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四つの生き物の賛美


人間とは何であるか。ヨハネの黙示録に、次のように書いています。

「すると、たちまち、私は御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見える虹が現われていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(4・2〜4)。

人間という独自の生き物、独自の存在、独自の人格が造られたのではないのです。神にかたどりて、神のかたのごとく、御座のそば近くにいるように人間は造られた。何のためかと言いますと、二十四の位を経験するためです。そうして、神に造られた万物の長老として、神のあらゆる有形無形の神の処置、神の完全さを経験する人格として、人間が造られたのです。

人間が造られたという言い方が、もう不正確です。長老が位を座せしめられたと言った方がいいのです。これは神のために、神が神を経験する長老を位に座せしめた。神ご自身のために、神ご自身が神ご自身を経験するための長老です。

だからこそ、御座のそば近くに二十四の位を設けて、それに二十四の人格性を持つものを座らせた。二十四の人格性というのは、一人の人間に同居している人格性のことです。二十四人いるのではないのです。二十四の人格性が一人の人に同居しているのです。

例えばタルソのパウロという人物の中には、二十四の経験者が同居していたのです。霊的に十二と、肉的に十二と、そういう経験者が同居していたのです。

臨機応変に経験すべきものを経験するのです。例えば、文化的なものを経験するとか、政治的なものを経験するとか、法律的なものを経験する、または経済的とか科学的とか、色々な経験の分野が有りうるのですが、その一つひとつの経験を誰もが、多かれ少なかれ持っているのです。

二十年生きてきた人には二十年生きてきた者として、それにふさわしい経験が二十四あるのです。五十年生きてきた者には、それにふさわしい経験が二十四あるのです。

人間は複合経験体です。人間は経験する生き者です。これは人間という独自の人格ではないし、また独自の存在でもないのです。人間という神から離れた者ではない。御座の回りのそば近く置かれている経験する機能なのです。

神はそういうものを造ったのです。人間を造ったのではないのです。経験者を造ったのです。神のために神を経験する神的人格を持つ者が長老です。長老は白い衣を身にまとい、金の冠をかぶっているという驚くべきことを書いているのです。

本来、金の冠というのは、神自身がいただきたもうものです。ところが逆に、御座に座したもう神は冠をかぶっていないのです。

御座の回りにいる二十四の位に座する長老が、冠をかぶっているのです。これが意味深長です。

長老は金の冠をいただいている。これは、御座に座したもうお方からいただいたものです。聖書にはそのように記されてはいませんが、長老は被造物の長老であって、長老自身もまた被造物の一つであることには間違いありません。従って、長老自身が自分で金の冠を造ることはできません。

金の冠とは何かと言いますと、金というのは神の性格を現わすものです。神ご自身の性格を象徴するものが純金です。「私から金を買いなさい」(ヨハネの黙示録3・18)とイエス・キリストが言われているように、金というのは神ご自身の性格を現わすものです。

金の冠とは王冠です。金の冠というのは、実は長老に与えられた、人間存在に与えられた、すばらしく崇高な尊厳性を意味するものと考えられるのです。人間独自の尊厳性です。

人間独自の尊厳性は何を意味するのかと言いますと、神にかたどりて神の形のように、人間が造られているということです。現実に人間は肉体を持って生活していますが、人間生活のあり方は、本来、神がもし肉体を持ったとすれば、人間のあり方と同じような生活を営まれるに決まっているのです。

人間が現実に営んでいる生活形態は、そのまま実は金の冠を意味するのです。好きな家に住み、好きな台所で料理を造り、好きな服を着て、車に乗っている。このこと自体が、人間生活のあり方がそのまま金の冠と言えるのです。皆様は金の冠をかぶっているのです。しかもそれを何とも思わずにかぶっている。そして、勝手に威張っているのです。神に栄光を帰するために金の冠が与えられていますが、神に栄光を帰さないで、自分自身が金の冠をかぶって、それにふさわしい自覚を持たないとすれば、それは必然的に呪われる者になるのです。これは当たり前のことです。

