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愛することと愛されること


聖書に次のようにあります。

「主なる神は言われた、『人が一人でいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』。そして、主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人の所に連れてきて、彼がどんな名をつけるのかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで、主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

主なる神は、人から取ったあばら骨で、一人の女を造り、人の所へ連れてこられた。その時、人は言った。

『これこそ、ついに私の骨の骨、

わたしの肉の肉。

男から取ったものだから、

これを女と名づけよう』」(創世記2・18〜23)。

神はアダムの目の前に色々な動物を連れてきて、名づけさせたのですが、アダムの名づけ方が、神の御心に従ったものではなかったのです。

この時のアダムは、もちろん罪人ではありませんが、イエスほど神と深く交わっていたのではなかったのです。海のものとも、山のものとも分からないような状態であった。罪を犯してはいないけれど、神から善悪の木の実を食べるなと言われた所を見ますと、神が御子イエスを愛しておられたように、これは 私の愛する者であると、神が証せられたような、それほどの親しい関係ではなかったのです。従って、神の御心をそのまま直感的に弁えて、すべてのものに名づけるというような理想的な感覚を持つことはできなかったのです。

野の獣、空の鳥に対する名づけ方が悪かった。神の御心に添う状態で名づけなかったために、神がアダムに対する助けとなるとお考えになった動物からは、助けが見つからなかったのです。動物の名づけ方が、神の御心どおりではなかった。また、御心にかなわなかったという強い言い方をしますと語弊がありますが、神のご期待に添えるものではなかったと言えるでしょう。

その前にもう一つ考えなければならないことは、人が一人でいるのはよろしくないという、神の独り言です。

エデンの園に彼がおかれたこと、また、エデンの天然状態、天体運行の状態、春の花、夏の海、秋の紅葉、冬の景色、いわゆる陥罪以前の地球というのは、すばらしいものであったに違いないのです。乳と蜜が流れるすばらしい所であったでしょう。

そのような自然現象を見れば、花の香り、それを慕う昆虫の状態をながめていても、彼は造り主の栄光を感じることができたのです。神の全能と全知を直感的に理解できたはずです。「我は全能の神なり」と自ら言われたお方の、全知全能のすばらしさ、栄光の尊さ、賢さがアダムに感じられたはずです。そうしたら、イエスのような信仰が持てたかもしれないのです。

空の鳥、野の獣だけでなく、天地自然の現象がそのまま、彼の助け手になりえたはずです。例えば、朝やけのすばらしさ、夕焼けのすばらしさ、また、木々の生え方、天地自然のすばらしさを見れば、それが彼の助け手になったはずです。

陥罪以前のエデンは、陥罪以後とは比較にならないくらいにすばらしいものであったに違いないのです。現在でも、天体現象、自然現象の中にはすばらしいものが流れています。大ロマンがそのまま感じられるものが、あちらこちらにあるのです。

罪の下になっている人間でさえも、風流な感覚を持つことができるほど、自然現象はすばらしいものです。これがアダムの助けになったはずです。ところが、それができなかったのです。

自分自身の中から、命の木がはえ出した。また、もろもろの木がはえ出した。命の木、善悪の木が、恋をする頃の人間の心理的な発育状態であったのです。こういう事がらを通してでも、彼は自分自身の助けを見ることができたはずですが、できなかったのです。

そこで、神は空の鳥、野の獣を造って、アダムの前に連れてきたのです。ところが、空の鳥、野の獣に対する名づけ方が、神の御心に添うものではなかったのです。そこにアダムの助け手が見られなかったのです。助け手が見えなかったということは、神を見るよすがとなるものが、アダムにはなかったということです。

助け手というのは、神を見るためのヘルパーでありまして、神を見るためのよすがとなるべき直感が、まだ彼には働いていなかった。だから、神が分からなかったのです。こういうことで、アダムは助けが見つからなかったのです。これは見つからなかったのではなくて、見つけることができなかったと言うべきです。アダムにもし心あれば、神の処置に気づいて、連れてこられた動物たちを通して、神の御心を弁え、自分自身の助け手をその中から見つけることができたはずです。ところが、それができなかったのです。

