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プロローグ


 般若心経を読んでいる人は、日本には沢山おられますが、何のために般若心経を読んでいるのか、分かっている人がめったにいないのです。般若心経は、四角い字がやたらに並んでいるのです。読むのは簡単ですが、その意味を本当に捉えることが、なかなか難しいのです。

 人間は、現在生きています。生きているということは、命を経験していることなのです。ところが、命とはどういうものかというと、分からないのです。生きていながら命が分からない。それが世間並みの人間です。生きているということは、命を経験していることを言うのですが、その命を経験していながら、命とは何かということが分かっていない。人間とは、そういうものなのです。

 聖書に、「彼らはなす所を知らない」という言葉があります。何をしているのか、本人自身に、分かっていないのです。そのために、人間は死んでいかなければならないことになるのです。

 誰でも、死にたくないに決まっているのですが、他方、死なねばならないと思っている。三十歳、四十歳の時は、死ぬのは相当先のことだと思っています。死という問題を、それほどまじめに考えなければならないとは思っていないのですが、六十歳、七十歳になるとそうはいかないのです。だんだん、この世を去る日が近づいてくるのです。この世を去るということと、死ぬということとは別なのです。死ぬとはどうなることか、分からないのです。

 日本人は生活のことは一生懸命に考えますが、命のことはほとんど考えようとしていません。人間のつきあいとか、商売とか、会社のことには一生懸命ですが、自分自身の命の問題について、考えている人はめったにいないのです。日本で、般若心経を読んでいる人は、恐らく、一千万人位はいるでしょう。写経をしている人もずいぶんたくさんいるでしょう。しかし、生きていながら命が分からないように、般若心経の意味が分かっている人はめったにいないようです。

 般若心経を商売道具にしている宗教家はたくさんいますけれど、その意味が分かっていないのです。分かっていないから、般若心経を商売道具に使えるのです。日本人は、般若心経を大変愛するのですけれど、般若心経の内容の真意を、ほとんど愛していないことになるのです。論語読みの論語知らずという言葉がありますが、心経読みの心経知らずということでもあるのです。般若心経の本当の意味が分かると、自分自身の生き方が間違っていることが分かるのです。

 般若心経は、無という文字と、空という字を合わせて、二百七十六字の中に、三十五、六字も使っているのです。般若心経はてっとり早く言いますと、空であり、無であることを語っているのです。つまり人間が生きているそのことが、無であると言っているのです。

 ところがどういうものか、日本人は般若心経を愛しているのです。愛してはいるけれど、自分自身の人生が空であることを知っている人は、めったにいないのです。これはどういうことでしょうか。

 自分自身の人生が空であることが分かりますと、死ななくなるのです。空であることをはっきり確信しようとしないから、死なねばならないことになるのです。結論的にいうとそうなるのです。「どうしても自分を空だと思わなければならないのですか」と言う人がいますが、人間が生きていることが空なのだから、自分自身の人生も空だと考えなければならない。この空が分かれば、死ななくなるのです。ところが、自分自身を空だと考えるのは、人間にとって甚だつらく思えるのです。

 現在の人間は、死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっている人間を、空じてしまうことは、死ぬことを空じてしまうことになるのです。大切なことですのでもう一度言いますと、今の人間は死ぬに決まっているのです。死んでしまうに決まっている自分自身を空として見てしまうことになりますと、死なない自分を発見することができるのです。

 これは宗教ではないのです。この世に生まれてきた人間は、死ぬに決まっているのです。生まれてきたことが、業なのです。生まれてきたことを切ってしまうと、業を切ってしまうことになるのです。死んでしまう自分を空じてしまえば、死なない自分を発見することができるのです。その意味で、般若心経は、まじめに勉強すべきものなのです。これは宗教ではないのです。

 宗教は、現世に生まれてきた人間に、幸福を与えようとしているのです。この世で幸せな暮らしをする。死んでから極楽へ行くというのです。そんなうまい話はないのです。生まれてきたことが業ですから、生まれてきたことが、間違っているのです。生まれてきたことが間違っているのは、私たちの責任ではないのです。

