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ニューエルサレム


人間が生きているという状態は、前世から来ているのです。生まれながらの赤ちゃんが笑っていること、おっぱいを吸う知識、感覚があることが、前世があることを示しているのです。

人間の知識とか感覚とかいうものは、例えば赤いものを赤いものとして認識する、甘いものを甘いものとして受け止めるという感覚意識は、すべて人間の経験に基づくものです。

この経験がなかったら、衣食住という人間の営みが成立しないのです。ところが、赤ん坊は生まれた時に、すでに営みの原理を知っているのです。知っているということは、記憶しているということです。記憶しているということは、経験したということです。これは元々の経験であって、人間になる前の経験です。だからこれは、原験ということができるのです。

元々の経験が記憶になっている。この記憶が無意識に行動になって働くのです。仏教でいう、受想行識になっているのです。受想行識が働いて、赤ん坊の行動になって現われているのです。

クモの子が巣を張るのも、その原理です。鹿が子を育てるのも、この原理です。すべての動物、植物は原験によって生きているのです。ア・プリオリによって生きているのです。

山がなぜ山であるのか。山になぜ風景があるのか。これが宇宙自身の原験です。天地が造られる前の宇宙にあったことが、今、天地として現われているのです。

ア・プリオリというのは、人間だけのことではありません。鳥や魚、草木にもすべての花にも、すべての香り、すべての味、すべての形にも、ア・プリオリはあるのです。

原子の運動によって分子が存在します。これは人間は分かります。分子が要素を造っていくことも分かります。ここまでは分かりますけれど、それがなぜ木の葉になるのか。なぜ花になって咲いているのか、魚になって泳いでいるのかが分からないのです。

原子運動、量子力的な運動が、金魚になっているのはどういう訳なのか。すばらしい美人になって現われる、すばらしいハンサムな男になって現われている、これはどういうことなのでしょうか。この説明が科学ではどうしてもできないのです。これは、目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に思い浮かびもしないことですから、分からないのが当たり前です。

目未だ見ず、耳未だ聞かずという事がらが分かるようにならなければ、人間は自らを完成することはできません。人間が自らを完成するとどうなるのか。これが黙示録第二十一章の二節に書かれているのです。

「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神の元を出て、天から下ってくるのを見た」。

これが新しい大天使の姿です。新しい宇宙の支配者の姿です。人間はこういう格好で完成するのです。

人間は新しい町になるのです。新しい集団になるのです。新しいグループになるのです。そうして人格になるのです。これが釈尊が言った十万億土のかなたにある仏国浄土の姿です。それを仏国浄土という角度から言い現わしているのです。これが阿弥陀如来の浄土です。浄土とは何かと言いますと、人間完成そのものです。聖書はこれを具体的に述べているのです。

自分一人が救われるのではない。集団で救われるのです。人間は他人と協力、協調なしに、絶対救いはないのです。互いに相愛することなしに、絶対に人間完成はありえません。

人間はニューエルサレムとしてしか、完成されません。集団的においてしか救いは存在しないのです。だから心から相愛するという気持ちがなければいけないのです。

本当に絶対的な協力、協調ができるかどうか、できなければ、イスラエル伝道はできないのです。

主観的意識が強い人は、生きている原形がよく分かっていないのです。ア・プリオリによって、神によって与えられた原験的意識によって生きているということが、分からないからです。

皆様は生まれる前に、神を見ていたのです。神を経験していたのです。その経験が、現在の生活の営みの基礎になっているのです。

共産主義者でも、民族主義者でも、テロリストでも、砂糖は甘いと思うのです。日本のやくざでもアメリカのマフィアでも、砂糖は甘いと思うでしょう。全世界の人間は皆、砂糖は甘いと認識しているのですが、なぜ人間は共通の認識に立っているのでしょうか。人間は一人しかいないからです。

全世界の人間は一人しかいないのです。一人が何十億に分かれているだけです。血は一つです。一つの血から全人類が造られたのです。

人間は自分の主観的に意識で考えるという習慣がついてしまっているのです。だから、客観的に考えて、その客観的な思考方式を自分自身の行動原理にしようということを考えないのです。

客観的な思考方式を自分の行動原理にしようということが、はっきり確認できなければ、絶対に一致できません。

神を信じますと、客観的な意識が自分の行動原理になるのです。人の立場を自分の立場として、確認できるのです。ところが、自分の立場があると考えている。人の立場があると考えている。こういう感覚がある間は、イスラエルに福音を伝えることができないのです。

