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怜玢
  • 管理人chaya

心を生き返らせる


詩篇に、「神を求める者よ、あなたがたの心を生き返らせよ」・ずいう蚀葉がありたす。

異邊人が神を求めるずいうこずは、本圓に難しい䞊に難しいこずです。難しいずいうのは、やり方が難しいのではなくお、神の心に調和するこずが難しいのです。神の埡心ず、私たちの心ずが調和するこずが、難しいのです。

眪人である人間が、神を求めるずいうこずは、そのこず自䜓が䞍可胜なこずです。「人は皆眪を犯したので、神の栄光を受けるこずができない」ず、パりロが蚀っおいたす。眪を犯した人間が、神の救いを求めようずしおいる。これは心埗違いも甚だしいのです。

ずころが、自分が救われたいず考える。これは本圓に困った芋圓違いの宗教芳念でありたしお、たずこのこずに気づかなければいけないのです。自分は神を求める資栌がないずいうこずに、気づかなければいけないのです。

詩篇に、神を求める者よずありたすが、この求めるずは、探し求めるずいう意味での求めるであっお、英語でシヌクseekずいう蚀葉を䜿っおいたす。探すこず、捜玢、探玢するこずを意味しおいるのです。神を探し求めるずいう所を、文語蚳の聖曞では、神を慕う者よずなっおいたす。神を慕う者よ、あなたの心を生き返らせよずなっおいるのです。

神を慕うずいうこずは、普通の異邊人では考えられないこずです。ずおもできそうもないこずをする者よずいうこずになるのです。文語蚳では、汝の心は生き返るべしなっおいたすが、これは生き返るべしよりも、生き返らせよずいう蚳の方が良さそうです。

生き返らせるこずになりたすず、神を求めるこずに぀いおの心構えのような意味になりたすが、生き返るべしずいう方は、神を求める結果、その人の心は生き返るであろうずいうこずになるのです。

生き返らせよずいう蚀葉に぀いお、お話ししたいず思いたすが、たず神を求めるずいうこずのために、心を生き返らせる必芁があるずいう点です。心が死んだたたの状態で、神を求めるずいうこずが䞍可胜だずいうこずを、蚀倖に含んでいるず蚀わなければならないのです。たずこの点をよく考えなければいけないのです。

皆様が今、神を求めおいるかどうかを、たず自分の心に聞いお頂きたいのです。神を求めるずいうのは、シヌクするこずを意味する。探し求めるこずを意味するのです。

倧䜓、聖曞にある求めるずいう蚀葉は、探し求めるずいう意味が倚いのです。求めるず蚀っおも、探し求めるこずもありたすし、䜕かを䞎えおもらうような意味での求めるずいう蚀葉もありたす。請求ずか、芁求ずいう意味での求めるずいうこずもあるのです。

しかし、人間が神に救いを芁求する、請求するずいうこずはできるはずがないし、そんな資栌もないのです。神を求める堎合には、探し求めるのです。芁求ではなくお、探求するこずになるのは、圓然のこずです。

ずころが、探し求めるずいう蚀葉の䞭には、神ずいう方がどのようなお方であるのか、どこにどのようにおられるのかが分からないのです。分からないお方を求めるこずになるのですから、探し求めるこずになるに決たっおいるのです。

䟋えば、キリスト教のように救いを求めるずしたすず、救いを乞い求める資栌が人間にあるように、キリスト教の人々は考えおいるのです。ずころが、人間は眪を犯しおいるのです。珟圚も、眪を犯し続けおいるのです。肉の思いで生きおいるずいうこずは、それ自䜓が眪を犯し続けおいるこずです。人間が䞖間䞊に生きおいるこずが、眪なのです。埓っお、生きおいる人間が、倧きな顔をしお神を探し求めるこずができるはずがないのです。そういう資栌を䞎えられおいないのです。たず、これを第䞀に考えお頂きたいのです。

自分が眪人であるこずを知らないで、たた、眪人であるこずを䜕ずなく知っおいおも、本圓に自分は救われる資栌がないのだずいうこずを、明確に認識しおいないたたの状態で、神を探し求めおいる。これを十人が十人、癟人が癟人共しおいるのです。だから、いくら求めおも、求めるずいう土台の心構えが間違っおいるために、求めおいおも神を芋぀けるこずができないのです。そういう芋圓違いのこずをしおいるのです。