 人間にはそのような業があるのです。人間の命、地球の命には、非常に悪質な業があるのです。

生あるものは、必ず死ぬ。形あるものは、必ず壊れる。そのように、現在の人間は完成された人間ではないのです。肉体的には生きてはいますけれど、魂の命をまるで知らないのです。

 文明が根本から間違っているのです。人間の文明は死んだ人間が造ったものです。文明を造った人間は、誰もかれも死んでしまったのです。どんなに偉い宗教家も皆死んだのです。今の人間は、死んだ人間のまねをしているのです。学問、学問と大げさなことを言いますが、文明の基礎となっている学問ほどあてにならないものはないのです。

 何のために学問があるかというと、人間を幸福にするためだと言うのでしょう。幸福にすると言っても、現世に生きている間に便利な生活ができるというだけなのです。結局は死んでしまわなければならない。科学は死に勝つことはできないのです。

 法律も哲学も、肝心の宗教でさえも命をまるで勉強していない。自分の商売のために心経を利用したり、聖書を利用している。これは商売なのです。本当のことを言っていないのです。本当のことを言えば宗教は、流行らなくなるのです。幸福を与えるとか、死んでから極楽へ行くとか、天国へ行くとか、ばかなことを言いますが、死んでからというのは当てになる話ではないのです。死んでから天国へ行けなかったからといって、牧師さんに文句を言うわけにはいかないのです。宗教はそういうインチキばかりを言っているのです。現世に生きている人間をたぶらかすようなことばかり言っているのです。

 般若心経はそういうことを言っていません。現世に生きている人間は空だと、はっきり言っているのです。こういうことを言うと、宗教がはやらなくなるのです。だから、般若心経の本当のことを説こうとしないのです。坊さん自身が分かっていないのです。般若心経の精神が分かれば、寺院仏教は消えてしまうのです。

 本当の聖書が分かれば、キリスト教の牧師はくびになってしまうでしょう。しかし、宗教ではない般若心経と聖書を勉強しなければならないのです。般若心経と聖書を二つ並べますと、宗教にはならないのです。

無常観

 日本人はなぜ般若心経を愛するのでしょうか。およそ一千万人位の人が読んだり書いたりしておられるのですが、なぜでしょうか。

 不思議なことに、日本人は般若心経に書いてある空という文字が、何となく好きなのです。例えば日本の王朝文化の時代、今から千年から千二百年前、京都に平安朝があった時代の文化です。そこに無常観がにじみでているのです。

 例えば鴨長明の方丈記という本があります。それには人間が家を造って住んでいるのは、水虫が水の上の泡粒の中に住んでいるようなものだと書いています。これが無常観なのです。

 小野小町の歌に「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」とありますが、これもはっきりした無常観なのです。当時の日本人には、無常観が相当強く染み込んでいたのです。

 「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」といういろは歌がありますが、色は匂へど散りぬるをというのは立派な無常観です。無常観が日本人には伝統的にあったのです。

 ところが、今の日本人はどうかしているのです。エコノミックアニマルと欧米人に言われているように、生活動物、経済動物になってしまっているのです。生活することに一生懸命になって、命について全く考えようとしないのです。

 そこで私たちはもう一度、般若心経をはっきり見直す必要があるのです。

 空という文字は、だいたい日本人が非常に好きな文字です。色即是空、空即是色、五蘊皆空という言葉を愛好しています。こういう言葉が、日本人は何となく好きなのです。これは非常によい点です。しかし、好きなだけではだめなのであって、その意味を正しく弁えなければならないのです。人間の思いが間違っているとすれば、どのような思いが正しいかということを知らねばならないのです。

 とにかく今の日本人は皆死んでしまうのです。死んでしまうだけならいいのですが、この世を去ってからひどいことになります。これが怖いのです。人間がこの世に生きていることは、非常に尊い生活を送っているのです。自分の自由意志によって着たいものを着ています。経済的に許す範囲で住みたい所に住んでいます。自分の意志によって衣食住を選択することができる。これはすばらしい機能です。

 仮に神が現われたら、今の人間と同じような暮らしをするでしょう。神とは、日本の八百万の神とは違います。日本の八百万の神は人間が造った神です。例えば、乃木希典とか東郷平八郎が神になっているのですが、これは人間が造った神であって名前だけの神なのです。本当の神ではなくてただの死人です。そういうものではなくて、本当の神とは心臓が現在動いていることなのです。目が見えることが神なのです。こういう神を、日本人はほとんど誰も知らないのです。キリスト教の人々が神を知らないのです。