自分で金の冠を造ったのではない。金の冠をいただくほどの値打ちがある訳でもない。人間はただの被造物にすぎません。ただの被造物にすぎない者が、こういう形で神的なと言える程の尊い生活形態を持たしめられている。こういう生活のあり方を許されているのです。万物の霊長としての生活のあり方を許されているのです。

人間は地下に埋蔵されている資源を掘り出して、これを自由に消費しています。動植物を勝手に殺して、それを食べているのです。そういう特権性が金の冠として現われているのです。万物の長としての王冠をかぶっているのです。

また、長老は白い衣を着ています。白とはどういうものかと言います、あらゆる色を拒んでいる色です。また逆に、あらゆる色に染まる色です。あらゆる色に染まる可能性と、あらゆる色を拒んでしまう可能性と、両方の可能性を持っているのです。

拒んでしまう可能性の方を言いますと、太陽の直射光線に対して、白で光線を遮断することができるのです。光線を跳ね返すのです。色彩的な面を跳ね返すのです。そういう色です。これは、白は何色に対しても妥協しないという独自性を示しているのです。また一方何色とも妥協するということを意味しているのです。これは使い方によっては、非常に危険ではあるが、また、非常に尊いものでもあるのです。白は自分独自の色であって、何色でもないのです。何色をも拒否しますし、何色にも染まりうるのです。そういう危険な色です。

衣というのは、外側に着ている上着を意味しています。人間はそのような心理的な上着を、現在着ているのです。これが人間の独自性です。私は私だと考えている。これが人間の独自性です。

この白い衣を着て、金の冠をかぶっている。これは現実の人間の独自性と尊厳性をいかんなく現わしているのです。これほどあざやかに人間の本体を言い現わしているものはないのです。この独自性と尊厳性の二つのものをひっくるめて、人間は自由意志と言っているのです。自由意志という言葉を使う場合には、独自性の方が少し強いでしょう。これに尊厳性がプラスされています。そこで人間は悔い改めて福音を信じることが、大変難しくなるのです。このように人間は、尊厳性と独自性を神から許されているのです。

ヨハネの黙示録の第四章に示されている長老は、御座の回りに従属しているのです。これが正常な人間の位置を示しているのです。

今皆様はこの位置にいることを自覚して頂きたい。皆様がいる位置は、御座の回りです。御座の回りに位置していることにおいて、皆様は金の冠と白い衣が保障されているのです。この独自性と尊厳性が、いわゆる自尊心であり、自負心であり、自由意志といわれるものの正体でありまして、神は人間に自分自身の独自性を与えていますが、それを悪魔に習って肉的に用いることになりますと、それ相応の刑罰を受けるのは当然です。

御座の回りにいてそのような尊い位にあるからこそ、地獄の刑罰が人間を待っているのです。もし人間が御座の回りにいないのなら、神は地獄で刑罰をしようとはしないでしょう。

もし動物や植物のように、御座の回りにいないのなら、神を信じないからと言って、人間を刑罰することはないのです。ところが、幸か不幸か、人間は二十四の位に座している長老です。万物のエルダー(elder)です。万物を代表して神の御座の回りにいる長老でありまして、このことを自覚しないで生きていますと、その責任をことごとく追求されるのです。

人間の人生は、勝手に、独自に存在しているものではありません。御座の回りに座らせられるのであって、白い衣も金の冠も、すべて神の御心によって与えられているのです。

また、聖書に次のように書いてあります。

「御座のそば近くその回りには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶ鷲のようであった。

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼の回りにも内側にも目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫び続けていた。

『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

全能者にして主なる神。

昔いまし、今むかし、やがてきたるべき者』。

これらの生き物が、御座にいまして、かつ、世々限りなく生きておられる方に、栄光とほまれとを帰し、また、感謝を捧げている時、二十四人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に、投げ出して言った。

