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  • 管理人chaya


神がこの世を造られたと言いますが、この世とは何であるかということです。魂がこの世に遣わされた。魂が何をするために、この世に遣わされたのか。イエスがヨハネによる福音書で、「私を遣わした方の御心をなすためだ」と言っています。

私たちもイエスと同じ意味で、魂が現世に遣わされたと考えるべきです。この世に遣わされたということの目的は何であろうか。大体この世とは何であるかということです。この世は二つの角度から見ることができるのです。例えば、ヨハネによる福音書を見ますと、三章十六節に神はその一人子を賜うほど世を愛して下さったとあります。

神が世を愛したとはどういうことか。世そのものを愛するのが目的ではなくて、御子を信じる者が一人も滅びないで、とこしえの命を得るためであると、十六節の後に付け加えて説明しているのです。

神が世を愛したというのは、御子を信じる者を救うためなのです。神が世を愛すると、御子を信じる者が救われるとはどういうことか。

この世の中には、信じて救われるべき魂と、信じないで滅ぼされる魂と、二種類あるのです。これはどういうことかと言いますと、物質的現象を実体だと考え込んでいる人は、肉の思いに従って生きている者です。そういう人は、滅ぼされるべき人間です。

もう一つは、自分の思いを信じて生きている者です。自我意識はもちろんのことですが、自我意識に基づいて起きるもろもろの思いです。これが自分の思いです。私は、だめだと思ったり、私は人より優れていると思ったり、自分を高く評価してみたり、または、低く評価しすぎたりする。これはどちらも自分の思いを信じていることになるのです。

このように、自分の思いを信じる人間、それから物質的現象を実体であると考え込んでいるというこの二種類の人間は、結局滅びなければならないことになるのです。

肉の思いにしても、また、自我意識にしても、本当に悔い改めることを実行するなら、心の霊を新にすることを実行するなら、救われるに決まっているのです。

心の霊というのは、口語訳で心の深みと訳していますが、英訳を直訳しますと、おまえの精神の霊をやり直せとなるのです。自分自身の精神の霊をやりかえるのです。物の考え方をやりかえることなのです。物の考え方をやり直すのです。精神を更えて新に出直すと訳している聖書もありますが、同じことを言っているのです。

心を更えて新にする、精神を洗い更えて新に出直すのです。このことを実行すれば、現象感覚とか自我意識とかいうものは、消えてしまうのです。

現象感覚というのは、目に見える現象を実体だと思う感覚です。これは一つの霊です。この世の霊です。または、肉の霊です。肉の思いというのは、肉の霊を意味するのです。肉の霊はただの幻です。色々と自分の生活に起きる事がらがあります。次から次へ起きてくる事情境遇があります。これは全くただの現象であって、そういう現われ方は幻です。

例えば誰かと旅行したとか、誰かと話したとか、誰かと食事をしたとか、色々な状況で色々なことを経験します。そういう情景とか状態というのは、ただの幻です。それは実体ではないのです。

しかし、話し合った事がらとか、何かを経験した事がらは、非常に鮮明に、自分の心に記憶となって残っていきます。これは幻ではないのです。

情景は幻です。事情境遇は、消えてはともり、消えてはともる走馬灯のようなものであって、これは幻です。誰かと話をしたとか、ある場所で遊んだとかいうのは幻ですが、幻の中にある場所の持つ意味、経験した事がらの持つ意味は、肉ではないのです。相手の顔とか状況は幻ですが、経験したことで与えられた感銘は、実体です。これは霊です。肉を通して霊なることを経験させられているのです。これがこの世です。

肉と霊をきちっと分けていきますと、自分自身が今まで記憶していた内容が変わってくるのです。

例えば事情境遇というものが、実体であるかのように考えられていた。そういう価値観や世界観による記憶の内容が変わってくるのです。

事情境遇は何かを経験させるための付随事項です。付属条件です。例えばある人と喧嘩をするとします。喧嘩をした結果、自分に深い印象が残ります。ああ悪かったとか、良かったとか、何かの印象が残る。この印象が実体です。これが霊です。ところが、喧嘩をした相手は幻です。この場合、どこからどこまでが現象であつて、どこからどこまでが実体かということの仕分けは、その時々によって違ってくるのです。