 「天にいますわれらの父よ」と祈っていますが、天にいますとはどんな神か、実ははっきり知らないのです。口では言っているけれども、実質的にそれを理解していないのです。聖書を鵜呑みにしているだけなのです。

 人間が死なねばならないのは、命に対する正しい認識がないからです。正しく認識すれば魂が分かってくるでしょう、魂は死ぬものではないのです。肉体はこの世を去ります。肉体は消耗品です。消耗品だからこの世を去るのは当たり前です。家でも車でも使えば古くなるのです。肉体がこの世を去ることと、魂が死ぬことは別なのです。命の実体をはっきりつかまえれば魂は死なないことが分かるのです。命に対する見方を正しくすれば死ななくても済むのです。そのためには今までの自分の概念、生活に対する自分の気持ちを空じてしまうことが必要です。

 般若心経に般若波羅密多とあります。彼の地へ渡る上智のことを言うのです。彼岸へ渡るというのは、この世の人でなくなることを意味します。

この世に生きていて、大学教授とか宗教団体の指導者である人には、般若心経が分かるはずがないのです。般若波羅密多とは、この世のことを問題にしない人のことを言います。大学教授は、この世のことを問題にしなければ月給がもらえません。現在の文明の世界観をもち上げて、世の中に通用するような理屈を並べていなければ、月給がもらえないのが学校の先生です。また、お寺の坊さんであり教会の牧師なのです。この世で知名度が高い先生であるほど、般若波羅密多とは縁のない人になるのです。

 般若心経と聖書は宗教ではないのです。この二つをくっつけて勉強しますと、宗教団体はできないのです。般若心経は仏教で用いられています。聖書はキリスト教で用いられています。この二つをどうして一つにしたらよいのか。どんな思想、粘着材をもってきてもひっつかないのです。一つにすることは不可能なのです。ところが、宗教ではないという観点からするとこの二つは、一つになるのです。しかも、この二つを勉強しないと命は分からないのです。世間の宗教はインチキばかりです。般若心経を仏教的に利用して金を儲けている。聖書をキリスト教的に利用しているだけなのです。これは商売なのです。はっきり商売なのです。人が何人集まった、いくら献金があったということばかりを考えているのです。

 放っておけば日本人は全部死んでしまいます。日本人は死んでしまうに決まっている命しか知らないのです。死なない命を知らないのです。命には死なねばならない命と、絶対死なない命と二つあるのです。今の日本には死なねばならない命を、命だと思い込んでいる人ばかりが住んでいるのです。

 人間は宗教という感覚ですっかり騙されています。本当の命を知ろうとしていないのです。だから生活に行き詰まりがあるのです。やきもちを焼いたり、嘘をついたり、不正直なことをしなければ商売ができないようになっているのです。こういう生き方を、今の人間はしているのです。

だから生活には行き詰まりがあるのです。うっとうしいこと、いらいらしなければならないこと、おもしろくないこと、心配ごとがいつもあるのです。命がまともに信じられていないからです。

しあわせとは

 今の日本人はしあわせではないのです。しあわせというのは幸福ではないのです。幸いというのは偶然になったことを言うのです。例えば、駅へ行った時にちょうど電車が来た。幸いに電車が来たというのです。しあわせというのは命に対する捉え方、生活の原理がしあわせであるかどうかなのです。まともな命をまともに見ているかどうかで、その人がしあわせであるかどうかが分かるのです。

 仕合わせというのは岩波の国語辞典に書いていますが、AとBが仕合いをすることを言っているのです。仕向けることに対して仕合わせるのです。

 私たちは、自分で生れたいと思って生まれたのではありません。人間は生まれさせられたのです。これは仕向けられたのです。人間の命の根本は仕向けられた命なのです。これが分かればすぐしあわせになれるのです。自分で造り上げた命ではない、与えられた命なのです。仕向けられた命に対して、私たちが本当に仕合せになりたいと思ったら、仕合せるような気持ちになればいいのです。そうすると、私たちの生活がすぐに合理化されるのです。

