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  • 管理人chaya

光と闇


聖書に、「光は暗きに照っている。暗きはそれを悟らざりき」とあります(ヨハネによる福音書1・5文語訳)。

光は闇に輝いているのです。ところが、光がいくら輝いていても、闇はそれを悟らなかった。神の言が闇の中にありながら、闇が淵のおもてに座り込んでしまった。そこで、闇の中から光を引き抜いてしまったのです。闇と光は別々になったのです。闇が闇専門になった。これが悪魔です。

皆様は現在、光は闇の中に輝いているという状態で生きています。しかし神の愛が分からないのです。

光が闇の中に輝いているという状態がある間に、つまり目が黒いうちに、この世に生きている間に、闇の部分を捨ててしまって、光の中へ飛び込んでいけばいいのです。光の中に同居してしまえばいいのです。

現在の皆様の生活は、光と闇が混在しています。これがいけないのです。皆様は肉体的に生きている人間であると思っていながら、御霊を受けているのです。これが光が暗きに照っているということです。

皆様は肉体人間であるという気持ちを持っています。五蘊で生きていながら、約束の霊を受けている。光が闇の中に輝いているという事を皆様は経験しているのです。そこで、闇に賛成しようと、光に賛成しようと、自由にできるのです。

この世の人間は、光に賛成しようと思いませんし、賛成するという資格もないのです。皆様は光の方へ行こうと思えば行けるだけの資格を与えられているのです。ところが、肉体的に生きているという方に、相変わらず気持ちを置いている。これが間違っているのです。

パンを食べているということは肉でない。霊です。肉というのは現世のことという意味です。霊というのは現世ではなくて前世のことという意味です。パンの味も前世のものですし、それを食べるという機能も前世のことです。

これを霊的に理解して、その中へ入っていったらいいのです。パンを食べるという霊的事実を経験しているのですから、その中に入っていったらいいのです。これが神の国です。毎日、毎日、神の国を経験しているのですから、そこへ入れるのです。

神は皆様にすべき事をしているのです。皆様が無理に神の国に入らないだけです。新に生まれて神の国に入れというイエスの命令を実行しないのです。

パンを食べていることが光です。生かされていることが光です。生かされているという事実を皆様は理解していますから、その中に入って行ったらいいのです。

おなかがすくということ、食べれば消化されるということが光です。光が皆様の中にあるのです。光は暗きの中に照っているという言葉どおりにあるのです。これを受け取ったらいいのです。この中へ入ったらいいのです。

神に生かされているのです。この中に入ったらいいのに入らない。だから死んでしまうのです。死んだら必ず地獄へ行くのです。

目の前に神の国を見ていながら入れない。肉の思いがじゃまをしているから入れないのです。

女の人は勇気があります。度胸があります。目の前の神の国に入りなさいと言われると入れるのです。女の人にもよりますが、素直な人は入れるのです。

女の本質はハート的にできている。男はマインド的にできています。だから自分自身の中に暗きがあるとかないとかという説明は女の人は下手ですが、女の人は光の中へ入っていけるのです。男は分かっていながら入っていけないのです。

イエスやパウロは現世の人間から考えると全く間違っていると思えることを、あえてやったのです。そこでイエスやパウロは気違いだ、世を騒す者と言われたのです。

少々危いことをしても、神の国に入った方が勝です。安全第一でしていると、結局入りそこなってしまうのです。

皆様は第一にへりくだりが足らない。謙遜が足りないのです。皆様は神の御霊を受けていながら、神の御霊についていくことができない。受けた時の事をもう一度考え直して、神の御霊を受けた時の時点に立って、その道をまっすぐに進んでいけば、神の国に入れるのに決まっているのです。それをしないからいけないのです。本当に虚しくなって、神の前に這いつくばっていない。これがいけないのです。

だめだ、できないという自分がいますが、そういう自分は放っておいたらいいのです。結局、女にならなかったらいけないのです。

女の良さは、男が経験しない事を経験しているのです。何かと言いますと、女は口説かれた経験があるのです。全然ない女性もありますが、女性はだいたい口説かれた経験があるのです。口説かれて自分自身を開いたという経験があるのです。これが福音の極意です。

皆様は御霊に口説かれて自分自身を開くことができたなら、すぐに信仰の世界に入れるのです。

男は口説かれたことがない。それが間違っているのです。自分自身をマイナスの場に置いたことがない。自分をいつもプラスの場に置いているのです。マイナスの場に立つと初めて、自分を捨てるという感覚が分かるのです。

皆様は自分の人格をふみにじられた経験がありません。人格をふみにじられなければ兵隊になれません。軍隊で訓練を受けると、自分自身を投げ出す要領が分かってくるのです。

すべての男性は女性にならなければ天のエルサレムに入れないのです。ニューエルサレムが用意されていますが、神の御旨によって入ろうとすると、女にならなければだめです。

女のハートでなければ入れません。男のマインドでは絶対に入れないのです。マインドは全部五蘊です。五蘊のマインドは入れないのです。ハートなら光を受け止める可能性があるのです。

ハートは受け身であって、ハート自身で考えようとしないのです。これが女性のあり方です。マインドは考えようとするのです。だからマインド性の男性を神が相手にしていないのです。

