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アウシュビッツが意味すること


イエスは次のように述べています。

「そこで、あなたがたに言う。誰でも人の前で私を受け入れる者を、人の子も神の使いたちの前で受け入れるであろう。しかし、人の前で私を拒む者は、神の使いたちの前で拒まれるであろう」(ルカによる福音書12・8、9)。

この箇所は、普通の感覚で読んでいますと、何でもないように思える所です。ところが、一句一句慎重に検討してみますと、驚くべきことが分かってくるのです。新約聖書の根底に関する最も主要なテーマを取り上げていると思われる箇所なのです。

新約聖書の場合は、ここだけではなくて、どこを取り上げても、その一句一句が新約全体の基本的なテーマに係わりを持っているということになるのです。

人の前で私を受入れる者は、人の子も神の使いたちの前で受け入れると言っています。私というのはイエス自身をさしているのですが、イエスを受け入れる者は人の子もまた、神の使いの前で受け入れるとあります。

ここでイエスは私という言葉と、人の子という言葉とを、同じ意味に使用しているのです。もちろんこれは、イエスが十字架にかかるまでの言葉ですが、イエスは十字架にかかる以前に、自分自身を私という一人称で呼びながら、人の子という名詞で、また、自分を見ていたのです。一人称であると同時に、三人称のような感覚で、自分自身を見ていたのです。

イエスは自分という存在が、第三者であるような意識を持っていたのです。我という言葉と、彼という言葉とを同じ意味に用いていたのです。そのような意識において、イエスは自分を見ていたのです。

イエスを信じるということは、一人称と三人称とを同じ意味に用いられるような感覚で、自分自身を見ることなのです。また、他人を見ることです。意識的に自分と他人を同じに見るのです。

イエスはすべての人の償いとして十字架につけられた。または、イスラエル全体の人間の代表としての人格性を自覚していたのです。こういう意味にもなるのです。

メシアというのは、パブリックな人間です。公人であって私人ではないのです。イエスは我は神の子キリストであると自ら考えた。これは、我という意識を持つ人間であるが、同時に、その我という人間は彼でもあり、ユダヤ人全体でもある。新約的に言えば、人間全体でもあるという意識を持っていたのです。

そうしますと、イエスは自分自身の個人的な事情境遇はなかったことになるのです。個人的な事情境遇は、ナザレのイエスには存在していなかったのです。

これは今の人間感覚から考えますと奇妙なことですが、実は人間存在の本性というものは、そういうものなのです。その人自身が置かれている事情境遇は、実はその人自身とは本質的には無関係です。

例えば、ある人が弁護士であるとします。それはその人の職業であり、またその人の現在の生活環境ではありますが、その人の本質とは何の関係もないのです。こういう点をまず理解するのでなかったら、イエスが主であるという信仰は成立しないのです。弁護士という職業は、公的な職業ではありますけれど、その人の意識の状態から言えば、公人とは言えないのです。人間というものは、職業とか、家庭とか、社会的な地位とか名誉、所有物があるかないか、教育があるかないかという事がらと、本人自身の本質とは何の関係もないのです。

ところが、現在の人間は学校を卒業した自分とか、誰かの子供である自分とか、ある国民の自分である、男である自分、女である自分、金持ちである自分、貧乏である自分を自分だと思っているのです。

これは自己認識の間違いです。そういう意識で生きている事自体が、人間存在の本質としての自分を認識していないことになるのです。自分の職業、自分の年齢、自分の持物、財産のあるなしを意識して自分を考えている人は、人間存在としての自分を正しく意識していないことになるのです。

例えば、会社員の自分というものを自分と考えるとします。会社員である自分という意識と、自分が会社員であるのとは、違うのです。会社員であるということ、商売人であるということは、その人の事情境遇であって、その人自身の本質ではないのです。ところが、会社員である人は、自分は会社員だと思っているのです。会社員である自分という考え方ではなく、自分そのものが会社員であると思い込んでいるのです。こういう考え方がイエスを信じていない証拠になるのです。

私は女であると考える。私は男であると考える。私は卒業したと考える。私は教育がないと考える。私は色が黒いと考える。私は色が白いと考える。こういう意識を持つことが、イエスを信じていないことを意味するのです。

