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御子


パウロは次のように述べています。

「神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。私たちは、この御子によって贖い、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

御子は、見えない神の形であって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。

万物は天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も支配も、みな御子にあって造られたからである。

これら一切のものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼によって成り立っている」(コロサイ人への手紙1・13〜17)。

また、次のように述べています。

「なぜなら、万物の帰すべき方、万物を造られた方が、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救いの君を、苦難を通して全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。

実に清める方も、清められる者たちも、皆一人の方から出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。すなわち、

『私は、御名を私の兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう』

と言い、また、

『私は、彼により頼む』

また、

『見よ、私と神が私に賜った子とは』

と言われた」(ヘブル人への手紙2・10〜13)。

福音を本当に知るということは、容易なことではないのです。こう言いますと、私みたいな者が分かるのだろうかと、すぐに考えるのです。難しいと言いますと、私みたいな者はと、すぐに考えるのです。難しくないと言いますと、福音を甘く見てしまうのです。

異邦人というのは本当に困ったものです。自分がいると考え、自分が肉体的に存在していることを、自分自身が確認している状態においては、所詮その人は救われないことになります。滅びの輩は初めから決まっているのです。何回言っても、自分みたいな者はという考えを、絶対に捨てない人がいますから、しょうがないのです。

滅びに定められている者は、福音がその人には覆われているとパウロが言っています。何回聞いても、それが自分の知識にはなりますが、命にはならないのです。こういう人は救われないのです。私はそんな人間ではないという人だけが、救われるのです。厚かましい人は救われる可能性が強いのです。礼儀正しい人は、救われにくいのです。

イエスは、私は罪人を救うためにきた、イスラエルの迷える羊を救うために来たのだと言っている。パウロも、キリストは罪人を救うために来たと言っているのです。罪人を救うために来たのであって、自分は正しいと思っている人は救われません。

私みたいな者はと言う人は、自分自身が罪人であることを認めているのです。この罪人が十字架によってなくなってしまえばいいのです。ところが、十字架を信じようと考えていながら、なお自分の気持ちを信じている。そういう人は、御霊を汚していることになるのです。

結局、御霊の言いたもう所に、従おうとしていないのです。御霊の言いたもう所に従うというのは、黙って聞くことです。黙って聞いて、自分自身を聖書の言葉に適わせようとすることです。また、思うだけでなくて、聖書の言葉に適わせられていると思うことです。

これが信仰によって聖書を見ている、御霊を崇めていることになるのです。これをしない人は、何回聞いてもだめです。自分の根性を自分で眺めている。そうして私みたいな者はという悪循環を繰り返しているのです。私みたいな者は、十字架によって死んでしまっているのです。それを、私みたいな者が生きていると思っているのです。そういう無神経なことをしていることは、御霊をなみしていると言わざるを得ないのです。

私みたいな者と考えている人は、自分の殻に入っているのです。ここから出ようとしないのです。イエスが私は門であると言っていますが、その人は自分自ら我は門なりと言っているのです。

自分自身を明け渡すということが、聖書信仰の基本的な態度です。自分の霊を神に渡すという基本的な態度を取ろうとしない人は、キリスト教を信じることはできますけれど、聖書を信じることはできません。イエスが主であることを信じることは、絶対にできません。これをよく考えて、自分を顧みたらいいのです。

コロサイ人への手紙に御子と書かれています。御子はすべてのものに先だって、生まれた方であると書いています。御子というのは、ヘブル書の第二章にありますように、イエスである救いの君の他に、多くの子らを栄光に導くのに、自らの苦難を通して救いを全うされたとあるのです。

御子というのは、直接的には一人子であるイエス・キリストをさすのですが、間接的には、多くの子らをさしているのです。従って、間接的に言われている多くの子らと言うのは、どういう子なのかということです。

自分が子たちであることが自覚できる人は、幸いです。その人のために、イエス・キリストの十字架の血が流されているからです。

自分が子たちの一人であることを、自覚できない人はお気の毒です。その人は、十字架の贖いの外におかれているのです。

コロサイ人への手紙に、「御子は見えない神のかたちである」と書かれています。また、「すべての造られた者に先だって生まれた」とあるのです(1・15)。

これは一体何なのか。これは、ヨハネによる福音書の一章一節にある、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というのと、同じ意味を持っているのです。御子は見えない神のかたちであるとありますが、見えない神のかたちである御子と、言である御子と、父なる神とをどうして見分けるかということです。

父なる神は絶対最高の至上者です。この方は能動そのものです。父でいますから、能動そのものです。子というのは、本質的には受動のものです。しかし、神の一人子である御子だけは、父なる神の御心を受けて、それを自分自身の心として、他の御子たちに伝えることができるのです。他の御子たちだけでなく、万物に命じたもうことができるのです。伝えたもうことができるという父なる神の御心を受けたという意味での、能動性があるのです。

