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信仰


聖書に次のように述べています。

「この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒行伝4・12)。

イエスの御名の他に、より頼んで救わるべきものはない。ペテロはこれを言いたいのです。また、他の箇所で次のように述べています。

「そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである」(同3・16)。

イエスの名がそれを信じる信仰のために、病気をいやしたと言っているのです。イエスの名がいやしたと言うのです。その前に、生まれながらの足のきかない男に向って、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(同3・6)と言うと、その人の足とくるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出したとあるのです。

イエスの名によって歩むことを実行しますと、イエスの名がいやしとして働き始めるのです。ペテロが病人をいやしたのではない。また、極端な言い方をしますと、足なえがいやされたのでもないのです。足なえがいやされるということは、今日の生理医学で考えますと、非常に不自然なことです。なぜなら、この人は生まれながらの足なえです。生まれながらの足なえというのは、機能的に足そのものがだめになっているのです。膝も立てるような状態ではないし、骨も筋肉も弱いのです。関節そのものがだめになっているのです。

ことに、生まれつきの足なえだったとすると、骨も筋肉もだめになっているのです。生まれながらの足なえですから、当然そうなっているのです。その人がにわかに立ち上がって歩き出した。しかも立ち上がって踊りだしたのです。歩みながら踊ることができたというのは、機能的には全く不可能なことです。ありうることではないのです。これがありえたというのは、足なえがいやされたのではなくて、ナザレのイエスの御名が、そういう形で踊り出したのです。

万軍のエホバの御名が、万物として現われて踊っているように、例えば万軍のエホバの御名が月になって現われ、花になって現われているように、ナザレのイエスの御名が足なえの男になって踊っているのです。

御名が踊っているそのお添えものに、この足なえはついでにいやされたのでしょうけれど、足なえがいやされたというよりも、御名の栄光がそこに現われたと言うべきなのです。これを皆様もご自分で実験して頂いたらいいのです。自分が清められるとか、自分の霊的状態が引き上げられるとか、自分に預言の力が与えられるとかを考えたらいけないのです。

神は皆様を選んだのではないのです。皆様をナザレのイエスとして選んだのです。皆様を選んだという神の御心を、受けとめられる人間として選んだのです。神の御心を受けとめられる程の余裕を持ったニュアンスを理解する人間として、選ばれたのです。

従って皆様個人個人が預言者になるのではないのです。皆様自身からすれば、人間の側からすれば、つまりこちらの岸で見れば、自分が用いられることになります。しかし般若波羅密多、向こう岸へ渡って見れば、自分が用いられるのでは決してないのです。

神がイエスの御名だけを用いるその神の用い方を理解することができる魂として、皆様は神に選ばれたのです。神はイエスだけを人間として見ています。御名によってのみ栄光を現わそうとしている。その神のやり方を理解することができる魂として選ばれたのです。

従って皆様が用いられることはないのです。もし用いられたとすれば、イエスの他に誰かを用いたことになるのです。私たちを救いうる名は、イエスの他に天下の誰にも与えられていないのです。イエスの他に誰かの名前が立てられてはいけないのです。ナザレのイエスの御名だけが輝くべきです。従って皆様が偉大な指導者になる必要はないのです。

神はイエスの他の者を人間として認めていないのです。イエスだけに栄光を帰して、御名においてだけ神が栄光を現わしたものということだけを皆様が承知すればいいのです。そうすると皆様方自身がイエスの名に変ってしまうのです。皆様の名が消えてしまうのです。

人の前で人の子を受け入れる者は、人の子もまた、天の位の前でその人を受け入れるとあるのです。これはレベルが低い話ですが、そういうことになるのです。人の子を受け入れるというのは何か。私がイエス・キリストを信じている。私はイエス・キリストを受け入れていますと証をするのは、まだ初歩の段階です。

本当の預言者は、人間自身の存在においてキリストを告白するのです。自分自身の存在が、人の子になってしまうのです。霊を渡してしまうのです。自分という人間が生きていないということを、はっきり認めるのです。このことを神は皆様にさせようとしているのです。これ以外に救われる道はないのです。これ以外に死に勝つ方法はないのです。

生まれながらの足なえが踊って歌った。歌いながら踊った。これは奇妙な光景だと思います。本来歩けない者が歩いている。宇宙の法則をイエスが破ったのです。神の右の御名は、大自然の法則をどんどん破るのです。

不可能を可能にするのが、神の右の御名です。足なえの男は歩いてはならない人だったのですが、踊り歩いたのです。この時の光景は、神殿中の人々が震撼したでしょう。奇妙な状態だったでしょう。イエスの御名によりて、父なる神の栄光が現われたのです。不可能なことが可能に変化したのです。

