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  • 管理人chaya

神に生きる


人間は聖書の言葉を勉強して、思想的には理解できますが、生活的に理解できません。生活的に神がこなせないのです。これが問題です。

生活的に神がこなせないことになりますと、いくら思想的に神を理解したとしても、結局それは宗教の段階に留まらざるを得ないことになるのです。

私たちが神から命じられている所は、イエスのように自分自身の存在それ自体が、神から遣わされたものであるという認識を持つことです。

イエスは遣わした人の御心をなすことが、私の務めであると言っています。

イエスは神を生きたのです。神に生きた人です。このイエスが神に生きた。または、神を生きたように、私たちも生きるのでなかったら、御霊を受ける者という特色を発揮することはできないのです。

何のために御霊を受けるのかと言えば、第一に神の御心を正しく弁えること、第二に御霊に従って歩むことです。

霊に従って歩むことになりますと、必然的に神を生きることになるのです。そうでなかったら、御霊を受けたという意味がないのです。

神に娶られた、神と婚約したことが、霊的に神に生きることが実現した状態であって、人間の魂が神の御霊を受けることによって、魂そのものが変質するはずの事がらです。普通の人間ではなくなるという意味です。

パウロは、私はあなたがたを一人の夫にいいなずけをしたと言いました。いいなずけをしたというのは、色々なニュアンスがありますが、例えば、コリントやガテテヤの集会の人たちに対して、全員に言えることです。御霊を受けていても、受けていなくても、一応十字架の福音をパウロによって伝えられた人たちは、まずいいなずけをされたと言える資格が与えられたと言えるのです。

御霊を受けるということになりますと、いいなずけをされたというよりも、もう一歩前進した形になるのです。

ガラテヤ教会の人には、あなたがたはすでに神を知っている、いや神に知られていると言っています。ガラテヤ教会の人たちに対して、パウロは、あなたがたは御霊を受けたのだと言っています。御霊を受けたのは掟の行いによるのか、あるいは信仰によるのか、どちらかと詰問をしているのです。

そのように、ガラテヤ教会の人は、パウロから見て、御霊を受けた状態にあったのです。そこで、あなたがたは神に知られているのだと言っているのです。これはただのいいなずけとは違います。神に知られているのですから、もっと前進しているのです。

ガラテヤ教会の人たちは、いわゆるいいなずけという段階ではなくて、もう一歩進んだ、神に知られた段階であると言っています。

パウロはガラテヤ教会の人たちに対しては、「おまえたちは御霊によりて生きているのだから、御霊によりて歩め」と命令しています。

聖書の話を聞いて理解はできるけれど、なかなか前進しない。なぜ前進しないのか。これは簡単です。御霊によりて歩まないからです。もっとはっきり言いますと、御霊によりて歩むととはどうすることか分からないからです。御霊を受けた人なら、本当は分かるはずです。

大体女の人が男の人に知られますと、男のために生きるとか、主人のために生きるとかいうのが上等の方です。しかし、聖書的に言いますと、これではまだだめです。男のために生きる。主人のために生きるのではだめです。主人に生きるのです。男に生きるのです。これが本当の女の生き方です。男に生きるのであって、男のために生きるのが女ではないのです。

知られたということは、そのためのできごとを意味するのです。一つになったのだから、一つとして生きるのです。主人のためにとか、愛する男性のためにとなりますと、対立関係を意味しているのです。対称性を意味しているのです。人間と神が対立しているように、対称性を意味しているのです。対称性ではなくて、非対称性として生きるのです。そうすると男女同権とかということを言う必要がなくなるのです。一つになっているのです。

女であってもキリストに会えば、キリストとしての人格を呑んでしまうのですから、呑まれてしまうのですから、一つになっているのです。信仰というのはこれを意味しているのです。神に義とされるというのは、こういう信仰です。

ローマ人への手紙の第四章五節には、「不信人の者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである」とあります。九節には、「アブラハムはその信仰が義と認められた」とあります。アブラハムという人間が義とされたのではないのです。また、神を信じる人間が義とされると書いていないのです。なぜか。肉体人間は原則的には幻です。神が幻を義とするはずはありません。

色即是空の原理から考えても、肉体的に生きている人間が義とされることは、ありえないことです。義とされるというのは、信仰が義とされるのです。

アブラハムが義とされたのではなくて、彼の信仰が義とされたのです。そこで、皆様方も皆様という人間が義とされると考えたら、間違ってしまうのです。問題は信仰です。

信仰が義とされたら、魂は救われるのです。魂が救われたら、それでいいのです。魂というのは、一つの状態をさすのです。人間は先天性の理性を植えられた。先天性の人間が肉体性に生きている状態、神が生きているという、神のリビングの状態が、肉体的な形のリビングとして現われるのを魂というのです。

魂という言葉そのものが、一つの霊です。ことがらです。これが救われたらいいのです。魂が救われるというのは、ことがらが救われるのであって、肉体が救われるのではない。肉体というのは、リビングに付属しているものでありますから、霊魂が救われれば、肉体は自ら完成されることになるのです。