お互いに質問をしたり、意見を述べあうことはけっこうです。しかし、他意を持ってはいけないのです。他意を持つということは、客観的なあり方を自分の主観として認識しないから起きるのです。これがいけないのです。

神という絶対客観を自分自身の主観にすることを、神を信じるというのです。イエスはこれを実行していました。私たちもこれを実行すべきです。指導者はこれを実行する責任があるのです。皆様はその指導者に従わなければならないのです。これはある人が偉いとか偉くないというのではない。仕事をするために、そういう組織が必要なのです。

ニュー・エルサレムには、イエス・キリストという中心がいます。また、「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住む」とあります(同三節)。これを簡単にいうとどうなるかと言いますと、人間が肉的に意識している諸現象が消えてしまうということです。

物理的現象、物質的現象、自分自身が肉体的に生きているという現象が、皆消えてしまうのです。消えてしまうから神と一つになれるのです。

人間が一つになれない原理は何かと言いますと、自分が肉体を持っているからです。肉体を持っているから家庭があるのです。家庭があるから生活があるのです。こういうものは、やがて消えてしまうのです。肉体が消えてしまうことが、皆様が完成される形態です。

神の幕屋に人が住むのです。神の幕屋は肉の幕屋とは違います。神の幕屋とは、霊なる幕屋です。この時人間は、上からの幕屋を着せられて、携挙されているでしょう。この時は肉体を持っていません。肉体を脱いでいるからです。

どういう人が肉体を脱ぐかと言いますと、携挙される前に、生活の状態において、自分自身の肉の幕屋を脱いでいる気持ちを持っている。この人が携挙されるのです。その人自身の肉体が脱落してしまうのです。有形的な宇宙も脱落してしまうのです。そうして神の幕屋が展開するのです。

神の幕屋を皆様は見ているのです。例えば、自然の景色を見ますと、山も木々の緑も、川の流れも美しく見えます。この景色が神の幕屋です。景色を見るとすばらしいと思います。なぜそう思うのか。神の幕屋だからすばらしいのです。自分が完成される原形がそこにあるからすばらしいのです。海外に旅行して美しい景色を見たいと思う、なぜか。そこに自分の原形があるからです。

神の幕屋に住んでいる人は、非常に少ないのです。自分の幕屋に住んでいるからです。これは死ぬべき幕屋です。

新天新地では、神は人と共に住むのです。そこに完成状態があるのです。この時の人間の気持ちはどういうものかと言いますと、自分の主観はきれいに消えているのです。

自分の主観はどこから来ているのかと言いますと、皆様の後天的な生活から来ているのです。原験的なものではないのです。後天的な現世の生活習慣から来ているのです。

男が女に感じる色気は、人として現われたすばらしい神の幕屋です。神の幕屋ですから、アダムにエバが与えられたのです。

アダムはエバを見て、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と言ったのです。これは骨の骨という幕屋です。肉の肉という幕屋です。これをアダムは直感したのです。骨の骨というものは何か。これは霊の骨を意味しているのです。これをアダムは看破したのです。アダムが陥罪する前ですから、分かったのです。

そうでなかったら、女の色気の真髄が分かるはずがないのです。女の色気は霊的に見ると価値があるのです。女の色気は情欲とは違います。女の色気が分かるということは、神の幕屋が分かるということです。女を情欲で見るから罪になるのです。神の幕屋としての色気を見ればいいのです。

本当の女の色気は、とてもすばらしいものですが、なぜすばらしいかが分からない。神の幕屋だからすばらしいのです。神の幕屋という宇宙の原形が有形的に表現されている。これが自然の美しさです。

女の原形とは何か。愛が原形です。愛の幕屋という原形が、女になって現われているのです。そこで、女性のボディーラインがすばらしいのです。

原形に基づかなければ、価値判断はできません。これが本当の価値観です。神が分かると初めて、物の価値が分かるのです。景色の価値が分かる。色気の価値が分かるのです。

女の方から男を見ると、どのように見えるのか。キリストの原形が男になっているのです。知恵と知識と力の原形が男になっている。女から見ると男は、キリストの理想像に見えるのです。男の原形はそれです。知恵と知恵、力の力に見えるのです。

こういう見方が宇宙的な見方であって、ア・プリオリの見方です。皆様は、ア・プリオリに基づいて生活しているのです。ア・プリオリにおいて見るということが、自分の生活の常識になってくれば、自分自身の利害得失はなくなるはずです。

「汝ら互いに相愛せよ」が実行できなければ、ニューエルサレムにはなれません。ニュー・エルサレムになれなければ、人間完成は不可能です。

パウロは次のように言っています。

「一体、人間の思いはその内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知る者はない」(コリント人への手紙2・11)。

