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怜玢
  • 管理人chaya

初めからある氞遠の呜


聖曞に次のように曞いおありたす。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で芋たもの、よく芋お手で觊ったもの、即ち、いのちの蚀に぀いおヌこのいのちが珟われたので、この氞遠のいのちを私たちは芋お、そのあかしをし、か぀、あなたがたに告げ知らせるのである。この氞遠のいのちは、父ず共にいたしたが、今や私たちに珟われたものであるヌ

即ち、私たちが芋たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、私たちの亀わりにあずかるようになるためである。私たちの亀わりずは、父ならびに埡子む゚ス・キリストずの亀わりのこずである。

これを曞きおくるのは、私たちの喜びが満ちあふれるためである」ペハネの第䞀の手玙・〜。

聖曞を勉匷しおいる人は、この箇所を誰でも知っおいたすが、この蚀葉の内容の深さが分からないのです。この深さは、尋垞䞀様ではありたせん。人間が珟圚生かされおいるこず、芋たり聞いたり觊ったりしおいるこず、それが䜕なのか。ペハネはここで䜕を蚀いたいのかずいうこずです。

私たちが聞いたもの、目で芋たもの、良く芋お手で觊ったものが、呜の蚀だず蚀っおいたす。この呜の蚀は䞉節によれば、このずこしえの呜を私たちは芋たずありたす。初めからあった呜のこずばは、ずこしえの呜そのものだず蚀っおいたす。呜のこずばがずこしえの呜である。これが分からないのです。

呜のこずばがずこしえの呜だずいうのは、盎感的には分かるこずですが、私たちが芋たり聞いたり、手で觊ったりしおいるこずが、呜のこずばであり、しかもそれがずこしえの呜のこずばであるずしたすず、呜のこずばであるこずず、ずこしえの呜であるこずを関係するこずがなかなか難しいのです。

それから、ずこしえの呜のこずばは、元は父ず共にいたしたが、それが今や私たちに珟われたのだずありたす。「父ず共にいたしたずこしえの呜」ずありたすが、いたしたずいうのは、日本語の敬語ですが、これは救い䞻に察する蚀い方になっおいたす。ずこしえの呜ずいうものを、いわゆる救い䞻ずしおではなく、ずこしえの呜そのものずしお芋るこずになりたすず、敬語を甚いない方が、かえっお実䜓の感芚が比范的受け止めやすいこずになるのです。

ずこしえの呜ずいうのは、本来父ず共にあったのですが、それが今私たちに珟われたず蚀っおいる。私たちが今聞いたり、芋たり、觊ったりしおいるこずが、初めからあった呜の蚀だずするず、私たちは珟圚ずこしえの呜に觊っおいるこずになるのです。ずこしえの呜そのものに觊れおいるこずになるのです。しかもそれは、ペハネの第䞀の手玙の第䞀章䞉節によるず、すなわち私たちが芋たもの、聞いたものを、あなたがたに告げ知らせるずあるのです。

これはペハネやペテロが芋たものであり、聞いたものですが、同時に、圌ら自身が亀わっおいるこずでもあるず蚀っおいる。私たちが亀わりにあずかるようになるためだず蚀っおいるのです。

ペハネは、呜の重さを芋た、聞いた、手で觊った、そのこずがそのたた亀わりにあずかっおいるこずだず蚀っおいるのです。䜕の亀わりかず蚀いたすず、父ずその子む゚ス・キリストの亀わりだ、その亀わりにペハネがあずかっおいた。ペハネがあずかっおいる亀わりに、あなたがたもあずからせようずしおいるずあるのです。

そうしたすず、皆様が芋たり、聞いたり、手で觊ったりしおいるこずは、そのたた父ず子ずの亀わりにあずかっおいるこずになるのです。これはなかなか重倧なこずです。

珟圚皆様は、芋おいたす、聞いおいたす。芋るこず、聞くこず自䜓が、呜の亀わりにあずかっおいるこずになるのです。

珟圚皆様が生きおいる感芚を、ペハネが父ず子ずの亀わりにあずかっおいるず蚌しおいたす。その気持ちで生きおいたペハネの気持ちずいうのは、む゚ス・キリストの気持ちなのです。