それなら、人間が絶察に救われるこずができないのかず蚀いたすず、そうではないのです。できないどころか、人間は救われなければならないのです。人間は絶察に救われなければならないのです。目の黒いうちに、神の救いを具䜓的に受け取らなければならないのです。そうしなければ、珟䞖に生きおいたこずが、神の呪いの察象ずしお、激しい神の怒りに合わなければならないこずになるのです。だから、人間はどうしおも救われなければならないのです。ずころが、眪人は救われないのです。眪人だから救われないず、パりロが蚀っおいるのです。

䞀方む゚スは、眪人を救うためにこの䞖に来たのです。これは䞀䜓、どういうこずになるかずいうこずです。これは䜕回聞いおも分からないこずです。む゚スが眪人を救うために来たずいうこずは、眪人を悔い改めさせお救うずいう意味です。む゚スの前にバプテスマのペハネが悔い改めのバプテスマを述べ䌝えた。この悔い改めのバプテスマを受けお、キリストを信じるのならいいのです。

悔い改めのバプテスマを受けないたたで、キリストを信じようずしおいる。珟圚の䞖界䞭のクリスチャンが、皆そうずしおいるのです。しかし、驚くべき憐みの故に、私に埡霊が䞎えられた。党く砎倩荒の憐みの凊眮によっお、埡霊が䞎えられたのです。か぀お、ガラテダ教䌚の人々に埡霊が䞎えられたした。ずころが、ガラテダ教䌚の人々は、埌からナダダ人の宗教芳念にかき回されお、掗瀌を受けただけではだめだ、ナダダ人のように割瀌を受けなければいけないず蚀い始めお、パりロからひどく叱られおいるのです。「愚かなるガラテダ人よ」ず、非垞に匷い蚀葉で叱責されおいるのです。

こんなこずになったのは、䞀床埡霊を受けたガラテダ教䌚の人々が、再び割瀌を受けなければ救われないずいうナダダ教の宗教芳念で、誀魔化されおひっかき回されたからです。

そういうバカな状態になったのは、埡霊を受けおいながら、そういう悪態、醜態を挔じたからです。これが異邊人です。結局、悔い改めお犏音を信じるずいう蚀葉が、いい加枛に取り扱われおいるから、そういう間違いがあるこずを、よくよくご承知頂きたいのです。

神を求める者、神を慕う者よ、心を生き返らせよず聖曞にありたすが、どうしたら心が生き返るのか。心が生き返らないたたの状態で、心が眪のうちに死んでいる状態で、いくら神を求めおも、求められるはずがないのです。たた、神が分かるはずもないのです。

どうしたら、心を生き返らせるこずができるのか。このこずをお話ししたいず思いたす。詩篇の癟四篇を芋おみたすず、「神はいず倧いなるお方であっお、誉れず嚁厳に満ちおおられる。光を衣のようにたずい、倩を幕のように匵った」ずありたす。たた、「氎の䞊におのが高殿のう぀ばりをおき、雲をおのれのいくさ車ずし、颚の翌に乗りあるき、颚をおのれの䜿者ずし、火ず炎をおのれのしもべずされる」ず曞いおいたす。これはすばらしい蚀い方です。私たちはこういう神を求めなければならないのです。

神が誉れず嚁厳を着お、光を衣のようにたずっおおられる。これはどんなこずなのか。倩を幕のように匵りたもうた。氎の䞊におのが高殿のう぀ばりをおいたずいうのは、本圓にすばらしいこずです。こういう神が、私たちの父です。私たちはそのお方を探し求めるのです。

山は立ち䞊がり、谷はあなたが定められた所に沈み、あなたは氎に境を定めお、これを越えさせず、再び地を芆うこずのないようにされたずありたす。これが神が党知でいたし、党胜でいたしお、すべおのものの父なるお方であるずいうこずを、倩地創造の角床から蚀っおいるのです。党知党胜の神が、泉を谷にわき出させお、それを山々の間に流れさせ、野のもろもろの獣に飲たせられる。野のろばはその也きをいやし、空の鳥もそのほずりに䜏み、こずえの間にさえずり歌う。神はその高殿からもろもろの山に氎を泚がれる。地はあなたのみわざの実をもっお満たされる。あなたは、家畜のために草を生えさせ、たた人のためにその栜培する食を䞎えお、地から食物を出させる」ず曞いおいたす同〜。

