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ア・プリオリの命


聖書の目的は、神の約束の成就です。神の約束の成就ということは、人間の完成を基礎にする万有の完成です。これを聖書的な言葉を用いますと、神の国と神の義が、被造物すべてに実現することです。そのために、どうしても必要なことは、人間創造についての神の御心を知ることであり、神の約束を成就するための人間に与えられている責任の自覚ということになるのです。

アブラハムとその子孫とが、世界の相続人として定められた。これはローマ人への手紙の第四章の十三節に記されていることです。アブラハムとその子孫とが、世界の相続人として指定されたという事実を、現在のイスラエルは自覚していないのです。

相続人として指定されたということを、全世界の長男としての光栄なる資格を与えられたユダヤ人が、自覚していない。これが世界の文明を行き詰まらせている根本原因になっているのです。相続人として指定されたユダヤ人が、現在では神の怒りをかってはいますけれど、相続人であるということが、否定された訳ではないのです。

相続人であるがままの状態で、神の譴責を受けているのです。彼らが自分たちに与えられている神の期待と約束の重大さに目覚めて、約束の民である本来の面目に立ち返ることが絶対に必要です。そのために彼らがどうしても知らなければならないことは、黙示録の第四章から五章にかけて記されている、神と人との基本的な係わりが、どのようなものであるかを十分に弁える必要があるのです。

神は、現在私たちが考えているような人間存在を造ったのではないのです。肉体人間を造ったのではないのです。肉体人間として現われている、土のちりとしての人間を造ったのです。これがイスラエルに全然分かっていないのです。土から出たものは土に帰るのです。しかし、ちりから出たものはちりに帰るべきなのです。

ちりから出たのは、霊なる人間をさすのです。霊なる人間存在というものが、理解されていないのです。霊なる人間存在は肉体では生きているけれど、実は肉体人間ではないという自覚を持っているのです。その自覚を持つことを許された人間であって、これはヨハネの黙示録の第四章に言われている長老です。万物の長として神の期待と責任とを負担させられているものです。神の光栄ある期待を担っている人間です。

これは万物の長老そのものであって、万物と共に生き、万物の長として自分自身の責任を自覚している者をさすのです。これがちりで造られた人間です。神はそれを造ったのであって、肉体人間を造ったのではありません。肉体人間は生物であって、クリエイチャー(creature)と言われるものです。これは動物人間であって、被造物ではありますが、リビングという事がらの意味を会得していないのですから、リビング・ソールではない。ただのクリエイチャーです。生物学の対象になる哺乳類なのです。

ところが、人間存在の能力性、生かされている事がらの実体、人間社会を造っている内容のすばらしさ、内容の実績を子細に点検して、人間は何をしているのかということです。何をさせらされているのかということを検討すると、人間は知るや知らずや、すばらしいことを現実にしているのです。

ところが、していることの意味を心得ていないために、彼らはその成す所を知らないとイエスに言われているのです。人間の学的思考能力とか、文化的創造性というものを、一つひとつ取り上げてみますと、すばらしい業績と実績を残しているのです。人間のこの能力性は一体何かということです。

ヨハネは「世に勝つことは、我らの信仰である」(ヨハネの第一の手紙5・4)と言っています。世に勝つということが、私たちの信仰の目的です。この世というのは、肉の人間が集まっている人間の集合体です。世に勝つ信仰というのは、肉体人間に勝つ信仰という意味になります。

肉体人間というのは、肉体的に存在するという意識に基づいて生きている人間です。肉体的生活を基準にして考えている人間集団が造りあげたのが、現世社会です。この現世社会に勝つのです。

世に勝つ勝利が私たちの信仰です。これはどういう信仰かと言いますと、イエスを神の子と信じることです。イエスを神の子として信じることができる人は、自分を神の子として信じることができている人です。