人間は地球の魂のようなものです。地球というのは、人間が住むべき場であって、地球は大きい意味での人間のボディです。

大体人間は、一人しかいないのです。一人の人間が地球というボディを持っていると考えたらいいのです。これがキリストです。地球を小さくしたものが、一人の人間としてボディを持っているのです。

そこでキリストが完成されると、地球が完成されるのです。人間の魂が義とされると、ボディが完成されるのです。これは当たり前です。生きている生きざまが義とされるのです。

神を信じているのなら、その信じている状態が素直に、率直に、生きざまに現われるはずです。生きざまに現われないようなものは、神を信じているとは言えないのです。

これは行いではありません。生きざまです。マナーです。生きざまというのはマナーの問題です。

女性が男性に生きるように、人性が神性に生きることができさえすれば、いわゆる生きざまになるのです。人性は神性に生きるべきです。神を信じる人間が、神を信じて生きるのではありません。神のために生きるのではありません。神に生きるのです。男性のために生きるのではありません。男性に生きるのです。男性に生きるのは、恋女房でなかったらできないのです。恋愛状態の精神でなかったら、できないのです。神に生きるということは、恋愛的信仰状態でなかったらだめなのです。

夫婦というのは、全く完全に一つであって、奥さんがご主人のあばら骨になっていなければ、神的に見て、霊的に見て、夫婦であるとは言えないのです。これはコリント人への第一の手紙の第七章のパウロの見解によっても分かりますが、夫婦は一霊一体でなければいけないのです。

私たちが神を信じる以上は、神を生きるのでなければいけないのです。神のために生きるのではないのです。神を生きるのです。これができれば、皆様が生きている状態において、神に生きているということがハートによく分かるのです。

神に生きることができている人は、自分自身がとこしえの命に生きているという実感が、はっきりあるのです。人に教えてもらわなくても、また、自分の精神状態がいいか悪いかを考えなくても、神に生きているという実感がはっきりあるのです。

神に生きている人は、一切の経験、一切の記憶、一切の判断、一切の権利、一切の自分の思惑を問題にしていません。こういう生き方をして頂きたいのです。

その信仰でなければ、その信仰を義と認められるという訳にはいかないのです。信仰が義と認められるのであって、人間が義と認められるのではありません。

問題はマナーです。生きざまです。生きている気持ちです。これがそのまま神に義と認められるかどうかが問題です。

世間の人から見れば、神のために生きるということさえも、大変なことです。ましてや、御霊によりて歩むとか、神に生きるとなると、人間のレベルから考えると、全く気違いざたでしょう。

景色とは一体何でしょうか。極めて素朴な感覚で景色を眺めるのです。山の姿、木々のたたずまい、川の流れ、岩の趣は、自ずから宇宙の命が表現されているのです。

木々のたたずまいや川の流れを、命が流れているものと見ないとして、一体何があると言ったらいいのでしょうか。景色を通して、私たちに迫ってくるものがありますが、それは命のいぶきが私たちに迫ってくるものと理解しないで、どのように理解したらいいのでしょうか。

例えば、寒い冬の晴れた日に、そびえ立つ秀峰富士を見て頂きたい。見ているものは、人間が生きている常識の世界とは違うものを見ているのです。なぜ富士の絵を書きたくなるのでしょうか。なぜ峡谷の景色を見て書きたくなるのでしょうか。景色をなぜ描写したくなるのでしょうか。それを見てなぜ詠嘆するのでしょうか。

景色を詠嘆する人間の心は、自分の中にある命の崇高さが外に現われているのです。自分の中にある命の気高さが、富士の高嶺として現われているのです。それを見る時に、詠嘆せざるを得ないのです。横山大観は富士の絵ばかりを書いていました。自分の中にある命が、富士というすばらしい形で現われていたからです。

大宇宙の命の流れが、谷川となり、雲の流れとなり、夕陽となり、富士となって現われている。太陽が沈んでいく景色を眺めていると、本当にすばらしいと思えるのです。命の塊が沈んでいく光景を見ていると、無限の喜びと同時に、無限の哀愁を感ぜざる得ないのです。これは自分の中にある命が、外の命に対して詠嘆しているのです。

神が魂をこの地球上に出したのは、地球そのものを覆っている大自然の現象を見せるためだったのです。

荘厳というのを、禅宗ではしょうごんと言います。「信は荘厳より」という言葉が禅宗にあります。荘厳というのは現象世界のことです。聖書的に言うなら、この現象世界は神の荘厳です。

現象世界には神の荘厳さが堂々と現われているのです。神の荘厳さとは何かと言いますと、命の流れの荘厳さです。命の流れの厳粛さが、神の荘厳として現われているのです。

荘厳というのは、山の姿や雲の流れ、夕陽の姿、また、カボチャの格好やリンゴの格好にも現われているのです。バナナはバナナなりに、レタスはレタスなりに、荘厳が現われているのです。

