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  • 管理人chaya


聖書に次のようにあります。

「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現われたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種がその人にとどまっているからである。また、その人は神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない。

神の子と悪魔の子との区別はこれによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

私たちは互いに愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである」(ヨハネの第一の手紙3・8〜11)。

罪を犯す者は悪魔から出た者だ。悪魔は初めから罪を犯しているとありますが、罪を犯したから悪魔になったのです。罪を犯すことが悪魔の商売です。

罪を犯すとはどういうことなのか。人殺しをするとか、嘘をいうとか、姦淫するとか色々ありますが、そういう行いは原罪の結果として現われた枝葉の問題です。原罪という幹から発生した枝葉末節が人間の悪しき行いになっているのです。

パウロがローマ人への手紙の一章の終わりの方で、人間の罪を並べていますが、原罪の結果発生する枝葉末節のことを言っているのです。

こういう意味での罪は分かりやすいのです。世間的な意味でも罪です。そのような犯罪行為が発生する原因が分からないのです。これが原罪です。

罪の原因は何かと言いますと、自我意識と現象意識です。この両者を引っくるめて、聖書は肉の思いと言っています。

人間は罪に勝つことはできません。原罪に勝つことができないから、犯罪行為に勝つことができないのです。どうすれば肉の思いから出ることができるのか、これはエペソ人への手紙第四章二十二節に示されています。これしかありません。どうするかと言いますと、新しく生れることです。心の霊を新にすることができないと、新に生まれることはできません。

情欲の惑わしによって滅びるべき古き人を脱ぎ捨てて、心の霊を新にして、真の義と聖とによって造られた神にかたどられた、新しい人を着るべきだということになるのです。神にかたどられた新しい人というのは、この世に生まれてきた自分ではありません。この世に生まれてきた自分ではない者、本当に神の子としての内容と意識を持っている者が、新しい人です。

イエスを主として信じる人が、イエスと同じ者に変えられるのです。イエスと同じ者に変えられるという信仰でなかったら、霊魂の救いは有りえないのです。そのような聖書の理想を貫徹することが私たちの目的です。

イエスが神の子として現われた。何のために現われたのかと言いますと、悪魔の仕業を滅ぼすためです。悪魔の仕業を破壊することが、イエスがこの世に来た目的であって、私たちがイエスを信じる時に、私たちも同じように悪魔の仕業をこぼつ者にならねばならないのです。

悪魔の仕業がこぼてないような者は、イエスを信じていない者です。イエスを神の子と信じる者は、自ら自分の内に証を持つべきだということをヨハネが言っていますが、皆様は神の子としての証を持たねばならないのです。それを皆様が持つことになりますと、イエスが神の子であったように、皆様も神の子としての資格を与えられることになるのです。神の子の自覚を与えられることになりますと、初めて悪魔のわざを破壊することができる人間になるのです。

イスラエルに約束の真髄を伝えるのです。この地球上に現われた悪魔の仕業、文明社会という形で現われている悪魔の仕業、この世の君である悪魔の仕業を指導しているのが、現在のユダヤ人です。彼らに福音を伝えて、彼らの心構えを覆すことが、悪魔の仕業を土台から壊してしまうことになるのです。

悪魔の仕業をこぼつということは、我々がしなければならない絶対的な使命でありまして、そのためにはまず私たちは、自分自身の中にある悪魔の仕業を、徹底的にこぼつ必要があるのです。自分の中にある悪魔の仕業をこぼたずに、文明社会の中にある悪魔の仕業をこぼつことはできるはずがないのです。

私たちはまず自分の中にある梁を取り去って、そうしてイスラエルの目の中にあるちりを取り去ってあげるのです。そうすると、兄弟の中にある目のちりが見えるのです。これを取り除いてあげる方法が、具体的に分かるのです。私たちはイスラエルの目の中にあるちりを取り除いてあげなければならないのです。そういう責任を、神から与えられていると考えて頂きたいのです。

そのちりとは何かと言いますと、悪魔の思想がイスラエルの中に住み込んでいることです。イスラエルの中にある悪魔の仕業をこぼつことは、世界全体の悪魔の仕業をこぼつことになるのです。

イスラエルは全世界の長子です。全世界の人間の長男です。この長男が世界を指導しています。これは当然のことです。ユダヤ人の指導によって世界は動いています。私たちはこの長男を指導するのです。そうしたら、次男、三男は勝手についていくことになるのです。