御子という言葉は、本質的には、受動性を意味するものですが、一人子なる御子に限っては、父なる神の御心を受けた意味での能動性があるのです。父の能動性にかわって、御子自身が能動性を持ちたもう場合があるのです。

例えば、現に、第三の天において、イエスは復活の後に、父なる神の右に座せしめられておいでになるのです。父なる神の右に座せしめられているお方は、宇宙における絶対最高の権力を父から与えられているのです。

これは最高の能動性です。仮に彼が最高の能動性を持ちたもうとしても、これによって父の権力がいささかでも汚されること、なみされることは絶対にありません。

彼自身、父なる神の御名が救いであること、また栄光であること、また、存在そのものであることを十分に承知しておられますから、父と御子との意志において、トラブルが発生する恐れは、絶対にないのです。

こういう宇宙の秘密、秘奥に属することは、分かる人は分かるでしょう。分からない人は分からないのです。分かろうとしないから分からないだけのことです。誰でも分かるはずのものですが、本当に分かろうとしない人には、金輪際分かりません。

そこで一人子である御子の他の多くの子たちと、一人子との関係はどうなるかです。生みたまえる一人子というのは、父なる神ご自身が絶対最高の御心によって、生みたもうたお方を意味するのです。そのお方は父なる神の御心を全うするために、十字架の死をさえも、いといたまわずに、辛き杯を徹底的に飲みほされた人でありまして、苦難を十二分に受け止められたお方です。

救われるべき多くの子というのは、そういう苦難を自分で受け止める必要がないのです。自分自身がキリストなるお方を信じようとしない程の人もいるのです。自分自身の霊を父なる神に渡そうとさえもしない人がいるのです。それでも救われるのです。

本当に終わりまで信仰を保つ者は救われるのです。そのような欠陥だらけの、染みだらけの不完全な者であっても、救われる可能性があるのです。ただ徹底的に、聖書の言葉が命であることを信じたいと願う心があるなら、救われる可能性があるのです。

自分が分かっても分からなくても、そんな事は問題ではないのです。自分自身の気持ちにとって、合理性があってもなくても関係はありません。むしろ自分自身の気持ちから見ると、合理性がないという気持ちが持てる人ほど、救われなければならない必要があるのです。

合理性が持てない人ほど、自分自身を捨てなければならないのです。多くの罪を抱え込んでいるからです。多くの罪を抱え込んでいる人は、なかなか自分を捨てることができません。そういう人であればあるほど、いよいよへり下らなければならないことになるのです。

ところが、私みたいな者はという人は、自分自身の無力性、曲がった根性を認めていながら、それを捨てようとしないのです。だから、この人は意識的に聖霊に逆らっていると言えるのです。

大体、人間は自分の人格と言えるものはありません。自分の立場もないし、自分の経験と言えるものもない。従って、私みたいな者と言える者は、どこにもいないのです。それを勝手に自分で造っているのです。自分で勝手に古き人という人格を造りあげて、神に抵抗しているのです。これは天使長ルシファーと同じことをしているのです。それをやめたらいいのです。

自分の気持ちにとって、合理性があろうとなかろうと、成程と思えても思えなくても、本当に神に救われたい思うなら、自分の霊を神に渡したらいいのです。それだけのことです。本当に神を神とするかしないかで、勝負が決まるのです。

神の言葉を絶対とするかしないかだけです。それを絶対とできる人は、御子だったのです。御子というのは、見えない神の形と書いています。見えない神の形とはどんな形か。これはその人の性格のことです。その人の心の問題です。

言というのは、神が言を用いるのですが、父なる神が言を用いる場合は、父なる神の能動性が優先的に働いているのです。子なる神、言なる神は、ただ父なる神の御心に従って、自由に操られて、自由に用いられているのです。

そこで、父なる神の御心をそのまま伝えている神の言が、最初は父なる神の御心をそのまま受動的に受け止めて、父なる神の御心を反映しているのです。父なる神の直接的な行動の場合は、そういうことになるのです。

ところが、子なる神が単独として働く場合になりますと、子なる神自身が能動性を持つことになる。そういう性格が子なる神に備わっているのです。これが見えない神の形です。そういう本性的性格、パーソナリティーが、見えない形です。

皆様が、もし見えない神の形である御子にあやかりたいと思われるのなら、皆様方自身も、御子が父なる神の御言葉を用いておられるように、皆様もその言葉を用いたらいいのです。

自分が神の御子でありたいと思うなら、父の御心を黙って受け取ればいいのです。父の御心の故由が今分からなくても、後から分かります。今分からないから、私みたいな者はだめだと考えていますが、これなら何年経っても、何百年経ってもだめです。黙って受け取ればいいのです。一応黙って受け取って従っていけば、後から御霊によって父なる神の御心が精密に、具体的に、了解させられるに決まっているのです。