『われらの主なる神よ、

あなたこそは、

栄光とほまれと力とを受けるにふさわしい方。

あなたは万物を造られました。

御旨によって、万物は存在し、

また造られたのであります』」(ヨハネの黙示録4・8〜12)。

七節にありますが、第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようである。第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は、飛ぶ鷲のようであるとあります。これが皆様の生活意識において、驚くべき作用をしているのです。

これは人間の心理構造の奥義でありまして、この生き物は長老の中にあるのではありません。御座の回りにあるのです。

御座のそば近く、その回りに四つの生き物がいるのです。これは御座に直属する者と見ることができるのです。これは人間に属している者ではありません。御座に直属しているのです。それが飛び回っているのです。従って、この四つの生き物の働きは、実は人間の働きではありませんし、長老の中にある構造でもないのです。

四つの生き物というのは、御座と長老とをつないでいる作用です。これが人間の心理構造のもっともすばらしいものでありまして、この四つの生き物が神を賛美しているのです。

生き物は英語で、(living creature)となっています。これが御座の近くにいる。近くにいるというのは、御座に接着しているという意味です。御座の中央に接着しているという意味です。これが御座と長老との連結をしているのです。これは神が生きているというその事がらを、そのまま人間自身の中に働かせているという意味になるのです。

神はリビング・ゴットのリビングです。人間はリビング・ソールのリビングです。神はゴッドとしてのリビングであり、人間はソールとしてのリビングです。ソールというのは、金の冠と白い衣を与えられている現世的存在ですが、リビングということでは、神も人も同じです。人間自身のリビングこそ、実は四つの生き物です。

私たちは今、生きています。生きているとはどういうことかと言いますと、四つの生き物が私たちの中に働いていることを意味するのです。その四つの生き物は、そのまま御座の中央とも連結しているのです。そこで、人間が生きているという状態を子細に点検すると、神の御座がありありと分かってくるのです。絶対真理とは何であるか。絶対者とは何であるか。全知全能とはどのようなものであるかということが、はっきり分かるようにできているのです。

皆様が生きているのではなくて、御座に座したまう方が生きているのです。御座に座したもう方が生きているということが、皆様が生きているということに反映しているのです。これは実に、おごそかなことです。人間のリビングはそのままリビング・ゴッドのリビングです。

私たちは神と命を共にしているのです。これがインマヌエルの原理です。神と命を共にしていることが、イエス・キリストの信仰の土台でした。命を共にしているのです。人間は神と命を共にしていながら、とこしえの命が分からない。これは誠に憐むべきことなのです。原罪があるからです。神と同じ命に生きていながら、原罪のために、その命の本質が分からない。死んでいく命の方を信じているのです。

肉の命の方は信じているが、霊の命は全く信じていない。神と命を共にしていながら、自分の気持ちを信じている。御座に座したまう方の気持ちを信じようとしない。そうして勝手に地獄へ落ちていく。原罪のためとは言いながら、人間の見当違い、的外れというのは、驚くべき間違いの内容です。

四つの生き物が何を賛美しているのかと言いますと、皆様が現実に生きているというそのことが、四つの生き物でありますが、これが何を賛美しているかです。皆様が生きていることが、四つの生き物が飛び回っていることです。どのように飛び回っているかと言いますと、昼も夜も絶え間なく叫び続けている。

皆様の命は何を叫んでいるのかというと、「聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神、昔いまし、今いまし、やがて来たるべき者」と叫んでいるのです。皆様の命は客観的なものであって、自分のものではないのです。宇宙の大生命が皆様の中に働いているのです。しかもその働いている命が、夜も昼も叫んでいるのです。人間は寝ている時も生きています。従って、四つの生き物は、夜も昼も、絶え間なく叫んでいるのです。

ここで注意しなければいけないことは、全能者にして主なる方というのは、命の本源です。四つの生き物とは生きている四つの働きですが、現象的に生きているということの原動力が、全能者にして主なる神です。

