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掟と恵み


ヨハネによる福音書に、次のように述べています。

「私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと誠とは、イエス・キリストを通してきたのである。神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わしたのである」(1・16〜18)。

この箇所は、基本的で広く深い問題です。イエスが主であるということは、色々な方面から考えたり、経験したりしなければ分からないことです。

私たちの生涯を通してこれを学ぶのが目的ですが、十六節に、私たちすべての者はその満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられたとあります。

英訳を直訳的に考えてみますと、彼に満ちている、それからすべてのものを私たちは受けたのだとあります。

イエスに満ちているものの中から、私たちは受けるのです。イエスにどういうものが満ちているのか。またなぜ、イエスだけ満ちているのか。また、私たちがイエスに満ちているものから、受けて恵まれるというのは、どういうことなのか。

まず、彼(イエス)が恵みに充満しているとはどういうことなのかが分からなければいけないのです。彼はどうして満ちているのか。それはキリスト教的に言えば、彼は神の一人子だから、恵みに満ちているのだという考え方になるのです。そうして、彼だけは特別だという気持ちになってしまうのです。

それが根本的に間違っているというのではありませんが、そんな考え方をしていますと、私たちが彼に満ちている恵みを、私たち自身のものとすることが、難しくなるのです。

私たちと彼とは、本来同じものなのです。どのように同じかと言いますと、まず彼は神の言です。御子です。神の光そのものです。神の光そのものである御子は、一人子として生まれたのです。これは、地球ができる遥か以前に生まれたのです。すべてのものの、いや先に生まれたとパウロは言っていますが、いや先というのは、天使長ルシファーが造られるまだその前にという意味です。

まず神がありたもうた。それとほとんど同時に、御子が生まれたのです。ルシファーよりも先に、御子が生まれていたのです。御子という光が生まれていたのです。天使長ルシファーが天使長として立てられた時に、神の光であり、神の言である所の御子というお方が、天使長ルシファーに与えられたのです。これは与えられたというよりは、天使長ルシファーと共におらしめられたと言う方がいいでしょう。だからこそ、天使長は天使長としての力を持つことができるようになったのです。

御子というお方は、神の栄光そのものです。ヘブル人への手紙第一章を見ますと、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である」(1・3)とあります。神の本質の輝きであり、響きであり、力そのものを代理する、代表するお方が、御子、一人子なのです。

いや先に生まれた一人子が、そういうお方なのです。ルシファーを天使長として神が用いることになるとすれば、それだけの力を与えなければ仕事ができません。そこで、神の代理者として、宇宙を治めるだけの力を、彼は持たねばならなかったのです。与えられなければならないのです。

そこで、御子なる光が天使長に遣わされたのです。御子というお方は、そういうお方であって、神の懐だけにおられたお方ではないのです。非常に苦労しておられるお方なのです。御子はルシファーのもとに遣わされた。そのことによってルシファーが天使長になることができたのです。

これは口で言えば簡単ですが、その内容はとても私たちの頭で想像できるような事ではありません。御子が父の元を離れて、ルシファーの元へ遣わされたということ、そうして、ルシファーの意志に従って御子が働かねばならないことになったのです。

これは御子としては、最初はよかったかもしれませんが、ルシファーがだんだん逆性的になっていった。神に反逆する方向に進んでいったのです。

その時点において、非常に苦労されたに違いないのです。神の御子であり、一人子であるお方が、ルシファーの元へ遣わされただけでなくて、ルシファーの中に逆性が兆しはじめた。神に逆らうことをルシファーが考え始めた。そういうことを通して、御子は非常に苦しまれたに違いないのです。

御子が苦しまれたということはどういうことなのか。父の一人子がルシファーの中に兆しだした逆性によって、父の御心ではない方向に御子が働かねばならないようなことになったからです。父がルシファーの内に遣わしたもうたのですから、ルシファーと共に働くということが、その時点においての父の御心でありますから、御子が勝手にやめる訳にはいきません。

父の御心は絶対ですから、御子自身の本性に合わないような働きであっても、無理に悪魔によって服従させられるようなひどいめに、合わざるをえなかったのです。そうでなければ、ルシファーの内に逆性が発生する理由がないのです。

分かりやすく言いますと、皆様方の中に、言がなかったら、理性がなかったら、皆様は腹を立てたり、人を恨んだり、焼きもちを妬いたり、悲しんだり、悩んだり、または喜んだり、楽しんだりしないでしょう。それができるはずがないからです。

皆様の中に御子がおいでになるからこそ、喜怒哀楽の感情が働くのです。それを皆様は、自分が喜んでいる。自分が悲しんでいると考えているでしょう。それが自分自身に与えられた魂としての御子の業であるということを考えていないでしょう。

これがルシファーの中に逆性が発生した当時の状態なのです。それを皆様は、今経験しているのです。そうして、自分の肉性によって、自分の内にいます御子を、いじめているのです。

例えば、人を恨んだり、焼きもちを妬いたりします。つまらないことに悲しんだり、病気になるともう暗くなったりします。そのようにして、御子をいじめているのです。思い悩むこと、つまらないことに喜んだり、泣いたり、暗くなったりする能力の起源は何かというと、人間に与えられている神の栄光です。