人間の衣食䜏、動怍物党般の呜は、父なる神によっお逊われ生かされおいる。ずころが、人間は自分が生きおいるず思っおいるのです。そこで、自分が救われる資栌があるず思っおいるのです。

神の埡霊が颚ずなっお働いおいる。そのために、党地に呜が満ちあふれおいるのです。党地に呜が満ちあふれおいるから、神の栄光ず力ずによっお、もろもろの朚は実を結ぶこずができるし、ろばは草を食べるこずができる。鹿は谷川の氎を飲むこずができるのです。鳥は萜葉を぀いばむこずができるのです。

さらに曞いおいたすが、人の心を喜ばすぶどう酒や、顔を぀や぀やにする油、人の心を匷くするパン等は、皆神によっお造られおいるのです同。

人間がパンを食べおいるのは、か぀おむ゚スが五぀のパンで五千人を逊ったように、珟実に私たちは、神の手によっお逊っおもらっおいるのです。

ずころが、人間はそのように考えおいないのです。自分が働いお米を造ったず蟲家の人は考えおいる。自分の船で魚をずったず持垫は考えおいる。魚屋さんも米屋さんも、それを商品ずしお扱っお、お金を儲けおいるのです。党く神に栄光を垰するず考えおいないのです。

目はどうしお芋えるのでしょうか。耳はどうしお聞こえるのでしょうか。こういうこずを萜ち着いお考えようずしないたたの状態で、神を慕うずか、神を求めるずいうこずが、たずもにできるはずがないのです。

詩篇の癟䞃篇を芋たすず、「ある者はその眪に汚れた行いによっお痛み、その䞍矩のゆえに悩んだ。圌らはすべおの食物をきらっお、死の門に近づいた」ずありたす同、。すべおの食物をきらっおずいうのは、目に芋える珟象的に食べる食物ではなくお、粟神的な食物、霊の食物です。それをきらっお死の門に近づいたのです。

肉の食物ずいうのは、肉䜓の栄逊のためにあるのです。霊の食物ずいうのは、魂のためにあるのです。肉䜓の食物は食べるけれど、魂の方の食物は党く食べようずしない。だから、肉䜓的には生きおはいるけれど、魂的には死んでいる。思い悩んだ状態で、死んでいく。本圓に憐れな状態です。

神の党胜ずいうこずを人間は口では蚀っおいたすけれど、党く信じおはいないのです。自分が働いおお金を儲けお、自分で食べおいるず考えおいる。そういう人は眪の内に生きおいるのですから、神を信じる資栌は始めからないのです。

ずころが、自分の考え違いを棚に䞊げたたたの状態で、神に救われなければならないず考えおいる。救われなければならないのは確かです。人間は救われなければ、必ず裁かれるのです。

生きおいる間䞭、神をないがしろにしお、神の恵みを軜んじおずこしえの呜を目の前に芋おいながら、それを受け取ろうずしないで、自分の思いのたたで生きおいた。その報いを受けるのですから、その心の苊しみ、悩みずいうものは、ずおも口にするこずができないほど、倧倉深い苊しみであるに決たっおいたす。

生きおいるうちには、地獄の苊しみを具䜓的に芋るこずも感じるこずもできないので、魂の裁きずいうこずを、党く重芖しようずしおいないのです。

゚ホバは「川を野に倉わらせ、泉を也いた地に倉えらせる。肥えた地をそれに䜏む者の悪のゆえに、塩地に倉えらせられる」ずあるのです同、。これが地獄の予報のようなものです。゚ホバは、野を地に倉えらせ、也いた地を泉に倉えらせるずありたすが、これは恵みの方です。荒野を地に倉えらせ、也いた地を泉に倉わらせる。砂挠のような也いた地を泉に倉わらせるのです。

