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  • 管理人chaya

本当の恋


女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。

エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。

見るにうるわしく、食べるによい木を造ったり、鳥を飛ばしたり、花を咲かせたり、川の流れを見せたり、魚を泳がせたり、蝉をなかせたりしているのです。これは神が人間に対して津々たる興味を示しているのです。男性としての興味を示しているのです。

ところが人間はそれに対して不感症でした。

神はアダムの無神経さに対して、鈍感に対して、朝日のすばらしさ、夕日のすばらしさを見せているのに、喜びもしない、感動もしない、きょとんとしていたのです。全く不感症の女性みたいなものです。

こんなものは、死んだ方がいいと考えたけれど、鼻から息をふきこんで造ったから、殺す訳にもいかないのです。

そこで、人が一人でいるのはよろしくないと考えたのです。女と一緒に住まわせておけば、少しは私が人間と一緒にいることが分かってくれるだろうと神は考えたのです。

神は男性の愛情を女性である人間にいつでも見せようとしているのです。花が咲いている状態、形があり色があり、香りがある。これを神が見せているのです。これによって神の津々たる愛情が分かるのです。

神が人間を愛しているという愛が私たちに迫っているのです。いつでも空気は動いている。心臓は動いている。食べたり飲んだりしたら消化されていく。

座っても立っても、生きている実感があるのです。この生きている実感というのが、微に入り、細にわたって、神が女性である人間にアピールしているのです。これが愛の告白です。神が迫っているのです。

そこで女性である人間は、神という男性に対して、この愛の告白にふさわしい態度を見せなければならないのです。これが絶えず祈るということです。

暑くても寒くても、暑いときの涼しさ、寒いときの暖かさを、神は必ず感じさせているのです。服装とか、家、家具とか、人間の営みそのものを通して、愛を感ぜしめているに決まっているのです。

女性と一緒に部屋にいる感覚を神に対して持つのです。私たちが女性の位置に立つのです。男も女も両方共、女性の位置に立って、私たちを生かしている神に対する感謝の気持ちを表示するのです。これが常に喜ぶことなのです。

生かされているということは重大な喜びです。それをいつも感じていると、また喜びがつもってくるのです。

ただぽかんとして生きている人は、マイナスのストレスがつもっていくのです。喜びがつもっていく人は、感謝と賛美がつもっていくのです。これがこの世を去ってから大変な違いになるのです。マイナスとプラスの差が大きいのです。

この世を去ると、時間も空間もない世界へ行くのです。神と差し向かいになるのです。現世に生きていた時に、神に感謝と喜びを持っていた者と、何とも感じなかった者、神が神であることを全然問題にしなかった者と、甚大な差ができるのです。これは大変な違いになるのです。

生きているうちに、敏感な生活をしなければならないのです。生きているうちに神をもっと喜んで生活するのです。これができるかできないかを試験するために、私たちを生かしているのです。

すべての生活のオールマナーにおいて、聖であれと言っているのです。オールマナーが清いこと、驚きであれと言っているのです。そうしたら神に愛されている。神を愛しているという喜びがいつでも伝わってくるのです。

生きているその事がらを通して、神と愛の交換をしているのです。恋人と一緒に、同じ部屋に座っているという感覚です。この感覚を持ち続けるのです。これが私たちが生きていたことのしるしになるのです。

生きている間、喜びを感じながら生きるのです。暗くなっている人は、喜びを感じない。ただストレスだけを感じているのです。

仕事をしていれば仕事をしていることが感謝であり、賛美であるはずです。仕事をしていない人はそれがまた感謝であり、賛美です。何をしていても、ただ虚しく時間を過ごすということがあってはいけないのです。

そうすると生きているという気持ちが違ってくるのです。いつでも暖かい、明るい気持ちを、持ち続けられるのです。

自分の思いを絶対に信じないようにしていただきたいのです。自分の思いを信じると暗くなって固定してしまうからです。

いつでも、絶えず喜び、絶えず祈れという原則をくずしてはいけないのです。生きていることは生かされていることです。生かされていることは愛されていることです。

愛されているし、生かされているのです。神はただ生かしているのではないのです。神はそれは神経の細い人ですから、人間を無駄に生かしておくことはしません。愛しているから生かしているのです。人は愛されているから生かされているのです。

