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へびの思想


霊的に神を見る。また、悪魔を見る。これは目で見ることとほとんど同じようなことなのです。現象的に目で見るという機能が、心理的に作用する場合のことを信じるというのです。また、見分けるとも言います。そういう機能が人間にあります。五官の働きは生まれる前に、神に植えられていたのです。受動性のロゴス(言)が植えられていたのです。

神の創造は能動性のロゴスです。それを受け止めるロゴスは、受動性のロゴスです。これは愛するという形の男性的なロゴスと、愛されるという働きの女性的なロゴスとがあるのです。

人間でも部分的に、物を造るとか、考えるとかという能動性のロゴスという面もありますが、神に対しては、見るとか、聞くとか、触るとかいう形で、ほとんど受動性のロゴスになっているのです。

ところが、これが制限されているのです。空中の権をとる司によって、五官として人間に植えられているロゴスが、そのまま霊的に働くべき性能を本来持っているのですが、これが制限されているのです。神から与えられている受動性のすばらしい面を、現象的な面に働くように制限されてしまっているのです。霊的に働くことができないように、仕向けられているのです。そのように強制されているのです。

これは人間自身の心理作用によって、そうされてしまっているのです。そこで、人間は現象的には感受できるけれど、霊的には感受できない状態になっているのです。

舌で味わう味は分かりますが、魂で味わう味は全く分かっていません。舌で味わう味の中には、自ずから魂で味わう味が含まれているはずです。

一つの存在には、天の面と地の面とがあります。天の面と地の面が一つの物体の中に含まれているのです。人間は地の面の方は理解できるけれど、天の面の方は理解できないという、情けない状態になっているのです。これが原罪による罪人の無明煩悩です。人間は無明によって縛られている。原罪動物としての悲しさがここにあるのであって、現象的に見ることはできますが、霊的に見ることができないのです。考えてみれば分かるのですが、現象世界のすばらしい状態が、現象的にだけ受け取ることが甚だおかしいのです。

一軒の家を建てるとします。その家を建てるためには、まずどういう家を建てるのかということを考えるのです。その考えをまず図面に書くでしょう。その図面に何回も変更を加えて、自分の理想どおりの図面ができあがった所で、見積りをしてもらいます。図面という設計図がなかったら、家は建たないのです。犬小屋みたいなものなら、図面がなくても建てられますが、一家族が何十年も住もうと思ったら、それだけの準備がいるに決まっています。

ましてや、森羅万象がこのように存在する地球を創造するとすれば、創造者の考えの中に、まず天地万物についての大構想が練られたに決まっています。その大構想に基づいて、計画されたでしょう。地球の場合には、地球の青写真とか、地球の原図とかいうものはありません。これは全知全能の神が、神の全能において計画されたものです。その場合でも、人間が計画するのと同じように、神が計画されたのです。

人間の製造能力とか、思考能力とかいうものは、すべて神にかたどりて人間に造られているのですから、人間のやり方を霊的に押し広げて考えますと、神の性格、神の能力が想像できるのです。だから、今家を建てるということについて、人間のやり方を言いましたが、それはそのまま天地創造の場合にも、原理的には当てはまるに決まっているのです。

まず、目に見えない全知全能である神の思考、構想があったのです。それが試行錯誤されて、現在の天地が造られてきた。この段階が創世記に示されているのです。

そうしますと、この地球が造られる原案、または原図は何であったのか。これは人間の思考能力が正しく働く人なら、大体想像ができるはずです。

雲の流れを見ても、あのような雲があのように流れている、その神の御心は何であろうかということが分かるはずです。夕焼けの空を見ても、イエスが言うように、「雲が西から出てくるのを見れば、雨が降ることを感じるであろう。また、南風が強い時には、暑くなるであろう。そのようにおまえたちは、天候や、気候の状態を見ることができる。どうして時のしるしが分からないのか、偽善者よ」(ルカによる福音書12・54〜57)とイエスがパリサイ人を叱っているのです。

実際人間は、天候を見ることができるのです。気候を感じることができるのです。それほどの英知があれば、時のしるしくらいのことは分かるはずです。

新約の時代とは何であるか、西暦紀元とは何であるのかが、ユダヤ人には分からないはずがないのです。ところが、ユダヤ人は新約の時代が分からない。イエス紀元の時代が分からないのです。分からずに頑張っている。このユダヤ人の頑迷さは、全くひどいものです。

