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宇宙に発生した矛盾律


パウロは次のように述べています。

「生きているのは、私ではない。キリストが、私の内に生きておられるのである。しかし、私が今、肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために自身を捧げられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙2・20)。

これは普通の人間の感覚では、理解できない箇所です。生きているのは、もはや、私ではないという言葉を、十分に味わうことをしないで、その次にあります、キリストが私の内に生きておられるのであるという言葉を、先に理解しようと考えるのです。これが人間の宗教心になってしまう原因です。

文章として、キリストが私の内におられると書いていますが、この時の私は私ではないという私です。私ではないという基礎に立っている私です。生きているのは、もはや私ではない。これがはっきりしないままの状態で、キリストが私の内に生きていると考えようとする。キリストが私の内に生きているという意識は、異邦人としては、よほど上出来です。上出来というより、極上の人です。

キリストが私の内に生きているということは、ユダヤ人でさえもなかなか理解できません。普通の人間では言えることではないのです。欧米のキリスト教の信者では、こんなことはまともに考えられない言葉でしょう。日本という腐った民族の中に私たちはいるので、かえって神の思し召しにあずかることができたのだとなるかもしれません。

いずれにしても、生きているそのことが、私ではないと言えることです。私ではないと言い切れる所に、新約信仰の基本があるのです。

ところが、私ではないということを十分に認めないままの状態で、キリストが私の内に生きていると考えるとすると、これは完全に十字架が空回りしてしまいますし、新約の信仰自体が、骨抜きになってしまうのです。

私たちのグループは、生きているのはもはや私ではないという言葉に、まともにつっこんでいける可能性がある、唯一のグループだと言えるでしょう。生きているのは、もはや私ではない。この言葉は、普通の人ではまともに言えない言葉です。たとえ口で言えても、心でそれを信じることは、とてもできることではないのです。

「心に信じて義とせられ、口で言い現わして救われる」という言葉がありますが(ローマ人への手紙10・10)、これは逆に口で言い現わすことが先になって、心に信じることが後になる場合が多いのです。

まず口で言う。それから心で信じる。こういう順序が多いのですが、とにかく言うことは簡単ですが、行うことは難しいのです。口で言い現わしたことが、そのまま心でしっかり受け止められるということが、意志の発動ということです。口で言った言葉が、そのまま自分の生活の形に押し出されていくことができる人だけが、死後の刑罰から逃れられることになるのです。神を信じることができるのです。

口で言い現わしたことを、心に信じて生きること、生活の在り方がそのまま自分の口の在り方と一つになる。これが意志の決定です。意志の決定というのは、神を恐れることなしにはできないことなのです。神を恐れるという場合に、初めて意志の決定ができるのです。

人間の意志を完全に司る者は、神であるという感覚に基づくのでなかったら、言行の一致ができません。そういう信仰の状態を、額に御名が記された信仰ということができるのです。額に神の御名が記される、また、小羊(イエス)の御名が記される。そうすると、自分自身の存在が小羊の存在であり、個人として生きている自分の姿が、小羊の御名であり、自分がこのように生かされてるという状態が、小羊の父の御名になるのです。

小羊の御名と、小羊の父の御名とが額に記されているということが、ヨハネの黙示録の第十四章の一節にありますが、これが皆様に実現しているかどうかを考えて頂きたいのです。

ヨハネは次のように述べています。

「なお、私が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(ヨハネの黙示録14・1)。

この十四万四千というのは、第七章の三節以下に現われている十四万四千です。日の出る方から上ってくる天使が、イスラエルの人々の額に印をおす。記された者の数が、十四万四千だと書かれています。

イスラエルの中から神に選ばれて、この末の時代にアブラハムの子孫として、終わりを全うすることができる者が、十四万四千です。そのアブラハムの末たちに、小羊の名と、小羊の父の名とを印するのは、日の出ずる所から上ってくる天使です。

私たちは、日の出る所から上る天使として立てられた者であると信じたいのです。もし私たちの願いのとおりになるとすれば、十四万四千は、私たちによって、額にイエスの御名と神の御名とが印刻されることになるのです。そのような、働きがもし私たちによってなされるとすれば、私たち自身が当然、この二つの御名を額に印刻されていなければならないはずです。