 自分に命を与えてくれている天地の原動力があります。天地のエネルギーがあります。このエネルギーの原理をわきまえて合理的な生活を送ることなのです。そうすれば死ななくなるのです。イエスがこういうやり方で死を破ったのです。これがイエスの復活なのです。仕合わせることができれば、悲しみとか苦しみがなくなるのです。

 人間は自分が生きている命が、死ななければならないものだということを自分でよく承知しています。百人が百人共、千人が千人共知っているのです。現世に生きていることは、死ななければならない命を生きていることをよく承知していながら、現世に生きている命は本物だと思い込んでいるのです。これがおかしいのです。

 死ななければならないことが分からないなら、現世に生きている命が本当の命だと考えても仕方がない。多分、犬や猫は、現世に生きている命が本当の命だと思っているでしょう。それは死ななければならないと思っていないからです。犬や猫には死がありません。やがて動かなくなることはあります。これは死ぬのではないのです。生きている命の状態がなくなるだけなのです。走ったり、歩いたり、物を食べたりすることがなくなるだけなのです。生きている状態が消えてしまうだけなのです。

 人間の場合は死ぬのです。人間が生きているのは命を心得て生きています。生命意識を持って生きているのです。理性と良心が人間の心の中心になって働いていますので、人間は自分の心で自分が生きていること、また、他人が生きていること、天然自然が生きていることを知っているのです。花が咲いているのは花が生きていることであって、花を飾ることを、花を活けると言います。活けるとは花を生かすことなのです。人間は命を知っているのです。知っているから花を生かすことができるのです。

 そのように命を知っているものがこの世を去りますと、死ぬことになります。犬や猫は命を知らないので、この世を去っても死んだことにはならないのです。生きている間に、命とはどういうものかを心得ていますと死ななくなるのです。

 般若心経の般若波羅密多はそういうことを言っているのです。般若とは何かと言いますと、上智、常識ではない上等の知恵を言うのです。つまり高等な知恵です。唯識論では阿頼耶識とも言っています。阿頼耶識とは、普通の常識ではない高等な知恵のことを言っているのです。

 普通の人間の常識では分からない知恵で考えると、向こう岸へ渡ることができるというのです。普通の人間が住んでいる所は陸です。陸の外は海です。そして、海の向こうにまた陸があるという思想なのです。

 昔は海のはて、世界のはては恐ろしい大きな境があって、その底に地獄があると考えたのです。これが海のはて、地のはてだと思っていたのです。今の日本は陸地ですが、その外に海があって、この海のかなたに境があって海がおちている。それで海が終りだと考えていたのです。地球が平面だと思っていた。丸いものだと思わなかったのです。その時に彼岸という言葉ができているのです。

 陸地があって、海があって、その向こうにもう一つ陸地があると考えた。これが彼岸なのです。そこへ渡るというのは死なない命を見つけることを言っているのです。これが、般若波羅密多ということになるのです。

 人間が今生きているのはこちらの岸にいるということです。これは第一の岸です。第一の岸から第二の岸へ渡ることが般若波羅密多です。海とは何かと言いますと、空になるのです。つまり、第一の岸にいるものが一度自分を空じてしまう。そうすると、第二の岸を見つけることができると言っているのです。第一の陸にいる状態のままで生きていると、必ず死んでしまう。海を渡って向こう岸へ行けば、死なない陸地を見つけることができると、釈尊は考えたのです。これが本当の仏法なのです。

 仏法というのは、仏教ではなくて悟りを開く方法、悟りを開く道をいうのです。日本には、日蓮とか弘法大師、法然、道元とかいう坊さんがいまして、釈尊の悟りを勉強して教えをつくった。これが仏教になっているのです。

 同じ仏教でも親鸞と道元とでは考え方が全然違います。道元は自分自身を空じること、仏の子になることが悟りだと考えた。親鸞は他力本願、阿弥陀如来の名号を念仏することが般若波羅密多と考えた。同じ般若波羅密多でも、考え方が全然別になっているのです。