不可能なことを可能にする御名が、皆様自身の命であることを感じて頂きたいのです。これを皆様の生活で実感して頂きたいのです。これはできるのです。

固有名詞の自分が消えてしまって、人の子を自分自身の存在において受けとるのです。これがすばらしいのです。実は天地創造というものがそれです。今の天地が現われている姿は誠に幻です。このような幻がこのように実体的に現われたのはなぜなのか。

インカネーション(受肉)という不思議な言葉がありまして、例えば小さい犬の子が大きい犬になったというのではないのです。毛虫が大きい蝶になったのとは違うのです。インカネーションというのはある一つのものが、成長したり発展したりするのとは違うのです。インカーネーションとは言(ことば)が肉となったのであって、肉となるはずがないものが肉となったのです。

だいたい神のロゴス(言)が肉となるということは、あるはずがないのです。これは毛虫が蝶になるということではないのです。小さなもの、例えば一で評価できるものが、百で評価できるものになったのとは違うのです。言が肉となるということは、あるはずがないことなのです。すべてのものは言によって造られた。造られたというよりも成ったのです。造られたのでも、成長したのでもないのです。

森羅万象は造られたものではないのです。言が成っているのです。言が成ったということがインカーネーション(incarnation)ということであって、これは、もちろん製造ではない、創造でもないのです。一つの画時代的な変化の現われなのです。

画時代的な変化とは何かというと、一つの世が現われたのです。ゼネレーションが現われたのです。一つの時代、一つの歴史、一つの現象期が現われたのです。物が造られたのではなくて、ゼネレーションが現われた。これが創世です。物が造られたのではなくて、世が現われたのです。現象の世が現われたのです。これがインカーネーションの奥義です。

この奥義の要点は何かと言いますと、これが約束です。インカーネーションとは何かと言いますと、あるべきはずのないものが、あるようになったのです。あるべからざるものが、あるという状態になったのです。いわゆるなきものが、あるもののように呼ばれたのです。これがインカーネーションです。

森羅万象は元来、あるべきはずがないものです。万物存在の原理であるインカーネーションという言葉は約束です。約束ということの意味が、イスラエルに全く分からないのです。森羅万象があることは、あるべき道理がないものがあるのであってこれが霊の約束ということです。これが森羅万象として現われているのです。

御霊を受けるということは何を受けるのか。聖霊に満たされるとは何に満たされるのか。聖霊に満たされるということは、天使の上に立つことです。万物は天使の現われです。約束は天使です。霊が約束であり、約束が霊です。本当に約束を信じるなら、聖霊を信じるのと同じなのです。

聖霊は心理機能に対して神の言を明らかにする働きを言います。御霊というのは、物理現象、生理現象の実体を司る神の超能力を言います。神の超能力が御霊であり、超知識は聖霊です。この両者が一つになって、御霊に満たされることによって、必然的に神ご自身の御心を弁え知ることができるのです。

聖書に次のような記事があります。

「翌日、彼らがベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹をおぼえられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからご覧になって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉の他は何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからである。そこで、イエスはその木に向って、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いた。朝はやく道を通っておられると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た」(マルコによる福音書11・12~14、20)。

イエスの名は神の位をも支配するのです。例えばイエスが現世において、三月にいちじくの実があると考えた。晩春にいちじくの実がなるはずがないのです。ところがイエスはお腹がすいたので、道端のいちじくに実があると考えた。どうしてそう考えたのか。いちじくに実がないに決まっている時期に、イエスのお腹がすいたのです。さしあたり食べるパンもないし、また、何かを食べるべき家もなかったのでしょう。お腹がすいたという事実において、いちじくの実がなければならないと考えたのです。

この信仰が必要です。新しい世界を造るためには、この信仰が必要です。信じられないことを信じよと言っているのです。イエスは三月にいちじくの実があると考えたのです。なぜそう思ったのか。生ける神の子キリストであるなら、万物の支配者であって、空の鳥、海の魚、全地を治める権能をキリストが持っている。イエス・キリストがいちじくの実があると考えたら、いちじくは実を結ばなければならない理由があるのです。

キリストがそう考えたのです。キリストというのは万物を支配する大天使です。天使の長です。宇宙全体を自分の思いによってひっかき回すことができるような、大天使です。神の御心を自分の心として上で、天地万物を思うようにする大天使です。三月のいちじくの木に実があると考えた。これはすばらしい信仰です。

私は天下のユダヤ人と喧嘩しようと考えています。これは三月のいちじくの実を求めるよりも、もっと大胆な考えです。私はできると信じているのです。これは厚かましいという言葉では言えないほど、超自然の信仰です。神はそういう信仰を私に与えているのです。

