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  • 管理人chaya

肉と霊


今日は少し寒くなったから、暖かいものを料理しようと思い、かぼちゃの味噌汁を作ろうと考える。他に色々作って食事をするという段取りです。これがどうしてできるかということです。家の掃除をしていながら、どうして掃除ができるかということです。こういうことはどこかで勉強していなければできないことです。

聖書に次のように書いています。

「すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々に向かって言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから』」(ルカによる福音書13・23、24)。

狭い戸口はどこにあるかと言いますと、めったに見つからない戸口です。めったに見つからない戸口を見つけて入れとイエスが言っているのです。皆様は毎日、仕事をしたり、食事を作ったり、掃除をしたりしています。これをどこで習ってきたかということです。習った所をア・プリオリと言います。ア・プリオリとは生まれる前と言ってもいいのです。前からのもの、または前からのことです。

つまり前からあったもの、前から続いているものです。これがア・プリオリです。これがなかったら仕事は一切できないのです。皆様は自分で仕事をしていると思っているでしょう。そう思っている人は地獄へ行ったら分かるでしょう。今生きているのは自分が生きているのではないのです。死を破ったという復活の命が生きているのです。復活したのはイエスしかいません。復活が生きているということは、復活の命であるイエスが生きているのです。

この世に生まれた人間は、自分が料理を作っていると考えています。自分が仕事をしていると思っている。そうではないのです。生まれる前に無尽蔵の教育を受けたのです。それによって生活ができるのです。また聖書が開かれるのです。

生まれる前にちりという状態で、父なる神と一緒にいたのです。父なる神がちりを造ったのです。父なる神の御霊というお方も、ちりの特別上等なものだったのです。そこでちりと御霊とはよく意見が合うのです。

生まれてから今日までの自分を捨ててしまうのです。これができれば救われている自分が分かるのです。ア・プリオリという事実がなかったら、現世であの人が好きで、この人が嫌いということはないのです。神と人間とが出会うこと、人間と人間とが出会うことはすべてア・プリオリによるのです。神のすばらしい計画によるのです。これが我は全能の神なりという形で現われるのです。

全知ということは、見えるものも見えないものも、全部知っているということです。全能とは見えることも見えないことも何でもできる。なすべきこともなさざることも何でもできると言う意味です。一切の制限もない、何でもできるということが全知全能です。全知だから全能になるのです。

人間が自分で生きていると考えていることは、土台から間違っているのです。自分が分からなければならないと思うことが間違っているのです。分かっても分からなくても同じことです。神が皆様を救うからです。神に任せておいたらいいのです。分からなくても救われるのです。人間は復活の命で生きているから、この世に生まれた経験とは何の関係もないのです。これが新約聖書の原理です。

ペテロは次のように言っています。

「ほむべきかな。私たちの主イエス・キリストの父なる神。神はその豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせた。それにより、私たちを新たに生まれさせて生ける望みを抱かせ、あなたがたのために、天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

イエス・キリストを死人のうちから甦らせたことによって、人間を新しく産んだとあるのです。新しい人を与えたのです。これが新約時代です。イエス・キリストが甦ったことが、世界中の新しい人を産んだことになるのです。これが受け取れる人は、生まれる前にそういう待遇を与えられていた人なのです。

生まれる前にイエス・キリストを信じるという待遇を受けていた人、生まれる前にキリストの内に選ばれていた者だけが、それを受け取れるのです。キリストの内に選ばれていなかった人は、キリストの復活が新しい自分の命であることが、受け取れないのです。世の基いをおかぬ前に、キリストの内に選ばれていたというのは、それを言っているのです。

世の基いをおかぬ前に、キリストの内に選ばれていた者だけが、キリストの復活が自分の新しい命であり、この世に生まれた命には関係がないということが分かるのです。これが分かるか分からないかです。

皆様の肉体的な親は霊魂的に言えば皆様の子供か孫に当るものであって、皆様が家系の祖先になるのです。親と子の関係が、逆縁になってしまうのです。天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむことない尊い財産を継ぐために、私たちを新しく産んだのです。神が皆様を新に産んだのであって、肉親の親が産んだのではない。神の御霊が産んだのです。