「御使いよりも低く造って、これに栄光と誉れをかむらせた」(ヘブル人への手紙2・7)と聖書にありますが、栄光と誉れとは御子のことです。御子は神の栄光です。神の栄光が人間に与えられているのです。それと同じように、御子がルシファーに与えられていたのです。

そこでルシファーが淵の表に座りこむということをしたのです。その時、御子がルシファーの中にあって、ルシファーに非常に苦しめられたのですが、御子は自分からルシファーを出る訳にはいかなかったのです。ルシファーの中にいることが、父の御心でしたから、しかたがなかったのです。御子はじっとがまんしておられたのです。その時点において、御子は苦しんで訓練をお受けになったのです。この間だけでも、何億年、何十億年ともいえる長い長い時間を、御子は苦しみ続けておられたのです。

今皆様の中にいたもう御子も、そのように苦しんでおられるのです。皆様の中にいるいと小さきキリストの兄弟です。これが御子です。その御子がいなければ、私たちは思ったり、計算したり、記憶したり、推理判断したりできないのです。できないのに私たちは、御子を肉の思いでこき使っているのです。ひどいことをしているのです。

御子はルシファーの中で、さんざん苦しんでおられた。ところが、ルシファーのよこしまな思いがだんだん明白になって、宇宙の表面に現われてきた。つまり淵の表に立つようになったので、神はこれはいけないとお考えになったのです。父なる神が計画を変更なさるということは、よほどのことです。よくよくのことです。神はめったに変更されないのです。神は神であるからです。

ところが、天使長の逆性がいよいよ明らかになって、それが宇宙の表面を支配する傾向にさえなってきたので、父なる神はやむを得ず、光あれと言いたまわなければならなくなったのです(創世記1・3)。

これは闇の中から光出でよということです。出でよということは、ルシファーの中にある御子に向かって、出てきなさいという命令です。この命令をお出しになったのです。そこで、御子はルシファーの中から出ていかれた。「光あれと言いたまいければ、光ありき」というのがそのことです。出ていかれたのですが、暗きはこれを悟らなかったと書いています。ヨハネによる福音書の一章五節にあるのです。なぜ暗きはこれを悟らなかったのかと言いますと、これは皆様もよくよく注意しなければいけないのですが、皆様は自分で考えたり、仕事をしていますが、それを自分がしていると思っているのです。これが大変な間違いなのです。それはすべて、神の言が皆様の内にいますから、それが働いているのです。

もし皆様の中から御子が出ていったとしても、今までの皆様の記憶は消えないのです。自分の魂が経験しているのですから、自分の持ち物になっているのです。だから消えないのです。ところが、それ以上にのびないのです。それ以上霊的に成長しなくなる。芯どまりになるのです。

今までの記憶を元にして、色々と考えているのです。悪魔がこういう状態になったのです。暗きはこれを悟らざりきというのは、自分の記憶が消えた訳ではない。御子が悪魔と共にいて、色々ルシファーが経験をした。ルシファーは、自分の力でそれを経験したと思っています。だから自分の内から光が出てしまっても、自分はだめになったと思ってないのです。暗きはこれを悟らなかったというのは、こういう状態をいうのです。ところが、実はこれを悟るべき非常に顕著な状態は分かっているのです。

光が闇から出ていった時に、光と闇とを分けたと書いていますが(創世記1・3)、光と闇が分けられた時に、闇はもはや天使長ではなくなったのです。天使長の位を追い落とされて、天から地上へ落とされたのです。天から追い落とされたとはどういうことかと言いますと、ルシファー自身の観念が固定してしまって、それ以上進歩しなくなったということです。これが地に追い落とされたということです。悪魔本人はこれに気づかない。これが暗きはこれを悟らなかったということです。

能力が一向に減っていないと思っているのです。能力というのは、減っていないだけではだめです。毎日、増えていかなかったらだめです。増えていかないということは、減っていることになるのです。「手習いは坂に車を押すごとく、油断をすれば後へもどる」という言葉がありますが、皆様の霊調が毎日前進していないということが、もう減っていることになるのです。

御霊を受けたことは受けたが、御霊を崇めないでおろそかにしている。やはり腹を立てたい時に立てる、恨みたい時に恨む。そんなことをしていますと、御霊を崇めていないために、御霊を受けた時点から、落ちてしまうのです。全く前進しないのです。前進しないということは、落ちているということです。

ところが、本人は自分は御霊を受けたと思っている。しかし、受けたことは受けたが、もう落ちているのです。それに気がつかないのです。これが暗きはこれを悟らなかったということです。この点が、悪魔と皆様は良く似ているのです。

悪魔は天から追い落とされて、肉の思いで固まってしまったのです。これがすでに神から捨てられたということですが、しかし、彼は自分の記憶があるために、かつて御子が自分と共におられたその時に、彼は神と交わることができたのです。

その時の記憶があります。その時の記憶に基づいて今でも、神と交わりはします。悪魔は神の前にどんどん出ていくのです。そして神に訴えるのです。訴えるけれども、御子が共におられたように、自由闊達に神の御心を弁え知ることが、全くできなくなっている。

御子はルシファーの中におられた時に、さんざん苦労をされたのです。ルシファーの中で苦労をされたから、光出でよと神が言われたのです。御子が闇の中からお出でになった時に、御子に恵みが与えられたのです。これが十六節に出ているのです。

