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  • 管理人chaya

神の愛


聖書の救いを本当に掴まえるということは、簡単なことではないのです。

イエスが、「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう」(マタイによる福音書6・22)と言っていますが、こういう状態で自分自身を見るということは、誰でも望んでいることですが、それを正しく捉えるということは大変難しいのです。

宇宙における唯一の救いを受け取ることになるのですから、簡単に他力本願の信仰のように、ただナムアミダブツと申していれば、浄土参りができるという訳にはいかないのが当り前のことです。

聖書の信仰というのは、イエスによって言われているように新しく生まれることが主題です。新しく生まれるということは、別人になるということです。

今まで生きていた自分とは別の人間になる。そういう経験、体験を実感することなのです。これは新に生まれたと信じることでもないし、神の恵みを信じることによって超自然的な救いを与えられていることでもない。超自然的な救いを与えられて、現在生きている自分が救われるというものでもないという意味なのです。

その意味で言えば、福音は全く宗教とは違うのです。これを理解することが難しいのです。難しいというのは、現在の肉性の人間の立場から考えるから、難しいと感じるのです。

肉性人間が無くなってしまう。肉性では無い別の人間が誕生することを意味するのです。従って肉性人間の立場から考えますと、自分ではなくて他分になるのです。他分という言い方は妙ですけれど、道元禅師がそういう言い方をしているのです。

道元禅師の場合は、自分の新しい人格を他分と言ったかどうか分かりませんが、他分という言葉を用いているのです。

つまり、自分という人間の立場から見れば、自分が消えてしまって、自分ではない他人というべきものが、自分の中から生まれてくるのです。

客観的な姿形を見れば、その人に違いありませんが、その人自身の感覚的な角度から言えば、全く自分ではないと思えるような意識感覚を持つと考えてもいいのです。

従ってこれは、自分の立場から考えると大変難しいことになる。その人自身が消えることですから、難しいとか難しくないということよりも、不可能な事になるのです。十字架の真髄はここにあるのです。

最近の新聞の記事にありましたが、奈良県にポックリ寺というのがあるそうです。ポックリ寺にお参りする人がふえている。しかも団体でお参りするというのです。バスを仕立てて団体で行くツアーもあるそうです。

お寺(吉田寺)のお坊さん曰く、三回参ると本当にききめがあって、ポックリ行かしてもらえるという話です。そのお寺は宿泊用の宿坊まで設けてなかなか繁盛しているようです。

人々がポックリ死ぬことを願うというのは、どういう心理状態なのでしょうか。最近では、末期医療を辞退する人がいるようです。これは無料で医療を受けるのが嫌なのではないのです。老人は肉体がだんだん衰弱する。消化機能や排泄機能が普通に働かなくなる。注射で無理やりに生かしたり、点滴で栄養を与えて、だめに決まっているのを無理やりに命だけをつないでおく。植物状態で生かされているのです。そういう意味での老人医療を辞退するのです。

下の世話までしてもらって長生きしたくない、老醜をさらしてまで生きたくないという。一種の老人の見栄かもしれませんが、そういうことを考える人がずいぶんいるようです。とにかくポックリ死ぬということは、現在の人間にとっての恵みであるのかもしれません。

しかし、仮にポックリ死んだとしても、死後の裁きが待ち受けている訳で、死んでしまえばそれまでという考えは甚だ無責任な呑気な考えです。

ポックリ死ぬのもいいのですが、一番良い死に方は、生きているままで死ぬことです。これができれば、ポックリ死ぬ以上に楽な死に方ができるのです。

ポックリ死んでそれで終りとなるかどうか。死んでしまえばそれまでという考え方がありますけれど、これは死をよく知らない人の考える妄念でありまして、実はポックリ死んだ人でも、自分は死んだとは思っていないのです。

死んだということは本人には分からないのです。他人から見ればあの人は死んだということが分かりますが、本人にはそういう意識はありません。蒲団の中で夢を見ている状態が、そのまま黄泉に移行するのです。

現世に生きている感覚がそのまま死後に延長されることになるのです。そうしますと、本人の肉体生理は停止してしまいます。肉体は焼き場に運ばれて灰になりますが、本人の精神状態は一向に灰にならないのです。

