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  • 管理人chaya

女の創造


大自然の働き、作用がそのまま花や小鳥になって現われている。大自然の作用、宇宙の働きの根源は、神の御霊です。神の御霊の働きが、人間の魂にアッピールしているのです。神ご自身を現わしているのです。神ご自身を教えているのです。

あらゆる自然科学の原理は、神の御霊の働きです。例えば、バン・アレン帯はなぜあるのか。これが神の御霊の働きです。電離層の作用は、神の御霊の働きです。地球が自転公転していることも、神の御霊の働きです。このように自然科学の原理になるようなもの、哲学や医学の原点になるようなものが、そのまま神の御霊の働きです。

人間の目が見えるということ、心臓が動いているということ、呼吸機能の微妙な働き、心臓と肺の関係はすばらしいチームワークです。こういうことを不思議と言わずに、何と言ったらいいのでしょうか。これがそのまま神の御霊の働きです。

科学ではこれが分からないのです。心臓が動いていることは分かります。心臓の生理現象は分かりますが、なぜこのようなデリケートな、高級な現象が、なぜ肉体の中にあるのか、これが説明できないのです。

宇宙物理を縮小したものが、人間の肉体生理になっているのです。人間の常識や知識は、神に栄光を帰することができないのです。人間の常識、知識は悪魔の知恵です。悪魔の働きです。悪魔の働きによって、人間は学問を学んでいるのです。だから人体構造の微妙さとか、宇宙構造のすばらしさについて、その事がらの真相が分からないのです。肉の思いだけで見ているからです。人間の学問はすべて肉の思いです。これを信じる者は、皆地獄へ行くことになるのです。現在の文明を信じている人間は、全部魂が死んでしまうのです。

文明は人間の魂を呑みこんでしまうブラックホールです。これが底なき穴です。人間の文明は底ぬけです。底ぬけの文明です。人間の文化、文明は底がぬけているのです。底がぬけているから、それを信じる人は皆、底なき穴に入っていかなければならないのです。これを生活のために利用するのはかまいませんが、信じてはいけないのです。それが絶対真理だと考えてはいけないのです。

医学は人間の命について、どれほど権威があるのでしょうか。何の価値があるのでしょうか。病気は治しますが、人間の命のことは全然知らないのです。

こういう文明を信じると、皆地獄へ行くことになるのです。文明を信じるのが肉の思いです。人間の肉の思いは、谷底の思想です。滅亡の谷底の思想です。肉の思いが死です。このことをよく考えて頂きたいのです。

自分の生活をよくご覧になると、皆様の肉体は無意識に霊に従って歩んでいるのです。皆様の肉体は栄養価を摂取しています。また、香りを喜んでいます。皆様の目はすばらしい景色を吸収しています。目は料理を見ただけで、心はおいしそうだと思っているのです。皆様の五官の働きは、現象を捉えるもののようですけれど、実は五官の働きの実体は、霊的なものを捉えているのです。霊的とは物事の本質という意味です。

舌は味を捉えます。味は無形のもので、霊です、肉ではありません。皆様の手を暖かいヒーターに近づけますと、暖かさを感じます。暖かさというのは、目に見えないもので、これが霊です。

これは手とか足だけではありません。人間の五体というものは、外に現われている五体だけではなく、人間の体の中のある五臓六腑というものも、あるいは神経細胞というものも、医学的に自律神経と言われているものも、すべて皆霊なる働きを持っているのです。霊なるものとは、目に見えないものです。それを捉えているのです。

交感神経と副交感神経が、自律作用をしています。自律ということが、霊なる働きを意味するのです。自分でああしよう、こうしようと思っているのではありませんが、交感神経と副交感神経が、プラスの作用とマイナスの作用を、見事にしているのです。こういう事がらを神の御霊の働きというのです。

皆様の肉体は、神、エホバ神、エホバ、有りて在るものを良く知っているのです。例えば、愛する者どうしが手を触れたら、どう感じるかです。ビビッーと電気に触れたような感じがするでしょう。実はそれがそのまま、霊的な接触になっているのです。ドキドキ、ワクワクするのは、肉体ではありません。魂がときめいているのです。

