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  • 管理人chaya

命の木と善悪を知る木


創世記第二章の七節に土のちりで人が造られたとありますが、続いて八節、九節に次のように書いています。

「主なる神は東のかたに、エデンに一つの園をもうけて、その造った人をそこにおかれた。また、主なる神は見て美しく食べるに良いすべての木を土から生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪を知る木とを生えさせられた」。また、十五節に「主なる神は人をつれていって、エデンの園におき、これを耕させ、これを守らせられた」とあります。八節と十五節との関係がどのようになるかです。これは同じことではないのです。違っているのです。

神が人を造られたということ、つまり人がリビング・ソール(living soul )となった。人が生きたものとなった。これはコリント前書の第十章にも、口語訳聖書では、初めの人は生きた者となったということを書いています。第二の人は命を与える霊となったと書いています。

リビング・ソールとなったということは、これがとりもなおさず、ちりで造った人間のあり方を、端的に言い現わしている言葉になるのです。リビング・ソールという言葉は、直訳的に言えば、生きている魂、生きつつある魂となるのです。生きつつある魂というのは、何をいうのかということです。これは肉体的に生きていることを含んでいますけれど、肉体存在の人間をさすのではないのです。

イエスはかつて十字架以前において、「私は甦りである。命である」と言っていました。これはヨハネによる福音書第十二章にありますが、イエスは十字架にかかる前に甦りを経験していたのです。甦りとは罪を完全に許された人間の姿を意味するのです。そのような精神状態を意味するのです。

善悪の木の実を食べて、魂が死んでしまったものが、命の木の実を食べることによって、甦ることができるのです。我々の場合、十字架によって罪ある者が、死んだものとして扱われる。聖霊を与えられて、十字架をはっきり確認させられて、御霊を崇めることになりますと、必然的に現在生きているままの状態で、罪のない状態に入ることができるのです。イエスが甦りの命を経験していたように、復活の命を現世で経験できることになるのです。

だから、まず最低限度、甦りの命が現世で経験できるという信仰でなかったら、とても携挙はおぼつかないのです。変貌山とまでいかなくても、創世記第二章の実感が自分自身に与えられているという状態でなかったら、とても救いを実感することができないのです。

自分の思いの尺度で十字架の大きさ、小ささをあれこれ思いはかる。自分がだめだから、十字架もだめだろうと思っているのです。

人間の考えがどうであっても、神の処置には一寸の偽りはありません。雲の上には、いつでも太陽が輝いているのです。それを考えないで、雲の下のことばかりを考えているのです。これは情けないことです。

仏教でもこのことを、人間はすでに仏の性を持っているのだから、仏なのだと言っています。これは道元禅師の黙照禅です。人間はすでに仏であるのだから、自分がお釈迦さんの気持ちになって座禅を組むのだと考えるのです。これが道元の禅です。

ところが、白隠和尚や一休禅師などの臨済禅、看話禅では、無とは何かとか、色々な考案を提出して、それを考えよというのです。これは人間が不完全だという前提に立っているのです。曹洞の禅は、人間は完全だという前提に立っている。この二つの禅があるのです。

エデンの園の光景は、黙照禅の方になるのです。道元の禅と同じであって、人間の迷いはありません。完全に神の子である人間の姿が、エデンの園に彷彿として現われているのです。リビング・ソールそのままの姿が現われていたのです。そのような清純で素朴、純真なアダムが、エデンの園におかれたのです。

神はエデンの園でアダムをどのように見ていたのか。エホバ神は、見るに美しく、食べるに良いすべての木を、土からはえさせられた。神はエデンの園の中央に、もろもろの木をはえさせて、それを心のままに取って食べてもいいと言いました。心のままに取って食べてもいいというのは、神が人間の心理構造に対して、非常に大きい期待と信頼をおいていたからです。

人間の意志に従って何でも食べてもよろしいということです。これは神と人との原点的な係わりが、一つの大きい信頼、愛して守るという非常に大きい神の処置が、人間に与えられていたのです。人間の自由意志というのは、神ご自身の本質的な信頼で織り込まれているのです。この点をよく考えて頂きたいのです。

そのような豊かな信頼感を基本にして、十七節に言われるような掟が与えられているのです。善悪を知る木からは取ってはならない。それを取って食べると、必ず死ぬと言われたのです。

十六節の場合は、自然に命の木と同じような意味になるのです。どれから取って食べてもよろしい。ここには、命の木から取って食べてもよろしいとわざわざ書いていませんが、園のどの木からでも心のままにという書き方をみますと、この中には当然命の木も含まれていたのです。

目にうるわしく、食べるに良いというのは、肉体的な感覚、直感的な意味での魅力を感じるようなものです。命の木というのは、直感的な食欲というよりは、別の意味で人間の心に訴えてくるものです。見た所あまり美しくない、また、そんなにおいしく見えない。しかし、何とかして食べなければならないものです。

文化概念であてはめて考えてみれば、哲学的な意味での思想とか、文学的な意味での思想とかいうものになりますと、見た所すぐに食べたいと思えるものではない場合が多いのです。しかし、それは命の木の実に該当するものでありうるということです。

エデンの園の場合には、自分の肉体を養うことが、そのまま永遠の生命を養うものと同じ意味をもっていたのです。本来、永遠の生命と現世だけの命と、二つがあるのではない。命は一つです。これをヘブル語ではゾーエーと言いますが、命は本来一つしかない。前世的に言いますと、命は一つしかないのです。