生かされていることは、そのまま愛されていることです。目が見えるということ、耳が聞こえることが、神に愛されていることです。これが神の愛情の表現形式になっているのです。これくらいの敏感な人間になって頂きたいのです。

この世に森羅万象と一緒に生きている間、ありありと神と愛の差し向かいをしているのです。

時間と空間があるということは、興味津々たるものです。次から次へと喜びが湧いてくるのです。これは恋としか言いようがないことです。信仰は恋としか言いようがないものです。

神が人間に恋をするのを許しているのは、女性としての人間が、男性としての神に対する感覚をせいぜい持つようにという配慮からなのです。異性どうしの触れ合いが生きているという事です。

ザ・リビング(the living)ということは異性との触れ合いです。人性と神性との触れ合いです。これが本当のセックスです。人性と神性の雛形が、男性と女性になっているのです。本物は神と人間との関係です。

こういう感覚を持つのです。霊魂が生きるということは神を愛するということです。霊魂が生きるか死ぬかは、神を愛しているかどうかで決まるのです。

人間の霊魂というのは、神以外のものを何も求めていないのです。自分の霊魂に聞いてみて下さい。霊魂が求めているのは、神だけです。神はどこに、どうしているのか。実は味が神です。形も神です。香りも神です。風の涼しさも神です。毎日人間が接触しているのは、良かれ悪しかれ、神ばかりです。神を感じていることが生かされているということです。

ザ・リビングという状態である間、生ける霊魂であるという状態である間は、いつでも恋の連続でなければいけないのです。こういう感覚が信仰です。

だから本当に神を信じて生きることほど、楽しいことはないのです。

人間が生きていることは、そのまま恋愛していることです。だからぽかんとしていたらいけないのです。神は人に対して、瞬間も愛の刺激を怠ったことはないのです。神はそれだけ人間を愛しているのです。愛し続けているのです。これが分かると初めて、神は愛なりということが分かってくるのです。

そのような興味津々たる神の愛が、論理的に聖書になって現われているのです。神の愛の告白に人間がどのように反応するかを神がじっと見ているのです。

皆様の現在の人生は、テストケースです。今皆様が生きているのは、試為です。本番ではない。テストです。

仕為とも言います。何かにつかえているのです。仕えているか、つかまつっているか、何か仕事をしているのです。これが魂であって、私たちは現在、仕為の世界に生きているのです。本番ではないのです。

おいしい、美しい、楽しいとは何か。おいしいという「しい」を今経験しているのです。人間が舌で味わっているのは、本当の味ではないのです。本当の味は新天新地に行ってから分かるのです。

本当の味は何か。新天新地へ行くと、そこですばらしい味が経験できるのです。

現世に生きている世界は試為の世界です。愛するのはいとおしいという試為です。これは愛の本物とは違うのです。

肉体的に生きている間に試為を経験するのです。おいしい、楽しい、うれしい、悲しい、すばらしい、憎らしい、恨めしいという「しい」です。現世の苦しさとは違います。

憎らしい、恨めしい、悲しいというのは、生きている間に肉というもの、悪魔がどのように人間に迫っているかを、経験しているのです。

現世で、憎らしい、恨めしい、悲しいと思っていると、死んでからそれが実体になるのです。これが困るのです。楽しい、喜ばしいという気持ちを現世で積んでいると、現世を去ってからそれが実体になるのです。

今私たちは「しい」の生活を送っているのであって、本番とは違うのです。この世を去ってから、私たちがこの世でどういう「しい」を経験したかを問われるのです。

魂のたまとは御霊(みたま)のたまです。御霊の働きが個々の人間に分散するから、みたまのみが隠れて、たまだけになったのです。たまが「しい」を経験しているのです。これが魂です。

生きていることを玉の緒と言います。今生きている人生は、すべて「しい」ばかりです。本番、本物は一つもないのです。「しい」の世界で生きていることの中でどれくらい神を喜んで過ごすことができるかを神が見ているのです。少々喜べなくても、常に喜んで生きるのです。