異邦人である皆様は分かっているのでしょうか。イエス紀元とは何のことでしょうか。なぜイエス・キリストの誕生によって紀元元年としたかです。こういうことは、現世における歴史的段階をよくよく見れば、目に見えない神の御心くらいは何であるかは、分かるはずです。

山の姿を見る。果物の形を見る。牛の姿を見る。牛が牛として生まれる原形くらいのことは分かるはずです。犬が道路を走っていますが、犬の原形とは何なのか。なぜ神は犬を造ったのか。これくらいのことは考えてみたら分かるのです。皆様は、何かを食べたら味が分かります。味が分かる人は、原形が分かるはずです。考えようとしないから分からないのです。

神は分かる能力を皆様に与えているのです。五官に与えられている理性に従って真面目に考えたら、生まれる前に植えられた受動的な神のロゴスというものが、自分の魂の本源として、しっかり植えられていることが分かるはずです。五官があるということは、神のロゴスを持っているということです。神のロゴスをはっきり認識すれば、また、自分の魂の本性の性能が何であるかが分かりさえすれば、はっきり霊的に目を開くことができるはずです。

ところが、それができない。なぜできないのか。肉の思いによって押さえ込まれているからです。自分自身の肉の思いで、自分の心が束縛されているからです。

全世界の人間の肉の思いが積もり積もって、空中の権ができているのです。全世界の肉の思いが積もり積もって、恐ろしい人間社会の権威を造っているのです。人間社会のオーソリティを造っているのです。これが学問の権威です。常識の権威です。知識の権威です。人間自身の経験の積み重ねという恐るべき権威です。これが空中の権となって、人間の心を縛りあげているのです。

人間は現実において、霊的に見る本性を与えられているのです。ところが、その本性を使っていないのです。活用していない。そして、肉性ばかりで生きている。

これは人間の本性がへびであるということを意味しているのです。へびであるということは、二つの面を持っているのです。元々へびというのは、ルシファーであって、天使の長でした。輝くものと言われているもので、これが創世記の第三章にはサーペントとして現われているものです。

これが神に対して、自分自身の存在を主張したのです。自我意識というものを、天使長が創作したのです。神から離れて自我が存在しうるという、新しい概念を彼は造ったのです。これが虚偽の創造の第一原理になっているのです。自我の確立が近代文明の第一原理になっているように、人間の陥罪というものは、自我意識の創作が、宇宙の罪というものの第一原理になっているのです。へびはこれをしたのです。

神から離れて、自分が存在するという意識を創造したのです。創作したのです。その結果、天使長の位を取り上げられて、天から追い落とされた。ところが、本人は、自我意識が悪いとは思っていないのです。現在の人間も、自我意識が悪いとは思っていません。デカルトは自我意識は当たり前だと言わんばかりに、胸をはって堂々と、「我思う故に我あり」と言っているのです。これははっきりへびの意識です。そういう意識によって西洋文明ができています。また、今日の学校教育という概念ができているのです。民主主義は自我意識を持った人間の集まりによってできていますが、民主主義の根本原理を造っているのが、へびの思想です。へびの思想が「我思う故に我あり」という原理を造っているのです。

神から離れて独立することができるというのが、デカルトの考えです。デカルトの考えはそのまま天使長ルシファーの考えであったのです。天使長は天から追い落とされはしましたけれど、我ありという意識は少しも衰えていません。

宇宙に自尊心という妙なものが発生したのは、自我意識が原因です。自我意識がなければ、自尊心というものはあるはずがないのです。従って、不平不満とか、欲求不満があるはずがないのです。強迫観念とか、被害妄想とか、取り越し苦労とか、悲しみとか苦しみとかいうのは、自我意識があるから発生しているのです。

犬や猫にはそういう意識はありません。人間は自我意識の結果、そういう意識を持っているのです。これははっきりへびの思想からきているのです。へびの意識が人間の中に入って、とぐろを巻いているのです。へびにはそのように、威張って、ふんぞり返っている一面と、もう一つ別の、自分はだめだと思う気持ちがあるのです。だめだと思うのは、天から追い落とされたへびは、急に天には帰れないからです。そのことをへびは知っているのです。一方においては、自尊心を持って威張っているくせに、もう一方では、自分はだめだと思い続けなければならないという運命にあるのです。