皆様が信じても信じなくても、神の国はもう来ているのです。そこへ入りそこなった人は火の地へ行くに決まっているのです。

聖書に次のようにあります。

「これは預言者によって言われたことが、成就するためである。『私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』」(マタイによる福音書13・35)。

口を開くということは創造するということです。言われたらその通りになったと創世記の一章の初めにありますが、言葉の通りになったというのは、どういうことか。例えば、神が大空の上の水と下の水とを分けよと言われた。そのようになったとあるのです。地球の大空の上の水と地球の大空の下の水とが現在あります。大空の上の水は雲の上にある水です。雲は大空の下の水に属するのです。大空の上の水というのは、大気圏外のことを言っているのです。

大空の上には、第一原子である水素原子の極めて薄い膜があるのです。これが水です。水素原子があることが水があることを意味しているのです。ところが大空の下の水は、濃い水があるのです。これは水があるのではないのです。言(ことば)があるだけのことです。そのようになれと言った神の言があるだけです。

大空の下の水があるのではない。神が海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがってあるべきだと言われたら、そのようになったのです。熊がいるのではない。ライオンがいるのではない。神の言がそういう動物になっているだけです。

このことが分かった者は、天地を治めることになるのです。その人は死なないのです。これは何でもないことです。神の言が獣になっているのです。人間は言が肉になったのです。

これは神の言があるだけであって、人間がいるのではない。獣がいるのでも、水があるのでもないということが分かった者は、世々限りなく王となるのです。

これは簡単なことですが、この簡単なことが本当に分かるということはなかなか難しいのです。なぜ難しいかと言いますと、人間の肉の思いは強いからです。肉の思いが頭の中をしっかりと占領しているからです。自分が生きていると思い込んでいるのです。これは嘘です。人間存在は今という時間と、ここという空間とに現われている神の言があるだけです。これがなかなか実感できないのです。

神の言が宇宙に展開して、宇宙全体の運命を預言しているのです。これが分かった者は、神の元に帰れるのです。神の元から出たことが分かった者は、神の元に帰るに決まっているのです。神から出てきた者だから神が分かる。神によって生きているのです。神から出てきて神によって生きている。そして神に帰るのです。

神から出てきた、神からのものであり、神によって成り立っている。神に帰るのです。これが聖書全体のスケールです。こんなことは誰でも、よく考えたら分かることです。教えられるほどのことではないのです。

この世は欲の人間が色々考えて、ろくでもない世界を造っているのです。人間には考える力があります。考える力があるから、機械を造ることができるのです。これはコンピューターによって証明されてきたのです。コンピューターにインプットしておくと、記憶しているのです。インプットしておかなかったら、コンピューターは何の役にも立たないのです。ハイテクの原理はインプットされたものが実現するのです。ア・プリオリの原理がなければハイテクの技術が出てこないのです。

ア・プリオリとは基本ということです。人間の理性と良心が善悪利害を考える。これを考えるためには、その基本がなければならないのです。何を善と言い、何を悪と言うのか。その基本が何かということです。何に基づいて善悪と言うのか。神を信じるとは、何に基づいて神を信じているのか。

神の信じ方が本当に正当であることが、どこで証明されるのか。キリスト教が間違っている。世界中のキリスト教が間違っているという論拠はどこにあるかということです。

パウロは、私はキリストと共に十字架につけられたと言っていますが、キリスト教はそれを説いていないのです。十字架は人間を消してしまうものなのです。肉体的に生きている人間が消えてしまうのが十字架です。キリスト教はこれを教えないで、十字架を信じると罪だけが許されるというのです。こんなばかなことはないのです。

肉体的に生きている人間がいると考える。この人間は何の役にも立たないのです。人間の考えは人間を地獄へ追いやるだけです。間違いなく地獄へ追いやられるのです。人間を地獄へ追いやるためには役に立ちますが、それ以外には何の役にも立たないのが肉体人間の考えです。

肉なる地球は目に見える地球です。霊なる地球は目に見えるかどうか分からないのです。ところが、霊なるものがなければ、肉なるものが現われるはずがないのです。肉なるものというのは、霊なるものを証しするためにだけ役に立つものです。これ以外には何も役に立たないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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