聖書の勉強をしている時に生じた事がらは、幻的な部分が大変少ない。また、全くこの世的な事がらだけの時に起きた印象は、肉的な部分が非常に多いのです。

この世というものは、二重構造になっているのです。神が愛した世というのは、神がすべての万物を地上に造られた。三次元の世界を展開された。その神の御心に従って、現象世界が展開されているのですが、それは御子を信じる者が滅びることから救われること、とこしえの命を持つことのために、この世が造られたのです。

例えば、花が咲くのも、鳥が飛ぶのも、皆御子を信じる信仰への導きになるのです。森羅万象が目前に展開していることは、そのままキリストの言葉であるということになります。その意味で、この世が展開されている三次元の世界が、我々の眼前に展開されているということが、いわゆるこの世であって、神が一人子を賜う程に世を愛したというのは、この世そのものの存在を愛しておられるのです。

それは第一に御子を信じて救われる霊魂のため、第二に神により造られた天地万物が完成されること、この二つのためにこの世は存在するのです。

そのために一人子を賜うほどに世を愛し賜うたというのは、極めて当然のことです。神が世を愛するという世という言葉には、ヨハネによる福音書を見ますと、二通りに使われているのです。

例えば、あなたがたはこの世の者ではないとありますし、また、世はあなたがたを知らないとか、世は神の御霊を知らないとか、世は神を知らないとあります。また、お前たちは福音を知り、神を知っているとあります。お前たちはこの世の者ではない。そういう意味に使っている世があります。これは悪しきこの世です。この世の君が悪魔であるという場合のこの世です。

それと、一人子を賜うほどに世を愛したという場合の世は全然正反対の世です。これが同じ言葉で現われている。だから、ごく初歩的な聖書の読み方をしている人には、神がこの世を愛しているのだから、私たちもこの世の習わしに従うのが当たり前だという、とんでもない考えを持つようになるのです。

例えば、キリスト教のある人たちは、この世の人に誉められなければいけないと思っているのです。この世の習わしに背いてはいけないと思っている。この世で良いと考えられていることに背いてはいけないと思っているのです。いいと考えることでも、その内容によってぴんからきりまでありますから、この世の習わしのすべてが悪いという訳ではありません。とにかく、神が世を愛するという意味と、お前たちはこの世の者ではないと、キリストが言われた意味と、二つの世があることをよくっておく必要があるのです。

お前たちはこの世の者ではないという場合のこの世は何かと言いますと、現象が実体であるという意識に固まっている意識、つまり自我意識と現象感覚とによって成立している人間の俗念、妄想、仏教的に言いますと、無明煩悩で信じているこの世があります。

異邦人社会で考える社会とか、世の中、世間並という場合のこの世が意味するものは、すべて皆肉の思いで固まっている、人間が造っている世をさすのです。これは悪魔が神の創造を横取りしたような形で治めているこの世をさすのです。

個人が毎日経験している 人生経験の中にも、肉のこの世と、霊なる世と二通りの世があるのです。神が一人子を賜うほどに愛したこの世、キリストが憎んで警戒したこの世、イエスを十字架につけたこの世があるのです。イエスを十字架につけたこの世は、徹底的に肉の世です。これが個人の経験の中にありますし、また、神が愛するこの世もまた、個人が生きている事がらの中にあるのです。

人間存在というものは、絶えず肉的な半面と、霊的な半面との両方を経験しているのです。何が肉であって、何が霊であるかを仕分けることが見事であればある程、その人は神に近い人になるのです。

御霊を崇めるということは、この仕分けをすることなのです。霊に従って歩むとパウロが言っていますのは、自分自身の人生経験を霊的に理解するか、肉的に理解するかによって、人生の本性が変わってしまうのです。

