イエスの言葉の中に、「もし、あなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」とあります(マタイによる福音書6・23)。内の光とは何かと言いますと、人間自身の命が人間の光になっているのです。これが未生以前の心です。植えられた御言葉とヤコブが言っているのはこのことです。人間には生まれる前に、父なる神の愛によって植えられた御言葉があるのです。この御言葉が魂を救う力を持っているのです。
父なる神に植えられた言葉が、魂を救う力を持っている。この植えられた言葉が、人間の命です。この命が人の光になると言っているのです。
今私たちが生かされているということが、何よりも確かな神の言葉の光になるのです。知恵になるのです。これが内の光です。内の光が闇ならばというのは、現在自分が生かされているという、命という光を与えられていながら、その光を読むことができない。命というすばらしい光を与えられていながら、その命を読むことができないとすると、その暗さはどんなであるかというのは、死んでからの魂の闇のことを言っているのです。死んでからの魂は真っ暗だろうと言っているのです。
だから、内の光が闇であるかないかは、その人の永遠の運命に係わる大問題です。こういうことを、どう読んでいくかです。自分に与えられている命を光として読むためには、どのように読んだらいいのだろうかという重要な秘密があるのです。
私たちは命をすでに与えられているのです。ところが、その命が光になっていないのです。命は光になるべきものです。例えば、私たちは生きているうちは、目が働きます。こういう端的な事がらが、命が光であるということを、きわめて素朴な分かりやすい方法で教えているのです。
イエスは人間が現世で生きている状態のことを、昼という言葉で形容しています。昼のうちに仕事をしなさいと言っています。夜がきたら、その時にはもう仕事はできないと言っているのです。昼の間にとは、生きている間という意味です。生きているということは、命の光がある間、目が見える間という意味です。
昼は目が見えます。夜になると、ランプや電灯をつけないと、目が見えないのです。昼とは、目が見えることを現わしている言葉になるのです。生かされていることが光です。光は目が見えることによって、端的に説明されているのです。
見るという言葉は、例えば鼻で香をかぐことは、鼻で見ていることになるのです。ビホールド(behold)という言葉がありますが、これは鼻でかぐとか、手で触るとか、耳で聞くとかということも全部入るのです。人生経験全体もビホールドの中に含まれているのです。目という言い方は、そのまま人間自身の命の光を現わすような言い方を、イエスがしていることになるのです。
私たちが知らなければならないことは、私たちが現在生きている命の本性は、神の言葉であるということです。神の言葉が命の本性として、私たちに与えられているのです。
そこで、命をどのように取り扱ったら、それが光になって感じられるのかということです。自分自身の命が、自分を照らすことになるのです。自分の命が自分を照らすというのは、どういう形になったらそうなるかです。命を光に翻訳する方法があるのです。
命を光に翻訳して、光を人間の顕在意識に翻訳するのです。こういう手続きをするのです。命を光に翻訳する。光を人間の生活感覚に翻訳するのです。命を光とする、光を人間の生活感覚に翻訳する、そうすると、生きているという命の光が、そのまま生活の実感になるのです。この時初めて、救われているという自覚に到達できるのです。
神が人間に命を与えたのは、ただ現象的に生かしておくという事がらだけが目的ではない。それなら何のために命を与えたのかと言いますと、命という光を人に与えることによって、命という光を照らしてみるのです。今、聞いているということを、つまびらかに点検してみると、その意味が見えてくるのです。
何が見えてくるのか。命を光にしてじっと見ると、あるものが見えてくるのです。命の主が見えてくるのです。この命の主に出会うために、魂はこの世に来たのです。
父なる神はご自身に会わせるために、魂をこの世に送ったのです。逆に言いますと、神が私たちに会うために、魂を地上に送ったのです。神に会う、神を見つけるのです。どうして見つけるのか、命を光として見つけるのです。これがすばらしいのです。
端的に言いますと、人間の命というものは、実質的、具体的に言いますと、何によって象徴されているのかということです。命を光にして、命の主を見るのですけれど、命を光にしてという場合とは、何を意味するのかということです。
神が人間を生かしておられるというのは、非常に具体的な、実感的な現前的な方法で生かしておいでになるのです。神が人間に自らを現わすため、神が人間の魂にご自身の存在を現わすために、光を与えました。命を光として与えたとすれば、この命の光は何であるかが、具体的に分かるでしょう。
命を光として与えたのですが、皆様の命は闇の世に自分の足元を照らす、ランプのようなものです。月が出ていない夜中に外を歩こうとしますと、ランプがいるのです。私たちの人生は、肉の思いで真っ暗になっているのです。暗闇道中の足元を何で照らして歩くのかということです。足元を照らすランプの光を持たないで歩いているのは、世間一般の人です。
私たちはランプを与えられていますが、ランプを与えられていながら、それを点灯する方法を知らない人がいるのです。命のどこかを押さえたら明かりがともるのです。どこを押さえたらいいのでしょうか。
イエスの御名というのは、エホバが私の救いだと言っていることです。エホバが私の救いだということは、論理として、また概念としては正しいのです。