御子に神の恵みが満ち満ちているのは、かつてルシファーの中で苦労をされたからだということです。そういう意味で、御子は悪魔のことを良く知っておられるのです。それは悪魔の腹の中におられたからです。

現在皆様も、それと同じことをしているのです。肉の思いがどんなものかを、よくご存知です。知っている所か、肉の思いが大将になって、思い煩ったり、へそを曲げたり、暗くなっているのです。

それに私たちは勝つのです。御子は悪魔と共におられたが、光が闇に負けたことはないのです。闇の中に闇と共におられても、光はいつでも絶えず光は光であったのです。

そこで、神が光あれと言いたもうた時に、御子に恵みが加えられたのです。やがて皆様も、光あれと言われます。それが携挙です。あるいはこの世を去る時です。この世を去る時に、もう仕事はすんだので、私の天に帰れとおっしゃるのです。

皆様はこの世を去って、天へ凱旋するのです。神の元へ帰って、再び苦労をしなくてもいいように、御子と共に第三の天に座することを許されるのです。だから、私たちは現世にいる間、喜んで苦労をすればいいのです。そうして、パウロが「すべての艱難にも喜びをなす」と言っていますように、どのようなことが押しよせても、暗くなる必要はないのです。いつでも心を明るくしていればいいのです。

やがて皆様は、御子に恵みが満ちあふれるように与えられたように、皆様もそうなるに決まっているのです。私たちの魂は、本来御子です。この世にいるということは、私たちの魂がこの世にいるのです。これは御子が闇の中に住まわせられたようなものです。御子は私たちよりも一足先に闇の中に住まわせられておられたのです。こういう経験を持っておられる御子が、もう一度人間としてこの世に下られたのです。肉体を持って下られたのです。

前の時には、肉体がなく霊として闇の内におられたのですが、今度は肉となって、地上におられた。これが言が肉となって私たちの内に宿った(ヨハネによる福音書1・14)ということです。それをヨハネが見たと言っているのです。

御子は一回は、霊において暗きを経験し、もう一回は肉において暗きを経験しておられるのです。そういうお方が皆様の救い主なのです。だから完全に救えるのです。霊的な意味での暗さにも勝った。肉的な意味での暗さにも勝ったのです。これが完全な経験です。御子はそういうお方です。恵みに満ち満ちているというのは、そういうことなのです。

現世に罪人の形をとって、この地上に下ることを父から命じられた。その時でさえも、神と共にいることを捨てがたきこととは思わずに、それを固く保とうとはしないで、父の仰せのとおりに、罪人の形を取って、この地上に下りたもうた。本当にこれは御子でなければできないことです。

そういうお方が皆様の夫であるということ、これは上等すぎるのです。皆様自身も、それに適うものだと思って頂きたい。

今の自分のことを考えると、それはとても釣り合わないのです。ですから、自分の本性は御子と同質のものであると思ってください。私たちは、神から出てきたのです。現在、神によって生かされているのです。やがて神に帰るのです。これはパウロがローマ人への手紙の十一章三十六節で述べています。

私たちは神に帰るのです。私たちは神にかたどって造られ、神の形のように造られたということが、私たちの本性が大体神の栄光そのものであったということを示しているのです。神の栄光とは、神のことばです。御子のことです。私たちは御子であったのです。神の栄光が地上へ、今あるような形で遣わされている。そのことがらを良く心得て、私たちは自分の思いではなく、神の御心で生きるのです。

「父の御心を行う者のみ天国に入る」とイエスが言われたように、自分の思いで生きないで、父が私たちを訓練しておられるのだということを、弁えることができた人は、神の元に帰ることができるのです。

十七節には、掟はモーセを通して与えられた。恵みと誠は、イエス・キリストを通して来たとあります。掟は与えられたのであって、恵みと誠は、御子の方からやってきたのです。これは実に微妙な言い方になっているのです。

イスラエルは掟が分かっていない。掟は与えられたものです。何に与えられたかというと、肉体的に存在する人間に、神が与えたものです。求めたから与えられたのです。やってきたというのは、求めないのにやってきたのです。

恵みと誠を、人間は求めてはいないのです。求めなかったのです。ところが、掟は求めたのです。なぜ求めたのかというと、ユダヤ人は神自身が直接おまえたちを治めるのか、また、掟を守ることによって、神に仕えるかと言われたのです。神ご自身に睨まれるのはけむたいから、掟の方にして下さいと言ったのです。そういうバカなことを言ったのです。それで掟を与えられたのです。掟を守っている方が気楽だと思ったのです。

実は反対です。神の御顔の前にいた方が楽です。「アブラハムは、汝わが前に歩みて全かれ」(創世記17・1)と言われたのです。アブラハムは神の御顔の前にいたのです。

イスラエルは神の御顔を見ようとしなかった。掟を行おうとしたのです。掟というのは、神の影です。御顔を見ようとしないで、神の影で自分の肉性が生かされる余裕があるようにと考えたのです。これは大変な考え違いです。

掟というのは一体何であるのか。肉性の人間、肉体的に存在する人間は、すべて女性です。掟というのは夫です。モーセの掟は肉体を持っている人間に対して、夫の役割を演じているのです。