なぜなら、パウロがローマ人への手紙で言っていますように、イエスは私たちの主です。イエスを主として言い現わすこと、そして、彼が死人のうちから甦ったことを信じるなら救われるとパウロは言っています。イエスを主と信じることが、人間の思考方式の原点になるのです。イエスが主であることを信じることは、自分自身の主体性がイエスであること、神の子であることを承知していることになるのです。

イエスが神の子であることを信じること、自らイエスと同様にその人が神の子であることを認識していることになるのです。そこで、イエスを神の子であると信じることができて、イエスが自分自身の主体であることを信じることができれば、自分はもはやこの世の者ではないことを信じているのです。

イエスが神の子であるとはどういう意味かということですが、これに対してヨハネの説明は、イエスは水によりてきたのであると言っています。水だけではなくて、水と血とをかねて来たりたもうたお方であると言っています。ところが、水と血とによって来たりたもうたお方というのは、イエスの外形の説明にはなりますが、イエスの内形の説明にはならないのです。

ヨハネの第一の手紙に記されている神の子というのは、肉体を持って来たりたもうた人をさしているのです。四章を見ますと、イエス・キリストが肉体にて来たりたまいしことを言い現わす霊は、神から出てきたのであると言っています。これは肉体を持ってきたイエスを説明しているのですが、このことでさえも、キリスト教では何のことか分からないのです。

肉体で来たりたもうたイエスというのは、普通の人間と同じ状態で地上に生きていたイエスという意味です。いわゆる小便するイエスです。ご飯を食べたら、便所に行くのは当たり前ですが、こういうイエスのことを言うのは、カトリックでは禁句になっているのです。イエスが便所に入っていたとは決して言わないのです。もしイエスが便所に入っていなければ、山上の垂訓が説けるはずがないのです。ところが、キリスト教は便所に行かないイエスを拝んでいるのです。神格化されたイエスを拝んでいるのです。

これはイエスを崇めているように思えるのですが、非常にイエスを軽蔑しているのです。父なる神は御子を罪人の形をとって、この地上へ遣わされたのです。これが父なる神の秘密です。肉体を持ってこの地上で普通の人間と同じような生き方をしなければならない条件を、御子であるロゴスに与えたのです。ロゴスは嫌だとは言わないで、自分の栄光の位を捨てて、罪人と同じ形になってこの世に現われたと、ピリピ人への手紙の二章で言っています。そういう形で、イエスはこの世に来られたのです。

ただ肉体をとって罪人と同じようにしてこの世に来ただけではなくて、十字架の辱めさえも受けて、十字架の死さえも甘受された。これは全く筆舌に尽くせない所業でした。神はこのイエスの所業に対して、イエスを甚だしく崇めたのです。そして、キリストを神ご自身の右に座せしめたとあるのです。これが新約の救いの原理になっているのです。

肉体にて来たりたもうたイエスは、どういうお方であったのか。私たちはそれをどのように理解すべきであるのかということです。とにかく難しくても、現世に肉体的に生きている人間は、すべてイエスが主であることを信じなければならないのです。

なぜかと言いますと、現世に肉体を持って生きている者は、誰かれの区別なく、すべてイエスを神の子として信じるだけの能力を、全部与えられているからです。端的な言い方をしますと、イエスを神の子として信じることは、現存在の人間の本能であるとさえ言えるのです。これくらい高い意識で見なければ、聖書は分かりません。

お腹が空いたら食事をしたいと考える。それと同じように、人生に行き詰まったら、イエスを信じたいと考える。これは人間の本能です。極めてスムースに、極めて率直に、自分自身の状態を見ますと、これが分かるのです。

人間の魂というのは、神から遣わされた人の子としての機能が、肉体をとらされて生かされている状態をさすのです。神にかたどられたという霊的な機能性と、肉体人間が造られたという肉的な存在性との二つのものがかみあわされて、生きているという現実があるのです。これが魂です。

