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欲望を克服する


パウロは次のように述べています。「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ以外にない。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」(ローマ人への手紙8・13)。

肉に従って生きるとありますが、英訳では(live after the flesh)となっています。これは肉の後をついて行くならとなります。

人間の肉の思い、現象は実体であると考える思いの後をついて行くなら、死ぬしかないのです。人間の五官は同時的に働くものであり、目で見ているというのは、同時に鼻で嗅いでいることであり、舌で味わっていることでもあり、耳で聞いていることでもあり、また、手で触っていることでもあるのです。

見ているということだけで、五官が同時に働いているのです。食べている場合でも同様です。舌で味わっているのは、舌だけが働いているのではなく、見て食べているのです。また、聞いて食べているのです。鼻で嗅ぎながら食べているのです。

舌触りというものが、手で触っているのと同じことです。味わっているというのは、五官が同時に働いていることになるのです。リンゴを食べている時は、五官で食べているのです。臭覚神経がだめになると、味が変わってしまうのです。五官が同時的に働かなくなるから、そういうことが起きるのです。

目で見ていて、見ているとおりのものが存在すると思っていると、その思いに皆引きずられてしまうのです。これを(live after the flesh)と言っているのです。肉についていくということです。人間は勝手に肉についていくのです。目で見ていると、その感覚が主体的に働いて、他の四官を引っぱっていくのです。

般若心経では五蘊の中でまず第一に、色蘊を取り上げているのです。色受想行識とありますから、色を第一に並べているのです。般若心経でいう色とは、物質的現象のことをさしているのです。すべて存在するものには色があります。だから、色という言葉で簡単に言い現わしているのです。

物象的存在、現象的物質存在を色と言ったり、行とも言っています。諸行無常の行です。物質はすべて流れ動いている。だから、行と言うのです。物質そのものが動いているのです。だから、諸行無常です。

諸行無常と色即是空は、同じような意味です。ちょっとニュアンスが違いますが、根本的には同じことを言っているのです。このように五蘊の中の第一に目の感覚を取り上げているのです。

目で見たとおりの物質的現象が、実存在すると考えているのです。そういう考え方を色蘊と言います。目で見た感覚が五官の基になっています。そこで、人間は即物的に考える、唯物的に考えるのです。これが人間の顕在意識の基礎になっているのです。常識や知識になっているのです。肉体的に生きている人間の基本は、目です。目によって見ている意識が間違っているのです。

イエスは、あなたがたの目が正しければ全身が明るいであろうと言っています(マタイによる福音書6・23)。今、実在している物質的現象は、実存在ではない。これは仮の姿だと思えるようになったら、初めて、肉の後についていくという状態がだんだんなくなるのです。

ところが、これがなかなかなくならないのです。目で見ているとおりのものがあるというような感じは、なかなか薄れません。その訓練をするために、毎日、毎日、夜毎、夜毎、御霊に祈るのです。そうして、自分自身の目の訓練を自分でするのです。

目の訓練をするのはどういう方法でするのかと言いますと、物質は実存在ではない、仮の姿である。新陳代謝の現象が、今物として目の前に現われている。新陳代謝の瞬間的な断面が、今物として自分に感じられる。感じられはするけれど、実体的なものではないということをしっかり確認するのです。今見ている目は、肉眼ではあるが、心眼ではない、霊の眼ではないのです、肉眼で見ていることが一つのハンディキャップであるということを、いつでも心において物を見る訓練をするのです。私はいつもその訓練をしているのです。訓練をしていても、なかなか難しいのですが、訓練をしているとだんだんとできるようになるのです。

成せば成るです。成さねばならないのです。自分自身が目で見る。目で見ながら、これは現象であり、現象は実体ではない。これは新陳代謝のプロセスだということを、自分の頭で言い聞かせながら、見る訓練をするのです。これを毎日するのです。

これを祈りと言います。神との交わりです。こういうやり方が、神の御霊に導かれることです。これをしないで、ポカンとしていると、(live after the flesh)になるのです。肉についていくという感覚になるのです。