生ける神のしるしが神の御名です。生ける神のしるしを持たない者が、イスラエルに伝道すること、額に名を記すことはできるはずがないのです。イエスの御名がその人の額に記されるとすれば、生きているのはもはや私ではないと、はっきり言えるはずです。生きているのは、もはや私ではないと言い切れない者が、生ける神のしるしを持つ人間だと言えるのでしょうか。イエスの御名をはっきり自分の額に記されて、初めて生きているのはもはや私自身ではないと、はっきり断言できるのです。額に御名を印刻されたらそう言えるのです。

ところが、皆様はまだ御名が印刻されていないのです。イエスの御名を思想的に理解しているというだけです。そんな人間が、イスラエルに伝道ができるはずがないのです。イスラエルに祈る資格さえないと言えるのです。

自分が自分であることをやめる所まで行ってしまいますと、自分が腹を立てるとか、自分が焼きもちを妬くとか、自分が何かについて不平不満を訴えるとかということがなくなるのです。劣等感みたいなものを自分で意識しながら、言うべきことを言わずにいるとか、人にへつらうような顔をするとかということがなくなるのです。ただ淡々として、水が流れるように、無色透明に生活をすればいいのです。そうでなければ、ユダヤ伝道はできないのです。

人に裏切られて当たり前です。人に踏みつけられて当たり前です。自分が損をしているという条件をつきつけられて当たり前です。不合理である、理不尽であると思いたくなる条件をつきつけられて当たり前です。

この世に生きている以上、そのような不合理な、不条理な状態におかれるのは、当たり前です。それをいちいちとがめだてて、これはけしからんと、いちいちあげつらうことは、現世に肉体を持って生きていることを、否定していることになるのです。神が私たちを現世に生かしているということは、不平不満を黙って飲みなさいと言われていることになるのです。

現世というものは、逆性の世であって、神的に合理性を持たない原理が、この宇宙にわだかまっているのです。この世に生をうけている以上、逆性にさらされるのは当たり前です。けしからんと思いたくなるような事件が、毎日必ず起きるのです。それをいちいち咎めていては、現世に生きている意味が全く分かっていないのです。

他人と一緒に現世に生きていれば、そういう思わしからぬ状態が起きてくるのが当たり前です。この当たり前のことが、自分自身にとって当たり前ではないと思えるとすれば、その人ははっきり神に逆らっているのです。思わしからんことが起きるのが当たり前です。不平不満を言いたくなるようなことが起こるのが、当たり前です。不平不満を言いたくなるようなことに対して、いちいち不平不満を言っているとすれば、その人は自分が現世に生きていることを、自分自身で裏切っているのです。

皆様がいう満足は、神の国においてでなければ、実現しないのです。人間が人を批判する時には、いつでも神のような位で批判しています。神が人を咎めるような咎め方をしています。

現世においては、皆様は神の位置を与えられてはいないのです。だから、自分自身にとって思わしからない、けしからんことが起きても、当然のこととして、感謝して受け取って頂きたいのです。それを常に喜んで頂きたい。それくらいの余裕がなかったら、イスラエルに伝道はできないのです。これに反感を持つ人は、神の僕になることができない人です。

十字架によって神が人間存在を処置してしまったという事実は、絶対的な事実です。人間の理解を越えた、人間が同意するかしないかに係わらず、神が宇宙的に執行した絶対至高の意志です。神は十字架によって、天地が造られたということについての、ご自身の意志をはっきり闡明したのです。十字架によってはっきりと、天地創造の意志が明らかにされたのです。

十字架によって、現象世界が消えてしまった。旧約時代の人間存在が消えてしまったのです。旧約時代の人間は、肉の性格をそのまま持っていましたが、この旧約的な人間の人格状態と、肉体的に存在する状態とが、否定されたのです。このことは、地球が持っている人格性と存在性が否定されたことを意味するのです。

旧約時代の地球は、アダムが罪を犯したことによって、呪われたのです。土は汝のために呪われたと神が宣言したのです。そのような事実を持っている地球は、不完全なものであって、人間の住処にふさわしくないものです。

かつての地球は、乳と蜜が流れていたのです。今やそれが荒涼たる砂漠に転落してしまっているのであって、こんな地球を神が創造したと考えてはいけないのです。そのように地球には、罪悪性、原罪性がしみこんでしまっているのです。

