top of page
検索
  • 管理人chaya

エデンの園


創世記第二章の七節には、土のちりで人が造られたとあります。八節、九節に、次のように書いてあります。

「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」。

また、十五節に、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」とあります。八節と十五節の関係がどうなるかです。これは同じことを言っているのではないのです。

神が人を造られた。これがリビング・ソール(living soul)となった。人は生きたものとなったとあるのです。このことにつきましては、パウロがコリント人の第一の手紙の十五章でも引用して、解説を加えています。

人がリビング・ソールとなったということが、とりもなおさず、ちりで造った人間のあり方を端的に示しているのです。リビング・ソールというのは直訳しますと、生きつつある魂となるのです。生きつつある魂とは、何を言っているのかということです。これは肉体的に生きていることを含んでいますけれど、肉体存在の人間をさすものではないのです。

生きているという言葉は、肉体人間をさすのかと言いますと、そうではないのです。人間は肉体的に生きていますが、肉体存在そのものが人間かというと、そうではないのです。

生きているということは、時間と空間について、絶対的な制約を受けているということです。ところが、人間の精神活動というもの、心理機能の働きというものが、人間自身のあり方の本体です。

人間の場合、命というのは、精神機能の働きそのものと考えてもいいのです。犬の場合ですと、精神活動の働きというものは、本能的なもので、ただの心理機能があるということは言えるでしょう。人間の場合はそうではありません。精神活動のため、心理機能の働きのために、肉体があるのです。犬の場合にはそれが反対になっているのです。肉体を保つために、犬の心理機能があるのです。

リビング・ソールは、肉体的に存在することを含みはするけれど、それが主体になるのではないのです。

こういうものが、創世記二章七節の段階で造られたのです。

八節には、主なる神が東のかたエデンに園を設けたとあります。改訳ではエデンの東のかたとなっていますが、こうなりますと、エデンの園の外の東のかたと受け取られますので、良い訳とは言えないようです。英訳では、エデンの東よりに園を設けたとなっているのです。

造った人を、そこにおかれたのです。まずリビング・ソールである人間を造って、造りたての人間、人生経験が全くない白紙の人間を、エデンの東よりの方に園を設けて、そこにおいたのです。

園というのは、特殊なあり方の領域を示しているのです。エデンの園ですから、パラダイスになるのです。エデンというのは、喜び、楽しみ、満足、賛美、恩赦というような人間の理性の喜び、良心の賛美を意味しています。そこへ人間を置いたのです。

エデンの東の方に園を設けたとあります。東というのは太陽が出る方向を意味します。そうして、草も木も、東の方を好むのです。朝日がさす方が木の表です。夕陽がさす方は木の裏です。

エデンには曇がなかった時ですから、毎日晴天が続いていたと考えられます。その時のエデンの夜明けは、すばらしいものだったに違いありません。

今は人間の罪によって、地球そのものが呪われている。ところが、その時のエデンには罪がなかったのです。死がなかったのです。

死が全然なかったとは言えないかもしれないし、あったかもしれないのですが、へびの中に死が閉じ込められていたのです。天使長ルシファーとその一族の天使の中には死があったのです。しかし、人間の現象世界の方には死は入り込んでいなかったのです。

従って、罪がない、死がまだ入り込んでいない時のエデンの朝ぼらけは、すばらしいものだったと思われます。エデンの夜明けをアダムは見たのです。罪がない地球のすばらしさを表現する言葉がない位に、すばらしいものでした。正しく神が造った楽園でした。

鳥や獣もいたでしょう。そういうもののあり方でも、人間と鳥、獣が完全に一つでした。やがて今の地球に千年王国、千年間の絶対平和の時代が現われますが、再びエデンの光景が全地球に展開することになるでしょう。二歳か三歳の幼児が、ライオンと戯れるでしょう。ライオンの耳や、尻尾を引っ張っても、ライオンはされるがままにしているのです。毒蛇の穴に手を入れても、噛まないのです。