肉というのは、固体的に存在しているものではない。幻的に存在しているものです。これはヘブル語でバサールと言いますが、バサールは固体的な物理的な対象になるようなものではない。物料として捉えられるようなものではないのです。例えば、目方とか、身長とかという計量的に捉えられないものが、バサールです。

このバサール的に生きている人間とは、どういうものなのか。「言が肉となって、私たちの内に宿った」とヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・14)。これがバサールです。これが魂です。

言が肉となって生きていることが魂です。ヨハネはイエスが言となって生きている有様を、よくよく見たのです。その状態を見たのではなくて、その栄光を見たのです。形態を見たのではない。イエスとして現われた神の栄光を見たのです。

キリスト教の人々は、イエスが生きていたその形を見ているのです。例えば、トマスがイエスの復活を信じなかった。イエスは「私の脇腹にあいている穴に触ってみなさい」と言ったのです。トマスが考えたイエスは、肉体を持っていたイエスです。バサールのイエスではなかったのです。このトマスと同じ感覚を、今のキリスト教の人々は持っているのです。

ところが、不思議なことには、イエスの脇腹に穴があったのです。これは十字架にかかった時に、ローマの兵隊に槍を突き刺されてできた穴ですが、この穴がイエスの復活体にもあった。しかし、イエスに肉体はなかったのです。脇腹に穴はあったが、肉体はなかったのです。これはどういう事なのか。この説明が少し難しいのです。これが、水にて来たりたもうたお方であるということです。水だけではなく、水と血をもって来たりたもうたお方であると、ヨハネが言っているのです。

人間の肉体は水と血です。水というのは物料を意味しています。物料とは、哲学で用いる語法です。物料的な形であるイエスを知らなければならないのですが、人間の肉体というのは、物料があるように思えるのです。ところが物料はない。物料がないということは、自然科学の理論物理学が説明しているのです。物料はエネルギーだと言っています。この理論を応用して造られたのが核爆弾です。

アインシュタインが物料がエネルギーだと言わなくても、人間自身の感覚で、日本の平安期における文学で直感していたのです。平安期の文学では人間の肉体を空蝉と言っています。空蝉とは、蝉の抜け殻という意味です。明治時代には、現し世と、現し身と言っていました。現し身、空蝉という考え方は、肉体的に存在する人間はいないということを、国語的に言い現わしているのです。

人間は現世の人間が営んでいる文明を運営するためには、ずいぶん奇想天外と言えるような発明をしてきました。思いも寄らないことが発明できたのです。肉的に思いも寄らないことが発明できるということは、霊的に思いも寄らないことを獲得できる可能性を証明しているのです。

人間文明が物質的に偉大であればあるほど、人間に課せられる刑罰が重いことになるのです。文明が立派であればあるほど、神が人間に与えている能力を人間は無駄遣いしていることになるのです。自らの能力を汚していることになるのです。自らの命を汚していることになるのです。

文明が偉大であると思えるなら、人間自身の霊魂の裁きもまた偉大でなければならないのです。肉的に大きいことは、霊的にもまた大きいことになるのです。

魂という語法は、現実に生きていることをさすのですから、肉なる面と霊なる面の両面性をしっかり備えていることになるのです。肉は裏ですが、裏としてすばらしいことは、それをひっくり返せば、表としてすばらしいものであるに決まっているのです。

そこで、人間が肉体的に存在するという形態、イエスが肉体的にこの地上に現わされたという形態をじっと見ると、だんだん分かってくるのです。肉体的な形は栄光ではなくて、現象はいわゆる肉性的なものです。これが裏です。表の方は、そういう形で現われている事がらの実質です。これは見えないものです。これが栄光です。

実質が形態として現われているものが肉です。これは人間ばかりではない。すべての肉なるものは、神の栄光が肉として現われているのです。これが受肉、インカーネーション( incarnation )です。神の栄光が肉として現われる状態をインカーネーションと言います。

ヨハネやペテロは何を見たかと言いますと、形態を見ないで、栄光を見たのです。私たちは栄光を見たと聖書にあります(ヨハネによる福音書1・14)。言が肉となって私たちのうちに宿った、その栄光を見たと言っているのです。