皆様も、私みたいなものはだめだと思いながら、本当にくだかれようという気持ちにはならないでしょう。何もかも全部投げ出そうという気持ちにはならないでしょう。だめだと思いながら、自分を投げ出す気持ちになれないということが、皆様の自我意識がはっきりへびだということの証拠になるのです。へびはどうせ死ななければならないと思っています。どうせ死ななければならないのではありません。天から追い落とされたことが、既に死んでしまったことなのです。

ところが、この世がある間、人間がへびを崇めているので、人間がへびの根性を自分の根性だと思い違いをしているのです、へびは人間を自分の手先に使っているのです。だから、人間の上に乗って、生きているのです。本当は死んでいるのですが、人間がへびを甘やかしている、人間がへびを信じている、へびを尊敬しているのです。だから死んでいるへびが生きていることになるのです。自尊心というのは、へびを尊敬する気持ちです。この気持ちが人間にあるから、へびはのうのうと生きていられるのです。これが空中の権になっているのです。

へびに権威を与えているのは、人間です。皆様が自我意識によって、自我を認めている。これはへびを認めていることになる。認めている以上に、尊重し崇めているのです。ところが一方、自分は死ななければならないと思っている。死ぬに決まっていると思っているのです。これはへびの心が人間に乗り移っている証拠です。

自分はだめだ、自分みたいなものはだめだ。私は死ななければならないと思っている。そうして、地面を這いずり回っているのです。「地に腹ばいて、ちりを食え」(創世記3・14)という神の命令を実行しているのです。神がへびに与えた宣告を、現在人間が実行しているのです。地面を腹ばいて、ちりを食らっているのです。人間が考えていることは、地面のことばかりです。ある人がああ言った。この人がこう言った。得をした。損をしたことばかりを、考えている。ちょっと損をすると、げんなりしてしまう。得をしたら大喜びをする。こればかりをしているのです。

パウロはこれについて次のように警告しているのです。

「このように、あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

上にあるものを思うべきあるという所は、英訳では、(set your mind on the things that are above)となっています。これはおまえたちの精神を、上にすえておけと言っているのです。セットしなさいと言っている。アバブというのは非常におもしろい言葉でありまして、上下の上ではなくて、頭の上からきた言葉らしいです。人間は頭の上は見えないのです。目に見えないことをアバブというのです。頭の上のことです。人間の常識、知識の上、人間の思考の上がアバブです。目に見えない所に、おまえのマインドをすえなさいというのです。

これをすれば、へびに勝てるのです。現実的に生きている自分というものは、死ぬに決まっている自分です。死ぬに決まっている自分を自分だと思い込んでいる人は、絶対にへびには勝てません。

ユダヤ人が現在もなお、旧約の掟の中に閉じ込められて苦しんでいるのは、彼らは聖霊降臨という大事実を知らないからです。全く知らないのです。ヨーロッパのキリスト教国では、聖霊降臨祭をしますが、ユダヤ人はそれに見向きもしないのです。ペンテコステ(聖霊降臨祭)は元来ユダヤ人の祭りです。それが今ではユダヤ人が無関係だと思っているのです。

地面を這いずり回って、上のものを見ていないから、そういうことになるのです。ユダヤ人は下にあるものばかりを見ているのです。地の上のこと、地上のことばかりを見ているのです。

イエスがニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言ったら、ニコデモが仰天してしまった。イエスは地のことを語ったら仰天した。こんなことで天のことを語ったらどうするかと戒めたのです。

人間が新しく生まれることさえも、イエスは地のことと言っているのです。人間が考えていることは、ほとんど地のことです。自分が聖霊を与えられたいと考えている。自分の信仰を加えてもらいたいと考えている。自分の中にいるへびをどうしたらいいのかと考えている。これは地のことです。「へびを退治したければ、上にあることを思え」と、イエスが言っているのです。地上にいる自分のことを考えていることは、それが霊的だと思えても、実は地のことです。天のことではないのです。

天のこととは何か。キリストが第三の天において、神の右に座したもうということです。これが上のことの根本です。上のことの土台はキリストを思うことです。地のことの土台は、自分のことを思うことです。自分のことを思うことは、例えばそれが信仰的なことであっても、自分のことを中心に考えている人は、やはり地のことを思っているのです。キリストのことを考えている人は幼稚な考えであっても、上のことを思っているのです。

