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  • 管理人chaya

罪の下に閉じ込められた人間


イザヤ書に次のように書いています。

「主は言われた。あなたは行ってこの民にこう言いなさい。あなたがたは繰り返し聞くがよい。しかし、悟ってはならない。あなたがたは繰り返し見るがよい。しかし、分かってはならない。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」(同6・9、10)。

イザヤは言っています。「あなたがたは繰り返し見るがいい。しかし、分かってはならない」。つまり、自分が見ているものをそのまま認めてはならないということです。

繰り返し聞くがよい。しかし、悟ってはならない。今自分が聞いている人間どうしの言葉、あるいは波の音でも、雷の音でも、聞いている音をそのまま本物だと思い込んではならないと言っているのです。

繰り返し見るのはいい。例えば六十年間この世にいる人は、毎日毎日見ているのです。見ているのですが、見たという働きをそのまま信じてはいけないと言っているのです。ところが、人間は見るという目の働きをそのまま信じているのです。これを肉の思いというのです。

目の働きには二種類あるのです。肉的な面と、霊的な面と、二つの働きがあるのです。肉的な面というのは、現われている現象をそのまま見て、それを信じているのです。例えば、これを第一次の働きとしますと、第一次の働きは肉の働きであり、肉の働きを肉の思いで受け止めることが、人間の第一次感性です。第一次感性は肉の感性そのものです。肉のセンスそのものです。これが間違っているのです。

神は「繰り返し見るがいい、しかし、分かってはならない」と言っています。それなら何のために神は人間に目を与えたのか、五官を何のために与えたのか。分かってはならない、悟ってはならないというものを、なぜ神が人間に与えたのか。

これが、神がすべての人を罪の内に閉じ込めたと、新約聖書に書かれていることです。イエスでさえも、罪の僕と比しき形において、この地上に遣わされたのです。イエスのようなお方でさえも、神の一人子でさえも、罪の僕の形をとらされたということは、罪の下に閉じ込められた人間と同じ条件に置かれたことを意味しているのです。

皆様が今感じている肉の思いの意識を、イエスはそのまま持たされて、この地上に出てきたのです。これが人間です。このことを異邦人は知らないのです。何となく知ってはいますが、信じてはいないのです。すべての人間が無明であること、無明煩悩の内に妄念によって生活していることを、皆知っています。無明煩悩とか妄念という言葉を使わなくても、人間がすることは完全なことはないと、皆思っています。

人間は無明煩悩に振り回されて、勝手に苦しんでいるのです。罪の下に閉じ込められていながら、一人前の人間のように考えている。罪の下に閉じ込められているということを知っているのにそう考えるのです。

何となく知ってはいるが、それを信じてはいないのです。肉体的に生きている人間のばかばかしさを、お互いによく知っています。知っていながらそれを信じてはいないのです。二言目には、私は神さんではないから、そんなことは知らないと言うでしょう。これは人間自身がバカであることを認めている言葉です。認めていながら、信じてはいないのです。

実は、人間の目がその通りになっているのです。人間の目は、神の霊なることを認めてはいるのです。神の霊なることを見てはいるのです。英語でいうシー(see)という見方をしているのです。しかし、ビホールド(behold)という見方もあるのです。シーとビホールドとは違うのです。この間違いをしているのです。

イザヤ書で言っている、繰り返し見るというのは、肉眼で見ることなのです。ところが、肉眼で見ることと、霊眼で見ることとは違うのです。霊眼というのは、特別難しいものかというと、難しくないのです。自分の肉の思いを押しのけさえすればいいのです。肉の思いにこだわらないで、霊の思いで落ち着いてじっと見れば分かるのです。よく見るのです。シーでなくてビホールドするのです。じっと見つめるのです。そうすると分かるのです。

芭蕉は、「よく見ればなずな花咲く垣根かな」という句を詠んでいますが、なずなというのは全くの雑草で小さいものです。よく見なければ分からないのです。垣根の下の方に生えている小さいぺんぺん草に、白い花が咲いているのです。良く見れば分かるのですが、ちょっと垣根を見ただけでは分からないのです。垣根は見えるが、なずなの花は見えないのです。そこでよく見れば分かるのです。つらつら見るとか、よくよく見るとか、目を注ぐとか色々な言い方を新約聖書はしています。いわゆるビホールドという見方です。これを皆様はしなければ、絶対に魂の命は分かりません。