しかし、エホバが自分の救いであるという事実を、自分の魂が経験するためには、概念だけではだめです。エホバが救いであるという事実を、自分が具体的に自分の生活感覚で把握するためには、概念だけではだめです。イエスの御名こそが救いであるという大原理を、新約聖書は説いているのですから、この御名こそ光であると思うとします。これは概念としては正しいのですが、生活の感覚になっていないのです。思想的には理解できるが、感覚的には理解できていないのです。
命が光になるという段階はどういう段階か、神に出会うとはどのように出会うのかと言いますと、父なる神に出会うのです。父なる神に出会うというのは、命そのもの、光そのものに出会うのです。
父なる神というお方は、命そのもの、愛そのものです。造化の送り主そのものです。造化の主というのは、具体的に存在する実体です。神というお方は、具体的に存在する実体です。これが神の御名です。そうすると、神の御名というのは、人間の生活感覚において受け止めなければならないのです。生活的な実感で神の御名を受け止めなければ、本当の信仰とは言えないのです。
皆様によってイスラエルに教えて頂きたいのは、このことです。神を信じるということは、概念ではないのです。信念でもないのです。論理でもないのです。概念とか、信念とか、論理は、人間の思想です。想念です。神を信じるのは、思想想念ではないのです。神とは、私たちを今、現実に生かしている事実です。生かしている事実を、ただ概念的に受け止めたからといって、それは神を信じていることにはならないのです。神を信じるか信じないかという概念的な問題では、命にはならないのです。思想にはなりますが、命にはならないのです。永遠の生命というのは、具体的な命の実体であって、それを実体として受け止めなければ、永遠の命にはならないのです。
そこで、生活の実感として神を受け止めるためには、何をランプにして使えばいいのか。神を生活の実感として受け止めるのは、何をランプにして自分の足元の歩みを照らせばいいのか。
人間には、神が生まれる前に与えた魂というすばらしい心理機能があるのです。未生の心ともいうべき魂の機能がどのように働いているのか。神が植えて下さった言葉という神の命がどのように働いているのかというと、五官です。未生の実体が五官です。
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れることについて、ヨハネが第一の手紙で言っています。
「私が聞いたこと、見たこと、よくよく手で触ったことは、命の言葉に触っている」と言ってるのです(ヨハネの第一の手紙1・1〜2)。
イエスは、「おまえたちは見れども見えず、聞けども聞こえず」と言っています。ところが、神が人間に与えている五官こそは、未生の時に植えられた神の言葉の現われです。五官は神の言葉の現われです。そこで、神の言葉として五官を用いることになりますと、万物が読めてくるのです。
自分の五官が言葉の働きであることが分かって万物を読むと、五官という言葉を通して万物が読めてくるのです。なぜなら、万物は言葉によって生存しているのです。万物は言葉によって生存しているのですから、言葉をランプにして闇の夜を歩きますと、足元が見えてくるのです。
誠に不思議なことですが、五官というものは、神が人間に肉体を与えた時に、神が目を植えたものです。耳を植えたのです。
旧約聖書に、「神が人間に耳をお植えになったのですから、すべてお聞きになっているに決まっている。神はつんぼではありませんから、こそこそと内緒話をするな」とあります。耳を植えた神が、人間が陰でこそこそ言っていることを聞いていないと思うのかと、皮肉を言っているのです。壁に耳ありとは当たり前のことだというのです。
神は耳を植えたお方です。鼻を植えたのです。舌を植えたのです。皆様の手の敏感さを植えたのは父なる神です。そういう形で神は人間に、命の実物を植えておられるのです。
目を持ちながら、耳を持ちながら、敏感な指を持ちながら、それが何のことか分からない。神の言葉に触れていながら、それを読み取ることができないのです。それは、魂が盲になっているからです。魂が盲になっているというのは、五官が盲になっているということです。皆様は現在生きていながら、現実に生ける誠の神が分からないのは、魂が盲だからです。五官が盲だからです。
五官で何を触っているのか。何を感じているのか。これが分からなければいけないのです。こういうことを人々に教えること、魂を開いて神を見させることが、本当の伝道です。人間の五官の働きを開いてあげるのです。そうすると、愛なる神が分かってくるのです。愛なる神に触れるのです。神は男と女とを造りたもうたのです。神の形のように造ったのです。
アダムはエバを見て何と言ったのか。
「これこそ、ついに私の骨の骨、
私の肉の肉、
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」(創世記2・23)。
この感覚が五官の本当の働きの状態です。罪なき五官の働きの状態はこれです。罪のない五官の働きは、女がこのように見えるのです。御名を崇めて女を見れば、ああこれこそついに私の骨の骨、私の肉の肉となるのです。
どのようにしたら、このように見えるかです。真理の御霊はガイドして、真理をことごとく悟らしめると聖書にあります。私たちにそれを教えつつあります。これは大変な御霊のあわれみです。
五官をどのように用いるかによって、魂の命運が決まるのです。地獄行きか、永遠の命か、どちらかになるのです。これは五官の使い方一つです。ランプの使い方一つです。
ですから、生きている一つひとつの生活を無駄にしてはいけないのです。小事に忠実でなければいけないのです。生きていることを忠実に、ていねいに生きるのです。ていねいに生きると分かってくるのです。五官をていねいに使って下さい。そうすると分かるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)