神が天使万物を造ったのは、まず神の栄光を現わすためです。そして神の栄光として現われた万物を、神の御心に従って治めなければならない。これを神は求めているのです。

人間はこの目的のために造られたのです。万物を治めることが人間創造の目的であって、この目的を果たすためにナザレのイエスが現われたのです。ナザレのイエスは人間が造られた目的を完璧に現わしたのです。私たちがイエスを信じなければ、人間が造られた目的を自分自身に実現することができないのです。従って無用の長物として扱われて、地獄の刑罰の対象になるだけです。

人間が造られたということは、イエスと同じものになるためであって、もし彼の名を信じないとすれば、私たちがこの世で人間ずらをして生きていたことが全部反逆になるのです。人間ずらをしてこの世に生きている者は、全部ナザレのイエスの御名を信じなければならないという鉄則があるのです。これは宇宙の鉄則です。この鉄則を破る者は、この世で衣食住の生活を傲然としておくってはいけないのです。傲然として生きるならナザレのイエスを信じなければならないのです。

もし神の子であるという自覚を持たずに牛肉のステーキを食べれば、神の名を汚していることになるのですから、この責任を絶対に取らされます。

イエスが銀貨を必要とした時に、弟子が釣った魚から銀貨が出てきたという記事が聖書にあります。これは銀貨を呑みこんでいる魚が泳いでいたのではなくて、イエスが銀貨を必要と考えた時に、魚が銀貨を呑み込んだのです。恐らく誰かが以前に銀貨を水の中に落としたのでしょう。それを魚が突然呑みこんだのです。神の処置によって呑まざるをえなかったのでしょう。その魚を弟子が釣りあげたのです。

これと同じことがアブラハムにも言えるのです。アブラハムがイサクを捧げよと神に言われた時に、アブラハムは考えたのです。相手は全能の神である。このお方が言われたのです。本来、生まれるはずのない子供が生まれて、十四、五年たったのです。この子供を殺したら復活するに決まっていると思ったのです。神がこの子を復活させたら、もっといい子供になると考えたのです。

この乱暴な考え方をご覧なさい。子供が復活するに決まっていると考えたこの乱暴な考えです。これは厚かましいこととは違います。乱暴な考えです。だからアブラハムは喜びいさんで子供を捧げようとしたのです。

これを見て困ったのは神です。神はアブラハムがそこまで無茶な信仰を持つとは思わなかったのです。アブラハムの信仰を試みたのであるけれど、そこまで勝手な解釈を全能者に押しつけるとは思わなかったのです。アブラハムのわがままな解釈を押しつけて、イサクを甦らせると考えた。

ところが神の方では、神自身の御心において甦らせるとすれば、約束の子を甦らせるとすれば、キリストをもって発穂としなければならないのです。甦りの発穂はキリストでなければならないのです。イサクはキリストではないのです。従って甦らせることはできないのです。そこで神は弱ったのです。

信仰とはそういう無鉄砲なものです。皆様が考えている世間並のことをしているのなら信仰にはならないのです。やってはならないことをしなければならないのです。信仰とは神が全能者であることを信じて、神の御心を行うために、御心を経験するためにあえて行うのです。神に聞かれると考えて行うのです。アブラハムはそう考え続けたのです。そうして予定通りイサクを殺そうとしたので、神が止めたのです。そこであわてて神は羊をひっぱってきて網にかけることになったのです。

アブラハムの信仰、ナザレのイエスの信仰が、人間としては当たり前です。何も特別に偉いことはないのです。皆様の理性をご覧下さい。それは神のロゴスです。神のロゴスを理性として、魂として、五官として持っていながら、目で見て、耳で聞いて、口で食べていながら、イエスと同じ信仰が持てなかったら、神を冒瀆しているのです。もっと神を信じて頂きたい。自分の常識を信じてはいけないのです。

私たちがイスラエルに伝道するのではない。イエスの御名が私たちに化けてするのです。神がなさるのです。私たちは空っぽになったらいいのです。

現在の森羅万象はどんな気持ちでいるのか、万物の気持ちです。天使の気持ちです。天使たちがどんな気持ちでいるのか。造られたすべてのものが、どういう気持ちでいるかです。

天使の長が十字架によって廃嫡(はいちゃく)されたのです。天使長ルシファーが完全に廃嫡されたのです。そして天使長の位が新しく創造されたのです。新しい天使長の位を信じる者は、天使長と同じ信仰によらなければならないのです。

イエスを信じるというのは、自分の五官を信じることです。私たちは今愛の世界に生きている。愛の世界で愛を経験しているのです。これがイエスの信仰につながってくるのです。天地創造ということにまで、つながってくるのです。

私たちは現在愛の世界に生きているのです。だから、汝ら互いに相愛せよという神の言葉を実行しなければならないように、神に仕向けられているのです。これを実行すると宇宙がどうなるのかということです。私たちが本当に相愛することを実行すれば、この宇宙に偉大な変化が起きるのです。だから自分の感情とか、利害得失を一切捨てて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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