉しかありません。私と言っても、自分と言っても同じことなのです。

 人間は自分の意志で生まれてきたのではありません。ところが現在、皆様は自分の意志で生きていらっしゃる。これは人間の生命の本質から考えますと、初めから間違っているのです。自分という性格は現世に生まれた後の性格でありまして、本来の人間の霊魂に係わる人格ではないのです。本来の人格と、後天的な現世に生まれてからの性格とは、ちょっと似たところがありますが、本質的には全然別物なのです。

 人間の性格は仏教的に言いますと無明です。無明というのは生まれながらの妄念ということです。生まれながらの妄念に基づいて、自分という性格が発生しているのです。そういうものを本当の自分だと思っていますと、皆様の命はこの妄念に吸い取られてしまうことになります。自分が幸せになるために宗教を信じることが、初めから迷信なのです。自分が幸せになるというその自分が、妄念によって発生した人格ですから、そういうものに引きずられていますと結局、霊魂について明確な認識を持つことができなくなります。

 宗教は、無明の人間が造った一つの理屈であることを、よくご承知頂きたいと思います。般若心経は仏教で用いられてはいますけれど、本来般若心経の思想は宗教を否定しているのです。無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道という言葉があります。これは般若心経の真ん中にある言葉ですが、十二因縁はないのだと言っているのです。無明に始まって老死に終わる。十二因縁は仏教の唯識論の基本原理なのです。それがないと言っているのです。

 般若心経は、実に勇敢に大乗仏教を否定しているのです。無苦集滅道というのは、四諦八正道がないと言っているのです。般若心経は仏教の教説を真っ向から否定しているのです。だから般若心経は宗教ではないのです。また同様に、聖書も宗教ではないのです。宗教ではない般若心経、宗教ではない聖書が正しいのです。

 般若心経は釈尊の悟りの中心を集約したものです。空を中心にしているのです。空とか無という大精神は、東洋思想の真髄であって般若心経二百七十六文字の中に、三十五、六回も含まれているのです。般若心経は、ほとんど空、無を説いていると言ってもいいでしょう。これは仏教という宗教は無である、空である。人間の常識も空であると言っているのです。

 人間はこの世に生まれた自分、有形的、肉体的に存在するものを自分と思い込んでいるのですが、これが無明なのです。妄念なのです。この妄念に基づいて文明社会ができています。仏教という教えができています。キリスト教という教えができています。般若心経は、本来仏教の経典ではないのです。皆様は生きていながら命を考えておいでにならない。生きることについては非常に熱心ですけれど、命については不熱心です。

 病気になると、慌てて医者に診てもらいに病院へ行きます。ところが霊魂の病については真剣に考えようとしていないのです。

 現在の日本人の考え方は、全くどうかしているのです。日本人には正しい世界観がまるでないのです。正しい価値観がありません。神が何であるか、仏が何であるか。そういうことについての正しい認識を、ほとんどの人が持っていないのです。

 宗教は無明の人間が幸福になるために、教義という理屈を造り上げたのです。自分にとって便利になるような理屈を造り上げたのです。宗教を信じるのは自由ですが、それは真実ではありません。真実ではないことを承知して、道楽で宗教通いをすることもあり得るのです。だからそれを承知でなさるのならそれはご自由ですが、そのかわりに自分の霊魂を棒に振ることになります。

 宗教ははっきり人間を欺いています。いわば病気に対するやぶ医者みたいなものであって、免許を持たない偽医者みたいなものです。本当の人生、本当の命をしっかり踏まえていないのです。

 人間は見るということが分かっていないのです。自分の目一つのことでも普通の常識で考えますと、自分の目が見えるとか見えないとかいう言葉を使います。つまり自分の目で物を見ているつもりなのです。これが間違っているのです。こういう考え方が無明なのです。実は目が物を見るのではなくて、皆様の目に物の影が映っている。光線の反射によって皆様の目の網膜に映っているのです。見ているのではありません。皆様の目は、自然に映っている映像が、皆様の視覚神経に見ているというように感じられるのです。人間は、自分の目がどのように働いているかということさえも、気づいていないのです。