 これを突きつめて考えると、実は禅宗で考えている自力というものも、浄土真宗で考えている他力というものも同じことになるのです。左から見た場合と、右から見た場合とでは景色が違うのです。左から見た場合の見方を他力と言い、右からの見方を自力と言っているのです。しかし、これは仏教であって釈尊は空だけを教えているのです。

 釈尊の悟りは自力でも他力でもないのです。自力でも他力でもない本当の空という仏法の教えは、日本にはないのです。日本ではすべて、自力か他力のどちらかになっているのです。自力、他力という言葉を使わないところもあります。例えば真言宗は使いません。やはり、他力という方が多いように思われるのです。

 純粋の釈尊の悟りは日本にはありません。釈尊の悟りは、第一の陸にいれば死んでしまうから、そこを出てしまうことだと言っているのです。

 海へ出ることが空なのです。ここまでは釈尊は教えたのです。しかし、海の向こうには第二の陸地がある。その陸地はどういう陸地かということを、はっきり教えていないのです。向こう側にある陸を、観無量寿経は極楽浄土という言い方で、にぎにぎしく書いています。春、夏、秋、冬、四季折々の花が咲いてすばらしい浄土があると言っています。

 三部経は、観無量寿経と大無量寿経、阿弥陀経の三つをいうのですが、観無量寿経は造りごとであって本当のものではないということを、今の仏教家の多くの人が言っています。大無量寿経と阿弥陀経の二つを勉強することが中心であると、日本の他力宗は考えていますが、結局、向こう岸はどういうものかを教えていないのです。

 ところで人間は、死なねばならないことが分かっていながら、死にたくないという本心があるのです。つまり、死にたくないという気持ちがあることが、人の中に彼岸があることを意味するのです。死にたくないというのは第二の陸地へ行きたいという気持ちなのです。第二の陸地が死なない国なのです。第一の陸は死ぬに決っている国なのです。死ぬに決まっている国に、今生きているが死にたくない、第二の陸地へ行きたいと思っているのです。

 そのためには海を渡らなければなりません。日本からアメリカへ行こうと思えば、太平洋を渡らなければならないのです。般若心経はこのことを言っているのです。海へ出なければ陸へ行けないと言っているのです。これが難しいと思えるのです。それは、第一の陸地にいる状態で第二の陸地へ行きたいと考えるからです。これは無理なのです。

 日本は日本です。アメリカはアメリカでして、日本とアメリカとは言葉が違うのです。今の命ではないもう一つの命になりますと、根本から考え方が違うことになるのです。それを見つけるのです。

 今、人間が住んでいる陸地は現代文明という陸地なのです。これは人間が造った文明です。人間が造った学問、人間が造った理屈は文明でしか通用しないのです。人間の息が切れますと、この世の常識、学問は一切通用しないのです。文明が通用しない所が第二の陸地なのです。これは人間が造った世界とは違うのです。神が造った世界、神本位の世界です。

 第一の陸地は人間本位の世界です。人間本位の世界から神本位の世界へ行くのです。神本位とは嘘も理屈も一切ないのです。人間の世界では理屈は通用しますけれど、神の世界には通用しないのです。事実だけしか通用しないのです。神の国では、本当の真実だけしか通用しないのです。

 本当の真実を知ろうと思いますと、一度、頭から人間の理屈を追い出してしまわなければならない。これが般若心経の功徳なのです。五蘊皆空、色即是空はすばらしい功徳なのです。

 しかし、人間には空とは何か恐ろしいような感じがするのです。自分自身を空じてしまう。自分の思いを自分が捨てることが、非常に難しいような危険な感じがするのです。

 ですから、般若心経をいつも読んでいる人でも、本当に空が実行されている人が、めったにいないのです。空は理屈が分かっただけではだめなのです。実行しなければだめなのです。目の前にどんな立派なごちそうが並んでいても、食べなければ味わえないのです。ごちそうを眺めるだけで腹はふくれないのです。そのように般若心経の言っている色即是空だという理屈をいくら承知していても、自分自身が色即是空を実行する気持ちにならなければ、本当の空は分からないのです。