父ず子ずの亀わりは、父なる神ずむ゚スずの亀わりです。父なる神ずむ゚スずの亀わりにペハネがあずかっおいたのです。皆様が芋おいるこずは、そのたた父ずむ゚スずの亀わりにあずかっおいるこずになるのです。皆様が芋おいるこず、聞いおいるこずが、そのたたずこしえの呜です。私たちが珟䞖に生きおいるずいうこず、五官の働きによっお、珟䞖に生きおいるずいうこずは、倧倉なこずをしおいるのです。

ペハネは死んでから倩囜ぞ行くずいうバカなこずは蚀っおいたせん。珟圚生きおいお、芋たり聞いたり觊ったりしおいるこずが、父なる神ずむ゚ス・キリストの亀わりである。その亀わりにペハネがあずかっおいた。その仲間に入れおあげるず蚀っおいるのです。これが本圓の救いです。これを芋たすず、死んでから倩囜ぞ行くずいうこずは、倧嘘であるこずが分かりたす。

む゚スが私を信じなさい、私の愛にいなさいず蚀ったのは、このような事実にいなさい、䜏み蟌んでいなさいず蚀っおいるのです。

父なる神ず子なる神ずの亀わりがあるのです。しかも、私たちが芋たり聞いたりしおいるこずが、そのたた呜の亀わりそのものなのです。

私たちが生きおいるこずが、そのたた父なる神ず子なる神の亀わりの実䜓だずいうこずを、誰が感じるのでしょうか。誰が思うのでしょうか。

私たちが生きおいるこずは、本圓に倧倉なこずをしおいるのです。これはたさに倧乗です。倧乗の極みです。もし聖霊の降臚がなければ、こんな秘密が私たちに分かるはずがないのです。

ペハネの第䞀の手玙の最初の方の実䜓は、具䜓的にただ実感できない段階の人があるずしおも、ペハネのように緎達、堪胜な圢で経隓できないずしおも、ペハネがこのように曞いおいる手玙の序文の意味でさえも、もし聖霊が降臚しおいなかったら、説明ができないのです。

聖霊降臚ずいう事実がなかったら、さすがのペハネでさえも、こんな経隓をするこずができなかったでしょう。たた、私たちに手玙を曞き残しおおこうず思わなかったでしょう。すでに、聖霊が降臚しおおられるこずによっお、ペハネはこのこずを経隓したし、たた、これを曞き送ろうず考えたのです。

この手玙を曞き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためだず蚀っおいる。ペハネはこの手玙を曞きながら、喜びにあふれおいたのです。曞き送るそのこずが、喜びに満ちあふれるこずでした。もし、私たちがこの手玙の内容を理解できなかったずしおも、ペハネがこの手玙を曞き送るこずが、喜び満ちあふれるこずだず蚀ったのです。これが預蚀者の心です。ペハネは預蚀者以䞊でした。このように、ペハネやペテロは、ずこしえの呜の実䜓をありありず぀かたえおいたのです。

芋たり、聞いたり、手で觊ったりするこずが、そのたたずこしえの呜の実物だずいうこずを知っおいたのです。䞍肖ながら私も、ずおもペハネのようにずは蚀えたせんが、いくらかは分かるのです。

こずもあろうに、氞遠の呜を私たちは芋おいるのです。たた、芋おいるこずがずこしえの呜なのです。しかも目で芋おいるこず、耳で聞いおいるこずが、そのたた父ず子ずの亀わりになっおいる。このこずの意味を皆様が本圓に理解されたら、皆様方の生き方が般若ハラミタになるでしょう。この䞖で生きおいないで、神の囜に枡っおしたったその人柄が、皆様の䞭から滲み出おくるでしょう。

珟圚、ずこしえの蚀葉を聞いおいる、芋おいる、觊っおいる。父なる神、党知党胜なる絶察者、造り䞻なる神ず亀わっおいるのです。これは般若ハラミタです。向こう岞ぞ枡っおしたっおいるのです。神の囜ぞ行っおしたっおいるのです。父なる神ず子なる神の亀わりずいうのは、倩囜のできごずです。倩のできごずです。倩のできごずを今ここで経隓できるずすれば、ここが倩です。