例えば、イエスやパウロは、見事に自分自身の生活的内容を、これは肉、これは霊というように区分けしていたのです。整理していたのです。

イエスのような方になりますと、人間的に考えて肉と思えることでさえも、ほとんど霊的になってしまうのです。イエスという人が経験すると、何でも皆霊になってしまうのです。パリサイ人から見て、間違っていると思えるようなことでも、イエスの感度から言えば、少しも間違っていないのです。パリサイ人はイエスが掟を破ったと考えて、イエスを殺そうとしたり、イエスを憎んだりしたのですが、パリサイ人がそのように考えることでも、イエスにすれば、父の御心を霊的に受け止めて、霊的にある事がらを処置したことになるのです。

一つの事がらを見る時に、肉の側から見るのと、霊の側から見るのとでは、本質が変わってくるのです。自分が何十年か生きていた人生でさえも、これをこの世的に評価するのと、霊の側、神の側から評価するのとでは、全く違ったものになるのです。

自分自身の存在に対する見方によって、自分の本性が変わってくるのです。例えば、イエスの場合、自分自身を生ける神の子として見ていたのです。生ける神の子として見ていますと、現象的に存在するこの世は、実は存在していないことになるのです。

時間、空間、人間というものがあります。東洋思想で言いますと、時と空と人の三つの間があると考える。これ以外に物はありません。時間、空間、人間が一体存在するのかと言いますと、イエスの見方によれば、これは存在していないのです。これは神の口から出ている言葉にすぎないのです。

このことは、新約聖書によらなくても、釈尊も、そう考えていたのです。五蘊皆空、色即是空、諸法無我という考え方で見ますと、現象は存在していないのです。ただ幻になるのです。

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法となるのです。そうしますと、この世は存在していません。般若波羅蜜多で考えますと、この世は存在しない。従って、肉のこの世、悪魔が大将であるこの世は、存在しないことになるのです。こういう見方もできるのです。こういう世界観や価値観によれば、肉のこの世は存在していません。従って、自分自身の生活にも、肉の行いはありません。霊の経験ばかりになるのです。

見方によれば、現世というものは、常識的に見るのとは全然違ってくるのです。言わず語らず、その声聞こえざるも、その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及ぶという世です。イエスが生きていた世は、そういう世であったのです。「森羅万象のあり方それ自体が、キリストの言葉である」とパウロが言っています。そういう見方をしますと、現世は全部霊の世になってしまうのです。神の国になってしまうのです。

現在、地球が宇宙空間に浮かんでいるということは、全く驚嘆すべき神の奥義なのです。世間の人が考えているこの世というのは、今や全く存在していません。神が天地を造ったということが、そのまま約束の発言形式なのです。十字架によって、その約束が終わったのです。事終わりぬとイエスが言いましたように、約束が完遂されました。その結果地球はもはや、神によりて造られた物理空間ではなくなっている。復活によって物理空間は処置済になっているのです。

神の処置済になっているこの世に、私たちが生きているということは、何をしていることなのか。大体神が創世の昔に、万物を造ってこの世を始められたということ、創世記とは一体何であるかということです。

神によって約束が万物という形で述べられた。万物は始めからあるのではない。約束が万物という形で展開したのです。そうして今、新約の原理に基づいて、今私たちがこの世に生きているということは、そのこと自体が実は驚くべきことなのです。これが命の文なのです。

この世は天です。天に雄大な巻物が広げられている。これが森羅万象の展開でありまして、この万象の展開に対して人間の霊魂が、きら星のように散りばめられているのです。この状態が命の文です。

私たちは命の文に対面しているのです。毎日命の文に接触しているのです。毎日、命の文を書き記す生活をしているのです。私たちは新天新地が現われるために、神の相談役として、神の相続人として、キリストと共に、神の相続人になるために、今この世で命の文の管理を命じられているのです。

今この世で自分自身の命を管理することも、命の文全体を管理することも、同じことなのです。イスラエルに伝道するということは、この中で最も大きい、最もすばらしい役目になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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