イエスが私と人の子を同じ意味に用いているということだけを取り上げても、今お話ししたような違いが出てくるのです。普通人の意識と、イエスの意識とでは、これほど違うのです。

イエスにとっては、私は彼でした。彼が私であったのです。全世界のあらゆる彼が、イエス自身であった。そうすると、イエスは男でもないし、女でもない。弁護士でもないし、漁師でもない。乞食でもないし、王様でもない。ただの人でした。イエスはそういう意識で生きていたのです。

イエスは家庭があると考えなかったのです。兄弟、姉妹がいると考えなかった。現世における特定の命があるとさえ考えなかった。これは見事な人生観です。これが人の子意識であると、イエスは考えていたのです。

イエスは自分自身の存在を人間全体として見ていた。自分という個我的、または自我的な意味での自己存在を全く意識していなかったのです。大体、人間の事情境遇とその人自身とは何の関係もないのです。

職業的に自己限定するというくらいのことなら、まだ被害は少ないかもしれませんが、例えば、私はキリスト教の信者であると考える。または、仏教の信者であると考える。そういう考えを持つようになりますと、非常に大きい間違いを犯していることになります。ある特定の宗教を信じているのが私だと考える。そういう考え方は、真実の自分を見過ごしにしてしまうのです。また、自分はある国の人間だと考える。ある民族の一員だと考える。そのことでさえも、実は間違った見方になるのです。

ただ、神と人間との係わりにおいて、民族的な相違があると自覚するのはいいのです。自分が約束の民であるというように、ユダヤ人が考えるとします。これは正しいのです。また、自分は異邦人であると考える。これも正しいのです。これは神と人間との係わりにおける区別であって、これは正しいのです。

異邦人とイスラエルとの区別は、はっきりしているのです。ところが、アメリカ人であるとか、イギリス人であるとか、日本人であるということは同じ異邦人ですから、どちらでもいいのです。黒人であろうが、白人であろうが、神の前には何の関係もないのです。異邦人一般という点から考えますと、どこの国の人間であってもいいのです。

聖書はそれぞれの民族が所属している国を認めていない訳ではない。諸国、諸民、諸音を認めているのです。

諸国とは国です。諸民とは民族のことです。諸音とはそれぞれの国語、使用語のことです。ある言葉を用いる場合、ある国に属する場合、ある民族に属する場合にはそれぞれの区別ができますが、これは神が認めているのです。

イエスがキリストであることを信じるか信じないか、すべての人の行き着く所という点から考えますと、同じことになるのです。すべての人の行き着く所から考えますと、中国人であろうが、日本人であろうが、同じことです。

一番注意しなければならないことは、人の前で私を受け入れる者を、人の子も神の使いの前で、その人を受け入れるとあることです。

人の前は、英訳では、(before men)という言葉を使っています。これは、現実的な意味での人間の前のことを言っているのです。その後の人の前で私を拒む者はという文章は、英訳では、(in the presence of men)になっています。(in the presence of men)は、(before men)とは違うのです。

ところが、日本語の聖書では、両方とも人の前と同じに訳しているのです。これは非常にルーズな訳であって、こういう訳し方をしますと、イエスが何を言おうとしたかが、全く分からなくなるのです。

特に難しいのは、(in the presence of men)です。(before men)は分かります。お互い人間どうしの前という意味ですが、(in the presence of men)になりますと、これは全然違うのです。お互いに人間どうしというのとは違うのです。

これが分からないと、イエスを信じることが全く理解できないことになるのです。

(before men)の方は、世間並の人前でということになるのです。人前でイエスを受け入れるとなるのです。皆様は人前でイエスを受け入れることはしているでしょう。私は聖書の勉強をしていますとか、私はイエスがキリストであることを信じていますというのです。これは人前でイエスを受け入れていることになります。

