top of page
検索
  • 管理人chaya

魂は死なない

 日本の歴史が始まってから、死なない命、永遠の命、彼岸、神の国の実物をはっきり提示した人はいないでしょう。

 彼岸へ渡る上智が般若波羅蜜多ですが、彼岸とは人間の魂のことなのです。これが永遠の生命、神の国の実物なのです。魂の実体、内容が分かれば彼岸へ渡れるのです。これはばかみたいなことです。魂の実体が分かりさえすれば彼岸へ簡単に行けるのです。何でもないのです。がたがた言う必要はないのです。此岸とはこちらの岸です。彼岸は向こうの岸です。こちらの岸とは何かと言うと、人間のことなのです。これだけのことなのです。何でもないことです。

 自分を人間だと思っている間は、死ぬに決まっているのです。ところが、自分が魂だということがはっきり分かりますと、死ななくなるのです。霊魂不滅という言葉があります。日本人は霊魂不滅という熟語は知っていますけれど、この言葉の本当の意味が全く分かっていない。彼岸とは魂ということであって、魂が分かれば死なない命を見つけることができるのです。魂は生れる前に、神と一緒に神の国にいたのです。現世に生まれてからでも神の国にいるのです。魂を端的に言いますと五官の働きになりますが、五官はいつでも神を経験しているのです。

 死なない命と言いますと、非常に難しいことのように思いますが、自分の本体が魂であることが分かれば、死ななくなるのです。魂は初めから死なないものなのです。ところが今の日本人は魂を知らないのです。大和魂とか、武士道魂とか言いますけれど、魂の本当の意味を知らないのです。だから死んでいくのです。

 そのくせ人間は死ぬのが嫌なのです。病気になればすぐに病院へ行くでしょう。ところが、今生きている命が何であるかという簡単なことを知ろうとしない。なぜこうなっているかというと、文明という思想にごまかされているからです。西欧文明に騙されているのです。

1.釈尊の悟り

 一体、釈尊の本当の悟りの内容がどういうものであったかということです。今では釈尊の本当の悟りを正確に理解することは、ほとんどできません。仏教が大乗だ、小乗だと言っていろんな理論をつくり、如是我聞と言ってたくさんの経文を書き過ぎたのです。その結果、ゴーダマ・シッタルダーという一人の人間が、釈迦牟尼如来とか、万徳円満釈迦如来とかいう名前をつけられて祭り上げられてしまったのです。私は、お釈迦さんの思想を批判しようと思っているわけではありませんが、率直に言いますと、釈尊が一体何を悟ったかということは、現在不明です。

 法華経でも阿含経、華厳経、また大般若経でも中心思想を要約しますと、般若心経に集約されると思います。般若心経は、日本人に最もポピュラーな感覚で受け止められていますので、般若心経が持っている独特の思想を、宗教ではないという立場から究明することが、人生を勉強するのに非常に役立つと思います。

 そこで、般若心経を掲げているのです。釈尊の思想が人生を空と見ているのですが、それだけでいいのではないかという考え方もあり得ると思います。

 ところが、ただ人生を空と考えただけでは、人生の実体はどこにあるかということになるのです。皆様方は、心理機能、生理機能が基礎になって生きているわけです。心理構造や生理構造が、実は皆様方の実体なのです。これは空ではないのです。ところが、人間は一メートル何十センチかの身長を持ち、何十キロかの体重を持っているものだと考えている。こういう考え方が空なのです。しかし、生理機能や心理機能が空ではありません。目で見たままの人間は空ですが、生かされているということは事実であって空ではないのです。人間の常識を乗り越えて、現在生かされているという事実を見ると、こういうことになるのです。

 私たちは空気や水を自分で造っているのではありません。ところが、天地が供給する空気や水をどんどん使用して生きているのです。つまり、人間は生かされているのであって、生きているのではありません。仏教的に言えば、他力本願的に生かされていることになるのです。そうすると、他力の実体は何であるかということなのです。空気は一体どうしてできるのか、水はどうしてできるのか。この宇宙構造の実体は何であるかということなのです。心理構造や生理構造は、どうして人間に与えられているかということなのです。