神自身に治められたいと願うのなら、神自らが夫になって下さるはずでしたが、それをお断わりして、掟を夫にしたいという注文を出したのです。これは申命記に書いてあるとおりです。ユダヤ人がそのように注文したとあります。出エジプト記であったかもしれませんが、そう書いてあります。掟はユダヤ人の方から注文したのです。

肉体を持つ女性は、肉体を持つイスラエルがモーセの掟に従わなければならないように、肉体を持つ女性は、夫に従わなければならない絶対的な責任があるのです。どんなに従いにくい夫であっても、夫そのものが肉体的に存在する女に対する掟になっているのです。「夫はおまえを治めるであろう」(創世記3・16)と神から言われているのです。

夫に治められるのが、女の運命です。女の役割です。そのように男はモーセの掟に従わなければならない。これが男の夫です。男の夫と、女の夫とがあるのです。

皆様方の立場から見れば、女の夫である皆様の亭主は、心にそまない男でしょう。それが厄介なものでも、それに従うのが運命なのです。女であるということの運命です。

夫であるということが、キリストであるということです。良くても悪くても、夫の考えをのんでしまって、それに喜んで同意できなければ、その人は女として自分を完成することはできません。女はそれができると、一度に楽になるのです。夫に従うという度胸をはっきりすえると、女の霊魂に関する責任は、全部男に移ってしまうのです。そうすると女は楽になるのです。実行してみたら分かるのです。

皆様は完全に夫に従おうとしないから、色々な形で重荷を背負っているのです。暗くなる原因も、心が動揺する原因も、よくよく考えてみれば、夫に従っていないから起こるのです。必ずそうなっているのです。そんなことはないと思っても、それは自己弁護であって、神から見ればそうなっているのです。

そうしますと、女は夫には従わなければならないし、聖書を信じなければならないから、二重の損だと思われるでしょう。ところが、そうではないのです。夫そのものがキリストそのものですから、それに従う決心さえすれば、皆様の霊調はどんどん伸びるのです。

女の魂に関する責任は、夫が持たねばならないのです。これは宇宙の鉄則です。これを不合理だというように考えるのは、女の中にいる悪魔がそう考えるのです。ユダヤ人は掟が守りにくいと考えた。それはユダヤ人の中にいる悪魔がそう思ったのです。

現在の六十八億の人類に対しては、イエス紀元が夫になるのです。キリスト紀元が夫です。日曜日に休むということが夫です。

ユダヤ人問題は全世界の夫です。ユダヤ人が大将でなければ、人間文明が展開しないということが、人類全体の夫です。我々異邦人は夫のために祈っているのです。

イスラエルは皆様の夫です。我々の夫です。私たちは人間的にイスラエルに反抗しているのではない。ユダヤ人を迫害しているバカな国民がいますが、その人々は夫に抵抗している妻みたいなものです。白人がそれをしているのです。ですから、白人は千年王国の中心にはなれないのです。千年王国を来らせる中心にはなれないのです。

私たちは幸いにして日本人でありますから、ユダヤ人を迫害しなかった。これは幸いなことです。本当に幸いです。だからこそ、むちゃくちゃな夫を愛することができるのです。

そのように、皆様は夫を愛して下さい、尊敬して頂きたい、惚れて下さい。そうしなければ、皆様自身の霊魂は本当に目を開くことはできないのです。霊魂の目が開かなければ、幸せになれないのです。

なぜ己を捨てて本当に十字架を信じることができないのかと思う人がいましたら、夫に惚れていないからです。夫を尊敬していないからです。完全に夫に仕えていないからです。肉体を持つ人間には掟が必要であるように、肉体の女には、夫が必要なのです。男性というものは、命のシンボルです。だから、女性は命を慕う意味において、どうしても男性が必要です。これは世間一般の言い方です。女性は男性なしに、直接キリストに結びつける人もあります。それはその人の業の深さによるのです。

一人でいる人は、世間では威張れません。そのかわりに霊的には楽です。神は公平です。ですから、誰も威張る必要もないし、また、誰もへそを曲げる必要もないのです。これが掟と恵みとの関係です。掟はモーセによって与えられた恵みと誠は、イエス・キリストによって与えられた。このことをよく考えて頂きたいのです。

人間の肉体には、どうしても掟がいるのです。女の肉体には掟がいるのです。恵みと誠は、魂に対する神の処置です。霊魂に対する神の処置です。これは神の方から、神が責任をもって、恵みと誠を下さったのです。

イエス紀元の新約時代は、神の方から人間の方へやってきたのです。これは霊魂に対する神の処置です。これは本当にすばらしいことです。掟はモーセによって与えられ、恵みと誠は、イエス・キリストによってきたのです。この言い方は本当にすばらしいのです。

人間存在をよくよく考えたらいいのです。皆様が女であるということは、皆様自身が決めたのではないのです。神が決めたことですから、夫に従わなければならないと思わなくてもいいのです。ただ心を明け渡せばいいのです。そうすると、女であることの方が、ずっと楽であることが分かるのです。男であることよりも女である方がずっと楽です。ただ従えさえすればいいのです。

イスラエルが掟を守るとどうなるのか。掟を守るということはどういうことなのか。例えば、モーセの十戒を守るということ、人を殺すなとか、偽証するなとは、一体何を言っているのかということです。これを守るとどういう効能があるのかということです。これはすばらしい秘密です。非常に深い秘密ですが、これがなかなか人間には分からないのです。