珟にむスラ゚ルを゚ゞプトから導きたもう時に、圌らは飲むべき氎がなかった。その時に、モヌセが岩から泉を湧き出でさせたのです。そのようなこずを神はなさるのです。神は本圓に私たちず共にいたしお、川を野に倉えらせ、野を地に倉えらせる方ですが、そのような党胜者が私たちず共にいるのです。私たちの目の働き、耳の働き、口の働き、私たちの五䜓の働きず䞀緒に、神ご自身の埡名がおいでになるのです。こういうこずが異邊人ずしおは党く分からないのです。

人間が生きおいるこずは、そのたた神の愛のしるしです。愛のしるしを珟実に味わっおいながら、その愛の本源である神を厇めようずしおいない。ただ自分が救われたらいいず思っおいる。自分が䜕ずかなればいいず考えおいる。これは本圓に暎慢無瀌ずいうこずになるでしょう。そこで、私たちが生きおいるずいうこずが、私たちに䞎えられおいる救いのしるしなのだずいうこずを知らなければならないのです。

今人間が生かされおいるこずが、神の愛のしるしだず蚀いたしたが、そのこずがらの実䜓を匁えさえすれば、珟圚人間が生かされおいるずいうこずが、そのたた実は救われおいるこずなのだずいうこずに気づくこずになるのです。その堎合、救われおいるずいうのは、自分が救われおいるこずではないのです。すでに救われおいる人栌性が䞎えられおいるずいうこず、救われおいる呜が䞎えられおいるずいうこずです。

これは、私たちが救われおいるのではありたせん。救われおいる呜が䞎えられおいるのです。む゚スがキリストであるこずにおいお、すでにずこしえの呜が䞎えられおいるのです。これは私たち自身が救われるこずではありたせん。自分ずいう人間は、眪人そのものです。埓っお、救われるはずがないのです。救われないに決たっおいるのです。そんなものに未緎を持たないで、そのような自分はキリストず共に十字架に぀けられおしたっおいるずいうこずを、信じるこずです。

これが悔い改めの第䞀の条件です。自分に自分が未緎を持぀。自分の魂に自分が未緎を持぀。そんなこずをすれば、たすたす眪の䞊塗り、恥の䞊塗りになるのです。

珟䞖に生きおいる自分が幞せになりたいず考える気持ちは、明らかに肉の思いであっお、こんなものがずこしえに救われお、神の囜に入れおもらえるず考えるこずは、党くの宗教芳念です。ずにかく自分が幞せになりたいず思う気持ちを、培底的に攟䞋しおしたうこず、捚お去っおしたうこずです。

パりロがガラテダ人ぞの手玙で蚀っおいたすように、「私はキリストず共に十字架に぀けられた。もはや私は生きおはいない」ガラテダ人ぞの手玙・、ずありたす。生きおいるのはキリストなのです。私の内にキリストがいたもうお、生きおいるのだず蚀っおいる。

これは蚀葉を読んだだけでは䜕のこずか分からないのです。この時パりロずいう人間はいなかったのです。パりロが生きおいるように芋えたのは、実はむ゚スがキリストずなったずいう事がらが、パりロずいう圢で生きおいたのです。

皆様が珟に生きおいるのは、新玄時代に人間が生きおいるのは、む゚スがキリストずなったずいう事がらが、今皆様のような栌奜で珟われおいるずいうこずであっお、自分が生きおいるのではないのです。

自分が救われるずいうこずではありたせん。自分の他に新しい呜が倩から啓瀺されおいるずいうこずです。む゚スがキリストずされたこずにおいお、新しい呜、ずこしえの呜の実䜓が倩から啓瀺されおいるのです。これが新玄の犏音です。

今日たで生きおいた呜ではなくお、別の呜を芋぀けるのです。生たれながらのタラントを元にしお、他のタラント、別の呜を芋぀けるのですマタむによる犏音曞・〜。む゚スに目を぀けるのです。自分の気持ちがどうなるのではなくお、む゚スに目を぀けるのです。む゚スがキリストであるこずが皆様の救いであっお、自分が救われるのではないのです。

む゚スがキリストであるこずが、皆様の呜です。本圓の呜です。このこずを受け止めるために、心を曎えお新しくするのです。父を慕う気持ちを持たなければならないのです。父を慕うずいうのは、救われるために慕うのではありたせん。神が父なるために慕うのであっお、自分が救われるために慕うのではないのです。

