女とは何か。アダムは女を見て、「これこそ、ついに、わが骨の骨、わが肉の肉」と言った。これほどすばらしいものだったのです。
すばらしい女があるということが、救いです。人間の五官がそれを知っているのです。男と女が手を握りあうと、相手の命が伝わってくるのです。命のぬくもりがそのまま伝わってくるのです。命を握っているのです。
男女の交わりが、最も端的に神の御名を示しているのです。これを分からせるために、あばら骨を人間にしたのです。女は最終の神の傑作です。最後の創造物です。これは言語に絶するすばらしいものです。
富士の山よりすばらしいものがあるとすれば、女です。バラの花よりすばらしものがあるとすれば、それは女です。それを与えて神は何を知らせようとしているのか。神ご自身のイメージを間違いなく教えるためです。
それを人間の五官は、ストレートに直感しているのです。ダイレクトに受け止めているのです。それでどうして神が分からないのかということです。
現在私たちの五官は、はっきり神の救いを見ているのです。イエスの御名を見ているのです。イエスの御名を経験しているのです。
人間の生活にはただ五官の営みだけがあって、利害得失は一切存在しないのです。それを自分自身に、毎日言って聞かせる必要があるのです。これは得だ、これは損だと、一切思わないことです。自分の立場は毛頭存在しないからです。
人間の立場はポイントのようなものであって、場はあるけれども、面積はないのです。実体的には存在していないのです。経験するという官能だけがあるのです。
従って、損も得もないし、善も悪もないのです。私たちにとってすべては、是となりアーメンとなるのです。これだけなのです。私たちはすべてのことが、イエスにおいてしかりとなるために生きているのです。しかりとなるとは、救いとなるということです。
その時初めて、自分の存在が宇宙的に合理化されるのです。自分が自分を合理化する必要はないのです。自分が救われたいと思う必要はないのです。神がすでに私たちを合理化しておいでになるからです。
神が私を合理化してくれた。これに誰が反対するのでしょうか。神が私たちの味方なら、誰が私たちの敵になるのだろうか。神の処置が私を救ってくれたとしたら、誰が反対するのでしょうか。なぜ今更、自分の善悪利害得失を考えなければならないのでしょうか。
地球が回っていることは、私たちにとってそのまま救いです。それはイエスにおいてしかりとなるのです。私たちはすばらしい世界に生きているのです。現実に私たちは神の救いを見ているのです。キリストの御名を見ているのです。なぜ、救われたいと熱心に考えなければならないのでしょうか。なぜ私の信仰はまだまだ足らないと考えるのでしょうか。
イエスこそ、私たちの知恵です。私たちの力です。彼が私たちの清きです。彼が私たちの善事善行です。今更、独自の場において、善事善行をしなければならないという必要性は全くないのです。
ただ黙って生きて、感謝をしたらいいのです。目がエホバの救いを見ていること、イエスの御名を見ていることを信じればいいのです。
こんな簡単なことはありません。神を信じ、イエスを信じたらいいのです。利害得失のセンスはすべて、自我意識から発生するのです。
自我意識は、宇宙に発生した全くの妄念です、自我というものはないのです。これをイエスが証明したのです。イエスは自分自身が生きていることが、父の御名であると考えた。
父の御名があるだけで、自分があるのではない。イエスはそう考えたのです。しかもそれが宇宙の命運に対して、正当だったのです。イエスの生活態度が、そのまま宇宙の公義に一致したのです。それでイエスは復活したのです。
今、イエスは第三の天において、すべてに勝る名を与えられています。神は私たちに、このすべての名に勝る名を与えようと思って、とんでもない栄光を与えようとしているのです。
固有名詞という落とし穴に、一切入り込んではいけないのです。そうして、あるがままの自分を見るのです。
神がイエス紀元に私たちを生かしている。この公然たる事実を信じたらいいのです。イエス紀元は、私たちに近すぎて分からないのです。はっきりしすぎているから分からないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)