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十字架


神は霊なるものを一つ一つ肉なるものに翻訳していった。これが創造です。神は霊なることを一つ一つ肉に翻訳した。その結果、現在の万物が創造されたのです。

神の御旨が霊であっても、天使長が肉であるために、一つ一つ肉にしていったのです。神が光あれと言えばそれを天使長が現象的にしてしまったのです。命と言えば命を現象的にしてしまったのです。

神の御旨が霊なるものであっても、これを顕現するものの思いによって、肉なるものに変えられてしまうのです。これが皆様の生活です。生きているということが霊であっても、自分の思いが肉であれば、皆肉になってしまうのです。これは宇宙の真理です。

存在するものの原理と、それを現われた形で受け止める思想とでは一つにすることはできないのです。ここに思いの不思議な世界があるのです。思いによって、考え方が変ってくるのです。肉の思いは死である。霊の思いは命である(ローマ人への手紙8・6)。思いを変えると、現象が変ってくるのです。これを聖霊による導きというのです。

神は万物が現象的に現われたことを見て、良しとしたと言っています(創世記1・4)。神は良しとしたと書いていながら、実は心の中では反対していたのです。こんなものは違うと思ったのです。神は悪魔の言うとおりに造らせたのです。それを良しとしたのです。これは悪魔を自滅させるために、悪魔の言うとおりに創造したのです。

悪魔は淵のおもてという理想を持っていたのです(創世記1・2)。悪魔の理想がそのまま現象世界になったのです。

現象世界を造った責任者は悪魔です。ところが現象世界がやがて行き詰ってしまうのです。完全に行き詰まるでしょう。その時悪魔はああしまった、現象世界を造ったことが失敗だったということを、自認せざるをえないようになるのです。そこで悪魔は自分で切腹しなければならないことになるのです。

悪魔はイエスを十字架につけた。その結果、肉が死んでしまったのです。肉が死んだために、悪魔の立場がなくなったのです。悪魔はしまったと思っているでしょう。イエスを十字架につけたことによって、悪魔の立場がなくなったのです。イエスは肉にて殺された。キリストであるもの、全世界の代表者であるキリストを肉で殺したのです。そのために、霊が生きたのです。霊に生かされ、肉にて殺された結果、全世界の肉の原理が否定されてしまった。

イエスを十字架につけて一番損をしたのは悪魔です。悪魔がイエスを十字架につけよと主張した。この悪魔が主張したとおりにイエスは十字架につけられた。その結果、イエスの肉は死んでしまったが、霊は生きたのです。

イエスの肉は、天下万物の肉を代表しているのです。これがキリストです。キリストというのは地球全体を代表する人格です。地球全体を代表する人格の肉を消したことは、地球全体の肉が消えたことになるのです。

イエス・キリストを十字架のつけたことによって、色即是空がそのまま実現したのです。今は色即是空の時代です。これが般若心経に出ているのです。般若心経は聖書の十字架を論理的に説明しているのです。

五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃、空、空、空と言っているのは、現在の世界は全部空であると言っているのです。十字架の結果をそのまま東洋的な言い方で現わしているのです。

般若心経は十字架を説いているのです。十字架で悪魔は大失敗したのです。ところが肉のイスラエルが十字架を受け取っていない。そこで、異邦人がいくら十字架を信じても、神が約束を与えたのはユダヤ人ですから、ユダヤ人が十字架を認めていないということは、ユダヤ人が神の処置を認めていないことになるのです。だから、悪魔が頑張っている余地があるのです。これは無理がないのです。

これが現在の悪魔の位置であって、ユダヤ人以外の人間が十字架を認めようとしているのですけれど、ユダヤ人が認めないために、十字架の栄光が地球に現われていないのです。このために私たちは祈っているのです。イスラエルを回復して下さい。イスラエルを悔い改めさせて下さいと祈っているのです。

私はこれを教えられたのです。ユダヤ人が悔い改めなければ、十字架の原理が実現しないのです。イエス・キリストの十字架をユダヤ人が認めることです。ユダヤ人が悔い改めることが一番必要なことです。

イスラエルの指導者であるモーセが、イスラエルをエジプトから引き出して、約束の地まで連れていく指命を与えられたのです。イスラエルの人々はモーセをあたかもメシアであるかのように受けとめてしまった。

モーセはあくまでもモーセであって、キリストではなかった。イエスではなかったのです。イエスという固有名詞は、人間の命の本質をさしているのです。モーセという固有名詞は、イスラエルの民をエジプトから引き出すという意味です。モーセは民をエジプトから引き出すことはしたけれども、肉の状態からイスラエルを引き出すことはしなかったのです。イエスは肉の状態を霊の人間に変えてしまったのです。私たちはそれをしているのです。