自分が生きおいるずいう思いは、肉の思いです。しかし、魂ずしおの自分もあるのです。魂ずしおの自分ずいうのは、日垞生掻においお、自分だず思っおいるものではないのです。生かされおいるずいうその事がらが、魂です。これがザ・プレれンス・オブ・メンです。プレれンスずいうのは、あるずいうこずです。

人間の珟圚、人間の存圚、人間の実圚、珟前的なあり方が、あるずいうこずです。自分があるずいうのは、自分が肉の思いで生きおいるその気持ちではないのです。

錻から息を出し入れしおいるこずがありたす。目が芋えるこずがありたす。このこずの䞻がむ゚スです。この事実に目を぀けるのです。そうするず、自分が生きおいるこずにおいお、神から提瀺されおいる新しい呜を受け取る資栌があるこずが、少し分かっおくるのです。

自分が救われるのではありたせん。神の人間に察する恵みは、十二分に甚意されおいるのです。゚ホバは恵み深く、その憐みはずこしえに尜きるこずがないずいうダビデの蚀葉がありたすが、ずこしえにずいう蚀葉は氞い間ずいう意味ではなくお、い぀でもずいう意味です。

神の憐みは、い぀でも尜きるこずがない。神の恵みは井戞からあふれる泉のようなものであっお、ふき出し続けおいるのです。ずこしえの呜の泉は、今もどんどんあふれおいるのです。皆様が珟に生かされおいるずいうその呜を通しお、神の恵みが出おいるのです。

「人間は神の口から出る䞀぀ひず぀の蚀で生きおいる」ずありたすマタむによる犏音曞・。神の口から出る蚀葉ずいうのは、呜の恵みの泉が、皆様の珟前にあふれ続けおいるずいうこずです。

人間が生かされおいるずいうこずが、そのたた救われおいるずいうこずになるのです。

救われたいず思っおいる自分はもういないのです。十字架によっお、キリストず共に葬られおいるからです。掗瀌を受けたこずによっお、皆様の肉䜓は消えおしたっおいるし、十字架によっお、皆様が生きおいたずいう事がら、霊も消えおいるのです。氎ず霊ずによっお、皆様の肉䜓も、固有名詞の自分も、消えおしたっおいるのです。

今いる皆様は、む゚スが䞻であるあなたです。む゚スが䞻であるこずが、皆様ずいう圢でいるのです。今いるのは自分ではありたせん。救われおしたっおいるあなたの霊魂が、む゚スが䞻であるこずを受け取るためにいるのです。これが新玄時代の人間のあり方です。

すでに救われおいるずいう事実を受け取るこずです。信じお救われるのではありたせん。救われおいるこずを信じるのです。救われおいるこずを信じるず蚀っおも、少し間違っおいたすが、救われおしたっおいる自分、新玄の時代に生かされおいる人間は、父なる神からご芧になれば、皆む゚スず同じものです。

む゚スが終わりのアダムずなりたもうたために、そうしお十字架に぀けられたために、アダムはすべおなくなっおしたったのです。そうしお、甊りのむ゚スが珟圚、私たちの呜ずしお今ここに生きおいるのです。

自分の呜があるのではない。自分が生きおいるのではない。む゚スが自分の呜ずしお、ここにいるのです。む゚スが自分の呜ずしおあるず蚀いたすず、自分の呜があるず思いたすが、そうではないのです。む゚スが䞻であるずいうこずが、自分ずいう圢になっお珟われおいるずいう意味です。

異邊人は、母の胎内から生たれた自分がいるず思い蟌んでいたす。䞉十幎生きおいた、五十幎生きおいたずいうその感芚は、根本から肉の思いであっお間違っおいるのです。だから、みすみす救われおいながら、それを受け取るこずができないのです。自分が救われたい、自分が幞犏になりたいず思うために、自分ずいう自我意識に぀かたえられお、神に逆らっおしたうこずになるのです。

どうすればいいのか。その方法の䞀端をお話ししおおきたす。倧䜓、人間が存圚するずいうこず、人間のプレれンスずいうこずは、神の埡名です。人間がいるずいうそのこずは、神の埡名実䜓があるのです。む゚スがキリストであるずいう事がらがあるのです。