これは、アダムの精神的な幼稚さというべきでしょう。彼は生き物、大自然を通して、神を見ることができなかった。そこで、彼にふさわしい助け手を見ることができなかったのです。

二十一節を見ますと、そこで主なる神は、人を深く眠らせて、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれたのです。

主なる神はアダムを深く眠らせたとあります。英訳を加えて考えますと、アダムの上に深刻な、また、激しく深い深い眠りが襲ってきたとなるのです。深い深い眠りが、アダムにやってきたのです。

神の御心を弁えることができないアダム、助け手を与えようとする神の御心が理解できないアダムのハートの状態を、出直させる必要があったのです。

すばらしい天然現象を見せた、天体の状態を見せた。生き物を見せたのに、まだ造り主の栄光が分からない。現在の人間には、すばらしい自然現象を見せても、ああすばらしい景色だと言うけれど、すばらしいとまでは考えますが、そこに造り主の栄光といったようなものを感じる人は、滅多にいないでしょう。これは陥罪以後における肉の人間だから、分からないと言えるのですが、しかし、犬が犬であるというのは、神の栄光に決まっているのです。犬が猫にはならないのです。犬は絶対に犬のあり方を守っている。それは造り主が、理路整然たる万物の根源であることを示しているのです。

犬は犬でなければならないと思っているのではない。ただ自分の本能に従って動いているだけですが、犬は犬らしい性質を守って生きているのです。そこに乱れというものはありません。

例えば、アリとハチとでは全然違います。アリはどこまでもアリの状態でしか生きていくことはできません。どんな昆虫でも、鳥でも獣でも、神の秩序がきちっと守られているのです。こういうすばらしい大自然の秩序、整然たる状態を見れば、そこに造り主の並々ならぬ英知と栄光を認めることができるのです。

例えば、岩一つの形を見ても、そこには言うに言われぬ深み、しんしんたるものがあるのです。岩に造り主の栄光が現われているからです。もし、造り主に芸術性がないお方であったとすれば、大自然に芸術性が現われるはずがないのです。岩一つひとつの趣、岩の色、その形、たたずまいに、言うに言われぬ趣があるのです。そこに造り主の栄光が現われているのです。

アダムを深く眠らせたということは、アダムの心的状態を全くやり直させるためです。彼の精神状態が改まらなければ、神からの助け手を見つけることはできないのです。そのために、神は彼のあばら骨から女を造るという、このすばらしいことをするために、思い切ってアダムを深く眠らせたのです。

これは実に全くアダムを死なしめたと同じことになるのです。アダムは殺されたのです。これは救い主イエス・キリストが霊にて地獄へ落ちたことのシンボルになっているのです。アダムとイエスとは同じ道を歩ませられた。初めのアダムと終わりのアダムとは、同じ運命をたどらされたのです。

キリストが肉にて殺され、霊にて生かされた。彼の霊がそのまま人屋にまで下りたもうた。キリストがはっきり殺された。イエスがはっきり殺されたのです。殺されたことによって、教会が造られたのです。キリストの妻である教会が造られたのです。

アダムが眠らされたことによって、アダムの妻が造られたことと、軌を一にしているのです。アダムが眠らされたということは、キリストが十字架にかかって、一時死んでしまわれたのと同じようなことであったのです。

これが、パウロが言う所の心を更えて新にするということなのです。本当に私たちがイエスと同じ命をつかまえるために、本当にとこしえの命をつかまえるためには、異邦人の肉なる固有名詞の自分から、霊なる神の子として目覚めるために、心を更えて新しくしなければならないのです。心を更えて新にするというのは、出直すことなのです。

まさにアダムはこの時、神が出直すことを命じられたのです。深く眠らされたということは、もう一度出直すという処置を、神から取らされたということです。

アダムの今までの考え方では、どうしても神が分からないのです。朝日を見せても、夕陽を見せても、鳥や獣や花を見せても分からない。神の全能の姿が分からない。神の全能の何を知らせたかったのか。神が何を知らせたかったのか。神がアダムに一番知らせたかったのは、自然現象や動植物を通して、宇宙の本性、神の本性を知らせたかったのです。神のさがを知らせたかったのです。

