ヘブル人への手紙では、「信仰の実践者にして、また、それを完成した人であるナザレのイエスを見よ」と言っていますが、このナザレのイエスによって、人性がキリストとして完成されたのです。人性がそのままキリストに立ったのです。
だから、イエスがキリストであることを信じる者は、神から生まれたことになる。そうして、第三の天において、彼が神の右に座したもう位に、同じように座すことが許されるのです。これは全くすばらしいことですが、今やそれが信仰によって実現しているのです。
そこで皆様も、イエスがキリストであるという事がらについて、自分の霊(人生)を渡せばいいのです。例えば、イエスが水の上を歩いたということです。あの時のイエスの気持ちを考えてみて下さい。イエスはどんな気持ちでいたのでしょう。
イエスはいつでも自分はベビーであると言っていたのです。ベビーのような気持ちでなければ、水の上をどうして歩けるのでしょうか。彼は水の上を歩いた時に、この水の上は歩けるだろうか、どうだろうかと、少しでも考えたのでしょうか。水をブドウ酒にした時に、石瓶があったので、水で一杯にしなさいと言った。その時、イエスは一体この水がブドウ酒になるだろうかと考えたのでしょうか。
イエスが考えたことは、成るに決まっているのです。考えることもなかったでしょう。自分がキリストであるという位置に立てられている時に、ブドウ酒がなくなったと聞いた。水がブドウ酒になると決まっていると考えた。神がそのような客観条件を与えられているのですから、その客観条件に乗っていきさえすれば、水がブドウ酒になると考えたのです。
また、イエスが弟子たちの前で、水の上を歩かねばならないような気持ちにさせられた。そういう気持ちにさせられたことは、できるに違いないから、そういう気持ちにさせられたと考えたのです。
病人を目の前につれてこられた時に、その病人を見て治ると確信した。だから、寝ている病人を治したのですが、イエスは何もしていない。父が共にいまして、父がしているのです。父が御業を行っていると言っているのです。
皆様もそのようにしたらいいのです。イエスが「風よ静まれ、波よおさまれ」と言った時、果たしてそうなるだろうかと考えたかどうかです。疑いの気持ちを持っていたら、風は静まらなかったでしょう。
イエスは何も考えなかった。父が共にいますということだけを考えたのです。自分の目が見えること、心臓が動いていることが、父である。父が共にいますということだけを、信じていた。皆様もそう信じられないのでしょうか。
イエスのように信じられないのでしょうか。心臓が動いていることが、父が共にいますしるしであることを、スムースに信じられないのでしょうか。
イエスは少しも考えなかった。自分で何かしなければならないことは、考えなかったのです。皆様が考えずにいられないのは、どういう訳でしょうか。性格がそうさせているのです。人間的性格がそうさせているのです。
そういうものに、なぜいちいちつき合わなければならないのでしょうか。性格に相談したら、そんなことはできるはずがないと言うに違いないのです。唯物史観の原理から考えてもできないでしょう。唯物史観とイエスと何の関係があるかと言いたいのです。どうして人間の考えることに、いちいち気をつかわなければならないのでしょうか。なぜ世間並の考えに遠慮しなければならないのでしょうか。こういうことをやめて頂きたいのです。
モーセが紅海の波を裂いた時に、モーセはどう考えたのでしょうか。ヨシュアがヨルダンの濁流の中へ三種の神器を担いで入っていったのです。神の三種の神器の前に、濁流は妨害することはできないと考えたのです。
私たちの使命の前に、イスラエル回復という神の御心の前には、何者も妨げるものはないのです。ただ自分の性格だけが妨げるのです。
ユダヤ伝道の妨害になるのは、皆様の個人的な気持ちだけです。これだけが邪魔になるのです。モーセやヨシュアのように黙って水の中に入っていったらいいのです。入っていけば、ヨルダンの流れが止まるのです。紅海の波が、真二つに裂かれるのです。
「我は全能の神なり、わが前に歩みて全かれ」。これをすればいいのです。何でもない。ただ神を信じたらいいのです。神を信じて、御霊の助けを確信すれば、必ず成就します。神が共にいますのは、決まっていることです。神が共にいなければできないことを、神がやれとおっしゃっているのです。
モーセがエジプトからイスラエルの民をひっぱりだした時にも、私がおまえと一緒に行くからやれと言ったのです。
エジプトからカナンの地に、イスラエルをひっぱり出すために、神はあれほどのことをしたのです。今度、私たちがしようということは、陸続きのエジプトからカナンの地とは違います。
私たちはイスラエルを、全く世界が違う所へ連れていくのです。肉の世界から、霊の世界へイスラエルをひっぱりこむのです。これはモーセでさえもできなかったことです。
イエスは、「私の後に来る者は、私よりも大きいことをするであろう」と言っているのは、こういうことです。皆様は誠に光栄なる仕事、もし皆様がやる気持ちがあるなら、イエスがしたよりも大きいことをさせられるでしょう。この光栄なる仕事を、皆様は請け負っているのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)