味が荘厳です。色が荘厳です。それぞれが持っている栄養価値が、また荘厳です。人間の五官が味わっているもの、触っているもの、匂っているもの、食べているもの皆、五官が接触しているものは、皆神の荘厳です。

人間はいつでも神の荘厳に面接しているのです。神の荘厳につき合っているのです。人間の五官がこの世に出てきたということは、現象的に現われている神の荘厳の世界を味わうためなのです。

何のためか、それによって神を信じるためです。「信は荘厳より」という禅の言葉は、聖書的にもすばらしい言葉に翻訳して受け止めることができるのです。こういう考え方が最も素朴な自然観賞のしかたです。最も正確な自然観賞の論理です。芸術の源はここから出てきているのです。

私たちはそういう機能を持って、この地上に出てきたのです。ですから、神に生きるということを、もう少し真面目に考えて頂きたいのです。真面目に五官を用いて、考えて頂きたいのです。

五官の用い方をどうしたらいいのか。立居振る舞いをどうしたらいいのかを、考えて頂きたい。何も戦々恐々になる必要はありません。パウロは「恐れおののいて、おのが救いを全うせよ」と言いました。しかし、パウロがいう恐れおののくというのは、戦々恐々として、びくびくして暮らせというのではない。恐れおののくというのは、わがまま気ままにならないようにという意味です。自分のわがまま気ままで生きないように、神に生きるように心得なさいという意味です。

私はそういう意味に解釈しています。それは信仰とは大胆であるという言い方を考えて、そのように理解できるのです。皆様の手が動くのも、足が動くのも、呼吸機能が働くのも、消化機能が働き、排泄機能が働くのも、皆様の生理機能、心理機能の一つひとつが、皆様と共にいる神の業です。このことをはっきり認識すればいいのです。

人間は誰に生かされているのか。生きていることは何をしていることなのかということを正しく弁えて、自分の気持ちで生きないで、神を信じて生きたらいいのです。ただこれだけのことをしたらいいのです。

神に生きるとはこうすることなのです。これは決して不可能なことではありません。例えば、自分の財産を捨てても、仮に自分の命を捨てるほどの信仰があっても、神に生きることができなければ、何にもならないのです。

聖書の内容がよく分からなくても、神に生きることさえできれば、それで十分です。聖書の理屈がいくら分かっても、神に生きなければ、信仰にはならないのです。聖書の理屈が分からなくても、生理機能や心理機能が神と共にいるのだということさえ分かって、そのように神を恐れて生きるなら、自らその人の信仰は、義とされる信仰になるでしょう。これだけのことをしたらいいのです。

曹洞宗の寺では、寺の内部で飾り付けをします。金襴の横幕を張ったり、隅取りをした机を置いたり、金ピカの三宝を並べたり、大きな台を本尊の前に置いたりします。これらを荘厳道具と言います。

「信は荘厳より」と言うのは、寺の構えが立派である所から信仰が発生すると考えるからです。寺で荘厳道具を飾り立てることによって、信者の人々に威圧感を与えて、仏の尊厳に頭を下げさせようと考えているのです。今の有名なお寺はその程度のことしか考えていないようです。

本当は荘厳というのは、胎蔵世界を意味するのです。また、自然現象の世界を意味するのです。そういう意味に用いるのが正しいのです。

私たちは、私たち自身の肉体構造の荘厳さ、例えば、生理機能と心理機能の微妙な働きとか、肺臓と心臓のすばらしい調和とか言うようなこと、赤血球が酸素を乗せて、毛細血管の先端に到るまで配っているというすばらしい人体構造が、そのまま命の流れの荘厳さを遺憾なく現わしているのです。肉体構造の荘厳さが、そのまま天地自然の荘厳さになって外に現われているのです。

地球が存在するということも、自分の体が存在するということも、同じなのです。そういう意味において、自分自身の生理現象を通して、または、天地の物理現象を通して、我々は信仰の基礎を学ぶべきです。

川の流れ方、雲の動き方、行雲流水のあり方が、そのまま私たちが神を信じる信じ方の状態を、模範的に示しているのです。私たちの生き方が、そのまま目の前にあるのです。神を生きるとはどのようにしたらいいのか。それは川が流れるように生きたらいいのです。木が生えている姿、石が置かれている姿が、超然として大自然のあり方に従って存在している状態を示しているのです。

「人間の心身は木石のごとくあるべし」というように、木石のあり方が、私たちの生き方を示しているのです。

明日のことを思い煩わずに、明後日のことを心配せずに、今日という日の現前を感謝して、霊においても身においても、神に栄光を帰して生きていたらいいのです。少々上手、下手があるでしょう。それをいちいち神はとがめませんから、下手でもいいですから、身においても霊においても、神に栄光を帰するということを忘れずに、神の栄光を賛美しながら生きたらいいのです。

あれがなければいけないとか、これがなければいけないとか、自分の生活はこうでなければならないとかを、いちいち考える必要はないのです。成るように成るのです。神を信じて成るように成ればいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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