常に喜べとは、命令形になっています。喜べと自分に命じる感覚を持つのです。こういうことが信仰であって、どうしたらいいかと考えることは違うのです。喜ぶことです。

人間の思索方式はいらないのです。あれはどうか、これはどうかと考えることは、一切いらないのです。考えるなと言っているのです。心を騒がすなということは、考えるなと言うことです。非常に単純に今生まれた嬰子のような気持ちで一切文句を言わず、今生まれた気持ちで、何でも喜んだらいいのです。喜べないものは何もありません。

神が人間に与えているものは、何でも喜べることばかりです。喜べないものは一つもありません。

人間が現世に生きているのは、その人の人格を通して、試験しているのです。人の人格は神の人格の投影です。神の人格がそのまま人間の人格に映っているのです。

私たちは生まれる前に神と一緒にいたのです。特に男の場合は、ちりとして神と一緒にいたのです。ちりとして一緒にいたから、神の人格が人間に映っているのです。長い間神と一緒にいたのです。長い間神の前にいたのです。

神の前にいたから、神の人格がそのまま映ってしまったのです。これが人間の人格です。

人間はどこにもいない。神の人格の投影があるだけです。だからいつでも神を喜んでいたらいいのです。現世においては、すぐに神におめにかかることはできませんから、離れている恋愛みたいなものです。目の前にいる人との恋愛よりも、離れている恋愛の方がずっといいのです。

これがキリストと人間の霊魂の関係です。人間の霊魂というのは、キリストの妻になるための霊魂です。キリストは人間の霊魂の夫になるための霊魂です。

キリストの再臨というのは、キリストを恋い慕うものに現われるのです。ですから、もっともっと生きていることを微細に点検して、何でも喜ぶ材料をつかまえたらいいのです。

何か喜ぶ材料があるに決まっています。喜ぶ材料を見つけて喜んだらいいのです。

これは楽天主義と言われるかもしれませんが、神を相手に喜ぶ楽天主義というのは、ただの妄想ではありません。

神を喜ぶ喜び方というのは、人間の一番高尚な、一番深い、一番間違いのない喜びです。神を相手に喜んでいるのですから、絶対に失望はありません。

私が神の前にいるとはっきり確認しているだけで、いいのです。空気があること、時間が流れていることが神です。

神の前にいるといちいち言わなくても、生きているという感覚が神を確認している感覚です。

しかし生きていることが神だという気持ちを大ざっぱに持っていたのでは、だめになるのです。大ざっぱに持たないで、生きているということ、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、道路があること、家があること、木がはえていること、これが神なのだ、神という事実なのだというように、はっきり意識するのです。

現実が神だということを感覚する、意識するのです。これを確認するのです。そうすると、生きているということが、嬉しく楽しくなってくるのです。これを信仰というのであって信仰ということほどけっこうなものはありません。

生きている神に対して、生きている信仰を持つのです。恋愛感情そのままを私たちの生活の基礎にしてしまうのです。

これをしていると有難いことばかりになります。有難くなくても有難いと思ったらいいのです。そうすると有難くなるのです。

人間が感じているおいしい、嬉しい、楽しい、悲しいというのは本物ではありません。命の本物は神の御霊です。これが人間に与えられている。これが魂です。神の御霊自らが、人間という格好で、試為しているのです。

人格とはこういうものです。人格は神と恋愛関係に入るためのハートです。だから信仰することを重荷のように絶対に感じてはいけないのです。自分の気持ちを捨てたらいいのです。分からないと思ったら、分からないという気持ちを捨てたらいいのです。難しいと思ったら難しいという試為を捨てたらいいのです。難しい試為であって、本当の難しさとは違うのです。

現世は本物ではないのです。だから苦しい楽しいということは本物ではないと考えていいのです。そうしたら、神に対する恋愛感情の不感症から脱却できるのです。神の愛を愛の感覚として受けとめられる感覚を持つことができるのです。

これが神に対する完全です。わが前に歩みて全かれというのはこのことです。神が神であることを認識すれば、それで完全になっている。信仰はそういう簡単なものです。少しも難しいことはありません。自分で自分を裁いたらだめです。神の前にいることだけを確認したらいいのです。必要なのはこれだけです。神の前に生きているということを忘れなければいいのです。

そういう状態で現世に生きている間に十分に神を喜ぶのです。楽しむのです。感謝するのです。神をほめるのです。いつもこれをするのです。これがこの世を去ってから物を言うのです。