さがとは何かというと、愛です。彼の中には何となく自己満足みたいなものがあったのです。彼は自分の現在の状態で、はっきり満足していた。そこで神が思い切って、あばら骨一本を引き抜いた。あばら骨とは、ハートの真髄、愛を感じる情緒性です。神はアダムから愛を引き抜いたのです。アダムに愛が感じられない状態にしてしまったのです。あばら骨は愛そのものです。愛をシンボルにするものです。これをアダムから抜いてしまったのです。

人間の本性の真髄と言えるものは、人間自身のさがの本性であって、これが愛することと、愛されることになるのです。

例えば神の本性は、愛することです。宇宙には本性と本質と、本体の三つがあるのです。人間にもこの三つがあるのです。これは本源なるものの三位一体と言えるものです。これが人間存在の原点です。

本当に神を知った哲学者は、未だかつてこの地球上に現われたことがありません。もししいて現われたと言えば、イエスを除けば、タルソのパウロくらいのものです。

神を知らなければ、本当の哲理、哲学は分からないのです。本性というのは、宇宙存在の最も重要な基礎になるようなものです。従って、人間存在の基礎というものは、人間の本性です。

現在の人間は、肉性に従って生きています。だから、自分の本性が分からないのです。肉性は人間の本性ではなくて、仮性です。仮の性です。仮の性は肉の性であって、これは本性と全然違ったものです。アダムの場合は、本性を持っていた。これは愛されることです。これが中心になっていたのです。

陥罪以前のアダムの内には、愛される感覚と、愛する感覚とがあった。愛にはこの両面があるのです。愛することと、愛されることの両面を愛というのです。愛がアダムの胸にはあったのです。骨という言葉は、隠れたもの、本質、隠れたものだが中核をなすもの、また、中心をなすものという意味です。

例えば、人間の人体構造の場合でも、まず人間は母の胎内において骨が形造られるのです。これは聖書にも書いています。少さなものから骨がだんだん成長する。その段階において、当然骨髄が生育するのです。骨髄の働きによって、骨から分泌するものがあるのです。肉というもの、また、血は本来同じものです。一つは固体的であり、一つは液体的ではありますが、本来的には同質のものであると言えるのです。これは骨髄の働きによって発生すると考えられるのです。

内臓の諸器官は骨髄の働きによって造られる。いわゆる五臓六腑というものは、実は骨の働きの分派によるのです。脳髄の細胞等も、骨髄、脊髄、延髄の系統的なものであって、これが大脳機能の源泉になっているのです。骨は表面に見ることはできない、隠されているものですが、実はこれが人間の人体構造の中心をなすもの、核心をなすものなのです。あばら骨というのは、愛の中核的存在をシンボルにしたものです。これを一本抜いたのです。

胸の骨は人間のハート活動の中心になるものですが、その一本を抜いた。一本を抜いたということは、アダムが不完全なものにされたという意味になるのです。一本という数にこだわる必要はないのですが、全部揃っているべきはずのものが、一本欠けたのです。十二本あるべきものが、十一本になった。十二という数は神的な完全数です。神の計画に基づく完全数が十二です。十一というのは不完全そのものの数になるのです。

一本抜かれて十一になったということは、この時アダムの愛に対する感性が、不完全になったことを意味するのです。

彼はエデンの園で、神と共にいました。彼は初めから神と共にいた。それは、神に愛されていたことなのです。愛されているということは、初めからその状態におかれていますと、自分では分からないのです。愛されっぱなしだからです。

愛されっぱなしですと、自分は愛されているのだという自覚を持つことができないのです。これは皆様も子供の時に経験があるはずです。子供の時には皆様は、両親に愛されていたのです。両親に愛されていたという条件が、初めから存在する場合は、愛されているという気持ちは持てません。従って、愛されているという気持ちがない者は、愛するという気持ちが起きないのです。愛するということは、愛されているという自覚を基礎にしなければ起こらないのです。

