top of page
検索
  • 管理人chaya

信仰とは何か


聖書に次のように書いています。

「イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人が来て、『お嬢さんは亡くなられました。この上、先生を煩わすには及びません』と言った。しかし、イエスはこれを聞いて会堂司に向かって言われた。『恐れることはない、ただ、信じなさい。娘は助かるのだ』。

それから、家に入られる時、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母の他は、誰も一緒に入って来ることをお許しにはならなかった。

人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、『泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである』。人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。

イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』。するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるようにと、指図をされた。両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事を誰にも話さないようにと、彼らに命じられた」(ルカによる福音書8・49〜56)。

これを合理的に説明するにはどうしたらいいのでしょうか。未だかつて、これを説明した人はいないようです。

本当に死んだ娘が生き返ったのです。これは復活の第一号です。ラザロの件の前のことです。

四十二節では、娘は死にかけていたのです。だから、イエスを呼びに行ったのです。ところが、長血を患っている女のために、イエスが行くのが遅れたのです。そこで、娘の息が切れてまった。はっきり息が切れて死んでしまったのです。恐らく、息が切れてから数時間位たっていたのでしょう。

もし医者が来たとすれば、ご臨終ですと言ったでしょう。それから一時間も経過して、イエスがやってきたのです。この時のイエスの心理状態はどんなものだったのでしょうか。これが私たちにとって非常な助けになるのです。イエスは、枕元にいたのではなかったのですから、本当に死んだのか、いつ息が切れたのか知らないはずです。

五十節では、イエスは会堂司に、「恐れることはない、ただ、信じなさい。娘は助かるのだ」と言っています。娘は助かるのだとなぜイエスが言ったのかです。どうしてイエスはこう言ったのでしょうか。助かるも助からないも、イエスは娘のところには全然行っていないのです。

五十一節を見ますと、それからイエスは会堂司の家に入ったのです。この時、イエスは両親と、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、娘が横たわっている部屋に入ったのです。娘が死ぬ所を全然見ていないのに、娘は助かるのだと言っています。「恐れるな、ただ信じせよ」と言い切ったのです。なぜこう言ったのでしょうか。今神が命じておられるのは、この信仰です。この信仰を持てと言われているのです。ここにある事件については、預言の霊がないと説明できない箇所です。ここはパウロ神学の解釈とは、全然違う所です。

このイエスの信仰は何でしょうか。どうして会堂司に、こういう危険と言うか、野放図というか、はったりのようなことを言ったのかということです。病人の顔を見ていないイエスが、娘は治るのだと言い切っている。「恐れるな、ただ信ぜよ」と言っているのです。これができたら初めて、十字架がはっきり受け取れるのです。これからの私たちに必要なことは、「恐れるな、ただ信ぜよ」という信仰です。これを持たなければならないのです。

イエスはなぜ、「恐れるな、ただ信ぜよ」と言ったのか。このイエスの心境が本当の信仰です。イエスはいつでもこの信仰で勝ったのです。

イエスは「我すでに勝てり」と言いました。どうして勝ったのか。「恐れるなただ信ぜよ」という信仰です。一体何に恐れるなと言ったのでしょうか。「恐れるな、ただ信ぜよ」という短い言葉の中に、実はイエス・キリストの信仰の秘訣が入っているのです。

この場合のイエスの信仰のあり方は、信仰の真髄を意味する言葉です。信じられることを信じることは、信仰とは言わないのです。信心とか、信頼とかいう言葉の方が妥当です。信仰というのは、イエスの言葉を借りますと、いわゆる辛子種のようなものであって、桑の木に向かって、海に移れと言えるような気持ちを、信仰というのです。できないことができると考えられる気持ちです。これをイエスは辛子種一粒の信仰と言っているのです。信仰とは本来そういうものです。

禅宗に、「百尺竿頭進一歩」という言葉があります。これは支那の禅家の言葉であって、白髪三千丈という言い方をするのです。百尺と言っても、必ずしも百尺を意味しないのですが、百尺(約三百メートル)の竿の上に人間が上がれるはずがないのです。人間がよじ登っても、人間の重さで曲がってしまうからです。仮に、その頂上に立ったとして、そこから真っ直ぐに前へ進めというのです。これが禅の悟りです。