 今、私の目の前に皆様が座っていらっしゃるとします。皆様は生まれたいと思ってお生まれになったのではありません。とすれば、今座っていらっしゃる皆様は自分ではないはずなのです。自分が生まれたいと思って生まれたのなら、自分という人格があっても当然ですが、自分が生まれたいと思わなかったのに勝手に生まれてきたのですから、厳密に言いますと、皆様は自分ではないはずなのです。そうすると何であるかということになるのです。

 釈尊は空を説明しました。いわゆる涅槃ということです。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静がいわゆる仏教の三法印ですが、これは人間存在と天地の存在が空であることを、はっきり言っているのです。

 しかし、地球が回っているという事実があるのです。地球を回しているのは誰であるかということになるのです。どういう力がどのように回しているのかということなのです。実は、地球を回している力のことを聖書では命というのです。この命が神であると言っているのです。神とは全く思いもよらないことなのでありまして、実は皆様方の目が見えることが神なのです。心臓が動いていることが神なのです。この神は宗教の神とは違います。地球が回っているという事実なのです。花が咲いているという事実なのです。これが神だと言っているのです。

 イエスが見ていたのはこういう神なのです。私の父、あなた方の父と言っているものです。花が咲いているという事実をイエスは神と呼んでいたのです。雲が流れている事実を父と呼んでいたのです。これが宇宙の実体です。

 ところが釈尊の時代には、本当の意味での神という思想がインドにはなかったのです。インドの神という思想は、神遷というものになっていました。これは摩訶不思議なことをする大きな力のようなものという意味です。これを釈尊は軽蔑していました。私もこれを軽蔑します。仏教ではいわゆる悟りを強調しますので、この立場から申しますと、神という言葉は使えなくなるのです。ですから、神という言葉は釈尊の時代にはなかったのです。

 ところが、イエスは釈尊より五、六百年後に生まれているのです。もしイエスが十字架にかかった後に釈尊が生まれてきたとすれば、釈尊とイエスの意見は非常に一致したと思われます。釈尊はイエスより五、六百年も前に生きていたために、イエスの十字架が分からなかったのです。

 ただ一つここで考えなければならないことは、イエスが誕生した時、インドから東方の三人の博士が、はるばるベツレヘムを訪れたという記事が新約聖書にあります。東方とはインドのことです。当時、インドにはすばらしい星が現われ、その人が世界の救い主になるという思想があったようです。例えば、釈尊の一代記に一見明星があります。釈尊は明けの明星を見て悟ったと言われていますが、これはやがて来るべきイエスを直感したことになるのです。このように釈尊の思想と、イエスの思想には非常に微妙な関連性があるのです。

 釈尊は、異邦人という立場に立って本当の事実を証明しようとした。イエスは神の約束の民として、人類の完成、神の国の実現というすばらしいスケールの問題を証明するために現われたのです。

 釈尊は神の約束に関係のない異邦人の一人として、悟りを言っているのですが、その内容には般若心経に出ていない面があるのではないかと思います。どうも分からない点があるのです。阿耨多羅三藐三菩提という言葉は、すばらしい無上の悟りというのですが、この悟りの内容が般若心経には書いていないのです。宇宙の完成ということをはっきり言っていないのです。

 もう一つ注意しなければならない点は、釈尊は自分自身が生きているというポイントから出発したということです。釈尊は人間が生きているという所から出発して、生老病死という四苦を究明するために出家したと言われているのです。

 人間の立場から人間の迷いを説いても、実はだめなのです。なぜだめかと言いますと、天地がなぜ存在するのかということが説明されていないのです。人間が人間の生老病死の因縁を説くことができても、地球がなぜできたのか、地球にだけなぜ生き物が満載されているのかということが、説明されなければならないのです。

 こういう点が釈尊の足りないところです。つまり釈尊が生まれた場所と、生まれた年代がイエスと違っていたということです。こういうことを詳しく勉強されますと、神の国と神の義ということが自然に分かってくるのです。

2.釈尊が見た明けの明星

 旧約聖書の創世記三章に、アダムが善悪の木の実を食べたという記事がありますが、これがどういう意味なのか、キリスト教では全然分かりません。なぜ分からないかと言いますと、仏法の哲学をマスターしていないからです。また、聖書の本体を捉えなければ仏法が分からないのです。西欧文明の基本である聖書と、東洋文明の基本である仏法と、この二つを一つにまとめなければ本当の命は分かりません。牧師や神父さんはキリスト経の哲学は知っていますが、仏法の哲学は分からないのです。だから本当の命が分からないのです。