自分のことを考えないで、キリストのことを考えるというくせをつけるのです。そうすると、へびに勝てるのです。地の思いに勝てるのです。

人間の歩みは、本質的には肉の自分が生活しているのではなくて、生活させられているのです。ことに商売の場合には、一人ひとりの客を引っ張ってくる訳でもないし、また、何が売れるのか分からない場合が多いのです。これは神の導きによて商売をさせられているということです。それを自分が商売をしていると思っているのです。

そういうことを考えないで、神の右にキリストが座しておいでになるということを、考えてみて下さい。皆様が信じているいるキリストは、神の右に座しているのです。神の右というのは何か。神は全知全能で宇宙で一番偉い訳で、そのお方の右というのは、神よりも位が上になるのです。

キリストが神の右に座しておいでになるということを考えまして、もし皆様が本当にキリストを信じているとすれば、皆様の願いはそのまま宇宙のあらゆる事に優先されることになるのです。私はこれを考えると本当に楽しくなるのです。

私が考えることは、宇宙のあらゆることに優先するのです。イスラエルを救いたまえという私の願いは、宇宙のあらゆることに優先します。地球が自転公転していることよりも、私の祈りの方が、神の前には大きい力を持っているのです。だから、イエスは風が吹いていることよりも、自分の信仰の方が大きいことを知っていた。だから、「風よ、静まれ」と、風を叱ったのです。風は静まったのです。

本当にキリストを信じてみて下さい。本当にキリストを信じて心に願っていることは、宇宙のあらゆる事がらに優先するのです。これが神の右に座するキリストの権威です。

モーセはイスラエルのために祈った。自然現象よりもモーセの祈りが優先したのです。イエスは、五千人の人々にパンを与えるために、神に祈ったのです。その時、五つのパンで五千人を養ったのです。奇跡はすべて、自然現象に優先したのです。

大自然の法則に優先するのです。だから、水がブドウ酒になるのです。水の上を歩けたのです。地球が回転していることよりも、太陽が輝いていることよりも、さらに強力なことは、キリストが神の右に座したもうということです。

だから、モーセが祈ると、地球の回転がとどまったのです。銀河系の動きよりも大きいこと、これがキリストが神の右に座しているということです。これは驚くべき大事実です。この事実を信じる人だけが、キリストを信じるというのです。

人間は誰でも、自分が信じて何とかしなければならないと思っているのです。イエスの十字架でも、自分が十字架を信じなければならないと思っているのです。自分というのが、実はへびです。だから、いくら信じてもだめです。

へびは元々、天にいたのですから、神のことはよく知っているのです。ヤコブの手紙には、神が神であるということくらいは、悪魔でも信じていると書いています。悪魔でも神を怖がっているのです。悪魔は神の前に堂々と出て、神と問答しています。ヨブ記に書いているのです。だから、皆様の中にいるへびは偉いのです。十字架のことも、理屈では知っているのです。聖書の言葉くらいは良く知っているのです。宗教観念というのは、へびが聖書を学んでいるその気持ちのことをいうのです。

そこで、十字架を受け取りたいと思うのです。悪魔でももし何とかできるなら、神が許してくれるなら、やはり許してもらった方が得だという計算ができるのです。ところが、また、自分は絶対に許してもらえないということも知っているのです。知ってはいるけれど、もし何とかなるのなら、許してもらいたいと思っているのです。これが人間の宗教心になって現われているのです。

人間が考えていることは、良いことを考えても、悪いことを考えても、全部へびの考えです。親孝行を考えることもへびの考えです。親に孝行するよりも、神に孝行する方が大切なのです。自分の肉体を養うよりも、魂を養うことの方が大切です。この世の商売よりも、聖書の勉強の方がはるかに大切です。

ところが、そんなことでは生活ができなくなると考えるのです。こういう考え方になるのは、へびの考えで信仰しているからです。へびが信仰しようと考えると、やはり商売が大切だ、生活があっての信仰だと考えるのです。生活の安定があって、信仰ができると思うのです。人間は商売は自分のもの、人生は自分のものだと考えているのです。だから、自分が信じなければ救われないと思っているのです。