男女においては、愛されていない男性が女性を愛するということはあります。これは陥罪以後における人間現象です。陥罪後における人間の心理現象であって、なぜそうなるのかということは、二十九節と三十節を見れば分かるのです。

アダムの場合は、一方的に愛されていたので、神を愛することが皆目分からなかったのです。そこで、神はアダムが愛に目覚めるために、非常手段を取ったのです。愛に目覚めなければ、神を信じることができないのです。神を愛するということが、神を信じるということの基礎になるからです。

信じるということは、俗な言葉で言いますと、惚れるということです。惚れる気持ちがなければ、本当に神を信じることはできません。惚れないで、ただ信頼している、信用している程度の感覚では、本当は信仰とは言えないのです。信仰というのは、自分の命のすべてをかけて、自分の財産のすべてをかけて、全く寄り頼むことです。これは命がけ、魂がけのことでありまして、惚れる時は一切をかけて信託することができるのです。

陥罪以前と陥罪以後とでは、だいぶ違っているのですが、とにかくアダムは愛されてはいたが、愛することを知らなかったのです。この原理を考えて頂きたいのです。

神はアダムに愛することをまず学ばせることを考えられた。そのためには、愛の感覚における完全性を不完全性にしてしまわなければならない。そうしないと、愛されていることの嬉しさ、また、愛することの嬉しさを味わうことができないからです。

砂糖壺の中にいる蟻は、砂糖を食べあきているので、砂糖の味の良さが分かりません。砂糖壺の中の蟻は砂糖に見向きもしないのです。砂糖壺の中にいるのですから、砂糖を珍しいとも、おいしいとも思わないのです。砂糖壺の中の蟻のような状態で、アダムがエデンの園にいたのです。そこで、神は神ご自身をアダムが愛すること、神を信じること、それを学ばせるために、砂糖壺の中にいる蟻の感覚を不完全にしなければならなかったのです。蟻の感覚を持ったままでは、砂糖に対する有り難みが分からないのですから、アダムの感覚を不完全にしたのです。胸の寂しさをアダムに与えることによって、彼自身が人生の寂しさ、侘しさを感じることになるであろうという神の深い御心によって、まず、彼を深く深く眠らせて、あばら骨を一本抜いたのです。

そのようにして、まず、人間の愛に対する感覚を不完全にした。不完全にしたことは、愛に反する行動のように思えるのです。愛することではなくて、苦しめること、悲しませることのように思えるのですが、実は本当の喜びというものは、不完全を意識して、不完全さに悲しみ、苦しむことを経験するのでなかったら、本当の喜びを味わうことはできないのです。

不完全を意識しながら、一方において完全を意識する。つまり、不完全さを自分自身が味わいながら、一方において完全さを求め、また、味わうということでなければ、本当の喜び楽しみというものは、感じられないのです。

例えば、葉隠の中に誠の恋というのは、偲ぶ恋であるという言い方をしている箇所がありますが、本当の恋というのは、恋そのものを獲得してしまうと完全があまって、かえって不完全になってしまう。むしろ偲ぶ恋という状態におかれることにおいて、一方において非常に不完全な不自由さを味わいながら、他方において、愛の楽しさ、愛されていること、また、愛していることの楽しさ、喜びを味わうことができるのです。

不完全と完全とは、裏と表の関係になるのであって、不完全という裏がなければ、完全という表はありえないことになるのです。愛が分からないという状態が裏になければ、愛ということの本当の意味が分からない。表と裏がなければ、一枚の紙にならないように、愛にも裏と表があるのです。完全と不完全、これが表と裏の関係でありまして、まず神はアダムに裏の状態を与えようとした。アダム自身は裏が表か、表が裏か、分からなかった。砂糖壺の中の蟻のような状態であったので、これにショックを与えるというやり方をしたのです。愛を不完全にしたことによって、愛することを学ばせようとした。これが実は本当の愛なのです。

