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  • 管理人chaya

命の光


イエス・キリストは、ある意味では宗教家というより、政治家であったと言えるのです。これは、誠に奇矯な、奇をてらうような、物珍しい言い方をすると思う人があるかもしれませんが、大体神の救いというものは、現世において現われるべきものです。死んでから、天国へ行って救われることではないのです。現世において、神の栄光が現われなければならないのです。

ダビデは、エホバの救いの栄光を現世において見ることができないなら、私の信仰は無に等しいと言っているのです。

神の救いというのは、この地上において現実的に実現するのです。これが神の国の顕現です。キリストの再臨によって、千年王国が実現します。さらに新天新地が実現します。これが政です。政治です。神の救いはそのまま政です。万物に対する神の祝福が、具体的事実として実現するのです。

万物が救われるのです。もちろん人間も救われます。神は、「見よ、我、万物を新にする」と言っています(ヨハネの黙示録21・5)。これは有形的な形でエホバの御名が、はっきり完成するということです。

これは政です。神がキリストによって、ご自身の政を完成するのです。私たちも、世々限りなく王となるのです。王となるというのは、政の責任者になるということです。これは宗教ではありません。神の救いはこういうものだということを、よく心得て頂きたいのです。

神の救いが政であるように、私たちの信仰も、また日毎夜毎の政でなければならないのです。神を祭るその生業でなければならないのです。これが山上の垂訓の原点です。

これが幸いです。神を祝うこと、人を祝うこと、神の福音を祝うこと、第三の天におけるキリストの祈りの座を祝うことが幸いです。

自分の肉性を悲しむこと、また、現世におけるもろもろの罪を悲しむことです。神の国であるべきイエス紀元の時代において、なおイエスをキリストとして信じようとしないイスラエルがいるのです。これは絶対に許されるべきことではないのです。イエス紀元の時代というのは、神の国の時代です。神の国の時代でありながら、なおこれをイスラエルは信じようとしない。これは悲しまなければならないことです。泣かなければならないことです。契約の民である約束の民であるこの人たちが、イエスがキリストであることを絶対に信じようとしないということは、万物の嘆きと共に、嘆かなければならないことです。嘆きあわねばならないのです。

イエスは、「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」と言っています。ノアはこの世の人間の罪のために悲しんだのです。イスラエル代々の預言者は、イスラエルの罪のために悲しんだのです。エレミアの哀歌には、それがありありと現われています。私たちはイスラエルの預言者にかわって、イスラエルのために泣かなければならないのです。また、異邦人の無神経な無感覚な無自覚な状態を、悲しまねばならないのです。

従ってそれに伴って、飢え渇くように義を求めなければならないのです。どこまでも聖書の真理を求めようとしなければならないのです。また、私たち自らそのために、他人に対して柔和でなければならないのです。自分とつき合う先方の人を祝わなければならない。この点においてはまだまだ未熟です。本当に未熟です。その根本は自分自身の信仰の未熟さを悲しむ気持ちが薄いからです。

他人の欠点を咎めるとか、他人を裁くという意欲の方が盛んです。こういう心理状態では幸いではありません。もっと私たちは、相手方をたてあうような気持ちを持たなければならない。お互いを幸いにしなければならないのです。お互いに相手方を祝わなければならないのです。なるべくそういう気持ちを持ちたいと願って頂きたいのです。

イエスは政の王者です。そこで彼を信じる皆様も、政の王者となるべきです。そこで日毎夜毎の皆様の生活が、政でなければならないのです。これが幸いな生活です。

神のあり方というのは、いつでも幸いです。神ご自身が幸いです。なぜ神が幸いかと言いますと、神はいつでも人間を祝福しようと考えているからです。例えば、空が青いのは、神の祝福のしるしです。果物がおいしいのは、神の祝福のしるしです。目が見えるのも神の祝福のしるしです。

神はいつでも人間に恋しているのです。神は自分の栄光と恵みと力を人間に、無条件で与えているのです。これが神が人の子を政っているやり方です。神が人の子を政っているのに、私たちが神を政らずにどうするかです。祝福することが、神の本性です。相手方を祝すること、相手方を祝うことが、神の本性です。これが愛です。神の場合は、恋と言っても良いほど、明確な愛です。全くの自己放棄的な愛です。