 イエスの言動、気持ちをよく見ていけば分かることですが、彼は釈尊を知っていたのです。また、釈尊もキリストを知っていたのです。釈尊は、イエスが生まれることが、キリストが生まれることであることを直感的に捉えていたのです。これが、釈尊が見た明けの明星です。釈尊はイエスが生まれることを予見していたのです。イエスが生まれることが、キリストの誕生であることをユダヤ人が認識したその根底は、どこにあったかということです。

 新約聖書マタイによる福音書二章のはじめに次のような記事があります。「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たのでその方を拝みに来ました』」(2・1、1)。

 東方の博士たちは異邦人です。異邦人が何のためにキリストを拝みに来たのでしょうか。この説明ができる牧師も神父さんも、未だかつて地球に生まれたことがないのです。法王でも、国際キリスト経大学の教授でも、マタイによる福音書第二章の説明ができる人は一人もいないのです。この説明ができなければ明けの明星は分からないのです。

 イエス自身がヨハネの黙示録で「私は輝く明けの明星である」(22・16)とはっきり言っています。釈尊は輝く明けの明星を見たのです。つまり復活のキリストを見たのです。釈尊は明けの明星を見て一切空と看破した。仏法の根本は明けの明星です。新約聖書の中心も明けの明星です。仏法も、新約聖書も、明けの明星、つまり復活のキリストを中心にして展開している。だから仏法と新約聖書は根本的に一つのものなのです。これに気づいている学者、宗教家は世界中にいないのです。

 現在、東洋と西洋は全く異質なもので、ばらばらに展開し、それが様々なトラブルを生じている。政治、経済、宗教、人種の違いが世界中を不幸に陥れている。明けの明星の本当の意味が分かれば、東西文化は完全に融合し、世界に真の平和が訪れるでしょう。これ以外に行き詰まった文明を打開する方法は全くないのです。

 空とは一体何であるか。釈尊はなぜ一切空と言い切ったのか。これを知るためには、明けの明星である復活のキリストをどうしても知らなければならない。現在の仏教が完全に堕落したのは、復活のキリストをまともに勉強しようとしないからです。仏法の淵源である新約聖書を勉強しないからです。

 ヘロデ王は、東方の博士たちから言われなければ、キリストの誕生について全く気がつかなかったでしょう。キリストの誕生に気がつかなければ、新約聖書もなかったのです。つまり東方の博士たちが新約聖書の道案内になっているのです。従って新約聖書を正しく学ぶためには、まず東方の博士たちの気持ちを理解しなければならない。東方の博士たちの気持ちとは一切空ということです。

 キリスト教が根本的に間違った原因は、自分が救われたいと思っているからです。自分が幸福になりたい。自分が学びたい。自分が理解して、自分が天国へ行きたいと考えているのです。この自分が悪魔の気持ちなのです。この点がイエスとユダヤ人が激突した最大の原因なのです。

 ユダヤ人は「私たちは不品行の結果生まれた者ではない。私たちには一人の父がある。それは神である」と主張したのです(ヨハネによる福音書8・41)。それに対してイエスは「あなたがたは自分の父、即ち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから人殺しであって真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼は偽りを言う時、いつも本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。しかし私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じようとしない」(同8・44、45)と言っている。イエスから見ればユダヤ人の考えが、まさに悪魔の考えだったのです。神以外に自分を考えることが外道の考えになるのです。

 そこで新約聖書にある永遠の生命、神の国を得るためには、まず間違った考え方、即ち悪魔の考えを捨てなければならない。これが釈尊の言った一切空を悟ることです。色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃を体得することによって、明けの明星である復活のキリストを学ぶことができるのです。だから般若心経と聖書の両方を学ぶことは、真実を学ぶための唯一の方法になるのであって、これ以外には永遠の命を知る方法は全くないのです。

 私が述べていることは日本人を救うことが目的ではない。ユダヤ人に覚醒を与えて、完全に行き詰まっている文明を徹底的に打開して、この歴史のまん中へ死を破ったキリストをお迎えしたいのです。そうすると文明が全く新しくなってしまうのです。