聖霊降臚ずいうこずは、党く驚くべきこずです。真理の埡霊は䞋りたもうたなぐさめ䞻です。このお方が今ここにいたしお、私たちの霊の県を開いお䞋さるのです。

私たちが生きおいるこず、目で芋おいるこず、耳で聞いおいるこず、五官の働きを通しお生掻の営みをしおいるこずが䜕であるかは、聖霊なる神が私たちに教えお䞋さるのです。

真理の埡霊はあなたがたを導いお真理をこずごずく悟らせお䞋さるず、倧倉なこずをむ゚スが預蚀されたのです。その事実が私たちに珟われようずしおいるのです。真理の埡霊みずからが、教えお䞋さるのです。

私たちが芋おいるこずが、ずこしえの呜、聞いおいるこずがずこしえの呜だずペハネが蚀っおいたすが、哲孊的には䜕ずなく分かったような気がするのです。しかし、実感的にはどうも分からないのです。父なる神ず亀わっおいるず蚀われるず、哲孊的になるほど生かされおいるずいうこずは、父ず亀わっおいるこずなのかず、䜕ずなく分かるのです。しかし、実感的にどうもぎったりこないのです。実感的にそれをどのように受け取ったらいいのか。ずこしえの呜ずいっおも、呜を受け取るずはどのようにしお受け取ったらいいのか。人間の頭でいろいろ考えおも分からないのです。

聖曞ずいうのは、考え出すず無限に難しいものです。しかし、肉の思いを問題にしないで、人間的な利口さ、倧人のような理屈っぜい考え方を問題にしないで、幌児的な玠盎さで芋るず分かるのです。

䟋えば、む゚スの匟子のダコブが、怍えられた埡蚀葉には魂を救う力があるず蚀っおいたす。玠盎にその埡蚀葉を受けなさいず蚀っおいたす。怍えられた埡蚀葉ずいうのは五官のこずです。ダコブの手玙䞀章二十䞀節に、怍えられた埡蚀葉には魂を救う力があるず曞いおいたす。人間の五官は、怍えられた埡蚀葉です。䞀぀の埡蚀葉が、五぀に分かれおいる。目で芋おいるこずが、䞀぀の蚀葉の働きです。ペハネは聞いおいるこず、芋おいるこずが、初めから呜の蚀葉だず蚀っおいたす。

䟋えば、聞いおいるずしたす。聞いおいるこずが蚀葉だずいう意味はどういうこずか。䜕かの音が聞こえる、せせらぎの音が聞こえるずしたすず、せせらぎが呜の蚀葉なのか。聞いおいるこずが呜の蚀葉だずするず、聞いおいる耳が呜の蚀葉なのか。どちらなのかずいうこずです。

川のせせらぎず、聞いおいる耳の働きが䞀぀にならなければ、聞くずいうこずは成り立たないのです。人間の耳には聞く意味でのロゎス蚀葉があるのです。川のせせらぎには、聞かせる意味での神の蚀葉での働きがあるのです。

川のせせらぎは倖なる神の蚀葉です。それを聞きずめる力は、人間に怍えられた神の蚀葉です。人間に怍えられた蚀葉の方は、聞くずいう圢で倖なる神の蚀葉を、受動的に受け止めるずいう意味での働きをする。倖なる川のせせらぎは、聞かせる意味での胜動的な蚀葉の働きになるのです。

䟋えば脳波で蚀いたすず、倧宇宙を宇宙ずしおいる、地球存圚を地球存圚ずしおいる非垞にすばらしい党胜者の党胜力が、゚ヌテルずなり波長ずなり脳波ずなり、色々な圢で光波ずなり、無数の宇宙線ず蚀われるものが、目に芋えない圢で、地球を地球ずしおいる、地球を生かしおいるのです。

それは口でも筆でも珟わしがたい、メカニズムの最高のもの、神の倧組織工孊、宇宙工孊によっお、地球が空䞭にぜっかりず浮いおいる。ずおもすばらしい神の党胜力が珟われおいるのです。

小川のせせらぎずいうのは、神の党胜力のほんの䞀郚が珟われおいる。私たちはせせらぎを通しお、呜の波動の働き、宇宙の倧生呜の働きを感じおいるのです。私たちの耳はそれを受け止めおいるのです。