現在、人間は、生活でそういうことを体験しているのです。それなのに、気持ちでは肉に従いて肉の思いで生きているのです。

神を信じるとか、死なない命を勉強しなさいと言われても、そればかりをしていたら、生活ができないと思うのです。そうではないのです。信じるというのは、実行しなければ分からないのです。実行すれば、神が味方になってくれるのです。現に皆様の肉体は神を知っているのです。肉体は神を知っているが、皆様の精神は神を知らないのです。マインド(精神)がさっぱり神を知らなくて、ボーッとしているのです。こういう人間は全部死んでしまうのです。

学問を信じるのはマインドの働きです。常識を信じるのはマインドです。唯物論を信じるのはマインドです。この世の中を信じるのは、すべてマインドです。これがいけないのです。

そこで、マインドを更えて新にせよと言っているのです。肉の思いというのは、肉のマインドのことです。これが人間を殺すのです。死ぬというのはどういうことかと言いますと、マインドの間違いによるのです。マインドの誤りです。マインドさえ正しく働けば、死ななくなるのです。このことが日本の医者の中で、たった一人でも分かれば有難いことですが、これを勉強しようという医者がいないのです。

死とは何かと言いますと、マインドの間違いです。マインドさえひっくり返したら、死がなくなるのです。

人間の五官の作用は、神を直感しているのです。これがはっきり分かれば、マインドの在り方が変わるのです。人間はマインドのトリックにひっかかっている。だからみすみす死んでしまうことになるのです。そのように、私たちの五官は、目によって霊を見ているのです。耳は霊なる声を聞いているのです。ところが、私たちの生活感覚は、目が肉を見ていると思っているのです。

目の働きは、ご馳走を見ただけで、食べる前においしそうだと思うのです。大きな鉄の塊をみると、重そうだと思うのです。重さというのは、目に見えないものです。目は見方を見ているのです。風呂敷包を見ただけで、重いか軽いかが大体分かるのです。

犬や猫はそういうことは分かりません。人間の目は霊的に働いているのです。ところが、人間のマインドは肉的にしか働いていないのです。

人間の魂は神の子です。魂は人間が現世に生きている間中、さんざん虐げられているのです。さんざん踏みにじられているのです。

五官が正確に働いていながら、人間の感覚がそれをゆがめて受け取っています。それを魂は、何となく知っているのです。そういう感覚は間違っている。肉の思いは間違っているということを、魂は知っているのです。このことを、魂はしばしば自分という思いに忠告しています。抗議しているのです。自分の思いは、バカなことを言うな、目は見ているのだ、耳は聞いているのだ、それは間違っていないと言うのです。人間は外形を見ているということを、しきりに主張するのです。人間のマインドが主張するのです。

その結果、魂はいつも沈黙していなければならないことになるのです。そうして死んでしまうのです。そこで魂が、死んでから怒り出すのです。それ見よ。わしが現世にいる時に、こう言ったではないか。そして、魂が自分の人生を裁き始めるのです。これが地獄です。

皆様は間違いを知っているはずです。ところが、勇気を持ってそれを正そうとしない。これがいけないのです。私たちは肉の思いから抜け出さなければ、死から逃れることはできないのです。人間の五官は、霊的に見る力を持っているのです。ところが、人間の常識、知識が五官の働きを曲げているのです。これがいけないのです。常識、知識が肉の思いです。

いいとか悪いとかを、自分で決めてはいけないのです。神の御霊に決めてもらわなければいけないのです。現世に生きている間は、神が人間の魂を裁きます。この世を去ってしまえば、神の手から離れてしまいます。神から離れることが外道です。地獄です。そうして、人間の魂自らが、自分の人生を裁かなければならないことになるのです。これは悲劇です。

うじ尽きずというのは、それです。ああしまった、しまったという痛恨の念、後悔のへそをかむような痛恨の念が、その魂を四六時中かみ続けるのです。魂は、過去における自分の肉の思いに反対できなかったそのいくじなさを、魂が徹底的に悔やむのです。悔やんで悔やんで、苦しんで苦しんで苦しみまくるのですが、どうすることもできない、神の助けがないからです。

うじとは愚痴のことです。あの時ああすればよかった。ああこうすればよかったと、年がら年中その人の腹わたをかむのです。

今のうちにそれを無くしたらいいのです。どうしたら無くなるのか。はっきり十字架を信じたらいいのです。自分がいいとか悪いとかを考える必要はないのです。黙って十字架を信じたらいいのです。そうして神の導きに無条件で服従したらいいのです。そうしたら神が全部引き受けて下さるのです。霊魂のことも、生活のことも、両方共、引き受けて下さるのです。これが神の処置です。