精神は灰になるはずがないのです。本人の魂はそのまま黄泉(よみ)に送りこまれて、眠った状態が続くのですが、無理に目を覚まさせることができるのです。心霊現象による霊媒によって、寝ている魂を無理に起こすことはできるのですが、その時何を言うかというと、生きていた時の記憶を話しているのです。

本人は死んだことを知らないのです。生きていた時の記憶がそのままあるのですから、熟睡している人間が起こされて、何か聞かれたのと同じ状態で返事をするのです。自分の仕事の事とか、現世にいた時の生活のことを話しているのです。これが黄泉に送られた魂の状態です。

黄泉で眠っているのです。肉体の死の瞬間の意識が固定してしまうのです。凍結してしまって、それ以上前進しません。そのような状態で死んでしまうのですから、ポックリ死んでもだめです。他人から見ればその人は楽な死に方をしたと思われるかもしれませんが、本人自身としては生前の延長が続いているのです。

生前の延長が続いていると言いましても、死んだという自覚がないのなら結構だと言われるかもしれませんが、結構ではないのです。黄泉の後には霊魂の裁きがはっきりあるからです。地獄が口を開いて待っているのです。黄泉と地獄は続いているのですから、嫌でも黄泉に落ちた者は地獄に行くに決まっているのです。

黄泉の後に目を覚ますと、霊魂の裁きが始まるのです。これが恐いのです。だから、生きているうちにその意識感覚を全部改造してしまわないといけないのです。生きている間に新しく生まれること、これをしなければ永遠の生命を受け取ることは、絶対にできないのです。

そういう意味で、私たちは現世において、生活意識、生活感覚を新にしなければいけないのです。これをしなければ、永遠の生命を受け取ることは絶対にできないのです。

これは宗教を信じることではないし、何かの恵みにあずかって、救われたいと思いこむことでもない。生活意識をはっきり改めることです。つまり神の子としての生活の実感を持つことです。そうでなかったら本当の救いにはならないのです。

現世に生きていた時の意識状態がそのまま黄泉に続いていくのですから、現世においての生活意識の感覚をはっきり切り替えるのでなかったら、何にもならないのです。

皆様の生活意識の感覚が、やはり従来の古き人の感覚で生きています。こんな事では聖書が分かったと言っても何の足しにもならないのです。

現世においての生活意識を新しくすることです。イエスは新しく生まれよと言っています。このイエスの命令は、生活意識を新しく造り変えなさいということになるのです。このことをはっきり承知して頂きたいのです。

そうして私たちが今日現世を去っても、今日という日に生活意識が具体的に新しくされているなら、このまま目をつぶっても、新しくされたという生活意識が死後にも働くことになるのです。

聖書に次のような記事があります。

「十字架に掛けられた犯罪人の一人が、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれをも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。

もう一人は、それをたしなめて言った、『お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしたのではない』。

そして、言った、『イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、私を思い出してください』。

イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスに入るであろう』」(ルカによる福音書23・39~43)。

十字架上のイエスが横にいる犯罪人に、今日お前は私と一緒にパラダイスに入るであろうと言っている。今日そのような経験をするであろうと言っているのです。

これは十字架上の犯罪人が、イエスがメシアであることを言い現わしたので、その信仰が彼に働いているのです。その状態で意識が絶えますと、イエスがキリストであるという意識を持っていますから、その状態で死ぬのです。

イエスがキリストであるという意識がそのままパラダイスです。イエスがキリストであることを実感することが、難しいのです。十字架の上の犯罪人はユダヤ人であったので、メシアに対する感覚が日本人のようにぼんやりしていなかった。だから、イエスがメシアであることを彼が証した時に、御霊による助けを受けたのです。

イエスを目の前に見て、この人こそ誠の義人であることを証して、この人は罪がないのに死んでいく、我々は罪があって死ぬのだから当り前だが、この人はそうではないとはっきり言ったのです。

罪がなくて死ぬのはメシアに決まっています。現世に生きていて罪がないのはイエスだけです。犯罪人はイエスがそうであるとはっきり言ったのです。その意識がパラダイスです。だから、今日私と一緒にパラダイスに入るであろうとイエスに言われたのです。

