聖書に肉という言葉があります。肉とは何か。肉というのは、物質的な現象が仮存状態で存在しているのを、人間が実体として認識している。これが肉です。物質的存在が、実在するもののように捉えている認識が肉です。そのような人間の名づけ方が肉です。
人間は物理現象が物体となって現われているその状態を、固定的な感覚で捉えて、物があると思っているのです。物は実は存在していない。存在していないのにあるように見える。聖書はこれを肉と呼んでいるのです。物とか肉ということが本当にあるのかと言いますと、あるのではない。物理現象があるだけです。物理現象とは物理運動のことです。運動が現象となり、現象が物として捉えられる。これが肉です。
従って、肉というものがあるべき道理がないのです。自然科学の理屈で言っても、この程度のことは分かるのです。イエスはあるべき道理がないものを、あると考えるはずがないのです。学者は、物は存在しないという理屈を並べながら、実は物は存在するという意識で生活しています。これは人間の意識が分裂しているから、そう考えるのです。物がないという理論を展開していながら、物があるという意識で生活している。理論的演繹と、生活の実感とが、全く分裂しているのです。これが今日の学者の思考方式です。
イエスにはこのような分裂はなかったのです。なぜかと言いますと、信仰によって生きていたからです。信仰という言葉の内容を説明しますと、理論性と意識性が一つになることです。
皆様は理論性と意識性が、ばらばらになっているのです。現在の皆様は学者であって、学者が持っている分裂症状が、皆様に現われているのです。
人間は物象世界が存在すると考えています。これは存在というべきものではなくて、現われと言うべきものです。現象と言うべきものです。存在ではなくて、現象です。現われた象です。現われているということは、存在していることとは違います。
現われてはいるが存在していない。そこで、聖書は物という言葉を使わないで、肉という言葉を使っているのです。肉というのは、新陳代謝の過程を示している言葉です。これが肉という語法になって現われているのです。
「言が肉となった」(ヨハネによる福音書1・14)とあります。これはどういうことかと言いますと、妙なことに言は肉とならなかったということになるのです。聖書が言っている肉というのは、新陳代謝の過程です。プロセスです。プロセスというのは、流れていることを意味しているのです。プロセスの原理は何かというと、神の口から出ていくプロシードワードです。プロシードワードがプロセスを意味するのです。プロシードワードが現象体となっているのを人間が捉えて、肉と呼んでいるのです。存在するのは肉ではなくて、プロセスです。プロセスがあるだけです。
「言は肉体となった」という訳がありますが、その事実はないのです。イエスは肉体で生きていたけれども、肉の思いは持っていなかった。従って、肉体で生きているということが、彼自身の命になっていなかったのです。命になるということは、思いがそのまま命になるという意味です。肉の思いを持って生きている者は、肉の命に生きていることになるのです。イエスは肉体で生きていたけれども、肉の思いに生きていたのではないのです。霊の思いに生きていたのです。従って、彼の命は霊の命だったのです。
皆様の思いが、そのまま命になるのです。思いが命になるのですから、今まで肉体で生まれて今日まで生きていたという思いを持っている間は、皆様方の命はやっぱり肉の命です。死ぬべき命そのものです。そういう死ぬべき命を持っている人、肉体で生きているという気持ちを持っていながら、十字架を信じようとしても、信じられるものではありません。肉体を持っていることを認めながら、私は死んだと思っている人は、全く精神分裂です。
肉体で生きていると思っていながら、利害得失、喜怒哀楽という感情、欲望に自分の生活を任せていながら、自分は十字架によって死んでいると考えている。そういう欲が深いことを考えてもだめです。そのように思うことが偽善者であり、御霊をバカにしているのです。神を侮っているのです。
キリスト教の教えは、根本的に神と神の御霊をバカにしているのです。その教義はユダヤ人から流れ出ているのです。キリスト教とユダヤ人は正反対のように思えますが、実は同じ所から流れているのです。キリスト教を叩くということは、同時にユダヤ人を叩くことになるのです。