これは口で言うのは簡単ですが、古今未曾有の大事業です。未だかつて誰もなしえなかった大事業です。人間歴史六千年の伝統を覆してしまうような驚天動地の大事業です。これが私たちに与えられている使命です。

イスラエルの中に住み込んでいる業とは何か。何が住み込んでいるのか。具体的に悪魔とは何であるのか。これは自我意識と現象意識です。自我意識と現象意識を一つにして言いますと、これが肉の思いです。肉の思いは悪魔の思想ですが、この肉の思いが生命形態をとって、ユダヤ人の中に住み込んでいるのです。

異邦人の中にももちろん住み込んでいます。だから汝ら互いに相愛せよということが、実現していないのです。

「汝ら互いに相愛しなさい」とイエスは言っている。愛し合うということは、本当にすばらしいことです。本当に心から愛しあっている人間が一緒にいると、それだけでその場が喜びと、感謝にあふれるのです。これを私たちは実現しなければいけないのです。

そうすると、第三の天が私たちの上に下りてくるのです。お互いに愛し合うというのは、言葉は簡単ですが、これを実行することが難しいのです。

愛はすべての非礼を取り除くとか、すべての過ちを許すとか、すべての欠点を見ないとかということを、パウロがコリント人への手紙の十三章で書いていますが、惚れた目で見ると、あばたがえくぼに見えるのです。他人の欠点は無くなってしまうのです。お互いの良い所だけが見えるのです。

そういう状態になると、お互いにわくわくします。腹に一物、背中に荷物がなくなるのです。人におべっかを言うとか、また、言う気持ちがなくなるのです。心から、ありのままの気持ちをありのままに言えるのです。

愛していれば良いことしか見えませんから、良いことだけが見えるのです。思春期のような気持ちになるのです。新約聖書を通しての雄大な世界観と、すばらしく深い価値観を兼ね備えて、心から愛し合うのです。私たちは、こういう経験をどうしてもしなければならないのです。これが新しい恋愛のすばらしい形になるからです。

パラダイスの生活を現世で生活しなければならないのです。これはできるのです。例えば、パウロとヨハネとが話し合っている光景を想像してみてください。ヨハネの愛の深さ、パウロの雄大なスケールの信仰の展開です。この両巨人がお互いに手を取り合って話し合っているというのは、とても深いことです。

エリアとモーセとイエスの三人が変貌山の頂きで話し合っていた。これが愛の世界です。神の約束の宇宙的な展開です。現世も来世もないのです。エリア、モーセ、イエスが話し合うことになりますと、現世はないのです。今来世が来ています。ここが来世なのです。

変貌山の頂きに、神の国が現われていたのです。その時イエスの肉体は変わっていたのです。これが本当のパラダイスと言えるでしょう(マタイによる福音書17・1〜8)。

私たちも、ここまでいけると思います。本当にあい愛することができれば、できるのです。

そういうことが実現するためには、どうしてもお互いの自我意識がなくならなければいけないのです。本当に愛し合うと、自我意識がなくなってしまうのです。

自我意識があったのでは、なかなかあばたはえくぼに見えません。五十歳、六十歳のご婦人がすばらしく見えるとすれば、人間的な感覚がなくなっているからです。

神の子が来たのは、悪魔の仕業をこぼつため、破壊するためです。悪魔の仕業というのは、目に見える仕業とは違います。目に見えない霊的な仕業です。

自我意識と現象意識という肉の思いが悪魔の仕業です。すべての肉の思いが、人間社会の罪悪の根源になっているのです。肉の思いがなかったら、犯罪行為はあるはずがないのです。

肉の思いが爆破される、つまり悪魔の業がこぼたれる。皆様の中に神の子としての信仰が醗酵していきますと、自分の肉の思いはデストロイされるのです。破壊されるのです。

パウロは、「私が今肉体において生きているのは、私のため自分の血を流して下さった人の信仰、つまり神の子の信仰において生きているのだ」と言っているのです。

神の子の信仰において生きているというのは、永井訳です。文語訳では、神の子を信じる信仰となっています。自分が神の子であるという事実を信じるのです。

十字架によって、キリストと共になくなってしまった自分は、神の子である自分であって、まず神の子であるという信仰がパウロの内で働いていた。それを基礎にして彼の日常生活が成立していたのです。