この犯罪人のような死に方をした人は、よほど幸いです。これはポックリ寺に参るくらいの事ではありません。こういう幸せな死に方をする人はめったにいません。十二使徒でさえもこんな死に方ができなかったのです。

ところが私たちも、こういう幸せな死に方ができるのです。私たちは現世において、イエスがキリストであることを、生活意識の基本にしなければならないのです。イエスがキリストであると生活において実感するとはどういうことかを簡単に言いますと次のようになるのです。

私たちが今生きているこの人生は、イエスがキリストであることを学ぶための時間です。生理機能と心理機能は、そのために与えられているのです。これ以外に私たちが生きている意味、目的はありません。そうして人間は誰でも、イエスがキリストであることを、分からねばならないようには仕向けられているのです。

神が愛であることが本当に分かったら、イエスがキリストであることが分かったと同じことになるのです。

神が愛であることを、イエスは生活した。そこで彼はキリストとされたのです。

イエスがキリストであることを信じることと、神が愛であることを信じることは、裏表の関係になるのです。一つのことを両面から言い現わしたことになるのです。

そこで、神が愛であるとはどういう事か。これは人間創造における父なる神のやり方を見ると、一番よく分かるのです。

まずアダムが造られた。エホバ神は造った人をエデンの園に置かれたとあります(創世記2・7)。園を耕させ、守らせられた(同2・15)とありますが、これが神が第一に愛であることをアダムが知る絶好のチャンスだったのです。

その時には、イエスがキリストであるという事はありません。人間創造の第一歩ですから、イエスがキリストであるということはありませんが、神が愛であるという事はあったのです。アダムは自分自身がエデンの園に置かれた事によって、神が愛であることを弁えることができたはずです。

この事を簡単に説明しますと、第一にアダムは自意識を与えられた。私という意識ができたのです。第二に現象感覚が与えられた。第三に生きているという意識が与えられた。自意識と現象感覚と生命意識が与えられたのです。これが神の愛でした。

神に造られた人間以外に、自意識と現象感覚と、生命意識を持っている者はありません。この三つの意識が神の愛を現わしているのです。

皆様はこの三つの意識を持っています。持っているどころか、自意識が自我意識になって巨大化しているのです。現象が実体であると思い込むほどの強固な現象意識を持っているのです。

生命意識に到っては、死ぬのは嫌だと言って命にしがみつき、むしゃぶりつくほど強固な生命意識を持っているのです。しかしこの三つの意識を、肉において持っている。肉においてとは、自分自身のものとして、自分の都合が良いように持っているのです。これは神が愛によって与えた三つのすばらしい意識を、全部汚しているのです。

神に与えられた愛によるすばらしい取扱いを、肉によって意識しているということは、神の愛そのものに泥をぬっていることになるのです。つまり神の顔に泥をぬっていることになるのです。

自意識とは何かと言いますと、これは神ご自身の意識です。これが実は神の顔です。これを自分自身の意識だと思うことは、神の顔に一生懸命に泥をぬっているのです。

次に現象意識です。これも神の顔です。命が現世に現われていることを生命というのですが、生として命が現われている。生なる命が現われているのです。

命には生と死の両面がありますが、その生の面を私たちは経験しているのです。これもまた、すばらしい神の顔です。「汝、わが顔の前に何ものをも神とするな」(出エジプト記20・7)と言われているのはこのことです。生命意識を自分の意識とするのは、これもまた、神の顔に泥をぬっているのです。ひどい事をしているのです。愛を知るべき者が、愛を知るどころか、神を汚し、自分の魂に泥をぬっているのです。