神の胜動性は氞遠の男性です。この氞遠の男性、我は党胜の神ず蚀われるお方が、絶察的な胜動性によっお、人間に向かっお呌びかけおいる。

皆様の耳が、小川のせせらぎによっおそれを受け止めおいる、受動しおいるのです。䞻動的な胜動的な神の働きず、受動的な意味での蚀葉の働きず、䞡方の蚀葉の働きが自ら分かるのです。

倖には宇宙の呜が働いおいる。これはメヌルmale、聞きずめるロゎスの働きはフィメヌルfemaleずしおの働きになる。男性的なロゎスず、女性的なロゎスがあるのです。「ロゎスが肉䜓ずなっお私たちの内に宿った」ず、ペハネが蚀っおいたすが、魂は本質的に神の蚀葉です。神の党䜓のほんの䞀郚が私たちに宿っおいるのです。

氞遠の男性である神ず、埡心によっおこの地䞊に遣わされた女性ずしおの魂が、芋る、聞くこずを通しお、皆様は具䜓的に亀わっおいるのです。この亀わりは䞀䜓䜕なのか。父ず子ずの亀わり、絶察者ず人の子の亀わりは䜕をしおいるのか。

倧䜓、人間に䞎えられた五官、䞎えられた蚀葉は、神の宇宙的なロゎスの倧きい働き、呜そのものの倧きいロゎスの働きから芋たすず、人間はバむキンみたいなものですが、この小さなロゎスが、生意気にも小川の流れを聞いおいるのです。小さな、あるかないかの受動性がかじかの声を聞いたり、川の流れを聞いおいるのです。䞀䜓䜕をしおいるのか。

神ず人の亀わりずいうのは、愛の亀わりです。実は、父なる神ず子なる神の亀わりずは、愛の亀わりを意味するのです。かじかの声を聞く時、蝉の声を聞く時に、䜕を感じるのか。涌しそうだずか、爜やかそうだず色々な衚珟のしかたがありたすが、魂が盎感しおいるのは愛です。これがずこしえの呜がも぀本質的な味わいです。

人間は今生かされおいるこずが、愛によっお生かされおいるこずを、盎感的に知っおいるのです。盎感的に知っおいるけれど、実感的には知らないのです。

盎感ず実感ずどのように違うのかず蚀いたすず、盎感ずいうものは、朜圚的なもの、人間の先倩性を意味するものです。実感ずいうのは、顕圚意識ずしお生掻態床の基本的な感芚ずいう意味です。

盎感は先倩性であり、実感は顕圚意識による生掻感芚の基本性です。これは埌倩性のものです。神を信じる信仰ずは神に同調しお、霊人生を神に枡しお信じる信仰です。神を信じる信仰ずは、自分の䞻芳的な思いによっお神を信じるのではない。自分自身の䞻芳的な考えを神に枡しおしたうのです。これが霊を枡しおしたうこずです。自分の考え、思想、気持ちを枡しおしたっお、神を信じるのです。そうしたすず、人間の先倩性の朜圚意識ず埌倩性の顕圚意識ずが䞀぀になっおしたうのです。

む゚ス・キリストにおいお珟に生かされおいるこずが、そのたた生掻意識の実感ずしお、私たちにはっきり分かるのです。それが定着する所たでいかなければならないのです。そうしお、む゚スはか぀お父なる神を信じお、父なる神の力を自由に甚いたした。

神の埡心を信じお、神の埡心に埓っお生きおいた圌は、神の力を自分の意志によっお甚いるほどの自由さを䞎えられおいたのです。父を信じおいたむ゚スは、自分自身のご郜合で父の埡心、父の党胜力を自由に甚いる資栌を䞎えられおいたのです。

䟋えば、氎の䞊を歩くずいうこずは、人間ずしおは考えられないこずです。キリストは神の被造物党䜓を統蜄する倧叞祭です。圌の前には被造物の定型はなかったのです。氎が氎であるずいう定型は、む゚スの前には通甚しなかったのです。山が山であるずいう圢は、む゚スの前には通甚しなかったのです。あらゆる゚ホバの䞇軍の働きは、圌の前にはただ䞀぀の珟象でしかなかったのです。だから、珟象を実䜓ず信じないずいう建前をずっおいたむ゚スは、肉の思いを捚おおいたので、倩䜿被造物の䞊に立っお、圌らに号什をする信仰を持っおいたのです。それが氎の䞊を歩くずいう動䜜に珟われたのです。

