聖書に次のようにあります。「そして、それを神は御霊によって私たちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。一体、人間の思いはその内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように、神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである」(コリント人への第一の手紙2・10〜12)。
また、同じ箇所の九節には次のように書いています。
「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために備えられた』のである」。
九節に書かれていることですが、人間が究極的に知らなければならないことは、この箇所です。自分が損しても、また、得をしても、そんなことはどうでもいいのです。皆様が究極的に知らなければならないことは、九節です。そのためには、十節が必要です。十一節は、人間存在を譬として言っているのです。九節、十節を説明するために、人間存在の事例を持ってきて、人間でもこういう状態であるということを言っているのです。
人間自身を知ることが、神の在り方を知ることになるからです。そこで、人間自身の事がらを知るためには、こういう心掛けが必要だと言っています。そのように、神のことを知るためには、十節とか十二節のことがらについて、知らねばならないのだとなるのです。
目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことが、人間がつきとめなければならない人間自身の存在価値です。神を愛する者たちのために備えられたのは、そういう事がらだと言っているのです。
神を愛する者たちというのは、端的に言いますと、天使長ルシファーの思想に同調しない者です。これは万物の霊長として自らを完成する素質を持っている者という意味です。
それを錬成するため、同時にそれをまとめて一つの人格として完成するために、聖書が書かれているのです。天地が造られたのもそのためです。
神を愛する者たちに、特殊な特権を与えるためです。特別の権益を与えるために、天地が造られたのです。どういう形で利益が与えられているのか。目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこととは、どんなことかということです。
これは、ヨハネによる黙示録に書いてあるとおりです。
「私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声を叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」(21・1〜4)。
先のものがすでに過ぎ去ったからであるという言い方に、ご注意頂きたい。先のものというのは、今私たちが経験している世界をさしているのです。いわゆる現象世界です。この現象世界というのは、人間の肉体に植えられている五官によって触れること、見ること、聞くことができる世界です。肉体的な五官によって感覚し、理解することができる世界です。これが現在の世界です。
ところが肉体的な五官によって感覚できる世界というのは、可視光線の世界です。肉体的に感覚することが、可能な世界ということに限定されているのです。太陽光線の反射によって物が見えるのであって、赤外線から紫外線までの範疇の色、七色に分光される範疇に属する物だけしか見えないのです。それに反射する可能性があるものしか見えないのです。反射しないものは一切見えません。
聞くことも同様です。私たちの耳の鼓膜に適合するような音響だけしか分かりません。例えば、地球が自転し公転している恐ろしい音は、全然聞こえてこないのです。
そのように、私たちが見たり聞いたりしている世界というのは、宇宙存在全体のほんの一部です。それが全部の宇宙ではないのです。
ところが、困ったことには、古代ギリシャの昔から、今日まで、宇宙はああだ、こうだと色々考えていた。それが九十九説も、百説もあるというのですが、それが皆人間の肉体で感覚できる角度からしか見ていないのです。
自分自身の善悪利害ということさえも、自分の肉体感覚によってしか見ていない。考えてみると、全くバカみたいなことをしているのです。
人間の五官で感じられる世界というのは、やがて消え去ってしまう世界です。先の世界はすでに過ぎ去ったと書いているのです。
人の目から涙を全くぬぐいとって下さった。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもなくなってしまったとあります。つまらないことに妄念を使うことがなくなったのです。
神が人と共に住むとはどういう世界かと言いますと、宇宙が完成された後の世界のことです。これは仏説阿弥陀経にある仏国浄土とは違います。これはあらゆる矛盾を完全に克服して、科学的に地球が完成した段階のことを言っているのです。
海がなくなったと言っているのです。時間、空間の世界がなくなったのです。従って死がなくなっている。すべての涙がなくなっているのです。苦しみも、悲しみも、すべての痛みもなくなっている。もはや焼きもちを妬くことも、疑いを抱くことも、くよくよすることもなくなっているのです。人間はこれを望んでいます。それは、人間が出てきた先の世界が、そうであったからです。
人間が先天的に、先験的に存在した世界があるのです。ア・プリオリというドイツ語は、先験的と日本語では訳していますが、先験とは、生まれる前に経験していたという意味です。
人間の経験の原点がそれです。だから、これは先験的というよりも、原験的と言った方がいいかもしれないのです。先験と言いますと、前に経験したということになるのです。今日の経験よりも去年の経験を、先験ということができるのです。
原験になりますと、元々の経験となるのです。皆様は今、元々の経験で生きているのです。
例えば、赤ちゃんが生まれると、その日にかにばばという黒い胎便を出します。それからお母さんのおっぱいにしがみつくのです。これがおかしいのです。おっぱいに吸いつけば、お乳が出ることを知っているのです。しかも、猛烈な勢いで吸うのです。そうすると乳道が開くのです。そういうことをどうして生まれたての赤ん坊が知っているのかということです。原験があるからです。
原験は人間が生まれる前にいた世界で、死がない世界です。この世界は、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かばなかった世界です。この世界が明らかにされ、それに帰る方法を教えられるのです。これが死なない命の唯一の捉え方です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)