彼らは最初は形態の方を見ていたのでしょう。ナザレの大工の倅という形態を見ていました。しかし、霊に従いてイエスを見ることができた時に、初めて彼らは栄光を見たのです。私たちはその栄光を見た。誠に神の一人子の栄光であって、恵みと誠とに満ちていたとあります。キリスト教の人々は栄光を見ていないのです。ナザレのイエスの形の方ばかりを見ているのです。

形を見たら、イエスが便所へ行くことを認めなければならないのですが、キリスト教の人々はイエスが便所に行くことを認めないのです。そんなことを考えるのは、不敬虔だと言うのです。そこでますますイエスをおかしく見ることになるのです。柏手を打って拝んでいる。そういうことばかなことをしているのです。

なぜイエスが肉体をとって現われたのか。現在ご飯を食べて、便所にいく人間を救うためには、イエスもご飯を食べて便所へ行く形をとらなければ、人間を救うことができないからです。

イエスは便所へ行っていました。しかし、人間が考える便所であるとは思っていなかったのです。霊なる便所を見ていたのです。それをイエスは知っていた。人間が便所へ行くということは、万物が流動しているというのを、霊的な形で一番分かりやすく経験しているのです。人間は毎日便所へ行きます。便所へ行く自分は肉体的に存在していないことが分かるはずです。人間は流動的には存在します。もし固体的、固定的に存在しているなら、便所には行かないのです。

人間が流動的に存在しているのは、色即是空であり、諸行無常であって、固体的に存在しているのではないのです。流動的にとは流れていることです。便所へ行くからこそ、肉体がないのです。キリスト教の人々は、便所へ行くことが肉体を持っている証拠だと考えます。これが間違っているのです。

人間の肉体があるように思えますが、肉体があるのではない。あるというのは、地球全体の有機的存在があるのです。

最近の分子生物学の研究では、食事したものの半分はエネルギーとして消費されますが、後の半分は体のあらゆる臓器、器官の細胞と入れ替わって存在している。早いものは数日で入れ替わり、遅くても一年で、体のあらゆる細胞は入れ替わっている。すべては、大変なスピードで入れ替わっていて、分子レベルで考えると人間は一年で全くの別人になっているのです。ですから、ある特定の個人は全く存在していないのです。ましてや、個人が三十年もいた、四十年もいたという考えは、全く有りえないことになるのです。肉体的に言えば、人間は一年一年別人になっているのです。

人間存在においてあると言えるものは、地球全体の有機的存在があるのです。呼吸機能と排泄機能、消化機能という三つの流通機構が肉体になっているのです。

五臓六腑とか、五体と言われているものが集まって、肉体構造になっている。胃袋だけが人間でもないし、肛門だけが人間でもないのです。人間の五体がワンセットになっているのです。

手の爪とか足の爪が、人体と別にあっても意味がない。それが人体の一部としてあるから、意味があるのです。一部としての眉毛、手の指、足の指はありますが、それが単独にあっても意味がないのです。

大きく言えば、地球もワンセットです。動物があり、植物があり、鉱物もありますが、これらが一体となってあるのです。これが地球存在です。人間は地球存在の一部であるに過ぎないのです。松の木も、象も地球の一部です。分子的にいえば、人間の体は地球のあらゆる分子が入っていますし、意識的にいえば、あらゆる生物、無生物の要素が人間にあるのです。これが人間の魂です。

人間はあらゆるものの長としての性能を、はっきり備えているのです。だから、人間は地球の頭になるのです。地球の脳になるのです。人間は地球の脳髄として造られているのに、今の人間の脳は、金山寺味噌のような脳になっている。これが肉の思いで生きている人間です。こんな状態だから、死んでしまうのです。死んで地獄へ行くのです。肉体的に存在する自分を意識している人は、絶対に救われないのです。