 本当の文明は、死を破ったキリスト自身が復活の命をそのまま持って、地球上に現われる時に実現します。これはイエス・キリストの再臨というテーマであって、歴史的な大問題です。これがすみやかに実現することを私は切に願っているのです。

3.生老病死

 現世に生きている人間は、例外なく生老病死にとらわれているのです。生とは今生きている状態、または条件です。肉体で生きていれば色々な病気になります。老とは現世で年をとるという感覚です。そして死んでいくのです。

 このように現世に生きている自分を基準にして物を考えることが、人間の業になっているのです。人間はこの業に押さえ込まれているのです。

 魂とは五官が働いている状態をいうのです。従って肉体的なものです。肉体的に五官が働いているのです。働いているのは何かと言いますと、命の本質が働いているのです。人が生まれる前に命が働いた。それが魂として働いているのです。生命が魂となっているのです。これが五官の働きなのです。

 人間はこの世に生きるために生まれてきたのではありません。何のために生まれてきたかと言いますと、生まれる前の命を悟るために生まれてきたのです。命の本質をつかまえることが人生全体の目的なのです。生活することが目的ではないのです。命を見極めることが目的なのです。だから難しいと言っておれないのです。

 生活していても、やがて死ぬに決まっているのです。現世で成功してもどんな財産や地位を築いてみても、人間は死ぬに決まっているのです。

 生老病死という業に押さえ込まれているのですから、現世で生きていても仕方がないのです。そこで死ぬに決まっている人生に見切りをつけて般若波羅密多の気持ちになるのです。日本人は率直に言いますと、運の良くない民族です。日本人だけではなくドイツ人でもイギリス人でもそうですけれど、ユダヤ人以外の人間は皆、地球が何のために造られたかを知っている人間が先祖にいなかったのです。本当の命、観自在と言えるような命をわきまえているような立派な祖先が、日本にはいなかったのです。だから日本的な物の考えは、すべて現世に属する考えです。従って、日本的な考え方から解脱するような勇気が、まず必要なのです。

 魂はその人のものではありません。天のものなのです。天命という言葉がありますように、天に命があってこの命が今私たちの生として現われている。だから魂が自分自身の所有物のように思えて、どのように生きようと勝手だというわがままな考えでいると、死んでから必ず霊魂の裁きを受けます。

 なぜなら自分の命ではないものを、自分のものとして勝手に使っていたのですから、それに相当する税金を取られるのは当然のことなのです。人間の衣食住を見てみますと、洋服の着方、物の食べ方、家の住み方は、神がもし肉体を持ったら、人間と同じような生き方をするに決まっているのです。天の神と同じように人間は優遇されているのです。それほど尊い命を人間は経験しているのです。

 それは何のためか。例えばマグロの刺身の味は何か。これは生まれる前の命の味なのです。桜の花が爛漫と咲いています。芭蕉の句に「これはこれはとばかりの花の吉野山」というのがあります。「名月やああ名月や名月や」という句もあります。一体これは何なのか。花が咲いている姿は人が生まれる前の命の姿なのです。それが今現われているのです。地球ができる前の命が花という格好で現われているのです。

 花を見てきれいだと思えるのは、五官の本質が永遠の命、とこしえの命を看破する力があるということを示しているのです。魂は観自在菩薩になるだけの力が十分あるのです。ところが日本人は現世に生きることだけに一生懸命になっている。生老病死という人間の業につかまえられているからです。そして自由に物が考えられなくなっているのです。自分の常識、知識、現世に生きている自分の経験しか考えられなくなっている。三島由紀夫のように、死んでからまだ原稿を書いていると思っているのです。人間はそのように現世に執着を持っているのです。現世に執着を持ちすぎているのです。

 「働かなければ飯が食えない」と言います。魂のあり方が天地自然の法則に一致していれば、勝手に飯が食えるに決まっているのです。「道心に衣食あり」という言葉があります。伝教大師の言葉ですが、道を究める心さえあれば勝手に飯が食えるということです。これは無理なことではないのです。