人間が掟を守って、心から夫を敬愛して、これに仕えることをしますと、それをする意味がすぐ分かります。行ってみれば分かるのです。行ってみないから分からないのです。

現世でも、誰もが夫に反抗しているのではありません。夫を本当に尊敬して、惚れている人もいます。生活している時に暗い気持ちになっているのは、必ず夫に背いているのです。夫に従っている時には、いつでも幸せそうな顔をしているのです。

人間が掟に従っている時には、心はいつでも平和です。なぜ平和になるのか。モーセの十戒を行うと、なぜ心が平和になるかです。それは神の御心を行うからですから、それは魂の願いでもあるのです。

こういうことが分からないために、ユダヤ人は掟を守っているように見せかけて反抗しているのです。掟の精神を知らないのです。掟の工作ばかりをしているのです。何のために神は掟を与えたのか。ユダヤ人はそれが分からないのです。

掟の解釈ばかりをしている。それは掟を守っているような顔をして、守らずにおこうという気持ちがユダヤ人の中にあるからです。掟を本当に守るという気持ちがないから、掟の説明ばかりをするのです。

恵みと誠は向こうからやってきた。これは心を開いて受け取りさえすれば、すぐに分かるのです。これは掟より簡単です。ところが、心を開くということが、なかなかできないのです。神の恵みを、すっと受け取ればいいのですが、それができないのです。

神の恵みを受け取るというのが難しい。なぜ難しいのかと言いますと、掟を行うのは、肉体的に生きている人間が行ったらいいのです。

女は肉体的に生きている自分が、夫に惚れたらいいのです。夫に仕えたらいいのです。簡単です。ところが、今生きている男が恵みと誠を受け取ってもだめです。これが難しいのです。恵みと誠は、受け取ったらいいという意味では簡単ですが、肉体を持って生きている人間が受け取ってもだめです。霊において受け取らなければいけないのです。十字架を通して、一度死んでからでなかったら、恵みと誠は受け止められないのです。

そうするとどちらが難しいのかということです。肉体を持っている人間が守れる掟がいいのか、肉体的に生きている人間の考え方を否定しなければ受け止めることができない恵みと誠の方がいいのか、どちらがいいのかということです。この原理がなかなか分からないのです。

肉体的に生きている自分が恵みと誠をもらおうと考える。そういうことはできないのです。肉体的に生きていないとはっきり言える人間は、掟に関係がないのです。その人は直接恵みと誠に関係があるのです。どちらがいいのでしょうか。

妻から見れば、夫というものはいいものです。また、悪いものでもあるのです。これほど悪いものはないのです。夫は惚れて慕う時には、本当に自分の命よりも尊いお方です。ところが、尊敬する気持ちがなくなると、親の敵よりもなお憎いものになるのです。憎さも増し、不倶戴天の敵のように思えるのです。

本当に自分の命よりも尊い人になるのか、自分の敵のように憎いものになるのか、どちらかになるのが夫です。女が本当に幸せになりたいと思ったら、ただ夫を慕うだけでいいのです。そうすることが、女にとっての十字架になるのです。

十字架を真正面から受け取らなければならないのは、男の方です。女にとっての十字架は、夫を慕うことです。ただ服従ではだめです。夫を心から慕うのです。心から惚れるのです。恋い慕うのです。

十六節も十七節も、深いことを書いているのです。さらに十八節です。神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わしたのであるとあります。

父の懐の中の一人子だけが、神を現わしたのです。イエス・キリストというお方は、かつて闇の懐にいたのです。今は父の懐にいらっしゃる。闇と光の両面が完全に分かっているお方です。

父なる神というお方は、闇のことはもちろん十分にご承知ですが、闇の懐におられたのではないのです。父なる神が悪魔の懐におられる訳がないのです。

父なる神はどこまでも造り主です。完全無欠なお方が父なる神であって、完全無欠というものには、一つの条件があるのです。影があるということが条件です。

「ある」というもの、「存在」というものには、影がなければならないのです。現在、皆様が知っているものの中で、影がないものがあるでしょうか。空気でも影があるのです。風でも影があるのです。人間の目に見えるような影ではありませんが、風や空気というあり方においての影があるのです。

太陽の光線には影がないように見えますが、やはり影があるのです。太陽光線がプリズムを通過しますと、七色に分けられます。これが影がある証拠です。

「ありてある」というお方、「存在そのもの」にも影があるのです。影があるから完全です。影がなければ神とは言えないのです。

人間がどんなに金持ちでも、幸福であっても、死の影が人間に付きまとっているでしょう。「この世をば、わが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」という藤原道長の有名な歌があります。宇治の平等院を造った人です。望月とは満月のことです。自分の生活も、地位も満月のように欠けた所が何もないというほど、道長は自分自身の人生に満足していたのです。しかし、死が恐ろしかったのです。そこで宇治の平等院を造って、極楽浄土を自分の住居にしたかったのです。

道長の心の中に影があったから、平等院を造ったのです。全知全能の神ご自身にも影があった。影がなければ、神ご自身の全知全能を現わすことができないからです。影があるからこそ、神の全知全能が全知全能として現われたのです。