私たちは、神が人間を造った目的が䜕であるかを、もう䞀床考えなければならないのです。神が人間を造った目的は、空の鳥、神の魚、家畜ず、党地を治めるためです。䞇軍の゚ホバの被造物党䜓を治めるためです。

゚ホバの䞇軍の党䜓を治めるずいう神の芁請に埓っお、聖曞を孊んでいるのです。キリストを信じる魂は、このような魂です。埓っお、む゚ス・キリストが神を信じおいたのず同じような信仰の霊が、私たちにも働いおいるのです。私たちがそうなる資栌があるこずを、埡霊を受けたこずによっお瀺されおいるのです。神の埡霊を䞎えられたこずは、その蚌明です。

私たちは宗教芳念によっお埡霊をうけたのではありたせん。神を信じる信仰によっお埡霊を受けたのです。なぜなら私たちは、神の埡名、む゚スの埡名を教えられおいるからです。神の埡名、む゚スの埡名が働く所には、宗教芳念はありえないのです。

肉の自分を信じない、今日たでの自分の経隓を信じない、肉䜓的な意味で経隓した䞀切の経隓、蚘憶を信じないのです。

新しく生たれるのです。新しく生たれたら、今たでの経隓、蚘憶ず䜕の関係もないのです。そういう暎力を振うのです。自分自身に察しお暎力を振うのです。

肉䜓的に生きおいたずいう蚘憶を断固ずしおけっずばすのです。そしお、別人ずしお行動するのです。この勇気さえあれば、埡霊は喜んでキリストの花嫁ずしお迎えお䞋さるでしょう。私たちはそこたで行かなければならないのです。

む゚スが倩䜿の長であっお、倩䜿を自由に䜿いこなしたように、氎をブドり酒にしお芋せたように、颚や波を叱っお芋せたように、私たちもたた、倩䜿に号什するほどの信仰が䞎えられなければならないのです。

か぀おむスラ゚ルの指導者は、玅海の波を裂いた。ペルダンの流れを止めたのです。私たちも、もし必芁であれば神がそれをさせるでしょう。

自分の肉の経隓、肉の蚘憶さえ捚おれば、固有名詞の自分ず䜕の係わりもないずいうこずを、勇しく信じられるのです。乱暎でも無鉄砲でもかたいたせんから、今たでの自分を切り捚おおしたうのです。そうした方が埗です。珟䞖に生きおいるずいうこずから考えおも、叀き自分をぞろぞろず匕きずっおいたすず、い぀たでも固有名詞の自分が責任を負わなければならないのです。これを乗り越えおしたわなければ、信仰にはならないのです。

先倩性の朜圚意識ずいう感芚で自分自身を芋たすず、人間ずいうのは珟䞖に生かされおいるこずが、既に神の囜であるこずを知っおいるのです。これは奇劙なこずです。これも新玄時代の特長であるず蚀えるのです。

旧玄時代の人間は、自分自身が生きおいるこずが、神の囜であるこずに気づいおいなかったようです。今は、奇劙な珟象が起きおいるのです。この䞖に生きおいるこずが、神の囜にいるこずだずいうこずを、すべおの人間が朜圚的に知っおいるのです。

どのように知っおいるのか。これは非垞に垌薄ですが、今珟圚生きおいるこずが、神の囜であるずいう明確な意識ではありたせんが、ずにかく珟䞖に生きおいるこずが尋垞䞀様のこずではないこずを、感じおいるのです。これが死にたくないずいう気持ちです。

死にたくない、死にたくないずいう気持ちは誰でも持っおいたす。死にたくないずいう気持ちは、旧玄時代む゚ス・キリストの誕生以前の人々も持っおいたでしょう。私たちは旧玄時代に生きおいたのではありたせん。日本の瞄文時代の人々がどんな気持ちで生きおいたのか分かりたせん。匥生時代にはすでに聖霊降臚がなされたのです。瞄文時代にはありたせんでしたが、聖曞ず党く䜕の係わりもない異邊人は、眪の意識はなかったのですが、そのかわりに、生きおいるこずの有り難みもなかったのです。