現象世界は、人間の心を試験するためにあるのです。般若心経では、色即是空と言っていますように、現象は実体ではない。ないものをあるように、神が呼んでいるのです。これに気がつく人がいるかどうかを、神が試験をしているのです。

人間の目は現象を見ているのではない、物の本質を見ているのです。耳は物の本質を聞いているのです。芭蕉の句に、「静けさや岩にしみいる蝉の声」という有名な句があります。芭蕉の耳は、静けさを聞いているのです。蝉の声は聞いていないのです。静けさは観世音のような意味であって、耳に聞こえないものを聞いているのです。芭蕉は、耳に聞こえる声を聞いていたのではない。鼓膜に響く波長を聞いていたのではなくて、心に響く波長を聞いていたのです。こういうことを人間の耳はするのです。目がしているのです。これが人間の五官です。

これが皆様の生活の実感で応用できるようになったら、肉の思いは消えてしまうのです。思想的に分かっただけではだめです。芭蕉がそう感じていたということを、頭で理解してもだめです。自分自身がどう理解するかが問題です。自分自身が静けさを聞いているかどうかが問題です。

家庭生活を通して何を聞いているかです。自分の衣食住を通して、芭蕉が聞いたような聞き方を、生活でも聞いているかどうかが問題です。

肉の思いは現象感覚だというのは、一番直接的な説明になりますが、間接的にもう少し説明しますと、肉の思いというのは、必ず自我意識から出る思いです。

私はこのように信じていますと、必ず言います。これは自我の証です。これは固有名詞の人間の証です。イエスの証ができなければだめです。イエス・キリストの証が人の口からでなければだめです。これができなければ、御霊を受けたのではありません。御霊を受けてからでも、自分の証をしている人がいるから困るのです。信仰の訓練が足りないから、こういうことになるのです。御霊を受けた者はすぐに卒業するのではない。御霊を受けた者はなお、御霊に満たされるような訓練をしなければならないのです。

それはどうしたらいいかと言いますと、自分の証をしてはいけないということです。神の働きの証をしたらいいのです。神自身が証をしているような証をしたらいいのです。神が自分に対して、何をしてくれているかです。神が自分に対して、どういう処置をしているかということを、証したらいいのです。

第三の天にいるキリストの命が、今私たちに現われているのです。だから、父なる神が助けるのです。自分が生きているのではない。キリストが生きているのです。命はキリストです。命なるキリストという言葉があります。命は自分のものではない。自分が生きている、今ここに命があるのではない。第三の天にキリストがいる。それが自分の命です。

神が人を助けるのではない。キリストを信じている信仰を助けている。キリストを助けているのです。キリストの名によって何かをすれば、キリストの名に対して、助けなければならないことになるのです。こういう信仰が、キリストの信仰です。この信仰を持たなければならないのです。

神を喜ばす信仰が必要です。自分が満足する信仰ではないのです。自分が満足する信仰なら、キリスト教の信仰です。キリスト教の信仰はいくらしてもだめです。「あなたは私の証人となれ」とイエスが言っています(使徒行伝1・8)。証人です。イエスの証人です。イエスを証する人間に、私たちがなるのです。

人間は一体何を求めているのでしょうか。自分自身では分からないのです。正しい信仰とはどういうものか。また、私たちがどのような信仰状態になれば、神を喜ばすことができるのでしょうか。これはなかなか分かりにくいことです。これを人々にお話しするということが、非常に難しいのです。神の事がらを、人間の肉の言葉で表現することは、非常に難しいのです。

神は最終の創造として、万物創造の最終段階として、女を造ったのです。男のために、わざわざ女を造ったのです。アダムに本当の信仰を与えるため、霊の助けを与えるために、エバを造ったのです。そこでエバの考え、女の考え、女の気持ちをよくよく読んでいきますと、何を求めたらいいのか、何をどうしたらいいのかということが、アダムに分かるようになっていたのです。

今の男に、神は女を持つことを許している。何のためか、女から学ぶためです。女が何を求めているのか。何を望んでいるのか。これをできるだけ正確に学ぶためなのです。

女と男とは、どこがどう違うのか。ただ肉体構造が違うだけです。そうすると、女が求めているということは、その肉体構造の特長に現われていなければならないはずです。男の求めとは違うのです。