神がイエスをこの地上に遣わされたというのは、彼をメシアとするためです。メシアとするということは、油注がれた者とするという意味です。油注がれるとは何かと言いますと、天使の長にされるという意味です。御子は生ける神の御子であると同時に、天使の長とされるために、地上に遣わされたのです。天使の長となる人は、肉にありて肉を治める者でなければならないのです。肉の外にいて肉を治めることができたとしても、天使長にはなれません。
天使を動かすため、天使を治めるためには、自ら天使の中に入らなければならないことになるのです。これがアウフヘーベンの原理です。アウフヘーベンの原理というのは、その事がらの中から発生して、その事がらを克服することです。揚棄というのは、例えば白があったとします。白に関係がない黒がやってきた。そうして白が黒に、おまえは間違っていると言っても、これはアウフヘーベンにはならないのです。白というテーゼがあって、白というテーゼの中から必然的にアンチテーゼが発生することが、本当のアンチテーゼです。白の中から白でないものが出なければ、弁証法的原理にはなりません。
肉の中から出てきて、肉を克服する者、肉を否定する者が油注がれる者です。メシアとは、油注がれる者という意味です。イエスがメシアとされたということは、肉体的に生まれてはきたが、肉体に従って生きてはいなかった。これがイエスがキリストであることの明白なしるしであったのです。
イエスは肉体を持っていたけれど、イエスの認識は水と血によって生きていたのです。肉体的に来たということは、水によりて来たことです。水だけでなく、血を兼ねて来たのです。ヨハネはこれを見たのです。同時に、自分自身がイエスと同じように水によって来た者であり、水と血を兼ねて来た者であることが分かったのです。
イエスを信じる者、神の子を信じる者には、水と血と御霊の三つの証が与えられているのです。これは神の証です。この証を持たない者は、御子を持たない者だと言っているのです。これは鮮やかな言い方です。
パウロは別の言い方をしています。「自分の死ぬべき肉体の中に、キリストの霊が宿っているなら、死ぬべき肉体が消えてしまう。死は勝に呑まれてしまう」と言っているのです(コリント人への手紙15・50〜56)。
たちまち、瞬く間に化せられる、いわゆる携挙のことを言っています。そうして、肉体を持っている自分が第三の天へ行ったのか、肉体を抜け出して行ったのか分からない。肉体はあると思えばある。ないと言えばない。自由に肉の思いの外に出られるという経験を、ヨハネはしていたのです。イエスと同じ感覚を、ヨハネ、パウロ、ペテロは持っていたのです。これがイエスを信じる人たちの当然あるべき状態です。
肉体的に生きているのが自分だと思っている人は、聖書の勉強をしても意味がないのです。そういう人はキリストと何の係わりもないからです。イエスがキリストであることと、何の係わりもないのです。
私を信じる人は、私と同じことをするであろうとイエスは言っています。私たちは肉にありながら、肉を支配することができなければいけないのです。肉にならなければ、肉を支配することができない。肉になったということは、肉に従って生きるためではなくて、肉を従わせるために、肉体を与えられたのです。これがナザレのイエスの肉に対する意識です。
イエスは肉によって来たのに、肉に生きていなかった。この世に現われたけれども、やはり彼は以前として天にいた。以前在天です。これが私たちの日常生活の意識にならなければいけないのです。神が人間を造った目的はここにあるのです。万物を支配するため、すべての肉を支配するために、人間を造ったと創世期に記されているのです。
私たちは万物を支配するために、肉においてこの地上に生かされているのです。万物を支配するとはどうすることか。揚棄することです。アウフヘーベンするのです。形としては肉に生きていますが、意識的には肉に従って生きないで、霊に従って生きるのです。そうすると、肉に生きるという形を持ちながら、肉をアウフヘーベンすることができるようになる。これがイエスの生活態度でした。
肉というのは存在するのではなくて、過程として私たちに意識されているだけなのです。これが肉です。従って、私たち自身の意識の持ちようによって、私たちが存在させられている状態が変化する可能性が、当然あるのです。