神の影が闇です。神の一人子を、影の方へ遣わしたのです。今闇は神に背いていますが、闇がなければ、神の約束は成就しないのです。

神の全知全能は約束の完成において成就するのですが、闇がとことん神に反抗しているから成就するのです。これは八百長ではありません。宇宙の理というものです。存在というものはそういうものです。

人間は存在の状態を黙って受け取るしかないのです。皆様の頭でいくら考えても分からないのです。

影と光との関係、表と裏の関係は一体であるが、別です。全く別です。別ですが、一体です。しかし、どこまでも裏は裏であって表は表です。

「汝わが前にて全かれ」と神はアブラハムに言われた。神は前から拝むべきものです。後ろから拝んでもだめです。

神を見た者は一人もいない。一人子だけが神を現わした。一人子は父の懐にいたから、神が分かったのです。父の懐というのは、父が悪魔に対してどういう気持ちを持っておられるのかということが、十分に分かっているのです。

なぜ父が悪魔に遠慮しておられるように見えるのか。そのことをイエスは十分に知っていたのです。遠慮しておられるのではない。悪魔が悪魔でなければ、神が神でないことをイエスは知っておられたのです。イエスが父の懐におられるのです。

かつて、イエスは悪魔の懐にいたのです。そして、今は父の懐におられるのです。昇天して第三の天において、父の懐におられる。その前にも、彼がこの地上におられた時にも、肉体的に生きているという状態で、父の懐を知っておられたのです。

神は肉体を持っておられないという人がいますが、これは間違っているのです。なるほど、父なる神は肉体を持っておられない。しかし、子なる神として、肉体を持っておられるのです。

父の懐にいるお方が、肉体的にはっきり人間生活を経験しておられたのです。肉体的に生きているとはどういうものかということを、神ご自身が御子を通して、経験されたということになるのです。

一人子の神が人としてこの世に現われた。これは神ご自身が肉体的な意味での経験をするためであった。父自らが人となりたもうことはできない。また、そうする必要もないのです。

生みたまえる一人子というのは、父ご自身と寸分変わらないお方であって、位が違うだけなのです。父なるお方と子なるお方という位があるだけです。本質は同じです。従って、子なるお方が、肉体をとって現われたということは、そのまま父なる神の経験になるのです。

そういう形で、父なる神も自ら御子を通して、肉体を経験なさったということが言えるのです。これは父と御子と御霊とが一つになって、父ご自身の影を変えて新しいものとされたということです。

影が働いたことによって、神の約束が具体的に発動したのです。逆性が宇宙に発生しなかったら、神は約束を立てる必要がなかったのです。逆性が働き出すことによって、約束が立てられて、それが発動するチャンスとなったのですが、影が作用したために、新しい天と新しい地とが生み出される原因になったのです。

罪のある所に恵みの光も入ってくる原理があるのです。だから、業が深かろうが、自分という人間がつまらない者と思おうが、そういうことを思えば思う程、与えられる恵みの深さ、高さを大いに期待できるのです。

地面がくぼんだ所に水がたまるとすれば、くぼみが深ければ深い程、たまる水も多いのです。そのように考えると、悪いことが却っていいことになって、その人には受け止められることになるのです。

禍を幸いに変えることができる。そのように考えますと、非常にのびのびと考えることができるのです。この世においてつまらない自分が、つまらなければつまらない程、ますます神の恵みが多く理解できるに違いないと思えば、つまらない自分であることが感謝する原因になるのです。

イエスは悲しみの人として、この世に出てきました。人々は、イエスがローマの兵隊に強姦されて生まれたと噂したのです。誰が父親であるか分からない格好でこの世に出てきた。これは最も業が深い状態です。その業の深さを、イエスは耐えて耐えて耐えきった。一番業が深かったために、一番すばらしい恵みを、神から勝ち取ることができたのです。

だから、私みたいな者と決して思ってはいけないのです。私みたいな者だから、すばらしい恵みを神が与えてくれるのだという可能性の方に、目をつけたらいいのです。現在の自分よりも、自分に与えられるべき可能性に目をつけるということが、望みになるのです。

「信仰と愛と望みは永遠にすたらない」とパウロが言っていますが、望みとはその可能性のことです。その可能性は、現在の自分の状態が悪ければ悪い程、すばらしいものであることになるのです。マイナスとプラスが逆の形になって現われるのです。

イエスが肉体をとって現われた。このことは神が人として人間存在を経験されたということなのです。神が人間存在を経験された。このことを反対に言いますと、人間存在が神を経験することができるという道が、開かれたということになるのです。

神が人となったことは、人が神になれる可能性が開かれたことなのです。これは絶大な可能性です、それを意味するのです。一人子が地上に来られたのは、これを意味するのです。

今地上にいる私たちは、一人子が地上に来られたことを鏡にして見るなら、自分自身の望み、可能性がどういうものであるかが、簡単に分かるようにできているのです。これは非常に簡単に分かるのです。それほど、難しいことではないのです。生みたまえる一人子であるナザレのイエスが、肉体をとりたもうお方であったということが分かれば、私たち自身が神の御子として待遇される可能性があるのです。これは非常に簡単なことです。