女の肉体構造の特長は何か。女性自身とは何かです。女性自身は何を求めているのか。これに対してパウロは、「妻なる者よ、主に従うように、キリストに従うように、夫に従え」と言っています。ここにすばらしい奥義があるのです。女の喜びは、実はキリストに仕えることです。キリストに従うことです。キリストに従うように、夫に従うこと、男性に従うことです。これが女の喜びです。これが女の本当の喜びです。

女の肉体は何を求めているのかです。何の喜びを求めているのかです。実は、キリストにつながる喜びです。それを世間一般の考えでは、ただ肉体の興奮だと思っているのです。そうではないのです。肉の思いでセックスを見ているから、全部猥雑、淫猥になってしまうのです。そんな気持ちを持つことが姦淫です。肉の心で、肉の思いで、女の肉体が何を求めているのかを考えることを、情欲というのです。

今の女は、ほとんどがそういう思いで求めています。これが女の逆性です。女が逆性を選んだと言っているのです。男もそうなったとパウロが言っているのです。女が何に興奮するのか。何を喜ぶのかです。これは最も崇高な問題です。ところが、現在の世界でこれが説明できる人がいないのです。

パウロはこの説明ができたのです。パウロには奥さんはいなかったのですが、よく分かっていたのです。イエスとかパウロという第一級の人物になりますと、奥さんがいなくても皆分かったのです。これが本当の人間です。私たちは、イエスやパウロにほど分からなくても、せめて、パウロの言葉によって学んでいきたいと思うのです。「妻なる者よ、主に仕えるごとく、夫に従え」という言葉によって、そこに女の本当の喜びがあることを見出さなければならないのです。

女性の欲求不満の根本原因は何か。今の女に本当の喜びがないのです。なぜないかと言いますと、キリストを目当てにしていないからです。それほどすばらしい夫に巡り会っていないからです。すばらしい男を知らないからです。

そこで、私たちは聖霊に従って肉の思いを捨てて、霊の思いに生きるのです。そうすると、本当の女の喜びが分かってくるのです。女の欲求不満が解消するのです。人間存在は霊的な存在です。肉的な存在ではないのです。肉体は実は霊を知っているのです。肉体が霊を知っているから、欲求不満になるのです。

もっともっと恵まれること、もっとすばらしい信仰を持つことです。「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛する。私の愛にいなさい」とイエスが言っています。私たちがキリストの愛に住み込んでしまうのです。

本当に女が何を求めているのか。神がエバを何のために与えたのか。エバの欲求、エバの望み、エバの気持ちが本当に、アダム自身の望みであるべきだったのです。これを悟るべきだったのです。

アダム自身は自分のことは分からなかったのです。そこであばら骨をぬいて、女を造ったのです。あばら骨とはハートのことです。男性のハートを出したのです。これが女性です。自分のハートが何を求めているのかを知るためには、女性を深く深く理解しなければならないのです。女性を深く深く理解しますと、自分自身が何を求めているのか、その深みが分かるのです。こういうことを霊に従いて歩むというのです。

肉に従いて歩まず、霊に従いて歩むのです。これは命であり、平安であるとパウロが言っています。もう一つ満足であると言えるのです。この時初めて人間は、満足という意味が本当に分かるのです。欲求不満が解消するのです。欲求不満が影形なくとんでしまう。一切の不信仰、一切の不安が消えてしまうのです。

心に不安がある状態では、まだ神を信じていないのです。霊の思いに従って生きていないから、不安があるのです。一切の不安がなくなるまで求めるのです。とことん神に求めるのです。そうしたら、必ず神によって教えてもらえるでしょう。満足と喜びが与えられるのです。

これは、仏教がいう涅槃の境地ではありません。すばらしい喜びと楽しみのパラダイスです。現世でこういうパラダイスを味わうことができるのです。これは難しくないのです。イエスやパウロ、ヨハネが分かったように、皆様も分かるに決まっています。どうか常識や知識で判断しないで、御霊に従って判断して頂きたい。

今お話ししたことを、ユダヤ人に伝えなければならないのです。ユダヤ人はこの話を聞いて、全世界の人々に教えなければならないのです。そうして世界に千年王国が実現するのです。そのために、皆様は立ち上がって頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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