皆様は世間的に、いわゆるクリスチャンであると認められています。人前でということは、自分の職業、自分の家庭、自分の身分、自分の所有物、自分のプライド、自分の特技、自分の経験、自分の記憶が全部含まれるのです。これは人前で通用するのです。世間の人々の前で、私はイエスを信じていますと言えるでしょう。そうしますと、イエスの方でも、世間並に私を信じていることを認めてやろうと言っているのです。

日本社会では、人前で私はイエスを信じていますということでさえも、言いにくい状態にあります。仏教信者である、天理教信者であると言った方が、有利に解釈されるのです。しかし、仏教信者であると言っても、クリスチャンであると言っても、現在ではあまり大した違いはないようです。日本という国は万事にルーズであって、特定の宗教を信じていても信じていなくても、一向に問題にしていないのです。

お金を持っているか持っていないかだけで、人を判断するのです。思想とか、人格とか、品性とか、教養とかを日本人はほとんど問題にしないのです。背が高いか低いか、男前かどうかで人を判断するのです。

日本社会は、人生論的な考え方、人生観的な考え方、価値観、世界観的な考え方をほとんど問題にしない社会です。ただお金を持っているか持っていないかだけを問題にするのです。ひどいものです。世界中のあらゆる国民の中で、日本人ほどルーズな考えをしている国民はいないでしょう。

ルカによる福音書の第十二章八節は、日本人にとっては、あってもなくてもどうでもいい文章になるのですが、九節はそうではないのです。(in the presence of men)になると、日本人のようにルーズな国民でも、また、イギリス人、ドイツ人のように経験主義的、論理的に考えようとする民族であっても、非常に難しい問題になるのです。

プレゼンス(presence)とは、人間自身があること、人類があること、すべての人間があることにおいて、人の子を拒むか拒まないかです。人間が生存することにおいて、イエスが拒んでいるかどうかが問題になるのです。

プレゼンス・オブ・メンとは、人間存在においてということですから、弁護士であるとか、代議士であるとか、商売人であるとかと言うことには、関係がないのです。男であるとか女であるということさえも関係がないのです。

プレゼンス・オブ・メンは一つしかありません。人間がもしイエス・キリストにあるなら、その時その人は、男でもないし女でもない。自由人でもないし、奴隷でもないとパウロが言っています。

これを演繹して考えますと、王様でもないし、乞食でもない、偉い人でもないし、偉くない人でもない、利口でもバカでもないとなるのです。すべて人間が存在することだけを、プレゼンス・オブ・メンというのですから、これは一つしかありません。

プレゼンス・オブ・メンというのは、あらゆる意味での自我、あらゆる意味での個我、個人主義的な意識を一切問題にしないのです。

私は誰かの家族の一員であると考えたら、その人はもうプレゼンス・オブ・メンから脱線しているのです。純粋にその人が存在している事がらだけ、神に生かされているその事がらだけが、人間のプレゼンスです。人間存在そのものです。自分が生きていると考えたら、もはやプレゼンスではなくなるのです。純粋に人間が生かされているというその客観的状態がプレゼンスです。

イエスは私という名詞と人の子という名詞を同時に用いていました。我は彼であるという意識によって、イエスは生きていた。このような第三者的意識において自分を見ることが、ザ・プレゼンス・オブ・メンになるのです。これができるかできないかによって、その人が正しくイエスを信じているか信じていないかが決まるのです。

第十二章の八節にあるビフォアー・メンの方は、肉なる人間を対象にしているのです。色々な事情境遇が自分であるという認識に基づいて社会生活を送っている人間が、人前で私はイエスを信じていると言ったとしても、それはそれなりに意味がない訳ではありませんが、本当の意味におけるイエスが主であるという信仰にはならないのです。

なぜなら、八節のビフォアー・メンの場合は、自分という認識が基本になっているからです。事情境遇的に存在している人間が基礎になっていて、その条件でイエスを受入れているからです。この場合は、イエスが純粋に主であるとはならないのです。

自分が主であって、自分の助け主、または救い主、または導き手として、イエスを認めているというだけのことです。イエスを指導者として認めている、救い主として認めているのです。認めないよりはいいのでしょうが、しかしこれはイエスが主であると言い現わしていることではありません。