 例えば皆様が色を見ているとします。黄色い色を見るとします。私の目の前の花は黄色に見えます。ところがこの花は黄色を拒んでいるのです。黄色を拒否しているのです。だから皆様の網膜に黄色一色が飛び込んでくるのです。そこで黄色に見えるのです。黄色に見えるということは、この花が絶対に黄色の花ではないことを説明しているのです。こういうことを、般若心経では五蘊皆空と言っているのです。

 皆様の考えは妄念の塊です。学問も、常識も、道徳もすべて妄念の塊です。そういう頭で宗教を信じているのですから、とんでもない間違いをしているのです。

 現在、皆様の心臓が動いています。心臓が動いている事実が神という事実なのです。神とは最も顕著な実体であって、明々白々な最も大きい事実です。この最も大きい事実、実体、真実が皆様の精神に何の影響も与えていない。皆様の霊魂は、自分自身の妄念によって死んでしまっているのです。そういう頭で現在の日本人は生きているのです。

 私は現代の日本人の世界観や価値観が、全く妄念の塊であることがはっきり分かりますので、このまま捨てておくべきではないと考えているのです。皆様を宗教団体に引きずり込もうとか、お金を集めようとか、般若心経を写経して千円をつけて下さいとは言いません。ただ皆様に、今生きておいでになるその命を、率直に見て頂きたいと願っているだけなのです。生きているということをまっすぐに見れば、命が見えるのです。

 例えば日曜日ということです。日曜日はイエス・キリストの復活記念日です。ところが日曜日がイエス・キリストの復活記念日であるということを誰も知りません。こういうことを考えずに休んでいるのです。二〇一〇年というのはキリスト紀元なのです。キリストが生まれたことによって、世界の歴史が新しくなった。死なない人間が地球上に誕生したために歴史が新しくなったのです。世界の歴史がなぜ新しくなったのかということを、まじめに考えようとする人はめったにいません。キリスト教でもこのことをはっきり教えません。

 キリスト教はイエス・キリストが復活したことは信じます。しかし復活とはどういうことなのか、死を破ったとは科学的にどういうことなのか、現在の人間の命とイエスが死を破った命とは、どういう関係になるのかというようなことを、具体的に説明しません。世界中のキリスト教は間違っています。旧教も新教も皆、間違っています。イエスの復活が分かっていないからです。

イエスの復活は歴史的事実なのです。

 現在、聖書は永遠のベストセラーと言われるように、一年間に何千部と売られているのです。世界中で、断然突出した超ベストセラーを続けています。ところがイエスの復活をまともに信じている人はめったにいないのです。宗教は真実ではありません。嘘です。宗教は、ある精神段階までは参考になりますが、とことん勉強していきますと、皆様の霊魂を裏切るのです。本当のことを教えていないのです。人間の考えの間違いは宗教が大きく原因しているのです。

5.宗教は人間のためにある

 宗教は人間のためにあるのではないかということですが、宗教はそのとおり人間のためにあるのです。宗教という言葉は、むねとすべき教え、または非常に重大な教えという意味であります。

 この教えということですが、学校でものを教えるような教え、例えば語学を教えるとか、数学を教えるとかいうことと混同されてしまうのです。仏教大学では般若心経などは十分教えます。教えはしますが、そういう学校を出た人は、理屈は習ってきますが、それが自分の命となっていないのです。理屈の説明はしますけれど、やはり自分は普通の人間と大した違いはないという考え方で生きているのです。だから宗教になってしまうのです。

 般若心経、聖書は確かに人間のために説かれたものですが、その人間というものが問題なのです。

 例えば聖書の面から申しますと、「悔い改めて福音を信ぜよ」という有名な言葉があります。この言葉の前には「時は満ちた、神の国に近づいた」という言葉があります。これは新約聖書マルコによる福音書第一章十五節にありますが、この一句だけでも本当に説明されるなら、日本はひっくり返るほど変ってしまうでしょう。