皆様は肉体の命があると思っているでしょう。これが間違っているのです。肉体的な命があるから生きていると思っているでしょう。それが間違っているのです。ここの所を良く考えて頂きたいのです。

皆様方は肉体的に生きていることを生きていると思っているのです。肉体的にという言葉をつけないでも、ただ生きているのです。肉体的という言葉をつけてもつけなくても、ただ生きてると思っています。これが死んでいることを意味するのです。

繰り返し見るが良い。しかし、分かってはならないのです。生きているのはいい。毎日生きているのはいい。しかし、生きていると思ってはならないと言っているのです。人間が正しい意味において生きているか、生きていないかということは、宇宙の命につながっているかいないかによって決まるのです。

肉の思いは死です。その証拠に生きていながら命が分からないし、また、自分自身の生活について確固たる目標を持っていません。目的を持っていないのです。

世間並の気持ちでセックスを見ている者は、人生の本当の楽しさ、嬉しさを全く理解することができないのです。もはやその人は人間ではなくなりつつあるのです。肉体的な感覚でさえも、もはや動物的になりかかっているのです。これが現代のスポイルされた状態です。

なぜそのようになったかと言いますと、罪の教育がそういう人間を造ってしまったのです。罪悪主義、肉体主義の学校教育が、そういう人を造ったのです。教育が人間をこのようにスポイルしてしまったのです。セックスの荒廃は、教育の荒廃から発生しているのです。今や学校の教師は教育の荒廃を嘆いているのです。

今の学校教育を、一度に改める方法があるのです。これは簡単なことです。学校の教師や教会の牧師は、本来聖職であるべきです。清い職業であるべきです。清い職業というのは、本質的に名誉職であるべきです。宗教家と学校教師は聖職ですから、規定された給料を出さないことを決めればいいのです。そうすれば、一度に教育は是正されるのです。

こういうことはすでに最澄が言っています。「餌食に道心なし。道心に餌食あり」です。この原理を摘要すれば、日本の教育は一遍に是正されるのです。道心を取り戻そうと思えば、餌食を叩き潰せばいいのです。

来るべき絶対平和の時代、即ち千年王国では、聖書の指導者でも教育の指導者でも、すべて名誉職になるのです。これが理想的な状態です。国防の問題でも、病気の問題でも、犯罪の問題でも、法律の問題でも、政治、経済の問題でも、すべてこのような原理によって行えば、神の栄光が現われるのです。

肉体人間はないのです。そんなものは存在していない。生かされているという事がらがあるのです。生かされているという事がらが、肉体的に感受できるのです。生かされているということが、肉体的には感受できますが、肉体があるのではない。その証拠に、人間の肉体は大自然の一部です。

大自然のパートが肉体として現われているだけです。肉体という固体、固物が存在するのではないのです。空気なしに、水なしに、太陽がなくして肉体がありうるのでしょうか。人間の肉体は、空気や水、太陽からはえて出ているのです。これによって鼻から息ができるのです。鼻から息をしていることによって、私たちは生かされているのです。

人間は鼻から息をしているという現象があるだけです。肉体があるのではなくて、生理現象があるのです。そういう感覚で人間の五官を用いるなら、霊に従いて歩むことは何でもないことです。

自分の目の使い方、耳の使い方に注意しなければならない。それによって感受する、感覚の受けとめ方に注意しなければならないのです。

一つ一つの事がらにおいて、霊的に生きるのです。イエスは甦った後に、四十日の間、しばしば弟子たちの前に現われて、神の国のことを語ったとあります。このことだけでも、現在の物理世界の中に、神の国という復活の物理次元があることが、証明されているのです。

イエスは今の物理的な世界へ復活の栄光体を持って現われたのです。ということは、私たちは今の物理世界に生きていながら、復活次元の栄光を捉えることができるという事です。現世に生きているままの状態で、イエスが甦った事がらを十分に受け取ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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