パウロはイエスが主であると口で言い現わせと言っています。イエスが主であると口で言い現わすというのは何か。主であるというのは、自分自身の主体であるということです。自分自身の本体であること、自分自身の命であること、自分自身の主人公であることを言い現わせと言っているのです。

ところが、自分自身の社会的、または性別的、人間的、人種的な条件をまず先に認めてしまって、その上でイエスが主であるということを認めることになりますと、イエスが主である前に、自分がまずこれこれの自分であるという認識を持っている。そういう認識を先に持っていた上で、イエスが主であるというのは、おかしいのです。

例えば、無教会派の内村鑑三氏は、日本人的キリスト教ということをしきりに主張していました。これが間違っているのです。日本人的キリスト教になりますと、日本人という主体的意識が先に存在しているのです。主体的意識が先に存在している上に、イエスを主として信じるというのは、論理的に成り立たないのです。日本人であるという主人公が先にいるのです。その上に、イエスが主であるという信じ方は、主の上に主があるという言い方であって、これは屋上に屋上を設けたことになるのです。

日本的キリスト教というものは、神の前には一切通用しません。日本人の間では、日本的キリスト教というと、格好がいいのですが、神とキリストの前では、そういう意識は一切通用致しません。

これに類するもので白人的キリスト教があります。キリスト教は元来、白人のものだと考えている。白人でなければ正しい解釈はできないと思い上がっている宣教師が、世界中にたくさんいるのです。これが皆間違っているのです。

それはビフォアー・メンではあっても、ザ・プレゼンス・オブ・メンではないのです。彼らは厳粛な意味で人間存在において、イエスを信じようとしないで、人種的差別、国家的差別を認めた上で、キリストを信じようとしているのです。こういう人々は八節には該当しますが、九節には該当しないのです。従って、パウロがいう所の、ローマ人への手紙第十章における、イエスが主であると言い現わせというこのパウロの言い方にも、該当しないのです。

世界中のキリスト教信仰は、根本的に間違っているというのは、こういう理由からです。

例えば、カトリック信徒でなければ、イエスを正しく信じているのではないと信じようする。イエスが主であるということの前に、カトリック信徒であるという前提をつけようとするのです。ローマ法王はそういう意識に立っているのです。カトリック信徒という意識を前提条件にして、キリストを信じることになりますと、第十二章の九節に該当しないことになるのです。イン・ザ・プレゼンス・オブ・メンにおいてイエスを拒んでいることになるのです。イン・ザ・プレゼンス・オブ・メンというのは、どこの国民でもない、ある特定の宗教信者でもない、男でも女でもない、ただの丸裸の人間をいうのです。

こういう純粋な人間、丸裸の人間として、イエスがキリストであることを信じるか信じないかです。イエスは、私の弟子になりたいと思うなら、まず第一に父、母を憎めと言ったのです。なぜこんなことを言ったのかと言いますと、私は誰かの息子である、娘であると考えると、もはや純粋な人間存在から離れているからです。

私はこのような家庭の子供であるということを考えようとする。小さい時にこのように育てられたと思いますと、特定の人間になるのです。丸裸の人間ではありません。無条件の人間ではありません。また、私は生まれつきこういう性格で、こういう気質を持っていると考えたとすれば、その人もまた、悪い気質であっても、良い気質であっても、その人はザ・プレゼンス・オブ・メンではないのです。

本当にイエスが主であると信じたければ、皆様はユダヤ人がアウシュビッツにおいて、おかれた状態を考えて頂きたい。あらゆる職業的特権を剥奪され、あらゆる知識、階級的意識を剥奪され、男でも女でも全部丸裸にされてしまった。ただ心臓が動いている状態だけにされてしまった。

これが純粋のザ・プレゼンス・オブ・メンです。客観的に神に生かされているという事実だけになった。主観的な民族的認識、社会的認識、個人的なプライドを一切剥奪されてしまったのです。赤裸の人間とはどういうものかということを、神がユダヤ人を通して見せたのです。