アダムは最初から神の顔に泥をぬっていたのではありませんが、三つの意識が神の愛であることが分からなかったのです。

自意識や生命意識を与えられて神の愛が分かったらよかったのですが、アダムはそれが分からなかった。そこで神はアダムをエデンの園につれていって、園を管理させたのです。

その次に、神に与えられた神の顔を通して、アダムは何を見せられたのか。すばらしい大自然を見せられたのです。

まず日の出を見たでしょう。また、夕陽を見たでしょう。人間が一番最初に見た日の出、雄大な天の光景をアダムは見たのです。

それを見せるために、アダムを園の東の方に置いたのです。東の方と言うのは朝日が最も美しく見える場所です。彼はそこに置かれたのです。

エデンの園に現われた大自然は神の天体運行の原理が現われた、全く言葉には言い現わせない美しくすばらしいものであったに違いないのです。

現在の草木のあり方は土が呪われた後のあり方です。エデンにはそのような呪いがなかったのです。エデンにおける大自然の光景はとても想像することができない程、すばらしいものであったに違いないのです。

一本一本の草木のあり方も、花の咲き方、小鳥のさえずりも、小川のせせらぎ、山や海のあり方も、現在の世界とは比較にならない程、すばらしいものであったに違いないのです。

それをアダムは見せられた。最初に与えられた三つの意識によって神の愛を知ることができなかったアダムも、エデンの園の光景を見せられて、神の愛が分かったに違いないのです。

エデンの光景はいわゆるパラダイスというべき状態を、そのまま現わしたと言える程のすばらしいものであったに違いないのです。これを目の前に見せられて、神の愛を知ることができたはずですが、そうはならなかったのです。

もしこの時アダムが神の愛を知ったなら、自分の命の尊さを感じたに違いないのです。現われている天然自然の美よりも、さらにすばらしいものが自分の存在であることを悟れたはずです。

そうしたら、この時アダムはストレートにイエスである心境に到達できたでしょう。ところが、それができなかった。宇宙に死という矛盾がわだかまっていたのですが、それをアダムは知らなかったからです。そのために、神を愛として受け止めることができなかったのです。

ただすばらしいという事は感じたでしょうけれど、これが愛の表現形式であるとまでは、思い到らなかったのです。

そこで、神は次に、土で造ったもろもろの生き物をつれてきて、「人が一人でいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2・18)と言われたのです。助け手を与えなければ、神が愛であることが分からないという独り言を言われたのです。

何かの助けがなければ、神が愛であることが理解できないのです。アダムは人間としての本質を与えられたことが、既に愛であって、このことだけで神が愛であることが悟れるはずだったのです。ところが、悟れない。そこで、自意識と現象意識、生命意識の三つの意識を与えたのです。それでも、分からなかった。

その次に、エデンの園のすばらしい大自然を見せたが、それでも分からなかった。そこで神は、善悪を知る木の実を食べてはいけないという掟を与えましたが、それでも分からなかったのです。

掟とは何か。側面的にアダムに死を警戒させるということで、掟という形で与えた愛だったのです。アダムはこの時罪を犯していなかったのですから、私たちとは比較にならない鋭い観察力があったはずです。これによってじっと考えたら、これだけで神の愛が分かったはずです。

もし宇宙に悪魔という矛盾、死という矛盾が無かったら、神が掟を与えるはずがないのです。掟を与えられるという事は、してはならない、触れてはならない事が宇宙にあるらしいという事が、アダムに分かったはずです。

アダムは掟を与えられた段階において、彼の頭脳によって宇宙に矛盾があることに気づくことはできたはずです。

なぜなら、後から女を与えられた時、「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉」(同2・23)とすばらしい詠嘆を女に与えているからです。しかも、「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」と、すばらしい事を言っているのです。

女と名づけた。これはすばらしい名づけ方です。そういう事ができたアダムですから、掟に現わされている意味を見抜くことができたはずです。神の御心を知ることができたはずです。ところが、彼は考える能力を駆使する気持ちにはならなかった。だから分からなかったのです。

現在のポックリ寺へ参らなくても、楽に死ねる方法があるのです。たちまちポックリ死ねる方法があるのです。それは、黙って十字架を受け取ればいいのです。そうしたら、人間はたちまちポックリ死ねる。これが十字架の驚くべき効用です。

十字架はすばらしい神の恵みです。ポックリ死ねるくらいの事とは違います。ご飯を食べながら、お茶を飲みながら、家族と睦み合いながら、ポックリ死ねるのです。しかも、死んだ後に、パラダイスに入るに違いないというすばらしい死に方ができるのです。