アダムはあばら骨を抜かれた。生理的に言えば、骨が一本抜かれたのですから、穴があいた。そこを肉で塞いだとあるのです。肉で塞いだということを生理医学的に言いますと、傷が癒されたことになるのです。こうしなければ癒されないからです。骨が一本抜かれたが、神の巧みな外科手術によって、傷口が縫い合わされて、肉が塞がれたのです。

これを信仰的に言いますと、あばら骨というのは霊なる感覚です。愛の感覚の非常に重要なものを一本抜かれたのです。そこで、愛の感覚が不完全になった。愛されているという気持ちが、がたんと落ちてしまった。愛されているという自信のようなものが、落ちてしまった。がたんと落ちてしまったという欠陥を、肉で塞いだのです。

アダムは自分自身の気持ちが分からなくなった。自分のハートに何か異常が起きたことは感じたのですが、どういう異常なのか、分からなくなった。今まであった自分の正常な感覚、正当な感覚がなくなったのです。しかし、それがなぜなくなったのか、どういう原因なのか、また、どうすればそれが回復するのか、肉で塞がれたために、分からなくなったのです。

これも神の愛の処置です。何か心寂しくなったのです。なぜそうなったのか。どうしたら回復するのか分からなかったのです。そういう分からない状態にすることが、神の目的だったのです。

何でもかんでも分かった、分かったという人には、分からないことの恵みが分からないのです。分からないと思うことが、実は大きい恵みです。もし本当に神が良く分からないということをハートで感じる人は、幸いな人です。神を知りたいと思うようになる人は、幸いなる人です。ほとんどの世間並の人間は、神が分からないということが分からないのです。

キリスト教の信者は、分かっているつもりです。自分は神に愛されていると勝手に思っているのです。そのように自惚れていますから、愛の本質がどのようなものかが分からないのです。愛することも分からない。また、愛されていることも分からない。肉で塞がれているからです。

仏典に煩悩即菩薩という言葉があります。開眼するためには、煩悩が必要です。煩悩がなければ菩提を拝むことができないのです。苦しむということが、楽しみ、喜ぶことの前提になるのです。苦は楽の種と言いますが、これをアダムは現実に味わされたのです。

神の愛というのはこういう処置でありまして、考えればアダムが罪を犯して、人間全体が罪に閉じ込められたということも、実はそこには、神のすばらしい愛の大計画が存在したのです。

二十二節に、「主なる神は、人から取ったあばら骨で、一人の女を造って、アダムの所へ連れてこられた」とあります。あばら骨で女を造ったとありますが、女とは何であるのか。宇宙の本性は愛ですが、これが人間存在として現われていたのですが、あばら骨を一本抜かれたことで、愛の存在であったアダムが不完全な愛の感覚を持たざるをえなくなった。そうして、そのあばら骨で女を造ったのです。女とは何であるか。これは深い深いことなのですが、女というのは、今日の人間が考えているような女とは全然違うのです。人間の常識、知識で考えているようなものとは、違うのです。

女は宇宙の本性の片ひら、一片です。宇宙の本性が女になった。男と女は同性です。女はフィメール(female)と言いますが、端的に言いますと、雌を意味するのです。メール(male)は雄を意味します。

陽性と陰性の二つがなければ、本当の性はできないのです。さがというものは、和合的な形によって成立しているのです。愛というものは、愛するものと、愛されるものとの両面がなければ、愛という言葉が発生しないのです。神は愛なりと言いますが、神は愛する対象を持っているから、神が愛でありうるのです。全知全能の神であっても、もし愛する対象がなければ、神が愛であるということが成立しないのです。

そこで神は、愛する本性と愛される本性を悛別することによって、愛そのものを現わそうとしたのです。アダムの心の内に、愛を現わしてやろうと考えたのです。アダムはアダム自身の心の中に、愛というものがほのぼのと分かってくる時に、アダムは自然的に神が分かるのです。恋に目覚めることによって、本当の神が分かるのです。

本当に恋が分からなければ、惚れるという気持ちがわいてこない。信じるという気がしないのです。もし本当に信じること、惚れることが分からない人は、自分の心が自分から見て完全でありすぎるために、私はこれでいいと思っているために、心が貧しくないのです。