パウロの場合は、日常生活がすべて信仰です。愛しあう人が二、三人いますと、その交わりというものが信仰です。例えば、お茶を飲んでいるとしますと、それだけであふれるような平和と喜びがあるのです。

また、皆様が新婚当時の事を考えてみて下さい。結婚した直後は、お互いに愛しあっているという思いを経験したはずです。どんなにひがんでいる人でも、結婚した翌日からへそを曲げているという人はいないでしょう。

新婚旅行に行った時の気持ちです。その時の気持ちが神の国です。そこには第三の天があったはずです。そこには、自我意識はなかったはずです。なぜかと言うと、お互いに自分を捧げているからです。それがすばらしいのです。「汝ら互いにあい愛せよ」とは、このような心境が霊的に働くことをいうのです。

皆様は幼児としての経験も経てきましたし、新婚の経験も経てきたのです。それでもまだ、第三の天が分からないというのは、念入りにひがんでいるからです。このひがみ根性を精算しなければいけないのです。

肉の思いがあるのは、地獄を抱え込んでいることになるのです。肉の思いは死です。死の後には裁きがあります。死を抱えている人は、地獄を抱えているのです。こういう愚かな状態から逃げ出すのです。

愛というのは不思議なものでありまして、いわゆる、あばたがえくぼになる、欠点が逆に長所に見えるのです。

普通、肉の思いで現象世界を見ていますと、いわゆる道徳とか、掟、世間の習い、その時の政治思想にいちいち拘るのです。例えば、共産主義社会では、共産主義を無視して考えることができないのです。日本の社会では、日本人的な常識をなかなか無視することができないのです。だから、父母、妻子、兄弟、姉妹、自分の命を憎めと言われても、なかなか実行できないのです。

ところが、愛が分かると実行できるのです。愛の実質は、神から出たものであるに決まっています。なぜかと言いますと、愛の実質が働き始めると、醜いものがきれいになるのです。難しく思えたものが、難しくないことになるのです。角張ったごつごつしたものが、なめらかに感じられるのです。醜い汚いと思っていたものが、きれいなもの、美しいものに変わってしまうのです。これが愛です。

神は愛によって私たちを見ていて下さるのです。もし神の愛による見方がなければ、私たちの罪が許されるはずがないのです。

肉の思いで生きている私たちが、霊の思いで生きることができる、愛を本当に感じることができる状態に変化させられてしまうということは、神が愛だからできるのです。

例えば、今の私は、過去の私ではないことは、はっきり分かります。これは神が私をそう見ているからで、神の信仰が私に働いているのです。私は、過去の自分ではない私になっているのです。

そのように、神からご覧になりますと、現世における出来事で悪いものは一つもないのです。現世における存在で、悪いものとか、醜いこととかいうものはないのです。すべてが皆清いのです。

ペテロが幻を見たのです。四足の獣が上からおりてきた。牛の肉ならすぐ食べる気持ちになるのですが、豚とか、蹄が割れていない獣を食べてはいけないというイスラエルの掟がありますので、食べる気持ちにはならないのです。

ところが、天から声があって、「神が清めたものをおまえは清くないというのか」と言われた。三回も言われたのです。そのように、皆様が現在生きている状態、自分自身が生きている状態、また、皆様が見ている誰かは、すでに神によって清められているのです。

私も清められていますし、皆様一人ひとりも清められているのです。十字架、聖霊降臨によって、すべての人間の汚れは、全部無くなっているのです。ところが、まだ人の欠点が見える、自分の欠点が見えるのです。肉において人を見ている。肉において自分を感じているのです。自我意識をもって自分を見ている。なぜそんなことをしているのかと言いたいのです。

神がすでに清めたものを、なぜ私たちは清くないと思っているのでしょうか。そんなことをする権利があるのでしょうか。神は十字架によってすべてのものを清められたのです。この世には、もはや罪はないのです。

神を信じるという信仰は、こういう信仰になるのです。神の信仰がそのまま自分自身の信仰になって働く時に、私たちが生きている世界は、そのまま第三の天になるのです。

「汝ら互いに愛せよ、愛しなさい」と言っているのです。まず私たちは、こういう生活を実現しなければならないのです。

皆様は世間的な人よりも、妬みやひがみはないでしょう。それでも全く無いとは言えません。他人から見たら得しているに決まってることでも、本人は損だと思えるのです。こういう感覚は皆、悪魔の仕業です。悪魔がその人の内に働いていますと、どうしてもひがみ根性とか、自惚れとか、人を裁くという気持ちが発生するのです。