自分の思い方次第によって、私たちが現在存在させられているその条件を、どんどん変えていくのです。神の与件を変更していくのです。これが信仰の目的です。また、人間創造の目的です。
肉にありて肉を従わせること、これが肉を揚棄することです。肉を揚棄するということは、神の第一創造(現在の万物創造)の目的を完遂することになるのです。
神の第一創造というのは、目に見える形の創造です。目に見える形の創造は、目に見えない創造への前提です。第一創造は、第二創造への前提です。第二創造は、現在の地球が消滅した後にできる新天新地の創造です。第一創造は、新しき創造への前提でした。第一創造に与った者は、その事がらの故由を弁えて、第二創造へのきっかけをつかまえなければならないのです。第二創造こそ、とこしえの命そのものですから、第二創造へのきっかけを掴みそこなった者は、地獄へ行くしかないのです。
イエスを信じて、イエスが生きていた時の気持ちが十分理解できて、当たり前です。イエスの気持ちが理解できないのは、イエスを信じていないからです。
ヨハネは、「もろもろの人を照らす誠の光があって、世に来た」と言っています(ヨハネによる福音書1・9)。もろもろの人は、すべてイエスと本質的に同じ内容を持っているのです。そこで、もろもろの人を照らす誠の光となって、イエスが現われたのです。もろもろの人とイエスが違ったものであるとすれば、イエスはもろもろの人を照らすことができるはずがないのです。照らすこともできないし、照らされても分かるはずもないのです。
ところが、もろもろの人を照らす誠の光があって、この世に現われたということは、照らされるべきもろもろの魂は、イエスと同じ性質を持ったものです。だから、キリストが汝を照らすという言葉があるように、キリストの光によって私たちが照らされると、私たちの本体が自ずから明らかになるのです。そうして、自分はイエスと同じものであることを、自覚することができる。これを救いというのです。
光に照らされたものは、皆光になるのです(エペソ人への手紙5・13、13)。元々光になるだけの可能性を持っていたのです。人の魂はすべて神の御子です。ですから、一人子の光によって照らされると、御子である本性が目を覚ますのです。一人子なる御子と同じ意識に立つことができる。意識と理念が一つになるのです。考えていること、理解していること、意識していることが一つになる。そういう信仰状態になることができるのです。
そのために神はイエスを与えただけではなくて、彼の肉体を十字架につけて、肉というものはこういうものだということを形に見せて、私たちに教えて下さったのです。これがゴルゴタの十字架です。父なる神は肉なるものを、このように処分した。処分すべきものであるという神の絶対的な御心を、ゴルゴタの十字架ではっきり示されたのです。
肉なるものはこのように処置されるべきものだということが、十字架につけられたままなるイエス・キリストということです。神は十字架につけられたままなるイエス・キリストを私たちにお示しになった。そうして、肉を処置してしまった。もはや肉なるものは生きていない。キリストの肉が殺されたことによって、すべての肉は殺されたということが、明白に十字架で示されたのです。
これを信じる者は、肉から抜け出した者として認定されるのです。肉が殺されたことを認定するのでなかったら、十字架を信じたことにはならないのです。肉が殺されたことを自覚する者、認定する者は、キリストと共に十字架につけられて、もはや罪はないというように神に認めて頂くことになる。これが十字架の贖いということです。もう一度述べておきますが、大体この地上に肉が存在するはずがないのです。この宇宙に肉が存在しなければならない理由はないのです。
ところが、肉を真実だと考える逆性が発生したので、神はやむを得ず肉を発生させたのです。淵の表にある思想が発生したので、淵のような意識を具体化した形で、この世に現わされなければならなかったのです。肉とは淵のことです。淵とは肉です。肉の思いは淵の思いです。そういうものが発生したから、キリストが肉となって地上に下らなければならなかったのです。肉とならなければ、肉を従わせることができなかったからです。
神が神の御子によって、完全に揚棄する。逆性そのものをはっきり滅ぼして、逆性を無視して、逆性は実体ではないという事実を、イエス・キリストを通して証明されたのです。