ビリーブ・イン・ゴッド(believe in God)です。神において信じるのです。そのように、神において満足するのです。神において物を見るのです。この気持ちが人間にとって一番幸せな気持ちです。

神はアダムにこのような心的状態を与えるために、女を造ったのです。つまり、宇宙の本性の片ひらを形において現わして、女を造ってアダムの所へ連れてきた。アダムは言った。「これこそついに、私の骨の骨、私の肉の肉、男から取ったものだから、女と名づけよう」。アダムが女と名づけたのは、陥罪以前のアダムにおいて、唯一無二の成功であったと言えるのです。

この二十三節のアダムの言葉は、二つに分けて説明しなければならないのです。これは非常に難しい言葉です。陥罪以前のアダムが、愛によって発言した。この発言こそは、キリストの言葉とほとんど同じです。キリストが教会に対して持っておられる言葉と、ほとんど同じです。これは古今に絶するという月並みな言葉では言えないような、宇宙に冠絶すると言えるほどの、すばらしい言葉です。

アダムは、「これこそ、今や、私の骨の骨、肉の肉」と言った。これは叫びそのものを現わしている言い方です。これが二十三節の前段です。「男から取ったのだから女と名づけよう」というのは、後段です。

神はアダムに心から愛するような助け手を与えるという目的で、女を造られたのです。助け手を与えるつもりで造られたのです。それに対して、アダムはこれこそついに、私が求めていたものだと思ったでしょう。求めていたという言い方はしていませんが、ついに私の骨の骨、肉の肉と言った。これは聖書の中の非常に難解な言葉の一つだと言えるでしょう。

私の骨の骨というのはどういうことなのか。この言葉を読むのは簡単ですが、その意味は全く分からないのです。これは、アダムが女を見た時に、ハッと思ったのです。骨の骨という言い方は、アダムが自分の骨の骨はあるけれど、このような見える形であるのではないという意味です。自分の骨の骨はあるけれど、そのように目に見える形であるべきではないと思っていたのが、現われたという意味です。

二章七節に、地球のちりで人間が造られたとあります。アダムは無意識に、ちりで造られた自分を意識していたのです。陥罪以前の人間なら、当然そうあるべきです。今、聖霊の恵みによって私たちも、ちりで造られた人間、人間創造の秘密を神から教えられているのです。

目に見えない霊なる自分と、目に見える肉なる自分とがある。自分自身の存在としては、霊なる者であると思っていたけれど、自分の目でそれが形を取って意識するということはなかったのです。

肉の思いが、アダムには全くなかったのです。肉の思いがない人間は、現象的に存在する自分というものを、意識することはないはずです。ところが、目の前にちらっと立っている女を見て、アダムは驚いたのです。自分の理想像が目の前に立っていたのです。これこそついに、私の骨の骨、肉の肉と叫んだのです。本当の自分の自分、自分以上の自分が目の前に立っているのです。感嘆つきせざる大感激が、彼の腹の底からわきあがってきたのです。

男性が本当に恋する場合の恋というものは、自分以上の自分を見ているのです。これがアダムの感嘆です。自分以上の自分、これはすばらしい自分です。これは実は、イエス・キリストが教会をご覧になると、自分以上の自分をご覧になっているのです。今キリストは第三の天において、骨なる骨の自分、肉の肉なる自分に向かって祈っておられるのです。

教会はイエス・キリストの骨の骨です。こういう秘密が宇宙にあるのです。神と人間の霊魂の交わりというのは、すばらしいものです。

親から見ている子供は、自分以上にかわいいものです。自分以上の自分が子供に現われているのです。男以上の存在が女です。自分以上の自分が、愛の自分として現われている。これにアダムは感嘆したのです。これが人間には分からないのです。例えば、教会にキリストの愛が分からないように、男性には女性が分からないのです。男が女を愛するのは、自分以上だと思うから愛するのです。私の骨の骨、自分のあらゆるものを乗り越えた完絶無類のものが女性です。