この地球上から、人間の罪が贖われて、キリスト王国が実現しますと、初めて罪のない、呪いのない、痛みのない、犯罪、インチキ、戦争がない、病気、不景気も飢饉も災害もない地球が実現するのです。砂漠がなくなります。ツンドラ地帯もなくなるのです。こういう世界を人間は心から望んでいるのです。

そのために、ユダヤ人伝道を実行しなければならないのです。

千年王国の光景というものは、かつてアダムが経験していた世界です。ただ違うのは、千年王国には、なお死んでいく人間がいます。王国時代に、死が完全になくなるのではない。ただ死の意味が違ってくるのです。

神はエデンに園を設けたことによって、まず人間に、王国と同じ生活状態を経験させて下さったのです。罪のない状態を経験させて下さった。罪のない状態を経験させて、それから陥罪を経験することになったのです。

創世記の二章におけるアダムの状態は、罪が許された人間の状態と同じです。もし皆様が聖霊を与えられて、はっきり罪が許されたという自覚に立つことができたとしますと、当然エデンの園における感覚を、取り戻すことができるはずです。

エデンにおけるアダムの生活感覚を取り戻せないとしますと、その人は御霊を受けたのですが、御霊を崇めていないために、霊的に成長していないことになるのです。御霊を受けるとはどういうことか。これは大変難しい問題ですから順次述べていきますが、簡単に言いますと、神の命、宇宙の命が聖書の言葉として、また、大自然のエネルギーとして展開しています。神の命、大自然の命を受けとって、その命に同化してしまうことが御霊を受けるということです。

エデンの状態を自分のこととして受け取れる人は、祝せられた人です。罪がない人です。罪がない人は、エデンの状態を感覚することができるのです。実感することができるのです。

エデンの東に園が設けられて、清純な感覚でアダムが生きていた。もし皆様がこの時のアダムと同じ感覚で大自然に接することができれば、その人は甦りの命を経験させられていることになるのです。

イエスはかつて、十字架以前において、「私は甦りである。命である」(ヨハネによる福音書11・25)と言っていました。イエスは十字架にかかる前に、甦りを経験していたのです。

この甦りとは、罪を完全に許された人間の姿を意味するのです。そのような精神状態を意味するのです。

善悪の木の実を食べて、魂が死んでしまったものを、命の木の実を食べることによって、甦ることができるのです。

私たちの場合は、十字架によって、罪があるものが、死んだものとして扱われる。十字架を本当に受取り、聖霊を与えられて十字架をはっきり確認させられて、御霊を崇めることになりますと、必然的に現在生きているままの状態で、罪のない状態に入ることができるのです。イエスが甦りの命を経験していたように、私たちも復活の命を、現世で経験できるはずです。

まず、最低限度、甦りの命を現世で経験する信仰でなかったら、とても携挙は無理でしょう。変貌山の状態にまでいかなくても、創世記第二章の実感が自分自身に与えられているというくらいでなかったら、とても救いはおぼつかないのです。

しかし皆様は、自分自身の根性がへびであることを考え、それを弁え知って、自分の信念を一切捨ててしまえばいいのです。自分の信念を一切捨てるということが、赤金のへびを十字架につけるということです。

自分自身の思い、経験、または信念、考え方を一切問題にしないということを、毎日訓練するなら、自分自身の中にいるへびを十字架につけることは、それほど難しくないのです。バカ正直にしたいと思っている人は、実行できるのです。

パウロは、「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや、私は生きてはいない」(ガラテヤ人への手紙2・19、20)と言っていますが、もはや私は生きてはいないというのは、固有名詞のパウロはもう死んでいるという感覚です。

新約の原理に立って考えますと、すでに十字架が立てられており、古き人、罪人である私たちは、全部神の処置によって、殺されてしまっているのです。私たち自身が、自分の気持ち、考えを問題にするとか、しないというのは、おかしいのです。