苦しい、悲しいのと、楽しい、嬉しいのと、どっちがいいのかは考えたら分かるのです。楽しい、嬉しい、喜ばしい経験をしたらしただけその人の財産になるのです。

イエスが主ですから、自分が聖書が分からなくてもかまわないのです。分からなければ分からないままでいいのです。イエスが主だからです。イエスが全部行ってくれたからです。すべてを行ってくれた人が、あなたがたは私にきなさいと言われたから、イエスに行ったらいいのです。

あなたがたは私の愛にいなさいと言うのですから、自分を自分として認めることをやめて、自分をイエスとして認めたらいいのです。理性的に、良心的に生きている状態をイエスとして認めたらいいのです。

自分が分からなくてもいいのです。分かったらなおけっこうですけれど、分からなくてもいいのです。分かったら人に教えてあげたらいい。分からなかったら人に教えなくてもいいのです。

私たちはイエスを信じているのです。イエスが主ですから、自分の信仰がいいか悪いかを、問題にする必要がないのです。自分の信仰の責任を持たなければならないようでは、イエスが主とは言えないのです。

イスラエルの回復を祈っている私たちのような霊魂は、世界中どこにもありません。神は良く分かっています。私たちは神の御名とイエスの御名とが教えられている。そうしてイスラエルの回復を祈っているのです。この有難さを考えると、イエスが主であるだけで十分です。

「誰か天に上がろうと考えるな」と聖書にあります(ローマ人への手紙10・6、7)。天の実状をこの目で見てくる程、聖書をピンからキリまで分かろうとしてはいけないというのです。

聖書のすみからすみまで分かるほど理解しようと思わなくてもいいのです。天に上って神の御座の前を見てきたら、神はこんな格好で、天はこんな格好であると分かるでしょう。

また、地獄へ下ろうと考える必要もない。良き行いができて、人から批判されないように、立派な家庭生活ができていなければならないというものでもない。掟が十分に行えなければいけないとか、聖書が全部分からなければいけないとかを考えようとしてはいけない。即ち天に上がろうとしてはいけないのです。

イエスが主であると毎日言うのです。イエスは既に死を破って復活しているのですから、なぜ死ななければならないと思うのでしょうか。

イエスはすでに福音を全うして約束を完結して天に行っているのです。イエスは復活して第三の天において神の右に座しているのです。

私たちは神の御心を弁える時間があったら、また、教えをうけたら、できるだけ神の御心を理解して神をほめたたえればいいのです。神の喜びが分かりますから、聖書をできるだけ知ったほうがいいのですが、知らなければならないのとは違うのです。

もう既に救いは全うされているのです。だからまず神を賛美することです。神を喜ぶことです。これをするのです。それから聖書の勉強をしたらいいのです。神が分かるだけ分かったらいいのです。

イエスが復活したことによって、肉の世界は消えているのです。ところが人間には肉の世界があるように見えます。なぜあるように見えるのでしょうか。

イエスが復活した事によって、神の方では肉の世界はもう消えてしまっています。それがあるように見えているのはなぜなのかということは、知った方がいいのです。

知らなくても皆様はもう救われているのです。知った方がいいには違いありません。このことをイスラエルに証しなければならないからです。

イスラエル以外の人々にも、私たちはなぜ神を信じているのか。なぜ聖書を勉強しているのか。イエスが主であるとはどういうことかということを、できるだけ述べ伝えた方がいいのです。

神は千年王国に入れる人間をチェックしているのです。ユダヤ人は入れます。ユダヤ人以外にも王国に入れる人間をチェックしているのです。そのためには、せいぜい多くの人に聖書のすばらしさ、イエス・キリストが死を破ったということのすばらしさを話してあげる必要があります。それを信じることができた人間は、王国へ入る資格が与えられるのです。