信仰を全うするためには、それだけの訓練や努力が当然必要になるのです。五蘊皆空を実行する意味での努力が必要です。自分を完成するため、大成するために、責任を持って自分自身の五官を用いなければならない。これは意志によるのです。やろうという意志があれば、誰でもできるのです。

肉の後をついていくような生き方をしているなら、その人は必ず死ぬのです。死なねばならないです。

肉体というのは、消耗品です。生活することによって、肉体は自然に燃焼しているのです。燃え上がっているのです。燃えているろうそくみたいなものですから、ろうそくが燃焼してだんだんへっていくように、肉体も老化していくのです。

そこで、ろうそくがある間に、勝負をしなければならないのです。ろうそくをどのように使うかを、勉強しなければならないのです。そのために、人間の魂はこの世に出てきたのです。

理性は先天的に植えられた神の言葉です。この言葉に肉が与えられた。言葉が肉となったのです。人間の理性にろうそくがついたのです。

神の言葉である魂が、肉となって地上に現われたということはどういうことか。魂の本性は五官です。生命意識です。または、自意識です。先天的に植えられた理性が、人間の自意識や生命意識の根源になっていますが、魂としてこの地球上にある間に、何をなすべきか。五官の働きを正常にするため、神の御心に従って、五官が働くような訓練を受けるために、この世に魂が出てきたのです。

神の御心に従って五官の働きができるような訓練を受けるために、この世に出てきたのですが、世間の人はこれを全然知らないのです。何のために五官が肉体に備わっているのか。五官は本来何のためにあるのか。これが分からないのです。

五官は欲望を満足させるためにあると思っている。五官は確かに欲望と関係がありますが、しかし、五官それ自身の本性は、欲望ではないのです。

なぜ五官が欲望的な形で働くのか。このことについて、十分な説明がなされたことがないのです。キリスト教神学にはありません。仏教にもないようです。

一体人間の五官がなぜ欲望的に働くのか。欲望とは一体何なのかということです。人間は肉によって生きていると、その人は自動的に欲望的になっていることを意味しているのです。

なぜかと言いますと、肉体というものは本性的に消耗品です。生きているということは、この消耗品を燃焼していることです。ろうそくの蝋が、どんどんとけているような格好で生きているのです。従って、これを補充しようという気持ちが起きるのです。これが肉によって生きている人には、欲望となって感じられるのです。

こういうことがなかなか分からないのです。人間自身が欲望の奴隷になっていますから、欲望が人間の主人になっているのです。だから、肉体人間は欲望のごきげんを伺って生きているのです。その結果、肉に従って生きているなら、死ぬほかはないとなるのです。

どうしたら肉欲に勝つことができるのか。なぜ人間は欲望の奴隷になっているのか。肉体は消耗品です。毎日、毎日消耗していくのです。肉に従って生きている者は、肉体に対する責任をいつも感じさせられるのです。無限に消耗する肉体に対して、無限に蓄積する絶対義務を強制させられるのです。

本能という自然の関係ではなくて、欲望という反自然の気持ちで、それを受け止めさせられるのです。これは人間の魂の願いに即応したものではないのです。

普通の本能なら、魂の願いにマッチするはずです。ところが、欲望となりますと、魂の本願にマッチしない状態で意識されるのです。本望ではなくて欲望が生まれたのです。本望が欲望に化けたのです。

肉体的に生きている者は、肉体という消耗品が無限に憔悴燃焼するために、それに対して無限に補充しなければならないような気持ちが、絶えずその人を追いかけるのです。一度欲望を満足させたら、もっと満足したい、もっと満足したいとなるのです。欲望は満足させればさせるほど、ますます太っていくのです。そこでますます欲望の奴隷になってしまうのです。

人間は肉に従って生きるという条件だけで、欲望を主人公にしてしまっているのです。特にセックスに関する欲望は、とても太刀打ちができないのです。それに服従しているのです。欲望を満足させることが、人間らしくないことを承知していながら、それに引きずられるという弱さを持っているのです。これが地獄へ行く原因になるのです。肉に従って生きるなら、死ぬ他はない。死んだら裁かれるのです。