この簡単なことを信じるのです。自分の思いを信じてはいけないのです。人間は自分の思いに取りつかれるのです。自分の思いに取りつかれて、ひがみ根性をどうしても持つようになるのです。私みたいなものは、とても一人子にはなれない。イエスのようにはなれないと思うのです。

「自分の思いを信じるな」と、イエスはいつも言われたのです。イエスが現世に出てきて、いつでも悪魔と闘って勝った秘訣がこれです。自分の思いを信じなかったのです。これだけです。

もしイエスのような運命の人が自分の思いを信じたら、とても悪魔に勝てるはずがないのです。ナザレ村に生まれて、父親なしで生まれた。世間から何を言われたのか。母親のマリヤは何と言われたのか。父親のヨセフは陰で何と言われているのか。それをイエスは何回も聞いたはずです。自分が生まれたということが、両親にまで甚大な迷惑をかけていることを、イエスは直感できたに違いない。自分が生まれたことによって、両親は世間からつまはじきをされる取扱いを受けたのです。実際にイエスは悪い人ではないのに、そのように取り扱われていたのです。

こういうことは、聖書には書いていません。かえって逆に、マリヤは非常に恵まれた人だと書いています。神から見ればそうなるのです。しかし、人から見れば全く正反対です。

神からみたマリヤが、恵みに満ちた人であるように、人から見たマリヤは最も軽蔑される人間であったのです。見方が逆になるのです。

人間が見ている自分、自分が見ている自分と、神が見ている自分は、全く逆になるのです。だから、自分の気持ちが暗くなりやすいとしても、決してひがむ必要はないのです。ひがまなければならない理由がいくらあっても、それはすべて恵みにかえてもらえるような資格だと思えばいいのです。ひがみ根性が強い人間程、恵まれる可能性が大きいと思えばいいのです。

イエスはそれをはっきり実行したのです。父の懐の中の一人子イエスが、父を現わしているのです。父の懐にいる一人子というのは、どういう所にいることをさすのでしょうか。昔は、赤ん坊を背中におんぶしないで、前の懐に入れる人が随分いたのです。平安朝の時代には、そうしたのです。働く女は背中におんぶしたのですが、働かない上流家庭の母親は、赤ん坊を懐に入れたのです。牛若丸が、常盤御前の懐に抱かれている絵がありますが、その時代は、それが当たり前だったのです。懐にいるというのは、そういう状態であって、ヨハネがイエスの懐にいた。イエスの胸にもたれかかっていたのです。

日本のような儒教的な行儀作法をやかましく言う民族では、先生の胸にもたれかかっているということは、考えられないのです。ところが、新約聖書の中で、ヨハネがイエスの胸にもたれかかっていたのです。こういうやり方が父の懐にいると言えるのです。

皆様もそれをすればいいのです。一切の警戒心を持たない、ひがんだ気持ちを持たないのです。イエスは父の懐にいて、この世で生きておられた。だから、父を信じることができたのです。

皆様も父の懐にいるような気持ちで信仰しなければ、とてもイエスを信じることができません。ひがみ根性を持たないというのは、こういう状態です。自分が業が深い人間だと思えたら、いよいよ感謝したらいいのです。これが父の懐にいるやり方です。

自分は知識がないとか、人より劣っていると思えたら、かえって父の恵みを与えて下さる原因であると思えばいいのです。そういう厚かましい考え方をするのです。自分の状態は悪い。悪いからいいと考えるのです。少ない借金よりも多い借金を許してもらった方がいいという、図々しい考え方をするのです。

ひがむよりも図々しく構えた方が、神はその人を愛するのです。心を尽くして神を愛するということが、一番必要なのです。心を尽くして神を愛するというのは、神に対して警戒心を持つとか、自分はつまらない人間だとかいうように、自分の運命を呪ったり、自分の生まれ性を悔やんだりしないのです。

ひがみ根性が一番悪いのです。何よりも悪いのです。人を憎むことよりも悪いのです。ひがみ根性は神を警戒しているのです。神に近づこうとしないのです。これが一番神に敵することになるのです。

ひがみ心は、人の生まれ性の癖だと言えるかもしれないのです。生まれ性の癖になっているようだと思えるのが、その人の業です。この業を果たさなければ、つまり現世に生まれてきた自分が死んでしまわなければ、救われないのです。

どんな理屈にあってもあわないでも、救われないのです。死ぬのが嫌なら、地獄へ行くのが嫌なら、ひがむのをやめるしかないのです。

イエスの生き方、やり方が、父なる神をそのまま現わしているのです。神を現わしたのは一人子だけであるというのは、こういうことをさしているのです。神ご自身の本当の姿、本当の御心を現わしたのは、一人子だけです。だから、イエスがこの世で生きていた生き方を、そのまま自分がなぞっていくのです。

イエスの生き方を下敷きにして、その上に自分の生き方をのせていくのです。現世で損をしようが、得をしようが、そんなことはどうでもいいのです。得をしよう得をしようとばかりを考える。それは結局自分を滅びに追い込んでしまうことになるのです。

イエスのように、父の懐に歩もうとしないからいけないのです。父の懐に入ったら、どんな悪い人間でも勝つのです。

横着をしなさいということではありませんが、横着と本当に神に頼ることとは、よく似ている所があるのです。

イエスは決して横着ではなかった。どこまでも父の懐にいたのです。自分の悪いことも、自分のつまらないことも、自分の悲しいことも、人から攻められていることも、疑われていることも、全部イエスは承知の上で、父の懐の中に転がり込んだのです。