豁然大悟とはこれを実行することです。これはキリスト教の信仰とは全然違います。その意味でも、禅の悟りの方が優れていると言えるのです。

ところが、禅の悟りには保証がないのです。百尺竿頭進一歩すれば、百中の百下に落ちるのです。ですから、禅にはこういう言葉はありますが、実行はないのです。なぜ実行がないかと言いますと、禅には百尺の竿頭で一歩を進めた場合は、落ちるだけです。この言葉は大胆不敵な形容詞としてはありますが、このような心境を具体的に体験している人はありません。

ところが、イエスはこれを実行したのです。本当に実行したのです。死んだ人間に向かって、必ず治るとまず断言しているのです。死んだ人間に向かって、眠っているのだと言っているのです。

五十三節にあるように、人々は娘のために泣き悲しんでいたのです。泣くな、とイエスは言った。娘は死んだのではない。ただ眠っているだけだと言ったのです。娘が死んだ後にイエスが来たのですから、娘が死んだのか、眠っているのか、イエスには分かるはずがないのです。見舞いに来たユダヤ人は、娘が死ぬ前からいたのです。人々は娘が死んだことを知っていたのですからイエスをあざ笑ったのです。これは当たり前のことです。そういう人々に対してイエスは、娘は生き返ると断言したのです。

これは正に、百尺の竿頭進一歩です。イエスがそう言ったのは、イエスが生ける神の子キリストであると信じていたからです。

キリストとは一体何かです。これは重大な問題です。キリストとは百尺竿頭進一歩を実行することです。イエスは死んでいる人間に向かって、娘は甦ると考えた。これはどういうことかと言いますと、キリストの信仰は神の処置に勝つことができるという信仰です。これこそ、第三の天における神の右にいる信仰です。

イエスは自分を生ける神の子キリストと信じていた。これは偉大すぎる程の信仰です。神の処置に勝つことができる信仰です。キリストとはそういうものです。メシアとはそういうものです。メシアは神の処置に勝つのです。造り主なる神の処置に勝つのです。造化の主の偉大な手に勝つのです。

なぜこれがキリストかというと、現在私たちが見ている百物の造化、森羅万象の業は、神が天使の長の反逆のために造ったものであって、三次元の世界の事々物々は、神の本当の創造ではないのです。仮創造です。

第一創造(現在の地球創造)は、第二創造(現在の地球が消えた後にできる、永遠不滅の新天新地)への前提です。これをイエスは知っていた。

そこで第一創造に関するすべての神の処置は、旧約の時代は当然そうあるべきですが、自分がキリストである以上、新約の時代を創造すべき人間であること、旧約の約束を破って、新約の新しい約束を樹立すべきであることをイエスは知っていたのです。

旧約を破棄して、新約を樹立すべきであるという信仰、これがキリストの信仰です。死んだ人間を生き返らすことができない。これが旧約の信仰です。旧約の神の在り方です。イエスは見事にこれを否定した。全く新しい信仰を展開した。だから、死人が生き返ったのです。神が絶対にできないことを、イエスが実行したのです。

エデンの園において、アダムは絶対に食べてはいけない善悪の木の実を食べて、死んでしまった。死んだので、地球に追放されたのです。地球上の六十八億の人間は、現在死んでいます。この人間を、イエスの信仰によって生き返らせることができる。これがイエスの復活の命です。この命を受け取れば、誰でも生き返ることができる。これがキリストの信仰です。人間が死んだという神の処置を変更して、生き返らせることができるのです。

天使長ルシファーが死を創造した。これがエバを通して全人類に及んだのですが、イエス・キリストが十字架によって、死を完全に滅ぼしたのです。悪魔の働きが完全に否定されたのです。

キリストの信仰とは、死に勝つ信仰、悪魔に勝つ信仰です。イエス以後の新約時代は、これを誰もが、自由に受け取れる時代です。このことをよくよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:8回0件のコメント

最新記事

すべて表示

エデンの園

創世記第二章の七節には、土のちりで人が造られたとあります。八節、九節に、次のように書いてあります。 「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」。 また、十五節に、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた

聖書に次のようにあります。 「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現われたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種がその人にとどまっているからである。また、その人は神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない。 神の子と悪魔の子との区別はこれによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は

bottom of page