肉に従って生きるという条件がありますと、その時すでに肉がその人の主人公になっているのです。肉に従って生きているから当然そうなるのです。魂としては、この生き方が間違っているような気がするのです。それに対して、正当に反駁するための論拠を持っていないために、肉に引きずられていくことになるのです。

人間の肉体は消耗品です。それが何のために消耗するかが問題です。肉のために肉を消耗するのか、霊のために肉を消耗するかです。

肉体人間に奉仕すること、現世における人間生活に奉仕することが、人生全体の根本的な目的であると考えているのです。この地球上で人間が生活を営むことが、人間の最高の目的だと考えているのです。

ところが、何のために人間が地球上で生活を営まなければならないのかということについての、目的論を考えようとしない。これがおかしいのです。これが白人文明の大欠点です。

東洋文明では異邦人ではありますが、多少なりとも考えようとしたのです。それが般若心経や阿弥陀経の思想になっているのです。法華経になりますと、多少現世的なことが現われてきますけれど、阿弥陀経とか般若心経になりますと、大乗仏教本来のあり方が、面目躍如として現われているのです。このお経では、現世に生きていることが目的ではないと、はっきり言っているのです。

ところが、日蓮宗はそうは言いません。現世に生きるというセンスが非常に強いのです。日本の宗教改革と言いましても、道元や親鸞と、日蓮とはだいぶ違うのです。

現世に生きることが目的で人間が生まれてきたのではない。もし、それが目的であるのなら、何のために現世に生きているのかということについての明確な思想が、はっきり確立されていないければならないのですが、あらゆる人間の哲学を調べても人間が現世に生きていることの目的について、はっきりとした回答が出されていないのです。

ギリシャ哲学のプラトンのイデアとか、マルクスの自由の王国というのがありますが、そういうことが実現して人間はどうなるのかというと、やはり人間は死んでいくのです。人間が死ぬのであれば、イデヤであっても、自由の王国でも現在と変わらないのです。

人間の唯一の目的は、死を克服することです。死を乗り越えることです。欲望を乗り越え、死を乗り越えることです。

ところが、欲望を乗り越えることはできないし、死を乗り越えることもできない。魂の渇望を癒すことができない状態で、この世を去ることが文明の目的であるとすると、文明ほどばかばかしいものはないのです。

人間が肉に従って生きているということは、自分自身の人生を空振りしてしまっていることになるのです。ところが、人間が生きていることの実体を冷静に考えてみますと、私たちは自分で水や空気を製造できる訳でもありません。太陽光線を自分で造っているのでもない。大自然によって養われているのです。大自然の支配者は神としか考えられないのです。

神なんかあるもんかという人がありますが。大自然が運行しているという事実を神というのです。神があるかないかではなくて、大自然が展開しているという事実があるのです。雨が降ったり、水が流れたり、太陽が輝いている。花が咲き、鳥が飛び、動物が走り、海には魚が泳いでいる。このような事実を神というのです。

神というのが嫌なら、何と言ったらいいのでしょうか。大自然の循環と言いましても、その原理があるはずです。意志法則が働かなければ、循環は起こらないのです。では意志法則とは何かが、また問題になるのです。

神は霊です。人間は肉です。肉と霊とは相闘うに決まっているのです。従って、肉の思いを持つものは、霊なるものに反発したくなるのです。

人間は神に生かされていながら、とことん神に反対したい性格を持っているのです。ところが、肉の思いを持ったままで神を信じると、宗教になるのです。宗教の神というものは、必ず人間を裏切るのです。宗教の神に裏切られたことを、皆知っていますから、神というと何となく眉唾物に考えるのです。

死んだらどうなるか分からない。死んで生き返った人はいないと言いますが、聖書には死を破ったことを堂々と書いているのです。イエスは死んで黄泉のこと、人屋のことを話したのです。また、四十日の間、しばしば弟子の前に現われて、死んだ後のこと、神の国のことを、説明しているのです。

現在の肉の宇宙ではない、全く新しい霊的な宇宙のことを、イエスは説明したのです。これが神の国です。イエス以外の人で、このことを敢行した人は一人もいません。イエスを信じる以外に、死後の消息を知ることは、全くできません。死んだらどうなるかを知りたければ、新約聖書を見る以外に知る方法はないのです。