肉体的に存在する自分を否定するのです。十字架によって肉の思いを捨ててしまうことです。パウロが、「私は十字架によって、肉と共に欲と情を否定してしまった」と言っています。実は肉を殺せば、情も欲も両方共なくなってしまいますが、パウロは特別に詳しく説明しているのです。

十字架を信じるということは、肉的に存在している自分を当然否定することになるのです。肉体的に存在する自分を否定しないままで、なお肉体的に存在する自分を意識して、聖書の勉強をしているとすれば、十字架をバカにしているのです。十字架に敵して歩んでいるのです。そういう人は自分の腹を神としているのです。

そういう間違いを腹の底から吐き出して頂きたいのです。自分の中にある雑念、妄念を吐き捨てるのです。これをしなければ、いくら聖書を勉強しても、全く役に立たないのです。

ヨハネやペテロは、肉体的なイエスを見なかった。イエスの栄光の方に目をつけたのです。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと誠とに満ちていたと言っているのです。それを見たヨハネやペテロは、自分自身の存在が、そのままイエスの栄光と同じものであることを、自分自身の内に見たのです。自分自身の存在に見たのです。

ところで、イエスが肉体的にいるのでなかったら、肉体的に生きている人間は救われないと言いました。それならイエスは肉体的に生きていたのかと言いますと、肉体的に生きていたのです。しかし、肉体的に生きていなかったのです。

イエスの肉体はどんなものであったのかと言いますと、水であったのです。また、血であったのです。水であったというのは、地球全体の部品であったという意味です。

ペテロの第二の手紙を見ますと、「地は水より出でて、水によりて成り立った」と言っています。水によって来たりたもうたということは、地球の成分と同じ格好でやってきたという意味です。つまり、イエスの肉体は地球の部品であったということです。

地球は水から出てきたのです。水は地球の根本的な質料です。イエスの肉体は地球の質料であったと言っているのです。

血とは血肉を意味します。血肉というのは何か。水と同じ質料ならただの無機物であって、動物、植物にはならないのです。水であると共に、同時に血肉としてその水が働く状態が、生物的な在り方を意味しているのです。

水と血と共に、神の言がミックスされた。これが魂です。言が肉となったということが、魂であったということです。これがイエスです。しかし、水と血とによって来たりたもうたイエスというのは、実は、目に見える形を一方で持っているのです。目に見える形を持っていなければ、地球それ自身、森羅万象の実質を見極めることができません。森羅万象として働いている父なる御名のあり方を捉えることができない。

そこでイエスは、物質的な形をとって皆様と同じように肉体的にやってきたのですが、これは父なる神の御心を弁えるための足場であったのです、拠点であったのです。イエスは拠点としての肉体を持っていた。拠点ではあったが、実体ではなかった。

では、実体とは何かと言いますと、ちりの人です。水と血とによって来たりたもうたイエスは、ちりの人間を見極めるために、そのような形できたのです。

キリスト教では、水と血さえも分からない。従って、ちりの人間は全然分からないのです。私たちは、まず、水と血との自分を知ることです。それを拠点にして、ちりの人を知ることです。

創世記で、「神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(2・7)とあるのです。そして、「あなたはちりだから、ちりに帰る」(3・19)と言っているのです。ちりの人としての自分を見極めなければならないのです。もちろんイエスは、これを実行したのです。イエスはちりの自分を良く知っていたのです。

ちりの人間が、万物の霊長の本体です。万物を治めるのは、ちりの人間です。万物を支配するような人間としての自分自身を自覚しようと思えば、どうしても地のちりである自分を理解しなければならないのです。

今の人間は現世に生まれてからのセンスを持っています。現世に生まれてからセンスで生きているのです。現世に生まれた後のセンスというのは、すべて肉の思いです。後天性の学習による感覚は、肉の思いです。人間がこの世で親に習ったり、学校で勉強したり、世間の人から習ったり、自分自身で社会から習ったり、色々な形で、人間は学習しているのです。そういう学習による感覚は、すべて肉の思いです。