現在の人間が十字架によって否定されたということは、地球存在が物理的に否定された、また、人格的にも否定されたことと、同じ意味を持つのです。この世はもはや存在していないのです。新約の原理に立って考えるとそうなるのです。

ところが、イスラエル民族が神の約束を正しく受け止めていないために、神の処置がそのまま現前には現われていませんけれど、すでに神の処置が執行されたということは、疑いもない事実です。

皆様が生きているのはもはや私ではない、肉体はもはや私の肉体ではないということが、はっきり実感できる時に、その人自身の霊的状態に神の事実が現われ始めたことになるのです。その人自身の人格状態、また肉体の状態に、神の十字架が作用し始めたことになるのです。

十字架の言葉は、滅びる者には愚かですけれど、救われる私たちには神の力です。神の爆破力がその人の人生に現われ始めたことを意味するのです。生きているのはもはや私ではないと、はっきり言い切れる人に対しては、この十字架の言葉の力が、驚くべき状態で発動し始めたのです。

私を信じる者は、私のした業をするであろうというイエスの言葉は、その人に実現し始めるのです。そうして皆様はイエス・キリストの代理者として、イスラエル民族に遣わされることになるのです。だから、自分であることをやめて頂きたいのです。

大体、現象世界は、不合理をそのままのみこんでいる世界です。逆性が宇宙に発生したので、神が光あれと言いたもうたのであって、逆性が発生しなければ、神が光あれと言うはずがないのです。それを言う必要がなかったからです。地を造る必要がなかったのです。

宇宙は本来、天だけあればいいのです。地は存在しなければならない理由はないのです。ところが、神はこの世界の初めに、天と地とを造ったのです。なぜ地を造ったのか。天というのは造らなくても初めからあったのです。

しかし、地を造ったことによって、天が天として位づけされたのです。だから、天を造ったという言い方になるのです。神の御座にある所は、初めから天です。ですから、天は初めからあったけれども、地を造る以前には、天が天ではなかったのです。それが当たり前だったからです。地ができ始めて、地に対立する天が位置づけられることになったのです。従って、天と地が造られたということは、天が新に造られたのではないのです。

大体、地を造る必要がなかったのです。それは宇宙に逆性が発生して、矛盾律という妙なものが生まれたからです。そこで、矛盾律を発展的に解消させることによって、弁証法的な意味での宇宙完成が断行されることになる。これが神が天と地を造った目的だったのです。

地が造られた時に、弁証法的原理が発生したのです。矛盾律が起こったから、地が造られたのです。逆に言うと、地が造られたから、矛盾律が起こったと言うこともできるでしょう。どちらにしても、逆性が具体的な形をとったものが、現存する宇宙です。

だからこの大宇宙には、ブラックホールとホワイトホールの二つがあるのです。無限に吸い込まれた星が消えていく大ホールと、あるホールから星が無限に生まれだすのと、二つのホールがあるのです。大宇宙そのものに、妙なものが生じたのです。ブラックホールという妙なものが、発展的に解消して、宇宙全体が本来の性質に帰るということがなかったら、宇宙存在自体の意味が分からなくなるのです。

地球において、神がその典型を現わそうとしたのです。地球の創造と地球の完成とによって、宇宙全体のキャスティングボードになるべき原理を示そうとした。これが天地創造です。

初めに神が天と地を造られた時に、矛盾律を織り込んで造られた。従って、現象世界は生かす命の則と、殺す死(罪)の則とが拮抗しているのです。

私たちがこの世に生まれてきた時に、矛盾に晒されなければならない運命に置かれたのです。また、その矛盾を矛盾として感覚しなければならないような感受性を植えられて、この世に来たのです。これが実存状態です。

現存する人間が、肉体的存在において感じる不合理性というものは、現象世界が存在する不合理性そのものの感覚です。現象世界というものは、実はあらずもがなの世界であって、なくてもよい世界です。元々天だけがあれば良かったものを、逆性が発生したから地が造られたのです。地はどうでもいいのです。現在肉体的に存在する人間は、あらずもがなの存在です。なくても良い存在です。なくても良い存在が、肉体を持って生きているのです。