生き物は生き物自身が命ですが、自分自身が自分自身の根元を賛美しているのであって、生き物が生きているのは、今生きているその生き方が、昔生きていた生き方なのです。過去において生きていた生き方が、現実において現われているのです。それがやがて、永遠に完成されるのです。

この命の三態です。生まれる前の命、今の命、この世を去った後の命の三つの命を貫いて、主なる全能の神が治めておられるのです。主なる全能の神が、そういう命の持ち主であるし、現実に私たちが、過去の命と、今の命と、後に完成されるべき命の三つの命を経験するために、今、ここに生きているのです。

今、私たちが経験している命こそは、実は永遠の過去の命であったのです。それが現実の今の命として現われている。やがてまた、永遠の未来の命として完成されるのです。その永遠の命を今経験しているのです。

そのことを生き物は知っているのです。そうして、全能者にして主なる神こそ、この命の主であって、この命の主によって生かされているという事がらに従って生きさえすれば、また、インマヌエルという絶対生命によって生きさえすれば、昔いまし、今いまし、やがて来たるべきものというこの賛美と同じように、その命はそのまま永遠なるものとして、神の御座に受け止められることになるのです。

四つの生き物は御座に座したもう方の命を、そのまま賛美している。同時にその賛美を私たちに聞かせるために、賛美しているのです。

皆様が生きていることを、よくよく考えみてください。五官の働きをよくよく考えてみてください。目が何を見ているのか。耳が何を聞いているのか。生かされているとはどういうことなのか。現世を越えて生かされているのです。現世を乗り越えて生かされているのです。今この世に、ここに生きているという小さなことではない。私たち自身では現世に生きていることは、大きいことのように思えますけれど、実は命の実体から見れば、命のほんの一部です。

私たちは生まれる前に生きていた。その命が今生かされている命であり、やがて永遠に神の御座の前で、完成されるべき命が、今ここに働いているのです。

このことを長老が聞くのです。九節に、これらの生き物が御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられる方に、栄光とほまれを帰し、また、感謝を捧げている時とありますが、実は、長老は自分の中で四つの生き物が賛美しておられることを知らないのです。気がつかないのです。

人間は自分自身の中で、四つの生き物がこのように神に賛美を捧げている、命の主をほめたたえていることを知らないのです。人間が目で見ている、口で何かを味わっている、その時、「ああ、これはおいしい」と思うでしょう。これが生き物の賛美です。「ああ、これはすばらしい景色だ」と思います。これが生き物の賛美です。おもしろい話を聞いて、お互いに楽しく団らんしていますが、これは生き物が賛美しているのです。

人間は命の喜びを知らずにいるのです。命の喜びとは、生き物の喜びなのです。皆様の命の喜びこそは、生き物の賛美の声です。それに気がつく時に、ああ、自分が生きているのではない、神の命が私を生かしている。御座の回りの神の生き物が、私の中で私と共にに働いているから、生きているということが分かるのです。

人間は生きている喜びを毎日感じてはいるのです。生きていることはすばらしいと、小説で書いていますし、詩でも詠んでいますけれど、その生きている喜びというものの実体が、何であるかということを知らないのです。それは生き物の賛美を全く聞いていないから、分からないのです。だから依然として、金の冠をかぶって威張っているのです。自由意志をふり回して威張っているのです。

金の冠を投げ出すということは、霊(人生)を渡すことです。自分の自由意志を神に捧げることなのです。それをしないで、自分自身の尊厳性を自分自身の頭にいただいて、自分には権利があると考えている。そこで地獄へ行くことになるのです。

どうぞ皆様は、生きてるいることの嬉しさ、楽しさ、その喜びを深く味わって下さい。生きることの楽しさ、嬉しさ、生命の喜びを、家庭生活において、社会生活において、生きていることがどれほどすばらしいものであるかを、生きている間に味わって頂きたいと思うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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