イスラエルに福音を伝える前に、こういう気持ちから抜け出さなければならないのです。現世で神の国を具体的に経験するのでなかったら、イスラエル伝道はできないのです。神が伝道の門戸を開かなければ、ユダヤ人に対する手がかりはできないのです。

神が伝道の門戸を開いて、ユダヤ人の心の門を開いてくれるのでなかったら、異邦人がいくら叫んでもだめです。相手は天下のイスラエルです。そんなことは問題にしないでしょう。

まず私たちが神の愛を、愛なる神を経験しなければならないのです。そのためには、私たちはまず、見ている世界が愛の世界であることを感じなければならないことから、始めなければならないのです。

自分の心が頑なであって、人を裁く気持ちがある、ひがむ気持ちがある。なぜひがむのか、なぜ裁くのか、なぜ人の欠点が目に見えるような気持ちになるのか。これはすべて愛を魂に感じていないからです。原因はここにあるのです。

まず私たちは、愛を感じることを勉強すればいいのです。愛を感じるというのは、愛されていることを感じることです。そうすると、心が開けてきます。人間存在はすべて女性的存在であって、愛されていることが分かりますと、人間は安心するのです。女性は特に愛されていることが分かると安心します。

現在皆様は愛されているのです。まず第一に、今はキリスト紀元の時代です。イエス紀元の時代です。二〇〇九年というのは、明らかに新約の時代であって、もはやアダムの子孫、罪人である人間は存在していない時代です。神の子ばかりであるはずの時代です。これはすでに愛されていることの第一要件です。

第二に今の時代に生かされている私たちは、神の目から見て、すべて神の子に見えるのです。その時代です。もはや悪魔の子であるアダムの子孫は無くなっているのです。私たちはイエスと同じ神の子として、神の前に立たされているという先天的な条件が存在しているのです。

私たちは生まれる前から救われているのです。生まれる前から神の子だったのです。それを知らなかっただけのことです。異邦人の社会で、異邦人の習いに従って教育された。肉の思いで大きくなってきた。そのために魂がひがんでひがんでひがみ倒しているのです。自我意識で自分を見ることが、当たり前のように思い続けているのです。そういう習慣にとらわれているだけのことです。

私たちの外側にあるものは、時間的には新約の時代ですし、空間的には全く愛の表現ばかりです。

太陽の輝きでも、雨の音であっても、雲の流れでも、川のせせらぎでも、愛でなくて何でしょうか。蝉の鳴き声は愛でなくて一体何でしょうか。なぜその声を人間に聞かせるのでしょうか。これは神が人間の耳ではなくて、魂に聞かせているのです。

心地好いそよ風は何でしょうか。愛によって人間に触れているのです。これが愛ではなくて、何でしょうか。若葉青葉の色といい、毎日健康で生活ができることといい、すべて愛と言わなければ何と言ったらいいのでしょうか。

神が人間の魂を愛している。愛の現われが、私たちの生活条件として現われているのです。自惚れたり、過大に評価しなくてもいい。魂の底からなごやかになれる条件が、神の方から人間の方へ仕向けられているということは、神の愛の働きでなければ何なのかです。

こういう条件を与えることに対して、神は何も要求していないのです。代償を要求していない行為というのは、愛という以外に言う方法はないのです。何の償いも求めないで、ただ純真に行為を与えているのです。これが愛です。

人間は太陽が輝いているのは当たり前と考える。空気があるのは当たり前、水があるのは当たり前だと考える。当たり前ということはないはずです。

この世の中に当たり前ということは、一つもないのです。神は大自然の美しさを目に見せている。青葉の色は人間の魂の疲労を回復する色です。脳神経の疲労を回復してくれるのです。青葉をじっと見ているだけで、人間の心には安らぎがしっとりと感じられるのです。神は何の代償も期待しないで、ただ純真な行為を私たちにぶつけているのです。本当の神のご好意によって、私たちは養われているのです。

それを感じることができる魂は、神の愛を感じているのです。皆様はそういう魂を与えられているのです。皆様は知らず知らずに、神と愛の交わりをしているのです。認識はしていないけれども、神との愛の交わりを現在しているのです。

ただ主観的な意識が肉の思いですから、こぼれるような神の愛を、あふれるような愛を実感しないで、まだ足りない、まだ足りないと思っているのです。もっといい条件があればいいと考えているのです。