 例えば鳥が生きている状態、魚が生きている状態が本当の命のあり方であって、人間は現世に働くために生まれてきたのではありません。命の本質を見極めるために生まれてきたのです。人間は観自在するために生まれてきたのです。

 私たちは会社員になったり商売人になったりしていますが、働くという気持ちがあれば勝手に生活ができるのです。働く気持ちがない者でも生活保護という形で生きています。働く気持ちのない者でも生きていけるのですから、働く気持ちがあれば必ず生きていけるのです。

 まず私たちが考えなければならないことは、命です。現世に生まれてきて、成功した失敗したということはどうでもいいのです。命をつかまえたかどうかが問題なのです。これは難しいことではありません。刺身の味が分かる人は、生まれる前の命が分かるに決まっているのです。

 人間は天の命、神の命を預かっているのです。命の本質は神です。命を人格的に表現すると神になるのです。神を機能的に表現すると命になるのです。命と神は同じものなのです。

 人間は宇宙でたった一つの命を預けられています。命は神からの預り物なのです。これを自分の物のように考えることは、背任横領罪になるのです。他人の物を自分の物のように考える。人間は命を自由に使うことができますが、自由に使う権利が与えられているだけに、それに対する責任を当然持たなければならないのです。基本的人権は基本的な責任と義務が当然ついて回るのです。この責任を果たすことが、観自在という境地に入ることなのです。本当の命を知ることです。

 イエスが死を破ったという歴史的事実があるのです。イエスが死を破ったのなら、私たちも破れるに決まっています。今年は二〇一〇年です。世界中のほとんどの国が西暦を採用しています。西暦とはイエスという死なない命を持った人が誕生してからのことです。イエスが世界歴史の中心になっているのです。歴史的事実において魂を復活させることができるのです。

 生老病気という感覚にこだわっていることは、五蘊に取り殺されていることなのです。これを踏みつけたらいいのです。生老病死を踏みつけることは誰でもできるのです。これが、人間がこの世に生まれてきた目的なのです。

4.色蘊

 色蘊というのは、目に見えるものが存在しているという考え方なのです。儒教でいう仁義という考え方、道徳とか親子の関係とかいう問題が、全部五蘊に基づいて成立しているのです。目に見えるものがあると考えるから、道徳とか法律が考えられるのです。

 目に見えるものがあるかないかということが、大きな問題なのです。般若心経はないと言っているのです。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色ということは、目に見えるとおりのものがあるのではない。目に見えないものが見えるようになっているというのです。空即是色というのは空が色になっていると言っているのです。これは目に見えないものが、見えるようになっているという思想なのです。

 しかし、目に見えるように物が存在しているというのは、造られたものなのです。最初はなかったのです。最初はなかったものが、目に見えるようになったというのです。造られたものはやがてなくなります。形あるものは必ず滅するのです。今見ている地球の万物は、全部消えてなくなってしまうのです。しかし人間の魂はなくならないのです。だから困るのです。万物がなくなった時に人間の魂もなくなればよいのですが、そうはならないのです。

 万物がなくなっても魂はなくならないという理由があるのです。どうしてかと簡単に言いますと、今人は物を見ています。目の働きはどこからきているのかと言いますと、人格からきているのです。人格の働きが、肉体機能として働く部分と心理機能として働く部分と両方あるのです。肉体機能として働く部分、目で見て美しいとか、物を食べておいしいとかいうのは、人格が肉体的に働いているのです。これが五官です。もう一つは、理性や良心となって精神的に働いているものです。精神的なものと肉体的なものと両方に人格が働いているのです。

 ところが、一体人格とは何であるかということです。善悪利害得失を考える人格です。自尊心とか、プライドとか、プライバシーとか言います。道徳とか、自尊心とかを考えるのはどこからきているのかということです。これは宇宙の命の本質である絶対人格と大きな関係があるのです。例えば、花が咲いているのは宇宙人格の現われなのです。宇宙人格の現われが地球のエネルギーになり、それが花になって現われている。花の美しさは宇宙人格の美しさなのです。マグロの味とか、サバの味は天然自然がつけたのです。天然自然とは一体何かということです。これが神の本物なのです。宇宙の命の本物なのです。