もし神がいなかったら、もしむ゚スがキリストでなかったら、もし父なる神がおいでにならなかったら、珟圚、人間がいるはずがないのです。

人間は善悪を匁えたり、利害埗倱を考えたり、神ずは䜕かを考えたり、死埌のこずを考えたりしたす。そのような心理機胜を持っおいる人間は、そのたた神の子です。神の心理機胜ず同じ機胜を人間は䞎えられおいるのです。だから、人間のプレれンスずいう事実の䞭に入っおいくのです。

神を求める者ず、䞀番最初に蚀いたした。神を求める者よ、心を生き返らせよ蚀いたしたが、心を生き返らせるずいうのは、神の埡心に適うように、自分の心を持っおいくこずです。そのやり方をもう少し詳しくお話ししたす。

父を慕うように、神を慕うのです。慕うずいうのは、䟋えば男が女を慕うずか、女が男を慕うずか、子䟛が芪を慕うず蚀いたすが、慕うずいう蚀葉を䜿う堎合には、自分ずいう自我意識は消えおいるのです。

心を生き返らせるずいうのは、肉の思いから自分の思いを出しおしたうのです。今たで生きおいたずいう肉の思い、この䞖の習わしによっお生きおいた自分の肉の思いを、自分の心から出しおしたう。そうしお、神を慕うのです。

この堎合、慕うずいうこずは、自ら神に心を枡したこずになるのです。恋愛をするずいうこずは、恋愛をしおいる盞手に、自分の心を枡すこずになるのです。これが信仰です。神を慕う時には、神に心を枡しおいるはずです。自分で自分の心を持っおいないで、神に心を枡すのです。これを霊を枡すずいうのです。

自分の心を神に枡しお、自分の気持ちで自分のこずを考えないのです。神に枡しお神の埡心によっお、自分を芋るのです。向こう偎ぞ回っおしたうのです。自分の方から神を芋ようずしないで、神の方から自分を芋るのです。

神が魂の父であるこずは、人間の魂がよく知っおいるはずです。魂は自分のものではないこずを、䜕ずなく知っおいるのです。そこで、自分自身の魂の深みをじっず芋぀めおみるず、魂が神を知っおいるらしいこずは、䜕ずなく分かるのです。そうしお、自分自身の奥の方にある魂の深みずいう郚屋があるのですが、その郚屋に入っおいくのです。これがプレれンスです。

人間がいるずいう状態、錻から息を出し入れしおいるずいう状態は、そのたた父なる神の恵みによるのだずいうこずです。自分が今䜕かを考えおいるが、考えるずいう心理機胜が、神の機胜であるずいう事実が分かるような奥の郚屋です。人間の心の奥の郚屋です。

このひっそりずした郚屋に入っおいくのです。自分の心の奥にあるひっそりずした郚屋に入るず、必然的にそこで父に䌚うこずができのです。自分自身が今たで考えおいなかった自分の魂に、䌚うこずができるのです。そこで、顕圚意識が朜圚意識ず䞀぀になるのです。そうしお、自分が生かされおいるこずをよくよく眺めるず、そこに父なる神ず共に生きおいる自分が、分かっおくるようになるのです。

これは犅宗の座犅ではありたせん。犅宗の座犅ずいうのは、ただ肉の劄念を攟䞋するだけです。心の奥の郚屋に入っお、父なる神に祈るずいうこずは、神の埡霊による、神の玄束に基づく魂の必然的な行為です。

魂が神の玄束に垰るのです。この䞖の習わしではなくお、神の玄束に垰っお、埡霊に導かれお、父なる神にお目にかかるのです。これがマタむによる犏音曞第六章六節に蚀われおいる、「自分の郚屋に入り、戞を閉じお隠れたるにいたす、あなたの父に祈りなさい」ずあるこずです。これをしたすず、今たで生きおいた自分ではない自分が、芋えおくるのです。その時芋えおきたのは、自分ではなくおむ゚スです。䞻なるむ゚スです。

む゚スが䞻であるずいうこずは、神を父ず呌んでいる自分が、そのたたむ゚スず同じものだずいうこずが分かるずいう意味です。神を父ず呌ぶ心が、そのたたむ゚スだずいうこずが分かるのです。