父の懐に転がり込んでいる者を、叱りようがないのです。「窮鳥猟師の懐に入れば、猟師もそれを撃たず」という諺があります。鳥を追いかけている猟師が、鳥を見つけて殺そうとしたが、その鳥が猟師の懐に飛び込んでしまった。そうすると、その鳥を猟師は殺せないのです。窮鳥猟師の懐に入れば、猟師はそれを撃たない。ましてや、神の懐の中に転がり込んでしまえば、撃たないのです。勝です。

神に惚れるというのは、それを言うのです。キリストに惚れるのはキリストの懐に転がり込むのです。夫に惚れるのは、夫の中に転がり込むのです。転がり込んだら勝です。夫と自分が一つになってしまうからです。

イエスは父の懐に飛び込んでいたので、神が万物を生かしたもうということの意味がよく分かったのです。何のために犬が生きているのか、何のために鳥が生きているのか、それが皆分かったのです。

ユダヤ人はこれからどうなるのか、地球はこれからどうなるのか。これに関する父の御心が、イエスには手に取るように分かったのです。ある人の病気が治るか治らないかも分かったのです。

皆様がどうも聖書が分かりにくいとか、どうも聖書が信じにくいというのは、父の懐に入っていないからです。心が寂しくなったり、暗くなったりするのは、父の懐に入っていないからです。もし心が寂しいように思えたら、父の懐に入ったらいいのです。これをすればいいのです。

例えば、今日、もう一つ神と自分が離れているような気持ちがあるとします。自分がそういう気持ちがする。そういう自分の気持ちを問題にしなければいいのです。

心臓が動いていることが父です。これが父の懐にいることです。目が見えることが、神の御霊の働きです。これは父と一緒にいることです。一緒にいるのなら、自分の気持ちが暗かろうが、重かろうが関係ないのです。そういう自分の気持ちを捨てたらいいのです。イエスの真似をして、自分と父は一緒にいるということを、いつでも信じたらいいのです。

生かされていることが神です、父です。生かされているという事実があったら、その中へ転がり込んだらいいのです。これが父の懐です。

また十八節には、もう一つ意味があるのです。イエスの場合、父の懐にいたということが、一人子なる神という言い方がされているのです。父の懐にいたということが、神なのです。神の懐にいたということが、神であるということです。神と一人子とが別々にいたのとは違います。懐にいたということが、神ということです。分けへだてを全くしないのです。イエスは父と自分を全く一つとして見ていたのです。その状態をさしているのです。

私の言うことが、どうも訳が分からないことを言う人だと思えるかもしれません。人間から見れば、誰でも欠点があるように見えるのは当たり前です。

パリサイ人やサドカイ人から見たら、イエスは箸にも棒にもかからぬ無茶苦茶な人間に見えたでしょう。だから殺したのです。よくよく悪い人間に見えたので殺したのです。少しくらい悪い人間だと思えるくらいなら、十字架につけよとは言わなかったでしょう。

皆様の目から見れば、私も悪い人間に見えるかもしれません。私に近い人間ほど、私を信用できない人間になるかもしれないのです。そういうことになりやすいのです。私に近い人間ほど、私が勝手な人間に思えるでしょう。都合のよい理屈ばかりを並べているように思えるのです。

イエスの兄弟がそう思えたのです。新約聖書の中にヤコブという人がいます。イエスの兄弟の小ヤコブでしたが、イエスが生きている間は、イエスの話をまともに聞かなかったようでした。イエスが昇天してから、ペテロやヨハネに言われて、兄貴はやっぱり偉い人だったと思えたのです。イエスが復活昇天してから、小ヤコブは祭りあげられて、エルサレムの監督になっています。そんなものです。イエスに近い人間程、イエスが訳の分からない人間に思えたのです。

これはやむを得ない人間の運命です。肉体を持っている人間には、そういう条件があるのです。イエスをまともに信じようと思ったら、肉体を持っているという条件を考えたらいけないのです。これを考えるから分からなくなるのです。自分が肉体を持っている。イエスが肉体を持っている。これを考えると、肉体存在の人間が人間であるという常識に立っていることになるのです。

肉体を持っているという仮の姿を取らされる状態で、イエスをどのように信じるかどうかを、試験されているのです。自分の思いを捨てるか捨てないか、肉体的に生きている自分を、信じるか信じないかだけです。肉体的に生きている自分を信じると、自分はいいのに、相手は悪いと考えるのです。あの人は嫌いだ、この人は好きだと考えるのです。あの人は善人で、この人は悪い人だと考えるのです。善悪とか利害を考えるのは、すべて現象を実体だと考えているからです。

イエスがこの世に遣わされたのは、人間は肉体的に存在するのではない、人間の本性は霊なるものであって、肉なるものではないことを証明するためであったのです。

イエスは肉体的に生きてはいたが、それを自分自身の気持ちにおいて、気にしていなかったのです。色即是空をそのまま実行していたのです。イエスは本当に色即是空を実行していたのです。

十八節にはそのことがらが自然に書かれているのです。父の懐にいます神という言い方は、彼は実は肉体的に生きていたのではないということを意味するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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