神は人間に向かって、随分言い分があるに決まっています。しかし、神自身の言い分を先に言わないで、まず与えるのです。まず祝するのです。まず祝ってから、少しばかり叱るのです。時々台風があったり、洪水があったりして、時々教えたり叱ったりしているのです。神は最大限度に祝して、最小限度に人を叱るのです。人間はその反対をしているのです。神は祝福することが本性です。だから、神はいつでも幸いです。幸いになりたければ、神のやり方を真似したらいいのです。自己放棄したらいいのです。もっとも端的な自己放棄は、恋愛です。

マグダラのマリアがイエスのことを聞いて、このお方こそ、私の王子様だと閃いたのです。どうして閃いたのかということです。その瞬間にどうなったのか。このお方が私の王子様であることが、心に明確に閃いた。その時に彼女の中の七つの悪霊が落ちたのです。

彼女はイエスの元に来て、ひれ伏すまでに救われていたのです。救われていなければ、あのような態度がとれないのです。イエスはそれに対して、言葉で確認したのです。悪霊はその前に落ちていたのです。

皆様もマリアが王子様を見つけた心境を、よくよく味わって頂きたいのです。御霊を受けた時の経験をもっともっと深くすることです。御霊の崇め方が足りないからいけないのです。御霊の崇め方が足りないから、前進が非常に遅いのです。

もっともっと恵まれて頂きたいのです。幸いということは、神のやり方に習うことでありまして、神に習ったらすぐ幸いになれるのです。

皆様の理想的な人間像、王子様は、第三の天にいるのです。これが皆様の命です。今現世にいる私たちの命は、全く譬の命であって、こんなものは自分ではないのです。こんなものがしあわせになろうと思わなくてもいいのです。

第三の天において、イエスは「汝ら恐れるな、我すでに勝てり」と言っている。これが私たちの冠です。私たちの命です。私たちの栄光です。私たちの力です。私たちの知恵です。知恵も力も、第三の天にあるのです。今ここにあるのは影だけです。

このことを信じると、私たちは相手方を祝うことが普通になるのです。妻が夫を祝うのです。夫が妻を祝うのです。恋愛関係的な相互関係ができるのです。愛の交換です。「汝ら、互いに相愛せよ」ということが実現しなければ、ユダヤ人に伝道はできないのです。神の言葉をそのまま命にして頂きたいのです。

イエスは次のように述べています。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたの良い行いを見て、天にいますあなたがたの父を崇めるようにしなさい」(マタイによる福音書5・13〜16)。

これは本質的には、ユダヤ人に対する言い方です。異邦人に対するものではありません。本来ユダヤ人は地の塩、世の光です。しかし、今のユダヤ人は神のキリストに反抗しているので、私たちが特別に召されて、神の知遇を頂いているのです。そこで、私たちは選民イスラエルにかわって、地の塩であり、世の光であるべき役割を演じなければならないのです。

現在のユダヤ文明は、地球温暖化を食い止めることは難しい状態です。これに降参せざるを得ない状況になってきたのです。人間の文明は、たれ流し汚し散らし、大自然を毒し続ける、暴虐無残です。空気を毒し、水を毒し、土を毒して、自らの命を毒している状態を、どうすることもできないのです。

今の文明は、地を腐らせるものであって、塩の反対の役割をしているのです。悪質な病原菌のようなものです。地球を破滅する働きをしているのです。今の人間は世界を腐らせるためにいるのです。地球を腐らせるためにいるのです。地の塩ではなくて、地の毒素菌です。恐るべきバイキンです。地球を決定的に破壊し尽さなければ気がすまないというバイキンです。神が人間の住処として与えたこの地球を食い荒らして、さんざん踏みにじろうとしている、破壊して骨までしゃぶろうとしている、暴挙無類のバイキンです。これが今の文明です。この元凶がユダヤ人です。

これを見捨てておくことはできないのです。皆様に一遍の誠意があるのなら、立ち上がっていただきたいのです。なぜなら皆様が地の塩だからです。地の塩は、地のバイキンを滅ぼすためにあるのです。あなたがたは地の塩である。塩がその味を失ったら、どうするのか。塩は第一に腐りをとどめる無一無二の良薬です。あなたがたは地の塩である。この言葉を忘れずにいて頂きたいのです。