現在のイエス紀元の時代においては、地球が回っているということが、神の国です。今、私たちがここにいるということが、神の国にいることになるのです。ところが、今いるのは、現世だと思っている。従って、考え方が全部地につける思いになるのです。バカなことをしているのです。

イエス・キリストの十字架によって、地球全体に御霊が流れたのです。十字架には辛い面もあります。自分を否定するという辛い面もありますが、良い面の方がはるかに大きいのです。

今や、あなたがたはすでに甦ったのだから、上にあるものを思いなさいと言っているのです。キリストは第三の天において、神の右に座したもうからです。この言葉をよくよく考えてみれば分かるのです。十字架以前の人間は一人もいないのです。現在すでに、神の国が来てしまっているのです。聖霊が降臨しておいでになるというのは、そのことです。

ところが、皆様はまだこの世がある。十字架によって自分は死ななければならないのだと考えている。もう皆様は死んでしまっているのです。

三節には、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのである」とあります。人間はすでに死んだものです。救われなければならないとか、行いを正しくしなければならないとかを、なぜ考えるのでしょうか。なぜこの世の常識に従わなければならないのでしょうか。

死んだ人間が常識に従うのでしょうか。皆様は既に死んだものです。墓になっているのです。墓は雨が降ろうが、雪が降ろうが知らん顔をしています。ところが、ちょっと嫌なことを言われると、もう機嫌が悪いのです。自分を理解してもらえないからといって、なぜ嫌な気持ちになるのでしょうか。墓になっていることを、よくよく承知したらいいのです。

肉体人間はすべて墓ですから、食べるものがあれば食べたらいいですし、なければ食べなくてもいい。この世に生きていられたら生きていたらいいし、生きていられなくなったら、この世を去ったらいいのです。

私たちの運命は良くても悪くても、すべて神の手に握られているのです。キリストの手に握られているのです。私たちはいないのです。すでに死んでいるからいないのです。死んだ者が取りこし苦労をしたり、思い煩ったりすることがおかしいのです。自分のことを一切問題にしないということが、十字架を受け取ることです。自分で十字架を受け取ろうと思えば、すでに自分のことを問題にしているのです。これはへびの業です。十字架をもっと知りたいと思うのは、自分がそう思っているのです。これはへびに担がれているのです。あなたがたは死んだものにしてとありますが、自分がどう思おうが関係なく、上にあることを思うのです。

例えば、今日頭が重い感じがする。そして、聖書を読んでもさっぱり分からない。一向に実感がない。これは自分の状態を自分が見ているから分からないのです。自分の頭が重かろうが暗かろうが。それを問題にしないのです。自分の頭が重いというのは、地の問題です。だから、地のことを思わずに、天のことを思ったらいいのです。頭が重いとか、すっきりしない時でも、それをいちいち信じる必要はありません。神を信じるというのは、どんな場合でも自分の思いを信じないことをいうのです。

コロサイ人への手紙の三章は、へびに勝つ方法を言っています。さらに、エペソ人への手紙第二章には、次のように書いています。

「さて、あなたがたは先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、私たちも皆、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、他の人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった。

しかるに、あわれみに富む神は、私たちを愛して下さった。大きな愛をもって、罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、あなたがたが救われたのは、恵みによるのである。キリスト・イエスにあって、共に甦らせ、共に天上で座につかせて下さったのである」(1〜6)。

二節にありますように、空中の権をもつ君がいるのです。この気持ちにならって生きていた。空中の権は、不従順の子らの中で、今も働いている霊です。不従順の子とは何かと言いますと、自分が生きていると思っている人間のことです。従順とは何かと言いますと、自分はいないと考えることです。

十字架は神の処置ですから、神の処置に対しては従順である人は、自分は生きていないと思うはずです。ところが、自分が生きていると思っている者は、神の処置に反抗しているのです。十字架の処置に反抗しているのです。そこで、自分は生きていると思っているのです。そういう不従順な人は、空中の権をとる君、すなわち悪魔の力が働いているのです。これは不従順な人間にだけしか働かないのです。

十字架によって悪魔の頭が砕かれているのです。へびの頭が砕かれている。へびの権威はなくなっているのです。だから、へびにいくら逆らっても、へびが今の人間に仇をするというのはできないのです。