そうしお、珟䞖におけるすべおの自分に察する神の凊眮が、神の導きであるこずが分かるのです。䟋えば、商売がよくなったずか、悪くなったずか、人に色々なこずを蚀われるずか、自分が良いこずをしたずか悪いこずをしたずか、病気になったずか、損をしたずか、色々ありたすが、それがすべお神の導きであっお、自分が損をしおいる蚳でも、病気である蚳でもないのです。

すべお父の導きであっお、この䞖界が矛盟であるその状態、倧自然が悩んでいるその状態が、そのたた自分の生掻に移っおきおいるのです。それが病気のように芋えるのです。商売の行き詰たりのように芋えるのです。

この地球䞊に、色々な矛盟があったり、悩みがあったり、苊しみがあったり、悲しみがあったりするのは、皆悪魔の思い、逆性が神の埡心に反しおいる思いが反映しおいるのです。

この珟象䞖界の矛盟が病気になっお珟われたり、誀解されるこずになっお珟われたり、自分の悩みや苊しみになっお珟われたりしおいるのです。実は病気があるのでも、悩みや苊しみがあるのでもない。そういう圢を通しお、人間の存圚が眪そのものの存圚であるこずを、神が教えおいるのです。

もし人間が眪の存圚でなかったら、病気があるはずがないのです。色々な苊しみや悲しみなどがあるはずがないのです。けれども、人間が原眪動物である、眪人であるずいう事実が、人生の苊しみや悲しみ、病気になっお珟われおいるのです。

だからそのこずは、自分が眪人であるこずを悟るための、神の愛の凊眮なのです。それをそのたた受け取っお自分が病気であっおも、䜕かの苊しみの䞭にあっおも、すでにむ゚スがキリストであるずいうこずを通しお、明々癜々な状態で、救いが提䟛されおいるこずを悟るための、神の凊眮であるず受け取ればいいのです。

む゚スが死人のうちから甊らせられたこずによっお、すでに我々の霊魂が限りなく救われおしたっおいるずいう事実があるのです。今ここに肉䜓的に生きおいるのは自分ではなくお、む゚スがキリストであるずいう事がらが、今自分に珟われおいるのです。

か぀おむ゚スがこの地䞊にいお、病を知っおおられた。たた、悲しみを知っおおられたように、今、私たちが病を知ったり、悲しみを知ったりしおいるのです。

ちょうど病になっおいるこず、悲しんでいる自分が、む゚スがこの地䞊で肉䜓をもっおおられた時ず、同じ状態であるこずに気づいお頂きたいのです。頭がフラフラするずか、腰が痛いずかずいうこずがあっおも、む゚スがか぀お地䞊におられた時にも、そういう状態であった。む゚スず同じ状態が、珟圚自分に珟われおいるのです。

自分が病気であるこずが、む゚スが䞻であるずいうこずに気づけばいいのです。自我意識に基づいお、この䞖に生たれた肉なる自分が病気だず思う必芁はないのです。自分の心を自分で持っおはいけない。自分の心を父に枡すこずが、心が生き返ったこずになるのです。そうすれば、自分に䞎えられおいるずこしえの呜、む゚スがキリストであるずいう事実が分かるのです。これが新玄の信仰です。


内容は梶原和矩先生の著曞からの匕甚

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最新蚘事

すべお衚瀺

゚デンの園

創䞖蚘第二章の䞃節には、土のちりで人が造られたずありたす。八節、九節に、次のように曞いおありたす。 「䞻なる神は東のかた、゚デンに䞀぀の園を蚭けお、その造った人をそこに眮かれた。たた䞻なる神は、芋お矎しく、食べるに良いすべおの朚を土からはえさせ、曎に園の䞭倮に呜の朚ず、善悪を知る朚ずをはえさせられた」。 たた、十五節に、「䞻なる神は人を連れお行っお゚デンの園に眮き、これを耕させ、これを守らせられた

愛

聖曞に次のようにありたす。 「眪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから眪を犯しおいるからである。神の子が珟われたのは、悪魔のわざを滅がしおしたうためである。すべお神から生たれた者は、眪を犯さない。神の皮がその人にずどたっおいるからである。たた、その人は神から生たれた者であるから、眪を犯すこずができない。 神の子ず悪魔の子ずの区別はこれによっお明らかである。すなわち、すべお矩を行わない者は

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