死んだ後のことは、新約聖書を読めば簡単に分かるのです。聖書は全宇宙の裏と表を的確に、明確に、記しているのでありまして、私たちはこれ以外に信じるものはないのです。

現在生かされているということは、神に生かされているのです。大自然の運行に生かされているのです。だから、人間が現在生かされているということは、このままの状態で、完全無欠です。欲を実行しなければならない理由は、どこにもないのです。

この事実に気がつきさえすれば、肉の思いに追い立てられて、いらいらする必要は全くないのです。

一日の苦労は一人で足れりです。「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自ら思い煩うであろう」と、イエスは言ったのです。これはすばらしい思想です。ついでに言っておきますが、明日という時間がどうしてくるのかです。時間の本質は一体何であるかということです。こういうことがユダヤ人の文明では、全然分かっていないのです。

新約聖書に基づけば、時間がどうして造られたのか、どのように人間の魂とつながっているかが分かるのです。人間が生きている状態を霊的に観察すると、不可解な部分は、すべて明らかになるのです。いらいらすることは毛頭ないのです。

父の恵みが現在与えられていることに、十分気がつかされるのです。今、こうして生かされている現前こそ、神の恵みの実体です。とこしえの命の実物です。とこしえの命の実物を、現在現前という形で経験していながら、なぜ欲望のことを考えるのか。性欲とか食欲に、なぜ振り回されるのかと言いたいのです。

人間は馬鹿です。本当に馬鹿です。現に、とこしえの命の実体が目の前にありながら、それを見極める力がないために、欲望に振り回されて、何十年かの人生を空振りに終わってしまうのです。

自分が現に生かされている客体的事実を見ればいいのです。それを見るために生まれてきたのです。それを見さえすれば、人生の目的は完全に果たされるのです。

まず、自分が生まれてきた目的を果たすのです。これができると、第二の目的が生まれてきます。自分がこの世に生まれてきた目的が果たせますと、神に面会することができるのです。神に生かされていることが、はっきり確認できるのです。現前が神の御名(実体)であることが、十分に分かるのです。これが分かりますと、欲望というのは現前的に人間に与えられる一つの歪曲であったということが分かるのです。現前における神の恵みを、肉性によって歪曲したものが欲望です。

神を信じて、客体的に生かされていることを自覚すれば、欲望の真ん中を正々堂々と歩いていけるのです。ここで初めて欲望をマスターすることができるのです。欲望を克服することができるのです。

現前に生かされている神を喜ぶ、とこしえの命によって今生かされていることを喜ぶのです。神の御名を賛美するのです。これが分かりますと、陰でこそこそと欲望を満足させるということが、どんなにばかばかしいことか、どんなに小さなことが分かるのです。それよりも、現前において神を喜ぶことの方が、もっと大きいからです。この喜びが分からないために、欲望にしてやられるのです。牛耳を取られるのです。

神を賛美することさえできれば、欲望の奴隷になることは毛頭ありません。魂は父によって生かされています。万全の状態で生かされているのです。魂自身はそれを弁え知ることができない状態におかれています。なぜかと言いますと、人間の顕在意識が魂の上にのさばっているからです。

肉体的な条件によって押さえ込まれていますので、霊なる状態が全く分からないのです。そこで、十字架によって肉体的に生きている自分が、死んでいることを確認する方法しかないのです。

肉に従って生きていれば、どうせ死ぬに決まっています。どうせ死ぬのなら、早く死んだ方がいいのです。肉によって生きるのか、霊によって生きるのか、どちらかを選ばなければならないのが人生の追分です。右へ行くか左へ行くか、どうせ決めなければならない別れ道です。

パウロは目が悪かったので、この目を治して下さいと神に言ったのです。ところが、そこに神の恵みがあったのです。「私の恵みはあなたに対して十分である」と、パウロは言われたのです。

人間の側から考えて、神の恵みが不十分だと思えることがあるでしょう。精神的に、また、肉体的に、職業的に家庭的に、神の恵みが不十分だと思える点があるかもしれませんが、それは人間の思いです。