 宇宙の命には神という人格があるのです。太陽の輝き、空の青さ、海の青さ、花の美しさは皆人格の現われなのです。空が青いということは、神の人格が空に現われているのです。稲妻の閃きはそのまま神の人格の表現形式なのです。そのように人間は生まれながらにして、天然自然という形で宇宙人格を知っているのです。つまり、人の人格というのは神の人格がそのまま植えられているのです。だから人格の源を探求しないと命が分からないのです。自分の人格がどこからきているのかを、考えなければならないのです。

 人格は自分で造ったものではありません。生まれた時におのずから与えられたのです。「おのずから」とは一体何でしょうか。これが神なのです。人の人格は神と同じものなのです。だからこの世を去っても、肉体がなくなっても人格はなくならないのです。そこで地獄があるのです。 

 もう一度言いますと、人間は太陽の光を認識することができます。空の色を知ることができる。花の美しさを知ることができる。雪景色を見ることができる。こういう大自然の景色を見ることができるということは、大自然を造ったものと同じ人格を持っているからなのです。人の人格は、宇宙構造の根本原理である神の人格が、そのまま与えられているのです。だから心臓が止まってこの世を去っても、人格は消えるわけにはいかないのです。消えないのが人格なのです。

 人格の本性は神です。全知全能の神なのです。神の人格が、人の人格として植えられているのです。だから死んでしまえばそれまでというわけにはならないのです。

 宗教はだめです。人格の源、命の中心をしっかりつかまえなかったらだめです。信じたら良いとか悪いとかの問題とは違います。信じても、信じなくても人格は宇宙人格からきています。だからこの世を去っても人格は消えません。そこに霊魂の重大性があるのです。霊魂不滅と昔から言いますが、これを具体的にはっきり説明できる人がいないのです。

 自分の人格はどこから来たのか、この世を去ると人格はどこへ行くのか、これが分かれば生きている命と宇宙の関係が分かるのです。人間は現世で八十年、九十年生きるために生まれてきたのではありません。永遠の生命を見つけるために生まれてきたのです。人間完成のためなのです。人格の本質が人格どおりに完成されることを、霊魂の救いと言うのです。こういう考え方が日本にはないのです。

 般若心経と聖書を二つ並べて一つにする。つまり東洋の原理と西洋の原理を、一つにしてはっきり説明することができないのです。弘法大師も、日蓮も、親鸞も、道元もできなかったのです。人格とはどういうものかが分かっていないからです。目に見えるような物質は現象世界から消えてしまいます。逆に言いますと、肉体が消えることは目に見える現象世界がなくなるだけのことです。

 色蘊はやがてなくなります。人間の感覚に頼っているからいけないのです。

 人間の感覚は数十年間のものです。しかし宇宙は永遠です。人の人格は永遠の宇宙に参画するために、宇宙の大構造に人格が役立たなければならないのです。この世で仕事をするくらいどうでもよいのです。少し儲ければそれでいいのです。私たちが本当にしなければならないことは、この世を去ってからの仕事です。

 この世の命はやがて消えるに決まっています。ところが、霊魂の本質価値は永遠のものであって、神と同じ仕事をすることができるのです。死んでから天国へ行くというばかなことを考えないで、もっとまじめに考えなければならないのです。

 人間が目で物を見ているということは、大変なことをしているのです。耳で物を聞いているということは、永遠の命に係わりがある重大な経験なのです。五官の働きの本当の重大さを考えて、人格完成をしなければならないのです。神の人格と人の人格は同じ人格ですから、神の完全さをそのまま、人の人格において受け止めなければいけないのです。これをイエスはして見せたのです。これが彼の復活なのです。復活の命を経験するのです。復活の命は今の人間が生きている命とは違います。死なない命なのです。これを受け取ればいいのです。

5.存在と神

 正統派の宗教を勉強しておられる方は、お稲荷さんとか、お地蔵さんがただの偶像だと考えられる。ところが、稲荷思想とか地蔵思想の中に、神の名の一部を現わしていると考えられる根拠があるのです。ですから人間の考えている色々な思想は、全部違っているということもできないのです。

 しかし問題は、私たちの魂の完成、人間完成のために絶対必要な思想は何かということです。色々な思想を検討していけば、結局一つのポイントに到達できるということになるのです。