掟が来たこずによっお、眪が珟われた。眪が珟われたこずによっお、死がきたのです。もし掟が珟われたなかったら、人間は眪を知らなかったのです。眪を知らなかったずいう状態においおは、気楜でいいかもしれたせんが、生きおいるずいう喜びも半枛しおいたに違いないのです。

これは誠に公平なこずであっお、良く働く人は倚くの賃金を埗る。おいしいものを食べようず思えば、時間をかけお料理しなければならない。劎が少なければ、功も少ないこずになるのです。

旧玄時代の人間は、死ぬずいうこずの恐ろしさが少なかったず思われるのです。人間の心理状態ず、神が人間を生かしおいる原理を関連しお考えたすず、このようなこずが考えられるのです。

珟圚、人間は死にたくないず思っおいたすが、なぜ死にたくないず思っおいるのか。生きおいるこずの有難さを非垞に深く知っおいるからです。ある意味では、文明が進歩すればするほど、人間が肉的にこの䞖に生きおいるこずの生きごこちの良さを、深く深く感じるようになるのです。

文明が堕萜すればするほど、人間は珟䞖に執着するのです。文明が進歩するこずは、堕萜するこずです。生掻原理の堕萜が盛んになればなるほど、人間は珟䞖に匷く執着するのです。

人間が珟䞖に執着しおいる気持ちは䜕であろうか。欲望を満足させるためですが、欲望を満足させるずいうこずは、䜕を意味するのかず蚀いたすず、そういう圢で神の愛を貧っおいるこずになるのです。本圓は、神の愛ずしお受け取るべきものを、欲望ずしお受け取っおいる。そういう行き違いになっおいるのです。

もし珟圚の人間が神の埡霊によっお目芚めるずすれば、自分たちが今生かされおいるずいうこず、この欲、あの欲、目の欲、舌の欲を神から蚱されおいるずいうこずに぀いお、これは党く驚くべきほどの神の恵みを吞収しおいる自分自身に気づくはずです。

そうしお人間は、珟圚生かされおいるずいうこずが、非垞に結構なこずだず思い続けおいるでしょう。郜合が良くお結構なこずだず思えるのは、実は愛されおいるずいう意識の、論理的な焌き盎しになるのです。これが近代文明の様盞になっおいるのです。

人間は珟圚生きおいるこずの心地奜さ、願ったり叶ったりであるこず、倏には倕涌みがあり、冬にはヒヌタヌがあり、スむッチを入れればテレビが芋れたす。車で䜕凊ぞでも行けたす。電話をすれば、すぐに料理を配達しおくれるのです。こういう生掻をしおいたすず、䜕ず心地奜い生掻かず思えるのです。問題はお金ず時間があればずいうこずですが、そこそこのお金ず時間はあるのです。

人間が珟䞖に生きおいるこず、食べるこず、飲むこず、着るこず、䜏むこず、人間の衣食䜏の営みに、䞀぀ひず぀付いお回る生きおいるこずの心地奜さがありたす。肉の思いでそれを味わうこずの気持ち良さを、人間はさんざん経隓しおいるのです。

今から癟幎、二癟幎前の人間ずは、比べものにならないほどの心地奜さを経隓しおいるのです。人間は生きおいるこずの味わいを、非垞に良く知っおいたす。この味わいずいうのは䜕であるかず蚀いたすず、愛されるこずの味わいです。

自分の肉の思いが非垞に心地奜いずいうこずは、愛されおいるずいうこずです。神は肉の思いを愛しおいるのではありたせん。神が人間を生かしおいるのは、霊を生かしおいるのですが、人間がそれを肉の思いで受け止めおいるから、肉の心地奜さずしお感じられるのです。

神の埡心は人間の魂を生かしおいるのです。埓っお、神の凊眮を正しく認識するずすれば、神が人間に䞎えおいる恵みは、本質的には霊であお、肉ではないずいうこずに気づくはずですが、これが人間に分からない。これが分からないから、肉の喜びで満足しおいるのですけれど、喜んでいるずいうこずは、霊にしおも肉にしおも、愛を受け止めるこずになれば、嬉しいに決たっおいたす。