神は私たちの集まりがあることによって、私たちの周囲を祝福しているのです。皆様と触れ合う人、皆様と交わりあう人は皆、無意識に神の祝福を受けるでしょう。お仕事の関係で皆様と話をする人は、無意識に神の祝福を受けている人です。また、私たちがいることによって、日本は莫大な神の庇護を受けるでしょう。なぜなら、私たちは地の塩だからです。このことを自覚すると共に、まず生活で塩らしい働きをして頂きたいのです。そうして塩気を人々に与えて頂きたいのです。「汝らの言葉に塩を混じえよ」とイエスが言っています。ちょっと話をする場合でも、塩を混じえるのです。仕事の中に塩を混じえるのです。

皆様の会社のお仕事、家庭のお仕事は信仰を実行していることです。緊張しなくてもいいのです。大胆に、また、へり下っていれば、必ず神の栄光が現われるのです。神に一切を任して仕事をすればいいのです。へり下ることと、大胆とは同じことです。大胆さがないのはへり下っていないからです。

皆様は地の塩です。かけがえのない地の塩ですから、神が放っておくはずがないのです。塩に塩づけするのは神の言葉であり、神の御霊ですから、御霊と言葉が、いつも塩味を提供します。御霊と御言葉に混じって下さい。そうすれば塩はその味を失いません。十字架の血塩の味を、いつでも身につけていることです。

キリストは政の司です。こんな大胆なことが言える人はいないでしょう。政の司です。だから、宗教ではないのです。私たちは、政の司が誰であるのかを、全人類に知らせなければならないのです。

人間の心臓を動かしているのは政です。地球を回しているのは政です。電場と磁場の調和をしているのは政です。これが誰かです。電場と磁場はなぜ調和しているのか。なぜ磁針が北を差すのか。これが政です。これを人々に知らせて、幸いの原理を知らせてあげる必要があるのです。幸いの原理を人々に伝達する責任があるのです。

人々を幸いにしなければならないのです。まずイスラエルを、そして、万民を幸いにする。神の国をこの地上に実現しなければならないのです。これが世の光です。

これは灯台の上に立てられなければならないのです。神はすでに皆様を灯台の上に立てています。この無宗教の国である日本において、この無自覚国家、無霊魂の国家において、私たちの存在が光を放っているのです。今の所、非常に微弱ですが、やがて大きな光になっていくのです。神はこういう奇妙な現象を、日本で発生させたのです。

異邦人の最左翼である日本では、聖書は敬遠されています。聖書をこんなに冷淡に扱う民族はいないでしょう。キリストの十字架の血をこんなに踏みにじる民は、世界にいないのです。この日本で、私たちに聖書の本当の光を与えようとしているのです。

皆様は、自分の思いを捨てて下さい。自分のプライドを捨てるのです。自分の経験を捨てるのです。自分の能力を自分で使おうとしないで、全部神に返納するのです。

生まれてから今までの自分の経験を、全部捨てるのです。なぜなら、第三の天にいるキリストが私たちの命ですから、現世における自分の命は命ではないのです。

皆様は世の光です。選民にかわって、第三の天にいますキリストに変わって、皆様はこの世の光でなければならないのです。私は世の光であるとイエスは言いましたが、この言葉はそのまま皆様にあてはまらなければならないのです。この言葉が皆様の自覚、自信にはっきりつながってもらいたいのです。

神の言葉を身につけて、自分の命が神の言葉であることを自覚しますと、そういう命の理解のしかたが、そのままその人自身の知恵となり知識となる。その人にとって命が光になるのです。生きているというその事実がそのままその人の知識になるのです。光になるのです。これをイエスというのです。これがイエスの御名の信仰です。

現在自分が生きている事がらの本性が、そのまま光です。生きていることがそのまま知恵です。光です。これが自覚できますと、初めてイエスの御名による知恵を与えられたと言えるのです。

人間が生きているということが、とりもなおさず、エホバの御名です。エホバであるということになるのです。これが自分の救いです。エホバが救いであるということが、エーズースーということです。

だから、現在生かされているという事がらが、自分自身の救いになっているのです。生かされていることが、救いになっているということが、エーズースーです。すなわちイエスです。これが私たちの旗じるしです。

イエスの御名、イエス主義が私たちの特長です。これが世界伝道への明確な、また唯一の旗じるしです。これが命の哲学の根本です。新約哲学の根本です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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