今更、私たちの中にあるへびを木にかけることを、するまでもないのです。神がそうして下さったのですから、私たちはこの神の処置を信じて、日毎、日毎に、十字架を負えばいいのです。ただ日毎、日毎、時々、刻々に、十字架を負うていけばいいのです。

何でもいいから、自分の思いを捨てて生きているということを、毎日実行すればいいのです。ところが、なかなかこれを実行しないのです。救われたい救われたいと思っているくせに、実行しようとしない。腹が立ったら、立った自分に同意しているのです。自惚れている自分の気持ちに同意しているのです。

人を恨んだり、憎んだりするへびの気持ちが、むくむくと頭を上げると、その気持ちに同意するのです。へびと一緒に腹を立てているのです。こういうことをしているのです。

時々刻々に十字架を負わないで、十字架を思想的に知っているだけで、それを具体的に自分の実感として、十字架を負うことを実行しないのです。だから十字架が毎日、空回りしているのです。エデンにおけるアダムの心理状態が、さっぱり分からないのです。エデンの東に園を設けて人がおかれた。この大自然のすばらしさ、罪のない世界の朝ぼらけのすがすがしさが、分からないのです。

例えば、朝起きた時、何となく気分が重たいと思っても、神の処置には寸亳の偽りもありません。曇の上には、いつでも太陽が輝いているのです。それを考えずに、曇の下のご機嫌ばかりを考えている、情けないことです。

仏教でもこのことを、人間はすでに仏の性を持っているのだから、仏なのだと言っている。これが道元の黙照禅です。人間はすでに仏であるのだから、座禅をくんで、お釈迦さんと同じ姿になって、座るのです。そうすると、お釈迦さんと同じようになるのだというのです。

ところが、臨済和尚や、白隠や一休が言った禅は看話禅と言います。話を見るのです。看話禅は、例えば無とは何か、また、窓の外を牛の角と腹は通ったが、未だしっぽは通っていない。これは何であるのかという考案を提出して、それを考えさせようとするのです。

これは人間が不完全だという前提に立っているのです。これが臨済です。人間は完全だという前提に立っているのが、曹洞の禅です。この二つがあるのです。

エデンの園の光景は、黙照禅の方です。道元の禅と同じであって、そこに人間の迷いはありません。すでに完全に神の子である人間の姿が、エデンの園に彷彿として現われているのです。リビング・ソールそのままの姿が現われていたのです。

そのように清純な素朴な単純なアダムが、エデンにおかれたのです。エデンの園で、どのようにアダムと神との関係がありえたのかということです。

エホバ神は見て美しく、食べるに良いすべての木を土から生えさせたとありますが、これは一体何かです。これは人間が生きるためにには、神から色々なことを教えられなければならないことを示しているのです。

人間がこの世へ出てきたのは、神ご自身を知るためなのです。神ご自身を知るためには、私たちは五官を通して、神と接触しなければならないのです。目で見る美しさ、食べることのおいしさ、味わいを通して私たちは、神の栄光を学び知るのです。神の栄光を学び知るために、目に美しい、食べるに良い、もろもろの木が、エデンにあったのです。こういう木がたくさん生えていたのです。

こういう神の処置を考えても、人間がこの世に生まれてきたのは、ただこの世で生きるためではなくて、神を知るため、神とつきあうため、神を学ぶため、つまり初めからあった命の言葉を学ぶために、私たちはこの世にきたのだということが分かるのです。

これが、リビング・ソールであるアダムを、エデンの園に置いた理由です。天然自然の光景、天体運行のすばらしい構想を見せた。また、地に生えている草や木を通して、神の広大さ、すばらしさ、神の愛と輝きをアダムに知らせようとされたのです。

ここに人間の魂の成長がありえたのです。

エデンの園にリビング・ソールである人間がおかれた。原罪がまだ発生しなかった状態における天然現象のすばらしさを、アダムに見せたのです。

聖書の記述に基づいて、直訳的に説明すれば、そのようになるのですが、意訳的に言いますと、本当は園という具体的な地形とか場所、または天然現象があったのではないのです。