心がある所には、言葉があるに決まっています。父なる神は御心そのものです。子なる神は御言葉そのものです。そこでもし皆様が神の子たちの中の一人に列せられたいと思うなら、自ら言葉であることを承知して頂きたいのです。

言とはどういうものか。人格的な心理的な言い方をしますと、それは論理的に言葉という言い方をしなければならないでしょう。

ところが、存在的、理性的な言い方をしますと、水のおもてになるのです。また、ちりになるのです。言と言っても、水のおもてと言っても、ちりと言っても、実は同じものです。言も、水のおもても、ちりも、実は光という言葉の中に含まれてくるのです。働きの方から言えば光です。存在的に言えば、水のおもてとか、ちりになるのです。

新約聖書において、神の御子なるイエスは、水にて来たりたもうたと言っているのです。一人子なる御子を存在的に言えば、水になるのです。これに神の霊が覆っているのです。神の御霊が覆っているのですから、こういう秘密は神の御霊を崇めない人には分かりません。

神の御霊が水の霊を覆っているのです。神の霊によって覆われている水のおもてこそ、実は御子キリストの存在形態だったのです。これがちりとして現われている。

御子たちである者たちが、人の子となるべき者として擬せられている。教会の中で、彼らに御名を伝えるということが、ヘブル人への手紙の二章にありますが、教会の中で彼らに御名を伝えられる者たちは、人の子たちと呼ばれる人です。これには神がそれぞれに御言葉を植えておられるのです。これがヤコブの手紙の一章二十一節にある植えられた御言です。

植えられた御言を受けなさい。御言は魂を救う力があるとあります。御言が植えられていることに気づいた人、そのような自覚を持つことができる人は、一人子と同質の者であることになるのです。

御言を植えられたことは、御言なる一人子と同質の者であったということに気づいたことになるのです。一人子と同性のものである。同位次元のものであるということに気づいたことになるのです。そこで自分自身の心理機能、または生理機能の本性が、そのまま五官として働いていて、御言であるということが分かるのです。

「彼を受けよ、彼を受けよ」と、しきりに聖書に書いています。彼を受けた者、即ちその名を信じた者というように、受けるということが、しばしば言われているのです。

黙って受けたらいいのです。いちいち理解しなさいと書いていません。受けたらいいのです。受けるというのは、理解することではありません。理屈を言うことではありません。黙って受けることです。

これができる人は、神の多くの子たちの一人であると言えるのです。五官が神の言であるという自覚を持つ人は、当然、神のちりです。地のちりというのは、元来神が地球を造成するために、どうしても必要な要素として造ったのです。

神が地球を地球とするための絶対的な要素として予め備えたもうた、大空の下の水の最も主要な部分を意味するのがちりです。見えない神の形として、ちりが存在したのです。見えない形として、神の言が存在したのです。

神はちりに言を植えたのです。言を植えられたちりは、神の言葉にふさわしい驚くべき展開をしたのです。現在地球を取り巻いているちりが、どんな働きをしているのかを考えてみて下さい。これは神の言というにふさわしい、すばらしい働きを展開しています。

ちりがなければ、地球は呼吸できないのです。ちりがなければ太陽光線の直射日光を、緩和することができないのです。ちりがなければ、地球の自然環境が保てないのです。地球の空気も、温度も湿度も、風も、皆ちりの働きによるのです。ちりはそのまま神の言の働きをしているのです。

人の子を信じて、水と血とによりて来たりたもうたお方を受け取って、自ら神の子として自分を全うする人は、水と血と御霊の証を持つはずです。水の証を持つ人は、必ずちりの証を持っています。なぜなら、水とちりは同じものだからです。水と言っても、ちりと言っても、同じことです。

「おまえはちりだから、ちりに帰れ」と神が言っています(創世記3・19)。ちりがおまえだから、ちりに帰れと言っているのです。この神の言葉を、有難く頂戴できる人は、神の言葉のちりとして、自らを完成することができるでしょう。これを受け止めようとしない人、自分がちりに帰って、無条件で自分の霊を神に渡そうとしない人でもちりですが、このちりは悪魔の餌食になるちりです。神はへびに、「おまえは腹で這い歩き、一生ちりを食べるであろう」(同3・14)と言われているちりです。

創世記の第一章二十六節、二十七節に書かれている人間創造以前に、人の子はちりとして存在していたのです。大空の下の水として存在したのです。ちりと水は同じものです。水はちり、ちりは水です。これが実は地球が地球であることの秘密です。

地球はちりによって造られ、ちりによって守られ、ちりによって治められているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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