 般若心経の解説書はたくさんあります。それは仏教で飯を食べている人、またはそういう立場で書いたものであってこれは皆、嘘なのです。理屈の説明だけをしているのです。

 色即是空とは、目に見えていることは嘘なのだという説明をしている。こんなことは言われなくても色即是空という字を、よく見れば分かるのです。色とは現象している物質のことです。目に見える森羅万象はないということが、色即是空なのです。この理屈はお坊さんに言われなくても分かるのです。

 ところが、問題は自分が現在生きていますが、本当にからっぽの気持ちになれるかどうかです。仏教ではだめなのです。色即是空を本当に考えますと、寺があることが空なのです。お坊さんが衣を着て、袈裟をかけていることが空なのです。五重の塔を建てるとか立派な金堂を建てることが空なのです。

 ところが、現在の仏教ではそういうことを大変奨励しているのです。般若心経を写経して千円をつけて送るとご利益があるというのです。送りたい人は送ってもいいのですけれど、そんなことをしても千円損をするだけなのです。郵便代もかかりますから千円以上も損をします。功徳があるかというと功徳は一つもないのです。

 今の仏教はただの宗教ですから、どんな宗教の教えもすべて人間が造った理屈なのです。この世では通用します。この世では神社仏閣がありますから宗教の考え方は通用しますけれど、死んでしまえば一切通用しないのです。

 こんな分かりきったことが今の日本人には分からないのです。宗教の教えが、死んでから通用すると思っているのです。仏国浄土へ行くとか、死んでから天国へ行くことが通用しないのなら、キリスト教や仏教を信じる人は一人もいないのです。通用すると思うから信じるのです。通用すると思うのは、生きている間にそう思うだけのことであって、死んでしまえば一切通用しないのです。

 釈尊はそんなことは一切言っていません。人間が考えていることは全部空だと言っているのです。これは本当です。やがて死ぬに決まっている人間の考えることは、空に決まっているのです。分かり切ったことです。釈尊が言わなくても誰でもすぐ分かることなのです。死んでしまうに決まっている人間の言っていることは、全部空なのです。

 これをはっきり言いますと今の仏教は商売にならないのです。空を教えるためにお寺があるとすれば、わざわざ寺へ行かなくても自分の家で空だと言っていればいいのです。お寺へ行かなければ空だと言えないのではないからです。

 般若心経は、今住んでいる世界から海へ出ることを提案しているのです。ところが、人間は海へ出るのをいやがるのです。第一の陸にいるままの状態で、第二の陸へ行きたいと考える。これはできないのです。できないのにできると教えるのが宗教なのです。これは嘘です。

 海へ出るにはどうするのか。今までの自分の考えを捨ててしまうのです。常識的に考えていた自分の命が間違っているのです。死んでしまう命を、命だと思っていたのです。この世の命と本当の命とは違うのです。

 例えば、靴を履いていて、その上にもう一足履こうとしてもできないのです。そのように第一の陸にいる人がそのまま第二の陸へ行こうとしても無理なのです。

 現在、第一の陸にいる人が海へ出ることが、死んでしまうことではないのです。息が止まってしまえば考えることができなくなります。そこで息が止まるまでに、目が黒い間に空を自分の中へ持ってくるのです。または、自分自身が空の中へ入ってしまうのです。

 空が人間の本当の持ち味なのです。目で物が見えるのは当たり前と思っていますが、物が見えることは不思議なことなのです。自分の力で自分の目を造ったのではありません。耳を自分の力で造ったのでもありません。ところが目の力とか、耳の力が私たちに備わっているのです。これを先天性の命というのです。先天性の命は死なない国の命なのです。

 生まれる前にその命は与えられていたのです。それを持ってこの世へ生まれてきたのですが、この世に生まれてから物心がついて、生まれる前の命をすっかり忘れてしまったのです。この世の常識、知識が当たり前だというように考え込まされてしまったのです。これが人間の迷いなのです。この世に生まれてから、人間は迷いの中へ引きずり込まれてしまったのです。この世に生まれてからの迷いの気持ちが、自分を盲目にしているのです。盲目にしている自分の思いを捨ててしまうことが、海に出ることなのです。

 般若心経は海へ出ることであり、聖書は向こう岸へたどりつくことなのです。彼岸のこと、第二の陸のことを詳しく書いているのです。これは本当のことですから、今の文明を信じてはいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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