あったのではないと言ってしまいますと、言い過ぎになるかもしれません。エデンの園だけでなく、例えば天国という言葉でも、すべて聖書に場所的に示されているものは、一つの心理的な譬である、比喩であると考えなければならない方が多いのです。

これはマタイによる福音書の十三章三十五節にありますが、「私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」と言われているように、物質的現象、または場所的状態、現実的な在り方は、すべて無形のもので現わすことが、神の創造の目的なのです。

初めに天と地とが造られた。天という場と、地という場が造られた。この二つの場を現わすために、現象が造られたのです。

天と地が造られたというのは、定められた、規定されたという言葉の方がいいかもしれません。最初は、天という場、または概念、地という場、概念が存在しなかったのです。天という場も、地という場も、悪魔が神に反逆するまでは必要なかったからです。だから、規定されていなかったのです。

やがて、それを規定しなければならない必要を神が感じて、初めて天という概念、場が規定されたのです。また、地という場も同じことです。

初めて規定されたのですから、創造という言葉が使われているのです。しかしこれは、物的な創造を意味していません。神の御心の現われ方を意味しているのです。

創世記第二章のエデンの園の事がらも、現実的に、地形的に存在したのか、現象的に存在したのかと言いますと、存在しなかったと言った方がいいでしょう。

はっきりしなかったというと言い過ぎになりますが、例えばエデンの園が中央アジアの何処かにあったという説がありますが、これは現象意識に走りすぎている考え方になると言えるのです。

エデンの園という具体的なガーデンが、中近東の何処かにあったのか言いますと、あったとは言えないのです。その証拠に、命の木と善悪を知る木を生えさせられたとありますが、こういう植物は現実には存在しないからです。アダムがエデンの園と言えるような心理的な境涯におかれていたということです。

境涯という言葉を、仏教の臨済禅では非常によく使います。悟りを開いた状態を一つの境涯と呼んでいます。悟りを開く前の状態、悟りを開いた後の人間の心理状態、その人が現在生きている気持ちのあり方を境涯という言葉で現わしているのです。

エデンの園に住んでいるアダムの境涯を考えますと、良く分かると思いますが、アダムは罪を全く知らなかった。造られたままの本当に単純な、また純粋ないわゆる単純朴と言えるような理性的な真っ白な状態にあったのです。

生えている竹の中には、真っ白な空間があるのです。竹の筒の中にある闇のような、全くの処女的な状態の心理があった。そういう境涯でした。

現在、現象意識につかりこんでいる人間には、こういう書き方をしなければ分からないのです。アダムがこういう純真な境涯にあったということを、そのまま論理的に、また哲理的に説明をするとしますとなかなか難しいので、エデンの東のかたに園が設けられたという言い方をするのが、一番早いのです。

見るに美しく、食べるに良いもろもろの木が生えた。善悪を知る木、命の木が園の真ん中にあったと書くのが、一番分かりやすいのです。

それではエデンの園が全然なかったのかというと、なかったとは断言できないのです。しかし、現在の地質学では何処に存在したのかを特定するのは難しいのです。

エデンの園が何処にあったのかを問題にしている学者がいますが、そういう考察をしても、あまりプラスにはならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:10回0件のコメント

最新記事

すべて表示

聖書に次のようにあります。 「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現われたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種がその人にとどまっているからである。また、その人は神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない。 神の子と悪魔の子との区別はこれによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は

アウシュビッツが意味すること

イエスは次のように述べています。 「そこで、あなたがたに言う。誰でも人の前で私を受け入れる者を、人の子も神の使いたちの前で受け入れるであろう。しかし、人の前で私を拒む者は、神の使いたちの前で拒まれるであろう」(ルカによる福音書12・8、9)。 この箇所は、普通の感覚で読んでいますと、何でもないように思える所です。ところが、一句一句慎重に検討してみますと、驚くべきことが分かってくるのです。新約聖書の

bottom of page