このような肉の思いで生きているというのは、神から見れば、生きているのではなくて、死んでいるのです。今の人間の生き方では、命が分かるはずがない。命が分からないというのは、死んでいるということです。

ところがイエスは、自分自身が水であること、血であることを知っていた。同時に彼はちりであることを知っていた。そこで彼は、万物を治める力、万物の霊長としての力を持っていたのです。だから、風を叱り、波を叱ったのです。水をぶどう酒にしたのです。万物の長だからそうしたのです。

皆様も、それができる信仰を神から与えられなければ、イエスが主であると本当に信じていることにはならないのです。

私を信じる者は、私と同じことをするだろうと、イエスが言っているのです。イエスを信じるなら、信じがいがあるような信じ方をしなければならないのです。

特に、水をぶどう酒にして見せる必要はありませんが、私たちが現在肉体的に生きているという感覚は、嘘だということを自覚して生きているなら、その魂は初めて、命を知っていると言えるのです。

これは人間がこの世に生まれてくる以前の状態に帰ったことになるのです。それは後天性による学習を放棄して、先天性の感覚に帰ったことを意味するのです。先見的、または、ア・プリオリの感覚に帰ったことを意味するのです。

イエスはその状態で生きていたのです。これが復活です。私は甦りであり、命であると言っています。甦りであるとは、罪を犯す以前の状態、この世に生まれてくる前の状態です。ア・プリオリの状態に帰ったのです。天の父と一緒に生きている状態に帰ったのです。だから、私は父の内にいると言っているのです。これが信仰です。これが神の信仰です。

現に皆様は、明日の太陽が出ることをご存知です。明日の太陽が出ることを知っているのは、皆様のア・プリオリの感覚の中に、神の信仰がはっきり植えられている証拠です。

まだ現われていない未来の時間を、皆様はすでに計算しておいでになるでしょう。そうして予算を作るのです。予定、計画を作るでしょう。これは皆、皆様の信念の内に、心理機能の内に、神の信仰が鋳込まれていること、神の信仰が象嵌されていることを証拠だてているのです。

それに皆様が気がつけば、ア・プリオリの世界に帰れるのです。現世に生きていながら、生まれる前の世界に帰れるのです。帰ることができた人は、私は父の内にいると言えるのです。

イエスが私は甦りである、命であると言ったのは、十字架の後に来たるべき復活を予感して、そのように言ったのだと、キリスト教の人々は言っていますが、そうではないのです。私が甦りであるとイエスが言ったのは、イエスが現世において、霊的に生きていた事実をさすのです。普通の人間は、肉的にしか生きられないのです。せっかく神から与えられた霊的なセンスを、全部現世における後天的な肉性によって、全部消してしまっているのです。

そういう人間ばかりがいる所へ、イエスがやってきた。私はおまえたちのように肉に基づいて生きていない。霊に基づいて生きているのだ。父から与えられた天性を、そのまま生かして生きているということを証したのです。

この証は罪を犯す前の状態を証明したのです。現世の人間は罪の内に死んでいる者です。イエスは罪の内に死にたる状態から、すでに甦っている状態になっている。罪が許されて、罪人ではない状態で生きているのです。ですから、私は甦りであると言ったのです。

これは人間自身の心理機能の中に、神の恵みも裁きも、神の計画も、秘められた驚くべき天性も、すべてが内包されていることを示しているのです。

神にかたどりて、神のかたちのように造られて、空の鳥と海の魚、家畜と全地のすべてを治めるだけの力量が、人間自身の魂の中に秘められているのです。自分自身の開発を断行すれば、神のかたちのように造られた自分の栄光が、自ら分かってくるのです。

道元禅師は、自己を見よとしきりに言ったのです。彼はイエスのような壮大なスケールを持っていたのではありませんが、自己を見よと言った道元禅師の言葉は、そのまま私たちの哲学的な基礎概念の参考になるのです。