 自由ということを誰でも言うのですが、自という字をみずからと読むか、おのずからと読むかによって意味が正反対になるのです。例えば中国で考えている自由の概念と、アメリカで考えている自由の概念とでは概念が全然違うのです。幸せと言いましても、現世主義の幸せと、過去、現在、未来の三世に貫く幸せとでは価値の基準が全然違ってくるのです。

 私が述べていることは、いわゆる造化の神秀をずばり言い切ったものが、神の名ということなのです。

 新約聖書に「御名が崇められますように」という言葉がありますが、これはイエスが祈る場合にはこのように祈りなさいと言って教えているところです。キリスト教信者の方は誰でも知っている、主の祈りの初めの方の部分です。この「御名が崇められますように」ということが、人間完成への最も重大な基本的なことです。

 資本論と般若心経、聖書の関係を簡単に言いますと、資本論には人間の本質が全く考えられていません。経済生活のあり方だけが論じられているのです。経済生活は人間生活の一部です。全部ではありません。人間生活の中には義理人情の世界とか、好き嫌いという世界とか、四苦八苦の世界とかいうものがありますが、こういうことをマルクスは取り上げていません。人間の本性を取り上げていないのです。人間の社会生活における経済状態だけを検討しているのです。マルクスなりの真理がないことはないのですが、人間の本質を十分に究明していないという弱点があるのです。この点が、資本論と、般若心経、聖書とでは見方が全然違っているのです。

 ついでに述べておきますが、私は般若心経と聖書だけを取り上げているのではありません。もっと大きな立場から人間存在を見ていなければならないと考えています。

 人間生活には、有形的な面と無形的な面とがあります。

 知らなければならない最も大切なことは、神の名ということです。ザ・ネーム・オブ・ゴッドというのは、実は存在そのものを指しているのです。旧約聖書出エジプト記三章十四節に「私は有って有るもの」という言葉がありますが、これが神のネームです。有って有るとは存在それ自体ということです。地球が有ること、人間が有ること、つまり有ることが神なのです。存在するということが神なのです。

 般若心経は、「無限耳鼻舌身意 無色馨香味觸法 無限界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」と無、無、無と言っているのです。聖書は有、有、有と言っています。「私は有って有るもの」と言っています。存在、存在、存在と、存在を主張しているのです。

 このように般若心経と聖書とでは、鋭く対立しているように見えますが、実は同じことを言っているのです。地球が丸く存在するように、大宇宙も丸く存在しているのです。

 人間の精神生活と経済生活とは同じことなのです。ところがマルクスは人間の心理生活を、観念論だと決めつけている。これは主観的過ぎるようです。ドイツ観念論の一つの終点ではありますが、宇宙的に見て正しいとは言えないのです。

 こういう意味でありまして、神の実体が分かれば心理的な面と生理的な面、物理的な面とが一致することが分かるのです。造化という言葉の中には、精神的な面と物理的な面とが含まれているのです。これが実体なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:15回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

般若心経は非常に短い経典ですが、これは仏教全体の結論を端的に現わしたことになるようです。もっとも仏教と言いましても、原始仏教と中世の仏教と、現代の日本仏教とでは非常な違いがありまして一口には言えませんが、般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という思想は、小乗、大乗仏教全体を貫いており、仏教の根本精神と言えるでしょう。 仏教と言いますと、今日、各教派に分かれている宗教のことですが、仏教といえば、悟

プロローグ

般若心経を読んでいる人は、日本には沢山おられますが、何のために般若心経を読んでいるのか、分かっている人がめったにいないのです。般若心経は、四角い字がやたらに並んでいるのです。読むのは簡単ですが、その意味を本当に捉えることが、なかなか難しいのです。 人間は、現在生きています。生きているということは、命を経験していることなのです。ところが、命とはどういうものかというと、分からないのです。生きていながら

人間はどこから来たのか

人間の味覚とか視覚、聴覚というのは魂の働きなのです。五官とも言います。魂は死んでもなくならないのです。犬や猫は死んだらしまいになるのです。人間には五官があります。理性と良心が与えられています。これは人間自身の力ではないのです。人間以上の力なのです。人間を人間としている力なのです。日本ではこれをお天とう様と言っています。 人間が人間として生きているということは、その原因があるに決まっているのです。人

bottom of page