 ところが現在のキリスト教では「時は満ちた、神の国に近づいた」ということがどういう意味なのかはっきり分からないのです。キリスト教なりの説明はいたします。しかし旧約聖書、新約聖書を貫いて本当の意味で、時は満ちたとはどういうことなのかということを、はっきり説明する牧師が日本にはいないのです。従って「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っても、悔い改めるとはどういうことなのか分からないのです。たいがい、親不孝を詫びるとか、友人に悪いことをしたことを謝るとか、借金をして返すのが遅れたことを謝るとか、その程度のことなのです。ごまかして電車に乗ったのを謝るとかいうことも、悔い改めの一つになるかもしれませんが、イエスが言ったのはそんなことではないのです。

 「心を更えて新しくせよ」(ローマ人への手紙12・2)と言っているのです。心を更えてというのは、世間並みの人間の心を捨ててしまって、全く新しい心構えになって出直しなさいと言っているのです。これは言葉で言えば簡単なことですが、現在のキリスト教ではこれが実行されていないのです。牧師は皆、キリスト教を説いているのです。キリスト教の教義を説いているのです。新約聖書の言葉をそのまま命の言葉として取り扱っていません。

 心を更えるというのは、心をそっくり底の方から入れ替えるという意味なのです。人間の精神の土台になっているものをそっくり入れ替えて、別人になってしまえという言い方をしているのです。そのように、別人になってしまうようなことを説いている人は、今の日本にはいません。牧師自身がそうしていないのです。ですから宗教は全くだめです。仏教もキリスト教も両方ともだめなのです。商売になっているからです。それでは本当の意味における永遠の生命、とこしえの命の実物を人々に与えることはできないのです。キリスト教では新たに生まれたと信じている。死んでから天国へ行くと信じている。これは希望的観測です。そんな信じ方が神の前に通用するはずがありません。キリスト教の信仰は現世にいる間は通用しますが、死んだら一切通用しないのです。

 死んだら天国へ行くというようなことは、聖書には書いていないのです。キリスト教では書いていないことを言っているのです。キリスト教では十字架の泥棒の所を引っ張り出して、イエスが泥棒に、今夜一緒にパラダイスに行くと言ったということを、天国へ行ったと言っているのです。これは解釈が全然間違っているのです。そこでは天国という言葉は一回も使っていないのです。

 イエスの説教の中には天国という言葉がたくさん使われています。マタイによる福音書にはたくさん書いてあります。ところがその天国とはどんなものかと言いますと、毒麦のたとえとか、真珠のたとえとか、網のたとえを書いているのです。これが天国であると言っているのです。イエスが言っている天国はキリスト教では分かっていないのです。今のキリスト教で言っている天国は、聖書に書いていないということになるのです。

 神仏と簡単に言いますが、人間の常識を持ったままの気持ちで、いくら神を信じ仏に手を合わせても、現世における宗教にはなりますけれど、本当の救いにも本当の悟りにもなりません。皆様は、現世に常識を持ったままで生きておいでになります。そういう人間は死ぬに決まっているのです。常識というものは肉の思いです。肉の思いは死であると聖書に書いているのです。皆様はそれを信じてはいけないのです。現在のままで生きておいでになりますと、必ず死にます。いやでも、どうでも、私たちは現世に生れてきた以上は、人間を乗り越えて、この世を乗り越えて、本当の神とは何であるかをつかまえなければならない責任があるのです。

 宗教ではない神、宗教ではない仏をしっかりつかまえて頂くのでなかったら、生まれておいでになったことが大変な不幸の原因になります。生まれてこなかった方が良かったことになるのです。これは実に重大な問題です。人間に奉仕する宗教がはっきり間違っているということに、気づいて頂きたいと思うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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