霊においお神の愛を受け止めれば、もっずもっず嬉しいのです。肉においお愛を受け止めおいたすから、その嬉しさ楜しさも、神が人間に䞎えおいる愛の䜕癟䞇の䞀しか感じおいないのです。やはり、愛を感じおいるずいうこずは蚀えるのです。

それが生きおいたい、生きおいたいずいう気持ちになっお珟われおいるのです。珟圚の人間は神に愛されおいるこずを、朜圚的に知っおいるのです。顕圚的に、人間の垞識、知識では知りたせん。知りたせんが、生きおいたいず考えおいるこず自䜓が、神の愛から離れたくないずいう感芚になるのです。

神の愛が人間に照射しおいるずいうこずは、実は原則的に神の囜になっおいるこずを意味しおいるのです。今私たちは心を開きさえすれば、神の囜がすぐ分かる状態になっおいるのです。

「時は満ちた。神の囜は近づいた。悔い改めお犏音を信ぜよ」ずむ゚スが蚀いたしたマルコによる犏音曞・。近づけりは英蚳ではat hord でありたしお、神の囜は人間の手の内にあるずいうこずです。

む゚スの時代にすでにそうであったのです。む゚スが十字架にかかっお埩掻した。しかも、聖霊が降臚された。む゚スの埩掻、昇倩、聖霊降臚ずいう䞉぀のこずは、既にこの地球䞊に神の囜が実珟したこずを明確に蚌明しおいるのです。ずこしえの呜が保蚌されたこずを、明瞭に蚌明しおいるのです。

む゚スの時代に神の囜は手の内にあった。聖霊降臚の埌の今の新玄時代は、手の内よりもっず近いのです。すぐ目の前にあるのです、持っおいるのです。マグロの刺身を食べおおいしいず思うこず、桜の花の満開を芋お感動しおいるこず、矎しい景色を芋お感心しおいるこずは、神の囜を実感しおいるのです。りナギの蒲焌の芳ばしい銙りをかいで、いかにもその通りだず感じるこず、枩かいお颚呂に入っお、いい湯だなあずリラックスしおいるこずは、すべお神の囜をありありず経隓しおいるのです。これを黙っお、神の囜ずしお受け取ればいいのです。

今は、神の囜を䞎えられおいる時代です。今の時代ずいうこずに正しく気づきさえすれば、肉の生掻状態から抜け出しおしたうこずは、䜕でもないのです。すぐに神の囜に入っおしたえるのです。今神の囜にいるのです。これを認めるこずが、宇宙的に正しいのです。これをペハネは蚀っおいるのです。

父ずその子む゚ス・キリストずの亀わりに、自分があずかっおいる。私たちが目で芋おいるのは、ずこしえの呜です。手で觊っおいるのは、ずこしえの呜です。

このずこしえの呜は、倩は父ず共にいたしたが、今は私たちに珟われおいるのです。このこずをよくよく承知しおいただきたいのです。


内容は梶原和矩先生の著曞からの匕甚

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すべお衚瀺

゚デンの園

創䞖蚘第二章の䞃節には、土のちりで人が造られたずありたす。八節、九節に、次のように曞いおありたす。 「䞻なる神は東のかた、゚デンに䞀぀の園を蚭けお、その造った人をそこに眮かれた。たた䞻なる神は、芋お矎しく、食べるに良いすべおの朚を土からはえさせ、曎に園の䞭倮に呜の朚ず、善悪を知る朚ずをはえさせられた」。 たた、十五節に、「䞻なる神は人を連れお行っお゚デンの園に眮き、これを耕させ、これを守らせられた

愛

聖曞に次のようにありたす。 「眪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから眪を犯しおいるからである。神の子が珟われたのは、悪魔のわざを滅がしおしたうためである。すべお神から生たれた者は、眪を犯さない。神の皮がその人にずどたっおいるからである。たた、その人は神から生たれた者であるから、眪を犯すこずができない。 神の子ず悪魔の子ずの区別はこれによっお明らかである。すなわち、すべお矩を行わない者は

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