何回も言いますけれど、皆様は肉体的に生きてはいますけれど、肉に従って生きてはいけないのです。霊に従って生きることです。これは自分自身の肉を揚棄しながら生きることになるのです。自分の肉をアフウヘーベンしながら生きることになるのです。
さらに、十字架を信じることによって、自分自身がアフウヘーベンされてしまうのです。固有名詞の存在である自分という人格が、アウフヘーベンされてしまうのです。ただ肉が揚棄されるだけではありません。自分が揚棄されるのです。自分という意識存在が揚棄されるのです。自分をアウフヘーベンしてしまうのです。そうして自分ではないものになる。このことを新に生まれるというのです。この世に生まれてきた自分ではないものになってしまう。これが十字架の一大特徴です。
ただ肉が消えるだけではありません。霊的にも自分ではないものになってしまうのです。自分の業にも、先祖代々のカルマにも、関係がないものになってしまう。原罪にも関係がないものになってしまうのです。自分自身の記憶とか、経験とかいうものに関係がないものになってしまうのです。別の人間になってしまうのです。これが光に照らされた者が、光になるということです。
イエスに照らされた者は、イエスになると言ってもいいのです。イエスは「私を信じる者は、私と同じことをするだろう」と言っています。そこで皆様は、万物を支配する実力を神から与えられなければならないのです。これはイスラエル伝道するための切り札になるでしょう。
神は異邦人の中から、皆様のような人を起こして、全く驚天動地の大事業をさせようとしているのです。つまりメシア王国をこの地上に現わすのです。
イスラエル伝道をきっかけにして、キリストの王国をこの地上に現わすのです。千年王国を実現させ、神の御心を成就させようというお考えですから、皆様はいつまでも自分の人生に馴染んでいてはいけないのです。名残惜しいでしょうが、いいかげんにやめて頂きたいのです。
十字架と復活によって、揚棄されたという事実が、歴史的に現わされたのです。今私たちが生きているこの世界は、全く変わったものになっているのです。
言が肉となったということは、イエス個人だけのことではない。人間全体もそうですし、万物全体もそうです。万物と万人を治めるためには、万物や万人を代表するという形で、一人の人格が肉体的に現われなければならないのです。これが油注がれた者です。
ナザレのイエスがそれでした。ナザレのイエスは万人を代表した人格です。彼はすべての人に誠の光を与えただけでなく、万物の存在原理を示して、神の御名を示したのです。そして、万物を本来あるべき所に返してしまった。いわゆる草木国土悉皆成仏させて、万物に所を与えたのです。これがメシア王国であって、そのためにキリストがメシアとして地上に送られたのです。
十字架と復活において、この事実が実現したのです。このような事実が実現したことを、新約聖書では第三の天と言っているのです。今や第三の天において、イエス・キリストは神の右に座している。万物が完成したので、神は彼を甚だしく崇めて、彼の功績を認めて、彼を自らの右に座せしめたもうた。このような事実が現われたことを、第三の天というのです。
今、イエス・キリストを信じる者は、彼が座っている場と同じ所に座らせられているのです。だから、私たちの信仰と私たちの祈りは絶対です。この祈り、この信仰は驚くべき神の力と知恵に支えられているのです。全知全能の神が私たちの祈りを支えている。私たちの信仰の味方をしているのであって、すべてのことが働いて益となるという事実は、私たちを通して如実に示されているのです。
今までも私たちは導かれてきましたが、これからも神ご自身の御心を成就するために、神は私たちに対する援助を惜しみたまわれないのです。
十字架は滅びるに決まっている者、死ぬに決まっている者から見ると愚かなものですが、救われた私たちは、神の力です。何者にも変えがたい絶対者の力が、十字架になって私たちに与えられているのです。
第一創造から、すでに第二創造は始まっているのです。これからそうなるのではなくて、そうなってしまっているのです。イエスの復活、神の救いは具体的事実となって現われているのです。神はこのような明々白々な歴史的事実を保障として、万人に悔い改めを命じておられるのです。
「悔い改めて福音を信ぜよ」。このことをどうしてもイスラエルに伝えなければならないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)