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  • 管理人chaya

イスラエルの回復を祈る


私たちの生活は、流れる水のように生きればいいのです。ただ問題は、イスラエル伝道のために、どのように肝胆を砕くべきかということは、考えなければいけないのです。これは流れるままではいけないのです。意識的に、意図的に、計画的に、組織的に事を運ばなければいけないのです。

大体、私たちは異邦人であって、本当はイスラエル伝道というおこがましいことをする事はないのですが、これをしなければこの地球上に神の栄光が現われないのです。

現在の自然界は神によって造られたのですが、この地球上に神の栄光が現われていないのです。景色としては現われています。花の色や花の形としては現われていますけれど、人間の心が神の栄光を認識し、また、賛美するという形では現われていないのです。

例えば、歴史の流れとか、人間の生活の状態とか、そういう事がらにおいて神の栄光がはっきり賛美されていません。未だに罪人が大きな顔をして生きているのです。自我意識を持った人間が大手を振って、世界中を横行闊歩している。人間尊重、基本的人権が天下玉桜のように思われているのです。ユダヤ人が悔い改めないからこうなっているのです。

約束の民が、約束の本義を弁えていない。これだけのことです。私たちは、全地にエホバの栄光が現われるように、粉骨砕身の努力をしなければならないのです。

神の栄光が全地に現われるように、全地はエホバの御名のみになるという預言が成就するように、努力しなければならないのです。

現在、天においてはエホバの栄光は成就しています。キリストが神の右に座しているからです。天において神の栄光は成就していますが、地においては成就していません。

「御心が天において成るごとく、地にもならせたまえ」とありますが、このために私たちは努力しなければならないのです。「御心が天において成ったように、この地上においても成らしめたまえ」(マタイによる福音書6・10)。この祈りの成就のために、私たちは奮励努力をしなければならないのです。これがイスラエル伝道です。

全世界の人間が救われなければならないのです。現在、ばかばかしい文明に、人類はこき使われています。原爆思想や唯物思想が幅をきかすような、死んでいく人間ばかりが、ひしめき騒いでいるような、こういう文明に人間の魂を委ねておくべきではないのです。人間の魂が、こんな腐った文明に押さえられるべきではないのです。

文明の本質を入れ替えるために、文明の指導者であるイスラエルに一喝しなければならないのです。

これは神の絶対命令でありまして、御心の天に成るごとく、地にも成らなければならないのです。このために私たちは、渾身の努力を払わなければならないのです。どんなに辛くても、嫌でも、悲しくてもしょうがない。こういうことに眼が開かれた人間の義務です。責任です。

大体、理性を持っている人間が、肉体的に生きているということはないのです。理性は霊なるものです。理性というものは、万物を治めるための神的機能です。神的叡知です。理性を持っている人間が、肉体的存在の意識において生きていて、肉体的意識にこき使われるということは、間違っているのです。

異邦人が獣であるということは、ここから来ているのです。人間の魂の本質から考えて、肉体的に生きるべきではないのです。肉体的に生きていることになりますと、肉体という現象体に押さえ込まれて、肉体の要請に従って生きることになるのです。肉体の下敷きになって生きることになるのです。

ところが、理性の本性は肉なるものを治める素質を意味するのであって、肉体的に生きてはいても、肉に従って生きてはならないのです。肉に仕える、肉の奴隷になってはいけないのです。

肉体的には生きてはいるけれど、霊に従って生きていなければならないのです。肉に従って生きていたら、必ず死ぬのです。霊に従って生きるなら、霊に従って肉体の働きを殺すなら、必ず生きるだろうと言っているのです。

霊によって肉の働きを殺すような生き方をすることが、神を生きることです。腹が立つとか、心配事が起きるとか、自分の生活に好ましい状態が現われないとか、自分の願いが達成されないという場合には、それを治めるのです。

やたらに押さえて、いわゆる禁欲生活を送るというのではなくて、欲が起きたら欲を治めるのです。治めるというのは、欲に所を得させるのです。所を得させるような形で、欲を指導していくのです。自分の心配事があったら、それを無理やりに押えつけるのではない。押さえつけても、やはり心配事はあるのです。心配事が心配ではないような状態になるように、よくよく信奉の工夫をして、自分の心配事、とりこし苦労が自分自身の思い煩いにならないように、自分の心を自分で治めるのです。聖書により、また、御霊によって自分の思考を自分でリードするのです。御霊によって自分の思い方、考え方をリードするのです。それをしますと、納得できるのです。納得して肉に勝つことができるのです。

私たちの目的は、イエスの十字架と復活が、すでに第三の天において成就しているように、第三の天をそのまま地球上の状態に定着させることです。キリストが第三の天において、神の右に座しているという事実が、全地の人間に徹底しますようにと祈るのです。

これをイスラエルに伝道すると言っても、私たちのようなひとつまみの、あるかないか分からない者が、天下のユダヤ人をつかまえて伝道するというのは、全く気違い沙汰であるとしか思えないでしょう。だからこそ、私たちはそれをさせられるのです。誰もする人がいないからさせられるのです。

仮に数万人か数十万人の同志がいるのなら、ユダヤ伝道といえば、強烈なインパクトを与えることができるでしょう。わずかの人間が天下のイスラエルに福音を伝えるというのは、誠におこがましいことです。

しかし、全能者の御心であるからしなければならないのです。私たちが微力でも、全能者は大きいのです。私たちは自分の力によってするのではない。神にして下さいといって頼んでいるのです。

イエスはたった一人で新約の世界を展開したのです。パウロはたった一人で、異邦人教会の礎を造ったのです。

ついでに述べておきますが、今のカトリックはパウロが造ったのであって、ペテロが造ったのではないのです。ローマ人に伝道した中心はパウロでした。パウロは一人で異邦人教会の礎を築いたのです。従って私たちに千年王国の礎がすえられないはずがないのです。

千年王国というのは、世界に完全な文明が実現する時です。今のような腐った文明ではありません。神を中心とする完全文明が、完全平和が、千年の間、地球上に実現するのです。これは神の名にかけて断言されているのですから、私たちはまた、神の名にかけてその実現を、神に向かって要請しているのです。これがイスラエル伝道でありまして、そのために、私たちは命をかけているのです。

全世界の人間の中で、これをしようという愚か者はいないからです。私たちは本当のバカになりきってするのです。する人がいないから、私たちがするのです。幸いにして、これに目をつける人がいないから、私たちのような人間でも役に立つのです。

第三の天において、すでに成就している十字架の栄光を、人間文明に現わすのです。イエス・キリストが栄光の王として、この地球を具体的に治めるのです。贖い主としてではなく、栄光の王として帰りたもうのです。

キリストの再臨を実現するのです。新文明の展開です。これは絶対にしなければならないし、また、できるのです。

この仕事には多くの人数はありません。真剣に、気違いになって祈る人間がいればいいのです。神の理性的な処置が、この地上に現われるように祈るのです。

今の人間は理性によって行うことができないのです。今の人間が考えている理性は、理性ではなくて、理知性です。本当の理性が今の人間に甦りますように、イエスがキリストであることが信じられますように、このことを祈るのです。これは約束の民が目覚めなければ実現しません。

神がアブラハムに約束を与えた。だから、今の文明が展開したのです。この文明を終息するためには、どうしてもアブラハムの子孫が目を覚まさなければいけないのです。絶対そうならなければいけないのです。

アブラハムに与えた約束ですから、アブラハムの子孫がこれを実行しなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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