宇宙の命、神の命があるだけです。だから、肉体的に自分を養うということが、そのままとこしえの命を養うことになるのでなかったら、嘘です。

ところが現在では、それが全然別になっているのです。ここに原罪の恐ろしさがあるのです。人間の命の本質が全く違ったものになっているのです。善悪の木の実を食べた結果、死んでしまったから、宇宙の命に生きているはずの人間が、動物的な生命としか生きていないことになるのです。

十六節の段階では命の木の実を食べることも、それ以外の実を食べることも、同じ命のためになったのです。ところが、十七節で罪を犯したために、死んでしまうことになった。二つの命があるようなことになった。死んでしまう命と、死なない命と、二つの命があるという変な状態になってしまったのです。十六節を深く考えますと、こういうことが分かるのです。

私たちが救われるべきことがあるというのは、十六節に帰ることです。肉体を養うことが、そのままとこしえの命に該当するという命に帰ることです。これが救われるということです。

命の本質をどのように見るかという自覚に立たなければいけない。現世に生きている命が、そのまま来世の命に通じるということが、明白に自覚できていないなら、本当に生きていることにはならないのです。本当に生きているなら、今生きている命が来世に通じるという理由をはっきり心得ているはずです。心得ているのでなかったら、生きているとは言えないのです。

はっきりあるがままに自分の命の状態を確認して、もし聖書にふさわしい命が、自分の自覚の中にないなら、そのような命の自覚を与えて頂くように、御霊にお願いすればいいのです。

十七節に善悪を知る木と命の木が書いてありますが、善悪を知る木が具体的にあるはずがない。命の木も、また、具体的にあるはずがないのです。

エデンの園というのは、具体的に存在するガーデンではなくて、心理構造における一つの境涯の物語であるということは、当然理解できるはずです。

ここで考えなければならないことは、私たちがこの世に生まれてきたということは、木の実を食べるために生まれてきたということになるのです。善悪を知る木を食べるとしても、食べないとしても、そういうものを受け止めるために、生まれてきたのです。

目にうるわしく、食べるに良きというのは、命の木の実を食べる前に食べなければならないものです。これがいろいろな木の実です。何を食べてもよろしい。どんな木の実でも、命の木の実でも、食べたいものを食べてもいいのです。食べるのはそれなりに、肉体的にも精神的にも、意味があるからです。日常生活のあらゆる事がらは、何をしてもいいと言っているのです。日常生活におけるすべての事がらは、すべて目にうるわしく、食べるによい木の実です。

食欲的な問題でも、性欲的な問題でも、欲という言い方がおかしいのです。欲というのが間違っているのです。食でもそのとおりです。食欲、性欲と欲という言葉を使うのが、間違っているのです。こういう言い方が始めから間違っているのです。欲は始めからないのです。ないものをあるように考えている。特に性欲については、なぜこんな考え違いをしているのかと言いたいのです。

すべての木というのは、何を食べてもいいのです。目にうるわしく食べるに良いのですから、何でも食べなさいと言っている。ただ、善悪の木の実だけは食べてはいけないと言ったのです。善悪の木の実を食べることが、人間自身が決定的に没落してしまう原因になるからです。

何を食べてもよろしいと神が言った。パウロはこのことを「市場で売っているものは何でも食べてもよろしい。あれを食べたらいけないとか、これを食べたらいけないとか言ってはいけない」と言っているのです。反芻するものはよくて、反芻しないものはいけないとか、ある食べ物は他のものに勝っているとか、劣っているとかということを言ってはいけないと、パウロが言っているのです。

そういう考えはすべて、欲望的な角度から見ているのです。人間はいろんなものから教えを受ければいいのです。何を見ても何を食べても、それなりに人間の魂にプラスになるようにできているからです。だから、すべてのものが見るに良く、すべてのものが食べるに良いものなのです。すべておいしいという感覚で食べますと、食べるものが皆その人の魂のプラスになるのです。

見るものがすべて美しい、皆おいしそうだという気持ちになることが、命の木の実を食べる布石になるのです。これは良い、これは好きだ、これは悪いと考えることが、善悪の木の実を食べていることになるのです。

人間は毎日、命の木の実を食べているか、善悪の木の実を食べているか、どちらかをしているのです。元々はすべての木は、すべてに食べるに良く、見るにうるわしいものでした。悪いものは何もない。いいか悪いかを考えることをやめなさいと言っているのです。そうしたら、その人は命の木の実を食べようとしていることになるのです。

命の木の実を取って食べようと思わなくても、その人が現在生かされているということが、そのまま命の木に生きているのです。ことさらに、善悪の木の実を食べずにおこうと思わなくてもいいのです。

生かされているという事がら、その人の魂の真ん中に、命の木があるのです。だから、園の中央に命の木が生えていると言っているのです。

私たちが一番考えなければならないことは、人間の魂は現世で教育されるために生まれてきたということです。生活するためではないのです。現世というものは魂にとってすばらしいものです。私たちが神によって教育されている。神自ら教師となって魂を養っている。だから、私たちは教えていただくべきなのです。自主的に生活しようと生きてはいけないのです。

事情境遇というものは、それを通して教えるためにあるのです。生活することが、目的ではないということです。こういうことをよくお考えいただきたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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