この哲学的な基礎概念に立って、自分が生かされている状態をよくよく見れば、目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていること、私たちの日常生活の営みが、実はそのまま命の言の営みであることが分かるのです。

聖書六十六巻が、自分自身の中に成就していることが分かるのです。エデンの園における陥罪の実体も分かりますし、新天新地において、神が人と共に住みたもう、人が神の幕屋に住むということさえも、見通すことができるのです。

地獄の光景も、神の国の光景も、すべて自分自身の内にあるのです。このことをイエスは証明したのです。これがイエス自身の栄光であって、ヨハネは「私たちは、その栄光を見た」と言っているのです。誠に神の一人子の栄光であって、恵みと誠とに満ちていたと言っていたのです。

人の子というのはそういうものです。人の子を正確に言いますと、水と血とによって来た自分自身を自覚すると同時に、水と血との自分をポイントにして、ちりの自分を見ること、さらにちりの自分を見ることによって、神にかたどりて造られて、神の形のごとくになっている自分を見ることができるのです。

水と血の人間は、土の器の人間です。土の器でちりになり、ちりから神の御子に変化していくのです。そういうコースが、現実に生きている自分の中に仕組まれているのです。

人間存在の中には、そういう仕掛けがあるのです。仕掛け花火のようなもので、一度火がつけば、だんだん広がっていくようになっているのです。これを火のバプテスマというのです。

十字架という火が燃えて、自分の魂に点火されると、人生全体が燃え出して、幽遠のスケールに広がっていくのです。神の御座の前にある七つの霊の働きも分かるし、四つの生き物が働いている状態も分かるのです。鏡のように透き通った海があることも分かるのです。長老が冠を投げる光景も分かるのです。

人間はこういうすばらしい存在です。これをイエスが証明したのです。だから、イエスを信じる者は救われるのです。これは当たり前のことです。

神から与えられて、植えられているア・プリオリの感覚を大切にして下さい。現に私たちが食べているのも、飲んでいるのも、人と話しているのも、字を書いているのも、寝ていても起きていても、すべてア・プリオリの感覚でしているのです。

私たちが現世に生きているのは、実は現世に生きているのではなくて、生まれる前の世界に生きているのです。このことが本当に自覚されたら、自分はまだ生まれていないことが分かるのです。般若心経が言う不生不滅、不垢不浄、不増不減とは、このことを言っているのです。自分は生まれていないのです。

この感覚が分かった人は、実は新に生まれたのです。生まれていないことが分かったら、新に生まれたのです。死ぬべき自分が消えてしまったからです。固有名詞の自分が消えたのです。イエスを主とする自分が、今生きているのです。

これは色即是空くらいではありません。五蘊皆空くらいではありません。もっと上です。こういうことを実感して、人々に実証するために、私たちは生きているのです。

ナザレのイエスを学習するのです。神の子である人の子を学習することが、本当の人生です。私たちはこのために生まれてきたのです。人生の目的はこれです、これしかないのです。

現世でいくらお金を儲けても、いくら健康に恵まれても、何の足しにもならないのです。実はお金儲けの目的も、よくよく考えてみれば、永遠の命をねらっているのです。健康増進の目的も、実は永遠の命を目的にしているのです。健康そのものが目的ではない。お金儲けそのものが目的ではない。とこしえの命が目的です。

皆様がお仕事をしていることが、そのままとこしえの命に係わりがあるのです。これに気がつかなければいけないのです。私たちが毎日している仕事が、そのままとこしえの命を求めている一面であることを自覚していただきたいのです。聖書を学ぶことが基本であり、働いていることはその枝葉の問題になるのです。

結婚することも、恋愛することも、対人関係のすべてが、本来の自性を求めているのです。本来の自性とは、ア・プリオリの永遠の命です。これをはっきり捉えるために、この世に生まれてきたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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エデンの園

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