次に後段について述べてみますと、男から取ったものだから、女と名づけようとあります。女を見た時アダムは、これぞついに、私の骨の骨、肉の肉と言った。自分の骨肉が自分以上のものとして、目の前に現われている。これは全能の神でなければできないことです。自分が自分以上のものとして現われている。本当の自分ではあるが、自分以上のものであるというもの、これが我々の救い主です。

救い主イエス・キリストは、私の本質、本性そのものですが、私以上の本質、本性そのものです。これは女から見た男のあり方です。男から見た女と、女から見た男とは、同じものです。自分以上の自分がいるのです。だから、恋をすることによって、相手がとてもすばらしく思えるのです。

バプテスマのヨハネも女から取られたと言っています。女が男から取られたものと自覚する時に、本当の恋心が分かってくるのです。本当に女が慕わしく思えるのです。愛する女性があばら骨であるということを認識する時に、女性の幸いがわいてくるのです。女の幸せというのは、男のハートの泉からわいてくるのです。神のハートから人間の幸せがわいてくるように、女の幸せは男のハートからわいてくるのです。そこから人間の幸せがわいてくるのです。

男から取ったということは、女の命の原因、源は、男にあるということを意味しているのです。男は女の命の源であるから、男に帰るべきです。人間の命の源は、神ご自身にあるのです。神の御名が源です。これを自覚する時に、男の本当の幸せがあるのです。

キリストは教会を完成するために、自ら十字架につけられた。これが男性の本当にあるべき姿です。自分自身が愛するもののために、人の魂を完成するために、自分自身を犠牲にした。これは男性の最も正しい自覚であると言えるのです。

骨肉は神の国を継ぐことはできない。しかし、形として現われた人間は、骨肉としての自分を意識していないのです。女は聖なる自分を意識することができないのです。そこで、男がまず霊なるもの、地のちりで造られた自分自身を認識する。その認識によって女は、完成されるのです。また女は男の愛に同化されて、男の信仰を持つことができるようになる。これが女性に対する男性の責任のあり方です。肉的に愛するのではない。霊に従いて愛するということ、これが本当の男性のあり方です。

女は男から取ったものです。だから、男は女の源泉ですから、女に対して責任を持たなければならない。これは当然のことです。

例えば、女がお化粧すること、色々なデザインの服を着ること、立居振る舞いにしても、女は男の目をいつでも気にしています。ちょっと歩くにしても、ちょっと座るにしても、女の所作、態度は、どこまでも男性を意識しているのです。これは女性自身が、自分が今現象的に生きているのが自分だと思い込んでいるからです。だから、自分自身のあり方を本能的に気にするのです。

恐らくエデンの園のエバにも、こういう気持ちがあっただろうと思われます。自分自身の存在を、アダムに見てもらいたかったでしょう。

アダムが骨の骨、肉の肉と言ったのは、自分自身をそのまま見ているのです。これが理想的な恋愛です。男は自分のなりふりを、あまり気にしません。女に見てもらおうとは思っていません。つまり、ちりで造られた者が自分だと思っているからです。肉体的ではない自分、ちりで造られた聖なる自分としての人間を、男は何となく知っているのです。

だから、現世におけるなりふりよりも、自分自身の本質を向上させよう、自分自身の本性をもっと良くしようという気持ちが、男性は女性より強いのです。

自分の人生目的、自分の精神的な名誉、位という目に見えないものを得ようとするのです。これはちりで造られた人間の本性です。女は自分の姿、形で、男性に愛してもらおうと考える。この当たり前のことで、男から取りたる者ということを物語っているのです。

結論として言えることは、男性は男性の責任において、はっきり完成しなければならないのですが、男性は女性の存在をマスターすることなしに、また、女性の感性を考えることなしに、男性は自分自身の完成はありえないのです。

パウロは、「この奥義は大きい。キリストと教会の譬である」と言っています。「女なる者よ、キリストに仕えるように夫に仕えなさい」と言い、「男なる者よ、キリストがその教会を愛したように、妻を愛せよ」と言っています。自分の体のように、妻を愛せよと言っています。これは創世記第二章の秘密がそのまま、キリストと教会の秘密であることを示しているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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