ポックリ寺の方は団体バスが通う程の繁盛ぶりですけれど、十字架によるポックリ死をいくら叫んでも、誰も耳を傾けないのです。こんな有り難い話はないのです。十字架を本当に受け取ったら、ポックリ死ねる。こんな結構な死に方は他にあるでしょうか。これはポックリ死以上のすばらしい死に方です。生きているままで死んでしまうからです。

アダムはエデンの園で、これができたはずです。ところが、アダムはそれができなかった。そこで今度は、土で造った野の獣をアダムの前に連れてきたのです(同2・19)。その中から、彼の助け手を見つけることができたからです。

天体運行を見ても、神が愛であることが分からなかった。エデンの園のパラダイスである大光景を眺めても、神の愛が分からなかった。神が掟を与えても、まだ愛が分からなかった。そこで、神は助け手がいると考えたのです。そして、野のすべての獣、空のすべての鳥を、アダムの前に連れてきたのです。

草や木や天体は見ただけでは分からないかもしれない。そこで、神は野の獣を連れてきた。牛や馬、犬や猫が動く状態を見たら、神がすばらしいお方であることに気がつくかもしれない。獣たちが、アダムの目から鱗を取り除いてくれるかもしれないという期待が神にあったのです。神を見る程の鋭さはなかったけれど、彼の盲目を開けるための助けになると考えたのです。

アダムは生き物に何と名づけるのか。生き物に対するアダムの名づけ方が、助けになるかならないかを、神はじっと見たのです。アダムは動物の現象的な生態だけを見て、名づけたのです。アダムがつけた名前が、未だにその動物の名前になっているのです。

現象的にはそれでいいでしょう。ところが、野の獣の本性が何であるのか。これがアダムには分からなかったのです。

聖書を見ると、すべての家畜、空の鳥と、野のすべての獣に名をつけたとあります。家畜に名をつけた。空の鳥に名をつけた。野のすべての獣に名をつけた。家畜、空の鳥、野のすべての獣という言い方は、実は神の裁きに属するもの、また、神の経綸に属するすばらしい知恵が織り込まれているのです。

今でも私たちは家畜と空の鳥と野の獣を見て、それが何であるか、何のためにそういう生き物が私たちの目の前に置かれているのかを、悟るべき場に置かれているのです。これが分かりますと、神が愛であることが分かるのです。

虎や豹と牛や馬とどう違うのか。これが分かれば神の愛が分かるはずです。ところが、今の人間にはそれが分からない。聖書を学んでいる人にも分からないのです。野の獣と家畜は違います。どこが違うのか。牛や豚はビフテキにしたらおいしいのですが、虎や豹はおいしくない。こんな見方しかできない。これは肉の思いで見ているからです。

空の鳥の状態を見れば、神の国が分かるはずです。イエスは分かったのです。私たちが十字架によって自分の生活意識を一度死なしめて、聖霊による生活感覚によって見ることができるようになりますと、空の鳥がすばらしい形で神の国を証していることが分かるのです。

人の魂が神に接近するやり方、また、神が人間の魂を養っておられる状態が分かるはずです。それをたどっていけば、神の愛に到着することができるのです。そのようになっているのです。

私たちが目で見ているもの、耳で聞いているものはすべて、神の愛を私たちに導きよせるような形であるのです。それが天地に充満しているのです。

森羅万象は皆神の愛の手引きばかりですが、これが分からない。神が愛であること、イエスがキリストであることの二つが分からないから、人間は死んでいくのです。

アダムは家畜、空の鳥、野の獣に名前をつけたのですが、有形的な生態現象を捉えて名前をつけたのです。ところが、生態が何を意味しているのか。獣の生態が何を意味するのか。空の鳥の生態が何を意味するのか分からなかったのです。アダムはそれが分かるはずだったのに、分からなかった。そこで、助け手を見つけることができなかったのです。

人はすべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで、人を深く眠らせて、あばら骨の一つを取って女を造ったのです(同2・21、22)。

これこそ全く神の愛の表現でした。神が最後の手段としてこういう方法を用いたのです。人間は現在生かされています。衣食住を与えられています。食べるものと、着るものと、住む所を与えられている。衣食住こそ神の愛を端的に示しているのです。