ユダヤ人が強制的に強引に立たされた。このような辛辣な状態が、実は本当のザ・プレゼンス・オブ・メンであったのです。ここでもし彼らがイエスがキリストであることを信じたなら、アウシュビッツにおいて奇跡が起こったはずです。アウシュビッツの事件がなくなったはずです。ヒットラーがすぐに滅ぼされたでしょう。ところが残念ながら、七百万人の魂が無駄になった。丸裸にされても、なお彼らはイエスがキリストであることを信じることができなかったのです。

彼らは神の選民であるという意識を持っていた。これは本当の選民意識ではなくて、モーセの掟を行う民族だという特定概念です。これが本当の意味でのザ・プレゼンス・オブ・メンになりきっていなかったことを、示しているのです。

モーセの掟は どこからきたのか。アブラハムからきたはずです。アブラハムの約束はどこから来たのか。神から来たのです。これが分からなかったのです。残念ながら彼らは、ついに聖書の原点に帰ることができなかった。そのために、人間的に所有している一切のものを剥ぎ取られても、なお本当の自分の本性を見ることができなかった。本当に残念なことでした。

アウシュビッツにおいて、ユダヤ人が全身の毛を剃り落とされたのです。人間の体に生えている毛とは何か言いますと、これは神がその人に与えた、ある意味での栄光です。それは人間が人間としてのプライドを意味するのです。

人間が現世に生きているためには、色々なアクセサリーがいるのです。例えば、家庭構成が必要です。また、社会構成が必要です。原始社会でも、中世社会でも、ましてや現代社会には、国家組織という立派な形態が存在している。これを認めなければ、人間生活が成立しないのです。だから、そういうものを神が人間に許しているのです。そのしるしに毛が生えているのです。五官が働いている、心臓が動いているという最小限度の人間ではなくて、家族構成とか社会構成とか民族構成とかいうものを、神が認めているのです。そのしるしに、人間に毛が生えているのです。

人間の毛髪は、人間の本質以外のアクセサリーです。飾り物です。毛髪を一切剃り落とされてしまうと、人間の現世の生活の一切の必要部分が、剥ぎ落とされたことになるのです。ユダヤ人はそれをそのままやられたのです。彼らの社会的な、また個人的なプライド、家庭的な生活構成の意識を全部剃り落とされたのです。丸裸にされたのです。

その時に彼らは、全く社会人ではない、ある国の国民でもないことを思い知らされたのです。ましてや自分の財産とか、特権とか、自分の精神的な経験とか、思想とか、力量とかいうものを一切無視されたのです。夫婦でも、親子でも、兄弟も、全部無視されたのです。これはイエスの弟子になる三条件の第一の条件であって、これを強制執行されたのです。

自分の両親を考えていますと、ある種の自我意識、個我意識が自然に発生するのです。ましてや自分が家庭の主婦であるとか、家庭の主人であるとかを考えますと、旦那は旦那のような、奥さんは奥さんのような気持ちになるのです。妻の座というものがあるのです。これは特権意識です。ザ・プレゼンス・オブ・メンではないのです。イエス・キリストを信じる正確な正当な心理状態ではないのです。だから妻を憎めと言っているのです。妻の場から言えば、夫を憎まなければいけないのです。

父母、妻子を憎み、兄弟、姉妹、自分の命を憎めと言っているのです。自分には息子がいる。私には妻がいるという感覚がすでに傲慢です。人間は赤裸の存在において、自分を見るべきです。父母とか、妻、子という概念は、人間の体から自然に発生した毛髪のようなものです。この毛髪を憎めと言ってるいるのです。

人間は、どこかの家庭の主人でなくても、どこかの家庭の奥さんでもなくても、存在しうるのです。結婚する前の方が奥ゆかしい所があるのです。結婚すると、傲慢になるのです。学校へ入ると傲慢になる。卒業するともっと傲慢になるのです。一流会社へ入社すれば、さらに傲慢になるのです。家長になれば傲慢になるのです。こういうものがすべて人間の体に生えている毛髪です。これをすべて剃り落とせと、神が言っているのです。