これを人々にどんどん話してあげる必要があります。しかしこれをしたから救われるものとは違います。私たちは救われてしまっているから話してあげるのです。

まず基本的には、常に喜ぶことをしなければならないのです。常に喜んでだけいればいいのかいうと、それではいけないのです。

常に喜ぶことだけをしていると、子供の信仰になってしまうのです。

パウロは、「知識において大人となれ」と言っているのです。「霊においては幼児になれ」とイエスは言っています。この両方がいるのです。

異邦人というのは、全く神を知りません。私たちは自分一人が喜んでいるだけではいけないのです。神がイスラエルに約束を与えたのに、ユダヤ人はそれを拒否した。そのために福音とか救いを異邦人が受けることになったのです。このことを教えなければならないのです。

時間が流れています。時間が流れていることは、瞬間瞬間に新しい時間を経験していることです。新しい時を経験しているということは、今、今ということを経験しているのです。

どこまで経験したらいいのか。一人の人としては、八十年か九十年の間経験したらいいのです。ところが人類全体としては、時の流れというものを、どこまで経験したらいいのか。これには終点がなければならないのです。

どこまで経験すれば、何がでてくるのかということです。その終点を見通していなければいけないのです。これが約束なのです。

未来が現在になって現われてくる。明日が今日になってやってくるのです。そうすると、最後に明日がなくなる時がくるのです。その時地球はどうなるかということです。こういうことを異邦人に教えてあげなければならないのです。

私たちは、ユダヤ人以上に新約の選民です。新約時代において御霊を受けた特別の者は、新約の選民です。

私たちは目で花を見ますが、ただ見ているだけではいけないのです。花を見て何を感じたのかです。これが本当のセックスです。人性と神性のセックスが本当のセックスです。人間どうしのセックスは人性と人性のセックスで、皆肉になっているのです。

人間どうしのセックスでも、それを人間どうしのセックスと考えるか、また、人間と神とのセックスと考えるかで全然違ってくるのです。本当の恋愛か、肉の恋愛かは、これで分かるのです。

「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」とイエスが言っています(マタイによる福音書5・28)。それでは欲望を抱かずに女を見るとはどうしたらいいかです。これは世界中の神父さんも牧師さんも分からないのです。

本当の男が本当の女を見ると、セックスではないのです。欲望を抱いて女を見ていないのです。愛の熱望を抱いて女を見ているのです。これは非常に熱いのです。あつあつです。しかし欲望的なあつあつとは全然違うのです。

女を見てそれがそのまま命にならなかったらだめです。内の光になるかどうかです。霊魂のランクで女に惚れるのです。聖書が本当に分からないとだめです。男はこれができるかどうかで、運命が決まるのです。

欲望を抱いて女を見る者は、彼女と共に姦淫したと言っています。見られている女性は、大いに迷惑です。男に惚れられるだけで地獄に行くのですから、こんな迷惑なことはないです。

本当に魂に責任が持てる人間になるのです。例えばイエスはマグダラのマリアをどのように見ていたかです。こういうことはキリスト教では絶対に禁句です。

私は小便するイエスを説いていますが、肉体を持ったままのナザレのイエスを、肉体を持ったままの私が説明しているのです。

ナザレのイエスというユダヤ人の青年が、マグダラのマリアという美人をどのように見ていたかです。ここまで分かると聖書が開かれたと言えるのです。

イエスの女性の見方は、アダムがエバを見た骨の骨という見方をしているのです。アダムは女を見て、「これぞ、ついに、私の骨の骨」と言っています。そうしてついでに「肉の肉」と言っています(創世記2・23)。アダムは直感的に両方見たのでしょう。しかし、アダムにはまだ分かっていないのです。

イエスの場合は、女のあり方が、男性の骨の骨であること、人間全体のあり方がキリストという神の福音の妻であることを知っていたのです。

イエスは誠の神であり誠の人であったのです。誠の人というのは、誠の女です。霊なる女です。誠の神は男性です。誠の人は女性です。父が私を愛したように、私もあなたがたを愛していると言っています。神が人を愛したように、男が女を愛する。これが本当の愛、正しい愛です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

時間と空間の発生

聖書に、「神は、御使いたちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」(ヘブル人への手紙1・7)とあります。 これは非常に重要なことです。御使いたちを風とされるということですが、御使いとあるのは神の使いですが、神の御使いという言葉の中には非常に大きい意味があるのです。 これはずばり端的に言いますと、例えば悪魔の一群も本来は、御使いたちという言葉の中に入るのです。英訳ではangelsとなっています。

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