まず自分の中にある肉の思いを変えることから始めなければ、今以上にすばらしい条件は与えられません。自分の中が荒れているのです。荒廃しているのです。自分のハートが荒れているのですから、自分のハートを変えるのは自分自身の仕事です。

神がこのように、はっきり愛を感じられるような形で愛を見せておられることを、素直に受取って頂きたい。そうすると、自分の中にある肉の思いが、どれほど厭しく嘆かわしいものであるかが分かるのです。

他人の行いが嘆かわしいのではない。自分の思いが嘆かわしいのです。他人の肉的な欠点を気にするような気持ちが嘆かわしいのです。

人の欠点さえ見なければ、皆愛すべき人ばかりです。肉によって人を見るから、憎みたくなるのです。パウロは、「今より後、肉によりて人を見ない」と言っているのです。

肉によって人を見なければ、愛し合うことができるに決まっています。あばた(痘痕)は肉の人です。肉によって見なければ、えくぼに見えるに決まっています。

肉によって人を見ることをやめて、愛によって人をお互いを見ることを、まず生活で実行して頂きたいのです。

神は無条件で人間に好意を持っておられます。善意を持っておられます。創世記の出エジプト記で、神は、「私はもろもろの善を、おまえの前に通らせる。そうすると、おまえは私の名前の栄光を知ることができる」と言っているのです。

モーセの前に、もろもろの神の善が通るのです。神の善とは何かと言いますと、砂漠の真昼に照りつける太陽のことです。これは神の善です。また、岩から水が湧き出ることが、神の善です。

モーセが百五十万人の大群衆を引きつれて、エジプトを出た。百五十万人とは大変な人数です。それに家畜や荷物を持参したのです。そうして移動するというのは、大変なことです。

百五十万人の大群に食物が与えられ、水が与えられた。健康が守られ、着物が四十年間古くならなかったのです。そういう驚くべき事実があったのです。もろもろの善がモーセの前に現われたのです。

モーセは自分の目の前の森羅万象を、神の善が通っているものと考えた。瞬間瞬間に、目の前の状態が変わっていく。瞬間瞬間に時間が流れている。時間が流れていることが、神の善が通っていることです。

神の善が時間になってモーセの前を流れていたのです。これをモーセは神の善として受取ることができたのです。その時神は、モーセを助けない訳にはいかなかったのです。

皆様もモーセが見たように、神の愛を見て頂きたい。天気が良いのを当たり前と思わずに、それを善意で受取って頂きたい。そうすると、神が皆様の魂を愛さない訳にはいかなくなるのです。

神の愛を受けとめれば、いよいよ愛が注がれます。愛を受け取らなければ、神の愛は全然分からなくなるのです。例えば、お互いに愛し合っている時、相手が愛のシグナルを送っていても、送られた方が知らん顔をしていたら愛のシグナルが分からないのです。

そのように、皆様は神の愛の贈り物を、愛の贈り物として受け止めるようになりさえすれば、消そうと思わなくても自我意識は自然に消えるのです。現象意識や自我意識を自分で消そうと思ったら大変ですが、神の愛を受け止めますと、肉の思いは自然に消えるのです。

愛のある所に、憎しみやねたみ、悲しみは無くなるのです。愛のある所に苦しみはありません。愛のある所にこだわりはありません。何でも言えるのです。何でもできるのです。他人から見て嫌なことも、愛しあっていれば、嫌いなことも好きなことに変わってしまうのです。

これは驚くべきことですが、皆様もそうなるのです。神の愛を愛として受取って下さい。当たり前だと思わずに、自分は神に愛されているという気持ちで、自信をもって受取って頂きたいのです。もっと自信をもって頂きたい。自信をもって神の愛を受取って下さい。自分は神に愛されていると、はっきり信じるのです。

イエスが肉にて殺されたように、皆様も肉にて殺されているのです。現在、肉にて殺され、霊にて生かされているのです。肉にて殺されているのですから、肉の思いで自分を見る必要はないのです。

愛し合うこと、これが初めから聞いていた訪れであると言っています。訪れとは福音のことです。福音とは何かというと、互いに愛し合うことです。

愛し合うことが福音です。愛し合わなければ、福音は私たちに実現しないのです。肉の思いを捨てて、霊の思いで生きるのです。これは愛し合うか愛し合わないかによって決まるのです。愛し合うなら、霊の思いによって生きていることが分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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