心の毛髪をいつでも剃っていることが、ザ・プレゼンス・オブ・メンの状態です。肉親の兄弟、姉妹がいると思っていることが悪いのです。肉親の兄弟姉妹がいると、それに頼りたくなるからです。イエスは、私には親もない、兄弟もないと言っています。今目の前にいるのが、私の親であり、兄弟だと言っているのです。霊なる兄弟姉妹だけがあるのです。肉なる兄弟姉妹は、一切有り得ないと考えるのです。そう考えなければ、ザ・プレゼンス・オブ・メンにはならないからです。

自分の命とは何かと言いますと、自分の思いのことです。自分の思いは何から出てきているかと言いますと、現世に生まれて、何十年間か生きてきた。自分はこういう経験をした、このような能力がある、技術がある、知識があると考えるところから出てきているのです。。そういうものがすべて神の前には傲慢です。こういうものを問題にしてはいけないのです。

そういうことよりも、自分の心臓が動いていること、目が見えること、歩けるということ、五体満足で五官によって生きているということが、実は人間や存在の最低の標準です。この標準に立つことが、神に対するへり下りになるのです。

イエスは言っています。「私は柔和にして心がへり下るものであるから、私と一緒に軛を負いなさい」(マタイによる福音書11・29)。

イエスが自分の家族を無視したように、自分の職業も経験も、自分がマリアから生まれたということさえも、棚上げしてしまって、ただ生かされている、現在生かされているという状態だけを、イエスは認めたのです。そうして、神が父であること、瞬間瞬間、父なる神によって生かされていることだけに、目をつけたのです。最低限度の人間存在の実態を自分として受け止めたのです。

現代人は、基本的人権というような全くとんでもない妄念を基礎にして、自分は生きる権利がある、自分は文化生活を営む権利がある、結婚する権利があると考えている。そういう虚飾虚像を造り上げて、ありもしない幻の理想像を自分自身だと思っているのです。そのような立派なものが人間であると考えているのです。そう考えて自惚れているのです。

基本的人権があると頑張っていて、もう一方でイエスをキリストとして信じようとするのです。これは欲が深すぎます。

そういう自分自身の一切の肉の思いを、棚上げにするのです。それを忘れようとしてもなかなか忘れられませんから、できるだけ棚上げにして、赤裸の自分の姿を見ようという気持ちがなければ、本当にイエスがキリストであることを信じることはできません。

イエスは神の子として生きていました。これは水によってきたものです。水だけではなくて、血とを持ってきたのです。水と血とによってきたものとは、神によって五官を与えられ、魂が肉となってこの世に現われた。言葉が肉となってこの世に現われたという最低限度のあり方をさすのです。

ロゴス(神の言)が、肉となってこの世に現われた状態です。これは、位もなければ、名誉もなく、経験もなければ、力もない、技術もないのです。何にもないのです。これはみすぼらしい、屠殺場に引かれていくような悲しみの人にして、病を知っていたという、イザヤ書五十三章に描かれているイエスです。

現世において楽しもうとか、生活する権利があるとかを、一切考えなかったのです。最低限度、神に生かされている自分だけを考えたのです。そういう考えを自分自身が持つことが、自分の命を憎む者となるのです。

アウシュビッツにおいて、ヒットラーによって、一切の人権を剥ぎ取られた、丸裸の囚人の状態を、神はユダヤ人に強制的に命令したのです。

十字架というのは、実はそれなのです。一切のものをかなぐり捨てた丸裸のユダヤ人が、自分自身の本体を否応なしに思い知らされた。その意識を持てと言っているのです。これが日々十字架を負うて、イエスに従うということです。

持ち物を全部捨てなさいと言っている。イエスの弟子になる三つの条件です。まず、父母、妻子、兄弟姉妹、自分の命を憎めと言っています。十字架を負うて私に従ってきなさいと言っているのです。

この三つの条件を正確に実行すれば、その人はイエス・キリストの愛される弟子として、正当な待遇を初めから受けるのです。

ザ・プレゼンス・オブ・メンにおいて、自分自身の存在の原点においてイエスを拒んでいるなら、私もあなたがたを拒むであろうと言っています。ザ・プレゼンス・オブ・メンにおいて、イエスを信じるのです。自分自身の赤裸の存在において、イエスを自分の主であると言い現わして、イエスの甦りの力を受け取って頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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