彼を受けたものとあります。聖霊を受けるのです。神の救いを受けるのです。光を受けるのです。何でも受けるのです。受ける方に回らなければいけないのです。

自分で何かをしようと思ったらだめです。受ける方に回ろうと思ったら、女のまねをしたらいいのです。

どんな方法を用いてもよいですから、神に入ったらいいのです。ヤコブのやり方を見て下さい。

聖書に次のような記事があります。

「ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。エサウはヤコブに言った、『私は飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものを私に食べさせてくれ』。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

ヤコブは言った、『まずあなたの長子の特権を私に売りなさい』。エサウは言った、『私は死にそうだ。長子の特権など私に何になろう』。ヤコブは言った、『まず私に誓いなさい』。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた」(創世記25・29~34)。

またその後で、「イサクがエソウを祝福しようと思った時、弟のヤコブが父の好きなおいしい食べ物を食べさせ、手に子やぎの皮をあてて、毛皮をエソウと思わせて父を騙して、祝福を受けた」という記事があります(同27・1~41)。

どんな方法を用いても神の国に入ったら勝です。ヤコブは兄のエソウを騙して約束を受けたのです。約束を受けたら勝です。負けたら永久にだめです。

とにかく勝つのです。肉を捨てて霊で勝つのです。五蘊を捨てて、霊で勝つのです。それには男性は女性になるしか方法がない。私たちはキリストの花嫁になるからです。

自我意識がある。自分の人格がある。自分の立場があると考えるのは、催眠術にかかっている証拠です。ルシファーの催眠術にかかっているのです。

例えばエバがルシファーに口説かれたら、見方が全く変ってしまった。善悪を知る木を見た所、すばらしく思えたのです。今まで何でもないように見えた木が、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思えたのです。

その時まだアダムとエバは二人共罪を犯していないのです。罪を犯していない状態は霊の状態です。霊という意味を知らなかったのですが、罪を犯していないから肉ではないのです。

霊の状態の者が見ると、善悪を知る木の実が禁断の木の実になるのです。食べてはいけないのです。

ところが肉の思い、五蘊で生きている人が善悪を知る木の実を食べると、どうなるかと言いますと、反対になるのです。とても素晴らしく見えるのです。

五蘊でつまっている人間は命の木の実を食べてはいけないのです。命の木の実が禁断の木の実になるのです。しかしそれを食べなければいけない。食べなければ死んでしまうからです。やってはいけないことをしなければならないのです。

今生きている人間は、やってはならないことをしなければいけない。イエスやパウロはやってはならないことをしたのです。だから殺されたのです。

アバムとエバが善悪の木の実を食べたように、私たちは命の木の実を食べなければいけないのです。ところが人間が命の木の実を食べるのは、してはいけないことになっているのです。キリストを信じること、御霊を信じることは、人間がしてはいけないことです。

世界中のどんな人間でも命の木の実を食べようと思うと、命の木の前には自ら回る炎のつるぎが回転しているのです。しかしこの道を通らなければ命の木に行けないのです。これは食べてはいけないことを意味しているのです。

食べてはいけない印に、炎の刀が回って、行く手を阻んでいるのです。これにキリスト教の人々は全然気がついていないのです。

禁断の実を食べるのです。世間の人から見ると、人間は禁断の実を食べてはいけないのですが、それを食べなければならない。それを食べなければ神の国に入れないのです。

今のままではすでに死んでいるのです。肉の思いで生きている人は死んでいるのです。このままでは地獄へ行くに決まっているのです。そこで禁断の木の実を食べるだけの元気があるか。勇気があるかどうかです。

死ぬことを承知で驀進しなければならないのです。世間の道義観念、宗教観念、倫理道徳から考えて、してはならないことをするのです。

イエスは言っています。

「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイによる福音書10・34~36)。

これが禁断の木の実を食べなさいという意味です。イエスを信じる人は、イエスと同じことをする勇気がいるのです。

今までの自分であってはいけない。古き人を脱ぎ捨てるのです。そして上から新しい人を着るのです。精神の霊を新しくするのです。やってはならないことをやろうとすることが、精神の霊を新しくすることです。ハートは新しい人を受け取るのです。

御霊を受けた者は、神から御霊を与えられたのです。御霊は御国を受け継ぐための手付です。手付をもらっているから、後の支払いはあるに決まっています。あるに決まっているからもらわなければならないのです。

手付をもらっているということを、神の前に大きな声で言ったらいいのです。これが神を崇めることです。

神の国に入るためには、御霊を活用するしかないのです。御霊以外の方法では、神の国に入れないのです。とにかくそれをバイオレンスでするしかないのです。

悪魔が私たちに禁断の木の実を食べさせたのも、強引にさせたのです。だから五蘊皆空を用いて、古き人から強引に抜け出したらいいのです。

自分自身の今までの経験と喧嘩するのです。自分自身の思想とあえて喧嘩するのです。

自分自身から強引に出るのです。神の処置、十字架の処置を信じるのです。信じられなくても信じるのです。これを強引にするのです。分かったとか分からないを問題にしていたらいつまでたってもだめです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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