食物には味があります。味とは何か。これによって人間は何を感じているのか。食べること、飲むことによって、人間にどれだけ豊かさを与えているのか。また、色々な形を見ています。色々な色、香りを感じます。何千、何万種の色と形、色々な香りを絶えず経験しているのです。

洋服も春、夏、秋、冬と季節ごとに色々なデザインの服を着ます。夏は夏のような、冬は冬のような、若い人には若い人のように、年配の人には年配の人のように、しかも、毎年、毎年、新しい色、新しいデザインの服装が人々を着飾っています。

住居も同様です。経済的な制約はありますが、人々は好みの間取り、好みの外見の家に住んでいるのです。

このように、神の愛の贈り物は、人間の肉体生活に欠くべかざる楽しさ、嬉しさ、喜び、平安、安らぎを与えてくれている。私たちはそれを毎日、毎日経験しているのです。

神が人間を生かしている目的は、神の愛を知らせるためです。地球は神の愛の表現形式です。それが森羅万象に出ているのです。森羅万象に現われている色、香り、動き、流れは、皆宇宙のロマンそのものです。神の愛の表現形式です。

「神は、御使いたちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」(ヘブル人への手紙2・7)とあります。炎は燃えるような神の愛を現わしますが、また、神の愛に従わない者を焼き尽くすという呪いを現わしているのです。

風は神の恵みと哀れみ、愛の囁きを人間の心に送ってくれますが、一転して台風や暴風になって、神の怒りが現われるのです。

炎はひたむきな愛をストレートに現わしていますが、風は繊細な感覚で地球全体に吹いているのです。小さな草の間、花びらの間をそっと吹き抜けていく。ミクロ的な宇宙とマクロ的な宇宙全体を貫いて吹いているのです。

これが地球全体の文様を造って行くのです。その文様を日本語では文(あや)と現わしているのです。文という字は森羅万象を現わしている。それは言うに言えないすばらしい宇宙のロマンをそのまま人間に囁きかけているのです。これを直線的に受け止めることが信仰です。草の間を分けて吹く風、花びらをなでて通るそよ風は、神のすばらしい愛と慈しみを現わしている。これが人間の衣食住に現われているのです。

ところが、これが分からない。こんなにすばらしい神の大芸術、大ロマン、大曼陀羅の本当の意味が分からなかったのです。しょうがないから神が最終的に愛を見える形で現わした。これが女性です。

愛そのものを現わした。アガッペーをそのまま造形したのです。だから、女性はすばらしいのです。神は最高傑作を見せて、何を悟らせようとしたのか。神が愛そのものであることを悟らせようとしたのです。

神は色々な生き物を人間に見せたのに、それを悟ることができなかった。そこで、男からあばら骨の一本を抜いたのです。神の最高傑作であるあばら骨を一本取って、女を造ったのです。そうしなければ、女は造れなかったからです。男はあばら骨を抜かれた後に肉でうずめられた。そのために、男はとんでもない強度の精神疾患にかかってしまった。これが男のいらいら、びくびく、もやもや、うやむやの原因です。

そこで、女性をどう見るかです。今の女性は女性を知らないのです。女性のボディーラインは神の創造のすばらしさをそのまま現わしているのですが、心理状態がそれに似ても似つかないものになっているのです。

女が先に罪を犯した。男の手引きをしたのです。エデンの園でそうしたのです。それがノアの洪水の原因になったのです。性欲的に堕落した女が、男の堕落の手引きをしたのです。神の愛の手引きとなるために造られた女が、呪いの手引きをしてしまったのです。

今の女性のボディーラインと、女性が思う心理状態が、全く違うものになっている。女によって男は堕落した。エバがへびの誘惑によって善悪を知る木の実を食べてしまった。そしてエバが死なないのを見てアダムも食べたのです。アダムが陥罪する原因をエバがつくったのです。この責任を女に持ち込んではいけない。持ち込んでも仕方がない。女では解決できないからです。男が女の間違いを修正しなければならないのです。

イエスがその間違いを完全に修正した。男はイエスを正しく学ぶことによって、女の間違いを修正できるのです。これを神が期待しているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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