自分の思いを信じることをやめて頂きたい。今の状態で十分だと思うのです。神を信じるというのは、自分の思いを信じないことです。ですから、自分の不平を引っ込めるのです。不満を引っ込めるのです。自分の不平不満を正当化している間は、絶対に幸福にはなれません。

自分自身の現在のあり方が、完全な幸福です。ところが、それを幸福として受け止めようとしないで、自分の思いを信じて勝手に不幸になっているのです。

私の恵みは、あなたに十分であるという神の言い方は、すべての人に対して、完全に適応される原則です。この原則を黙って受け取るのです。自分の不平不満を、棚に上げるのです。持っていたら、暗くなるばかりです。神に恵まれている事実を、魂は知りたいのです。

恋愛でも、ごちそうでも、それを霊なるものとして受け止めるとすばらしいものです。自分に与えられている職業でも、霊なるものとして、それを受け取ることになると、現前的にすばらしさが分かるのです。ところが、職業を神の恵みとして受け取らないことになりますと、基本的人権を主張するのです。すべて神を信じないで、自分の気持ちを信じている所から、不幸が始まるのです。神の思いを信じないで、自分の思いを信じる所から、人間は勝手に不仕合わせになっていくのです。勝手に不仕合わせになっているのです。

魂は肉の思いに妨げられて、神を喜ぶことができないのです。そこで、魂が不平や不満をいだくことになるのです。不平や不満が肉の欲望に化けて現われるのです。

人間の本願が欲望に化けて現われるのです。親鸞は自分自身の性欲と、阿弥陀如来の本願との関係がさっぱり分からなかったのです。同じような気もするが違っている。どう違うのか、神に生かされているという決め手が、親鸞には分からなかったのです。

現前が神の恵みであることが分からなかった。この現実に仏国浄土があることが分からなかった。そこで親鸞は、地獄一定の体であると考えたのです。いかなる行も及び難き身である。どんなに難行苦行をしても、結局地獄へ行かなければならないと考えたのです。

しかし、本願はある。阿弥陀如来によって救われなければならない。阿弥陀如来の国と、今生きている国とは、十万億土の隔たりがあると考えた。親鸞は気の毒でした。本当に気の毒でした。彼には聖書と聖霊がなかったからです。

私たちには聖霊と聖書があるのです。聖書と聖霊に従えば、今ここに、仏国浄土があることが、すぐに分かるのです。自分の思いを捨てて、神の思いを受け取ったらいいのです。そうすると、欲望に勝つことは、悠々とできるのです。

肉の働きを殺すことはできるのです。肉の働きというのは、肉に従って生きているからあるのであって、霊に従って生きることになれば、肉体の働きを殺すことは十分にできるのです。むしろこれが喜びになるのです。神の恵みによって、欲望に勝つことができるという喜びです。これは死に勝つことができる感謝です。欲に勝つものは死に勝ったのです。肉に勝った者は自分に勝った。自分に勝った者はこの世に勝ったのです。「われ世に勝てり」とイエスが言いましたが、イエスと同じように世に勝つことができるのです。

もし魂が神の御霊によって生きることができるなら、神の恵みによって十分満足することができますから、肉の欲望にひっかかって引きずられることはないのです。

神が分からない。父の恵みが分からないために、肉体的な欲望に負けてしまうのです。そこで肉体の働きを克服することができなくなるのです。

実は肉体の働きこそよくよく見ると、父から与えられたすばらしい恵みです。それを欲望として受け止めてしまうから、与えられた恵みがかえってその人のあだになるのです。

実は欲望はないのです。神が人間に与えている恵みが、肉によって見れば、欲望に見えるだけです。神を信じるのです。御霊によって生きるのです。

現に神によって生かされているというこのすばらしい事実に気づくことが、肉欲を克服することの中心命題です。神に生かされているという事実に気がつけば、顕在意識のセンスがひっくりかえってしまうのです。常識のセンスがひっくりかえるのです。

キリストによって父の御心に結びつくことができる。これが自分の顕在意識になるのです。神と共に生きることです。生きていることは、神と対話していることです。このセンスが自分のものになれば、現前に生きていることが、すばらしい恵みであることが直感できるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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