人間どうしがお互いに生きています。愛し合ったり憎み合ったり、嘘を言ったりして生きているのです。その事がらは、人間の中にある霊の他に知っている者はないというのです。

十五節を見ますと、「しかし、霊の人はすべてのものを判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない」とあります。

それぞれ個々の人間は、色々と判断します。いいとか悪いとか、利益とか損害とかを 判断します。しかし、自分自身は誰からも判断されないのです。これが悪魔の本性です。

この十五節の状態を、自分自身が持っている間は、救われません。自分自身は、誰からの判断も許さない。自分は自分だけの考え方にたてこもっている。こういう意識を持っている間は、その人は自分の霊を自分で押さえ込んでいるのです。

そこで、霊を渡す必要があるのです。霊を渡すということは、人間の霊(人生)を神に渡してしまうことです。自分のことは自分で判断する、他人の容喙を許さない。これをやめるのです。

絶対自主意識という主観的認識を捨ててしまいますと、神の霊において神の事がらを見ることができるようになるのです。

神の霊によって神の事がらを見るのです。先程言いましたが、男が見た女の色気と、女が見た男の尊さというものが、皆神の幕屋です。または、神の位、神の知恵です。これが男と女に現われているのです。

神の御霊によって神の事がらを見るのです。男という人間がいるのではない。女という人間がいるのでもない。神が女を現わしている。神が男を現わしているという事実があるだけです。現わされているものは、すべて、神の幕屋です。

神の御霊によらなければ、神のことは分からない。そこで、神の御霊によって歩むということが必要です。これを端的に申しますと、純粋な客観的な感覚で見ることです。

自分の主観で見ないのです。特に純粋主観が最も悪いのです。純粋主観というのは、罪の塊です。主観であっても、例えば、誰かの小説を読んだり、誰かの論文を読んだりして感じるというのは、純粋主観ではありません。

自分自身が、根も葉もない所から、自分の根性で何かを考え出すとします。私みたいな者はと考える。これは純粋主観です。これははっきり悪魔の考えです。その反対に、純粋客観があります。これが神です。これは人の心未だ思わざることです。

景色が実は、新天新地における神の幕屋の片鱗です。これは純粋客観です。

例えば、皆様の心臓が心臓であることです。命の流れがそういう格好で宿っているのです。自分の心臓でも自分の命でもありません。

純粋主観というのは、はっきり罪です。どうしてこういうものが出てくるのかと言いますと、自分の人生は自分のものだと思い込んでいる所から出てくるのです。自分の命は自分のものだと思っている。

自分の人生、自分の財産、自分の命、自分の商売、自分の家庭が存在すると考えている。ここから純粋主観が出てくるのです。

この純粋主観を放棄してしまわなければ、本当に相愛することはできません。本当の協力、一致はありえないのです。

相手を愛することだけを考えたらいいのです。なぜ神が愛することだけを命令しているのかと言いますと、愛することだけを実行すれば、神がその人を愛するに決まっているからです。

愛されることを期待する必要はないのです。愛することだけを考えるのです。

男女の間でも、私はあの人を愛しているが、あの人は私を愛してくれているのかと考える。そうではなくて、純粋に人を愛したらいいのです。その人が愛してくれなかったら、神が愛してくれるのです。

代わりに、神が愛してくれるから、安心して人を愛したらいいのです。ギブ・アンド・テイク( give and take )という条件を一切つけないのです。ギブ・アンド・ギブ( give and give )でいいのです。

皆様が何かを願って、どうして生きているのかを、よく考えて頂きたい。人間は純粋主観のばかばかしさをよく知っているはずです。

人間が生きている事がらというのは、自分自身の主観によって、いつでも自分自身が裏切られているのです。自分の主観によって、自分が苦労しているということが分かるはずです。

人間の霊はそれを知っているのです。主観的意識というものは、大体罪です。純粋主観は絶対に罪です。

純粋客観が信仰です。純粋客観というものが、一番まともな物の考え方です。これが本当の世界観、価値観です。信仰とは、こういう原理に立っているものです。

人間の生き様をよくよく見て頂きたい。実は自分が生きているのではなくて、神が自分という格好で生きていることが分かるはずです。皆様の命はどこにもありません。従って、自分の人生もありません。

人生は全部キリストのものです。キリストのものとは、ニュー・エルサレムにつながるべきものという意味です。このために人間は生きている。これが人間の最高の望みです。ニュー・エルサレムにつながることが、人間最高の望みです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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