だから、人間が生きているという事自体が、矛盾そのものを意味するのです。そこで人間は、自分の立場で焼きもちを妬こうとするのです。自分の立場で善悪利害を考えようとするのです。自分の立場で考える善悪利害得失というものは、悪魔の立場で考える合理性です。地的存在の合理性だからです。現象的に存在するものの合理性は、現象主義的合理性であって、悪魔的合理性になるのです。

現象的に存在する人間は、本来なくてもいいのです。天使長ルシファーが文句を言わなければ、人間は必要なかったのです。ルシファーが文句を言ったから、神が新しい天使長を任命しなければならない必要性が起きた。これが地球が造られた目的です。そうしますと、地球が発生したこと自体が、矛盾律という業をしょいこんでできたのです。その最終段階における人間は、地球の矛盾律をそのまましょいこまされて、この世に出てきたのです。これが原罪の由来です。

人間の魂は、罪がないはずのものです。それが現在は、罪をしょいこまされているので、そのことを分かりやすく説明するために、エデンの園の物語という、神のフィクションが現わされたのです。

しかし、神のフィクションは本当です。ただの造り話ではないのです。神が天と地を造ったという話の延長がそのままエデンのフィクションになっているのです。大体、今の地球が存在するということが、フィクションです。そこで人間が、エデンの園における陥罪というフィクションを、そのまま受け取らなければならないということも、当然です。

現存する現象世界は、神が完全なものとして造ったのではないのです。これはテストケースであって、完全なものが現われたのではないのです。テストケースというものは、本当のことを言えば、無用なことです。神の全知全能性から言えば、テストケースはいらないのです。しかし、宇宙に矛盾律が発生したので、神もまた、矛盾律に対抗するために、矛盾律のようなものを現わしたのです。逆性が発生したので、逆性の穴埋めの矛盾律みたいなものを造ったのです。

この地球が造られたということ自体が、初めから神の完成そのもの、完全な創造ではなかったのです。創造のテクニックから言いますと、完全です。神の完全さがそのまま現われています。しかし、現象世界を造ったことについての基本的な神の御心が、そのまま現わされたのではないのです。矛盾律に対抗するための矛盾律です。やむを得ない神の仕儀です。そこで現在人間が肉体を持っているということは、やむを得ない仕儀によってこうなっているのです。

本来、私たちが生まれたいと思った訳ではないし、神が人間を造りたいと思ったのでもない。矛盾律の発生が、このような人間を誕生させたことになるのです。これがいわゆるインカーネーション(受肉)の秘密です。そうしますと、インカーネーション自身に、基本的な矛盾があるのです。人間は現世において、その基本的な矛盾があることを棚上げにして、あの人がいい、あの人が悪い、自分は焼き持ちを妬く資格があると考えるのです。自分が主人であり、妻である、自分が親であり、自分の息子であるとかいう位はないのです。人間相互の社会的な契約によって、そういうランクを設けているだけのことです。

地球があること自体でさえも、フィクションであるとすれば、人間の社会の申し合わせやランクづけというのは、すべてフィクションになるのです。それをいちいち気にかけて、がたがたと文句を言っている。神の天地創造の御心が、全く分かっていないのです。肉体を与えられてこの地上に生きている意味が、全く理解されていないのです。だから、この世に自分がいると思ったり、自分の利害得失があると思ったり、善とか悪があると思っているのです。そういうばかなことを考えるのです。

なぜ天地創造の原理を考えないのか。とにかくスケールが小さいのです。宇宙になぜ逆性が発生したのか。存在は神です。神は無限に発展するものです。無限に発展するという神の神たることが、宇宙存在の原質です。この原質がある以上、矛盾は発生せざるを得ないのです。神は無限に発展する可能性を秘めているものです。これが神です。そこで矛盾が自ら発生せざるを得ないのです。神の影が悪魔となって現われたのです。

人間は現在、悪魔の思想を植えられているのです。機能としては、神にかたどられていますが、思いとしては、悪魔の思いがそのまま植えられているのです。そこで、悪魔の思いが植えられている人間が考える一切の合理性というものは、ことごとく悪魔的です。だから人間は、現象を実体だと考えて、これは理屈に合わない、あれは引き合わない、私は不幸だ、私は損をしていると考えるのです。損をしているのはいつでも私であって、得をするのは、いつでも他人だと思うのです。

皆様には、いつでもライバルがいるのです。ライバルをいつでも気にすることになるのです。これは人間が悪魔の思いを持っているからそうなるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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