イエスという固有名詞とモーセという固有名詞とは全然違うのです。モーセは創世の原理という根本的なテーマが、神の御霊による認識として印象されていなかったのです。モーセは自分が生きていると思っていた。自分という固有名詞の人間が生きていると思っていたのです。また、肉の現象世界があると思っていたのです。この二つの誤りを犯したのです。

モーセはホレブの山で燃える芝を見せられたのですが、その時の彼の態度を聖書で見てみますと、固有名詞としてのモーセと現象世界にいるという肉の思いが、はっきりあったのです。そこで燃える芝の景色を見ていながら、燃える芝の御心が分からなかったのです。

皆様は、自我意識と現象意識を捨てて頂きたいのです。そうすると初めて、皆様の心に神の国がやってくるのです。今、皆様が見ている現象世界は、天使長が肉の思いを持ったので、天使が肉の姿を現わしたのです。

天使長が淵のおもてに固執した、淵のおもてに執念を持ったことが現象世界ができた原因です。天使たちは長の言うとおりの世界を現わしたのです。これが肉の世界です。

今の人間はへびの言に従うことによって、天使長の思いと同じ思いを持たされているのです。人間は肉の思いを持っているのです。肉の思いを持っている人間が、現象世界を見ると、肉の世界(現象世界)が実体に見えてしまうのです。

思いが世界を造るのです。イメージがイマジネーションを造ってしまうのです。これに人間は皆引っ掛かっているのです。このことをよく考えて頂きたいのです。肉の思いが今の人間の主人公になっています。肉の思いは悪魔からきたのです。それが今の皆様の脳波です。この脳波を変えなければ、現象世界が空にならないのです。

この脳をどうして変えるかという問題ですが、霊の思いは命なり、平安なりという原理を徹底的に追求して、肉の思いを霊の思いに切り替えることです。そのためにイエスが死を味わったように、現世で矛盾と闘い、罪と闘って血を流すという壮烈な生き方をしなければならないのです。

そこで男は女の人に尊敬の念を持たなければならないのです。現在の家庭的な悪さを裏切るのです。これが日々十字架を負うことです。イエスは生ける神の子でしたが、肉の人間としてこの世に生きたのです。これが死を味わったことです。罪と闘って血を流したのです。

パウロは、おまえたちは罪と闘って、血を流したことがないと言っているのです。罪と闘うことをしない。現世の人間が死を味わうことをしないまま、自分の肉を殺そうとしないままで生きていたのでは、肉から霊に転換できるはずがないのです。

人間が現在生きているのは、悪魔の子として生きているのです。現在の命というのは、嘘の命です。肉の思いというのが嘘です。ところが一度嘘を経験しなければ、誠が見えないのです。今の人間は、嘘を誠にして生活しているのです。人間にとっての誠が、実は神にとっては嘘です。人間にとっての誠を捨てることによって、神の誠を教えてもらえるのです。

学問でも生活の利害得失でも、人間にとっては誠です。人間にとっての誠が、実は嘘です。これを知って頂きたいのです。人間にとっての誠が嘘であることが分かる時に、初めて皆様は本当の誠を発見することができるのです。

自分はいないのです。現象世界は実在しない。イエスの御名、神の御名が自分の救いだということを、はっきり分かるまで黙想して頂きたいのです。嘘が誠になる時に、人間は滅びるのです。嘘が誠になって、今の肉の人間が生きているのです。今生きているという人間の誠が、神にとっては嘘です。これを神が皆様に悟らせるために、聖霊を与えたのです。

聖霊を与えられたその心で見る時に、今まで肉で見ていたこの誠が、実は嘘であることが分かるのです。自分のあり方とか、自分の信仰の状態は、どうでもいいのです。イエス・キリストの信仰を受け取るかどうかが問題です。

イエス・キリストが父なる神の内にいた時に、イエスは父なる神をどのように信じていたのか、父なる神はイエスに対してどのような受け答えをしたのかということです。

イエスが父なる神にいたことによって、父なる神がイエスに対して、どのような受け答えをしたか、イエスの信じ方が、一度でも間違っていたのか、イエスは自由に信じていたのです。

イエスは魚の腹の中に金貨があるという、無茶苦茶な信仰を持ったのです。果たしてそのとおりにあったのです。いちじくの木が枯れるという信仰さえ持ったのです。無茶苦茶な信仰を持ったのです。そのイエスの無茶苦茶な信仰に、神は完全に答えたのです。そうすると私たちはイエスにおいてどういう信仰を持てばいいのか。皆様が分かるとか分からないとか、そんなことを考える必要はないのです。

イエスは父なる神を自由に解釈して、自由に信じたのです。もし自分の信仰が間違っていたら、父なる神が是正して下さると信じてしているのです。このやり方がモーセと全然違うのです。その結果、驚くべき新約時代が現われた。十字架によって全世界の人間が既にイエス・キリストの信仰によって完全に救われたのです。ところが、今の人間はこのイエス・キリストの信仰を信じないのです。