肉体を殺すことができても、魂を殺すことができないものを恐れるなと、イエスが言っている。今や悪魔は私たちの魂をどうすることもできないのです。

仮にムカデがかんでも、本当にキリストが天において神の右に座したもうということを、本当に実感している人間には、毒がきかないのです。パウロの手にマムシがかんだのですが、パウロの体に毒は回らなかったのです。人々は驚いたのです。

キリストが第三の天において座したもうというのは、そういう効き目があるのです。本当にキリストが第三の天において、神の右に座したもうということを信じてみて下さい。

大自然の法則よりも優先するのです。死ぬべき体が生かされるのです。大自然の法則を無視することができるのです。キリストを信じる者にとっては、景気、不景気は関係ない。もっと大きい信仰を持って頂きたいのです。度胸をすえた信仰を持つのです。自分を捨てさえすれば、大きい信仰を持つことができるのです。

空中の権をとる者と言えども、神の御座の右に座したもうお方には適わないのです。へびの頭はすでに十字架で砕かれているのです。頭を砕かれているというのは、へびの思想が真っ向から叩きつけられてしまって、無力になっているということです。

私はへびの悪口をどんどん言っていますが、私の口を封じることはできないのです。自尊心はへびの産物だ、不平不満はへびの考えだと言っても、それに反論する人はいないのです。事実だから反対できないのです。

大体、自尊心とか、不平不満が人間の中から沸いてくるはずがないのです。ただの人間なら、お天とうさんと、ご飯が頂ければ有難いと思うはずです。犬や猫なら、お天とうさんと食べ物が与えられたら、それで十分満足して寝ているのです。

人間は、生かされているということだけでは満足できないのです。これはへびの呪いに決まっています。生かされていたら、けっこうなのです。

自分で考えることをやめるのです。キリストが第三の天においでになるということを、いつでも頭に置いているのです。そうすると、自分にかわってキリストが考えて下さるのです。自分の人生のことを、キリストに考えてもらうのです。自分の魂のことを、キリストに考えてもらうのです。そうすると、必ず勝てるのです。時には、負けそうな気がするかもしれませんが、それは試みです。試みに勝って、自分の運命をキリストに任すのです。キリストに考えてもらうのです。そうすると、必ず勝てるのです。これをしたらいいのです。

信じるということは、見ることです。第三の天において、キリストが神の右に座したもうということを、見るのです。これが信じることです。見ることをしないで、信じよう、信じようと思う。これはすべて宗教観念になるのです。

現在、空中の権をとっている者は、人権という非常に悪質な権利を持っているのです。ただ自分がいるという自我意識だけでなくて、自我意識がだんだん発展して、今では基本的人権という考えに成長しているのです。へびが竜になったのです。へびが赤い竜になっているのです。

自我意識は単なるへびです。ところが、人権意識というのは、竜です。王様です。空中の王様です。この空中の王様が、天と地との真ん中に頑張っているのです。神の国と現世の人間社会との真ん中で、頑張っているのです。私たちの心が、神に通じないようにしているのです。空中で妨害しているのです。

人権を捨ててしまえば、へびは小さくなるのです。人権という考えを頭に持っていますと、これが土台になって、いつでも苦しまなければならないのです。人をバカにしてと考えるのです。

人権という妄念が、世界中を横行闊歩しているのです。基本的人権を無視しては、政治ができないのです。これが赤き竜です。この赤き竜が現代文明では、はっきり空中の権をとっています。神よりも、キリストよりも、赤き竜の方が偉いのです。やがて、キリスト再臨の前に、赤き竜が地上に降りてきて、赤き竜自らが政治をすることになるのです。これが偽キリスト王国です。間もなくやってくるでしょう。これが艱難時代です。

赤き竜は、やがてキリストに追い落とされます。キリスト再臨の時期が近づいてくると、追い落とされるのです。それは私たちがイスラエル回復のために祈っているからです。イスラエル回復のための祈りは、竜を地上へ追い落とす祈りになるのです。恐ろしい祈りです。だから信仰によって祈って頂きたいのです。第三の天にキリストがおられること、宇宙の絶対的権威をキリストが持っておられることを信じて、キリストの御名によって祈って頂きたいのです。

そうすると、イスラエルに対する神の処置が、どんどん早められるのです。偽キリスト王国がやがて地上に現われる。そして、偽キリスト王国がキリストによって潰されるのです。上にあるものを求めるのです。これによって、空中の権をとる者に勝つことができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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