皆様にどんな欠点があっても、そんなことをイエスは一切問題にしていません。「古きは既にすぎ去った。おまえたちの罪を神は、東と西が遠いように、永遠に見ない」と言っているのです。これがキリストの信仰です。

人間の肉のことを神は一切、忘れてしまったのです。ところが皆様がまだ自分の肉を見ているとすれば、何をか言わんやです。肉を見るなと言いたいのです。

毎日、イエス・キリストの信仰をどのように理解して生きているのかということだけが問題になるのです。自分の信仰を問題にしている人は、イエス・キリストの信仰を崇めていないのですから、裁かれることになるのです。

自分の信仰を見よとは聖書に一箇所も書いていません。faith in Christと書いてあるのです。Faith in Jesusです。イエスの信仰の者だけが救われるのです。

イエスの中へ入ってしまう者だけが救われるのです。どんなに厚かましかろうが、どんなに強引で自分勝手でもかまわない。イエスの中へ入ってしまえばいいのです。

神は皆様に、インマヌエルの信仰を許しているのです。砂糖をなめて甘いということが分かる人、花を見てアジサイだと分かる人は、イエスの信仰を持っているのです。そこで皆様は自分の信仰を捨てて頂きたいのです。自分の信じ方を捨てるのです。自分の思想を捨てるのです。そしてイエスの信仰を持つのです。

イエスは自分が生きていることが父の内にいることだということだけを知っていた。これ以外の何も考えなかったのです。イエスは父の内に生きていたのです。イエスの考えが正しいかどうかをイエスは考えていなかったのです。

マグダラのマリアがイエスの足を彼女の髪の毛でふいた時に、イエスはどのように感じていたのでしょうか。マリアが自分の髪の毛で足をふいた。この時のイエス・キリストの心境はどうであったのか。またマリアの心境はどうであったのか。これがfaith in Christの典型になるのです。大胆不敵とも言えます。掟もしきたりも、世間の常識も、何も考えなかったのです。ただ仲が良かったのです。信仰とはこういうものです。

皆様は道徳やしきたりによって人を見るようです。自分を見る時、自分の信仰はだめだと考える。人を見る時、人の信仰もだめだと考える。これがいけないのです。

砂糖をなめて甘いと思えることが、イエスの御名です。皆様が本能的に、本然的に、食べて味が分かることが、皆様が生ける神の子である証拠です。これは皆様の脳細胞に神が味をインプットしているから、その働きに従って甘いと感じるのです。犬や猫は食べても甘い辛い、おいしいとかおいしくないということが分かりません。判断する能力を脳細胞にインプットされていないからです。脳細胞の働きによって皆様は生きています。これが生ける神の子である証拠です。この簡単なこと、この単純なことを分かって頂きたいのです。

自分の百四十億の脳細胞に、父なる神の驚くべきインプットが、完全無欠になされているのです。皆様方はそのインプットを使いこなすことが下手ですが、神のインプットに間違いはなかったのです。従って皆様方は、その用い方が上手か下手かを、いちいち取り上げて問題にする必要はないのです。

皆様は人の子であるということだけでいいのです。そうして、イエスの中にいればいいのです。イエスは、「汝ら我におれ、わが愛におれ」と言っているのです。愛に制限はありません。愛には区別がありません。愛には一つも議論はないのです。愛は無条件で皆様をのんでくれるのです。無条件で愛してくれるのです。

わが愛におれというイエスの言葉によって、皆様は無条件にイエスの中へ入れるのです。自分がいいのか、悪いのかを考える必要がない。良くても悪くても、固有名詞の自分はいないのです。

イエスの信仰という言葉の中には、無限大の生ける神の子としての完全性が入っているのです。無条件の完全性です。イエスは私たちに、神の信仰を持て、have faith in God.と言っているのです。神の信仰を持てというのです。私たちの目が見えるということが、御霊が私たちと一緒にいることです。だから神の信仰を持てと言っているのです。

皆様は自分の信仰が足らないと考えている。ついでに人の信仰も足らないと考えるのです。そういう余計なことを考えるなというのです。

そこで汝ら互いに相愛せよということが必要です。自分で自分の足らないところを考える必要はない。人を裁くなと言っているのです。人を裁けば神に裁かれるからです。イエスに従ったらいいのです。それだけで完全になっているのです。ところが悪魔に従おうとする。これがいけないのです。

人間はイエスの信仰によって救われる。自分の信仰によって救われるのではないのです。自分の信仰はいらないのです。このことをよく承知して頂きたいのです。

人を裁いてはいけない。ただ悪魔だけを裁けばいいのです。悪魔はどこにいるのか。自分がいると思うことが悪魔の思いです。これを否定したらいいのです。自分がいるという考えだけをやめたらいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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