top of page
検索
  • 管理人chaya

いちじくの枝が柔らかくなる


皆様は生まれる前に、天にいたのです。イエスが私は天から来たとはっきり言っているのは、出生の説明をしているのです。これが第一態の人間です。天にいたとき、私たちは神のペルソナを目の前に見ていたのです。目の前に見ていることによって、自ら神のペルソナが人間の精神構成の鏡になった。それが人間の精神構成になっていったのです。

人間の精神が構成されたのは、天におけるちりとして構成されたのです。天における個々のちりのあり方で、何を習ってきたのか。何を勉強していたのか。何を経験していたのか。ロゴスを勉強していたのです。これが今現われているのであって、自分が生まれたという事実はどこにもないのです。従って自分の個性はありません。

現世における人間の養育のされ方が違っていたので、個性のようなものができたのです。人間が個性と考えているのは、すべて肉の思いです。これを神が認めていないのです。個性もない。個人もないのです。個人とか個性という考えを許してしまうと、自分の命があることになるのです。

自分自身の独自の脳波がないように、個性とか個人とか言えるようなものはないのです。個々の人間があるように勝手に思っているのです。これが偽キリストの思想です。

私たちのグループはどこまでも一霊一体でなければならないのです。一つの霊、一つのボディーになるのです。個々の人間の立場を必要としないのです。個々の人間の立場を必要とするのはこの世です。この世はそれを必要とするのです。この世では選挙権は必要ですが、神の国では選挙権は一切いらないのです。一つの人格、一つの理想で生きているからです。

自分が生まれたのではないのです。人間はこの世に自分が生まれたいという念願を持ったことがないのです。生まれる前に、個性は存在しなかったのです。こういう原理に基づいて考えると、人格は一つと言えるのです。

五官になるとますます一つと言えるのです。砂糖が甘いと感じるのは世界中の人間に言えることです。砂糖が甘いというのは、世界中の人間が感じているのです。これは五官が一つであることを示しているのです。私は世界一周を二回しました。アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、南米、中南米、北米の国々を回り、色々な人と会い、色々なものを食べましたが、五官が一つであることを、よくよく実感しました。

こういう原理に、ルネッサンスは反しているのです。個々の人間を認めるということは、人間存在の本質に反しているのです。ユダヤ人もその間違いに、どうも気づいているようです。今の世界の文明が行き詰っている原因は、人権思想によるのです。これがあるために、にっちもさっちもいかなくなっているのです。ユダヤ人が蒔いた種が、ユダヤ人を苦しめているのです。

日本にはお天道さんという思想があります。これはアメリカにもイギリスにもロシアにもない思想です。これは日本人なら皆知っているのです。ご来光を拝むという思想です。この思想が天皇制を婉曲に、また直接に指摘しているのです。この思想が個々の家庭の生活内容に入りこんでいるのです。子供は学校へ行かなければならないと強制してしまった。これが実現したのです。これは天皇制のおかげです。

お天道さんと天皇制は一つのものです。あると言えばある。ないと言えばないのです。これが影のキリストです。ですから日本人が考えなければ千年王国は実現しないのです。日本から日出ずる所の天使が出現するのです。日本人を用いるからには、お天道さんの思想と関係があると言えるでしょう。日本の国枠主義、国家主義ではなくて、世界的な角度、地球存在の角度からの日本の国柄の認識を用いることになるでしょう。

神はなぜヨハネの黙示録の七章に、日本のことを書いているかです。イザヤとかエゼキエルという大預言者が、今から二千五百年も前に、日本のことを言及しているのです。このことについて、私たち日本人は認識を新たにする必要があるのです。

かつて紀元二千六百年という妄想、妄念がありました。日本としては妄念でしたが、二千六百年という考え方は、旧約聖書の妄想から考えると、イスラエルがメディアペルシアに滅ぼされて、ユダヤ人がペルシアにつれていかれたのが、だいたい二千六百年前のことです。

ちょうどそのころに日本では神武天皇が即位しているのです。第一代の天皇で、名は神日本(かんやまと)磐余彦尊(いわれひのみこと)、記紀によれば、日向(宮崎県)から瀬戸内海を経て、大和(奈良県)に入り、紀元六百六十年に畝傍(うねび)の橿原神宮で即位したと言われているのです。

イスラエルのサマリア王朝が滅んだ後に、日本で大和朝廷が誕生しているのです。ダビデと同じ紋章を日本の朝廷が用いているのは、サマリア王朝の流れが、日本で誕生したと思われるのです。

これは作り話だと言えない側面があるのです。日本はそういう国柄です。私たちに旧約聖書の根本原理が教えられつつあるというのは、実は私たちは表面に現われたイスラエルではなくて、影に隠れたイスラエルとして、神の約束の正体を教えられているのです。

名目はユダヤ人が持っているが、本体は私たちが持っているのです。幹でなくて枝が栄えている。こういう格好になっているのです。私たちはアブラハムの代わりに、日本でその役をさせられていると言えるのです。私という固有名詞の人物がいるのではない。アブラハムの代わりに神の福音を教えられているのです。

私たちは寿命がある人間の命を信じてはいけないのです。日本人の平均寿命は二〇一二年現在で、男は七十九才、女は八十九才と新聞に書いていましたが、寿命のある命を認めたら負けです。宇宙脳波が人間の脳波になっているのであって、個々の人間の脳波は神と接触しているに決まっているのです。

神は異邦人の時代を締めくくるために、日本に新しい思想を起こしているのです。日本から新しい思想が世界的に発言される時に、異邦人の時が終ります。そうしてイスラエルの時が現われるのです。私たちは異邦人の文明の幕を引くのです。と同時に千年王国の幕を開くのです。

ルネッサンスの歴史の幕を閉じてしまう。そうして神の国の幕を開くのです。この両方を神は私たちにさせようとしているのです。私たちはこのような大仕事をするのですから、一霊一体になるのは当たり前のことです。

脳波の格が人格です。脳の働きが五官です。格と働きがあるのです。例えば父なる神と御霊の神があるのです。言はまた別の働きがあるのです。父なる神は格です。宇宙の人格です。これはスローンポスト(throne post)と言うべきものです。これが働きとして現われると、御霊になるのです。神の御座から出る働きが、神の御霊(みたま)です。ロゴスから出る働きが言の御霊(みたま)です。言の霊と、父なる神の霊と二つあるのです。霊と霊とが接着して、一つの働きをする。これが三位一体の状態です。

霊と霊との接着ということは、人間の五官の内容を見ると分かるのです。父なる神の霊と、キリストの霊が一つの霊として働いている。これが女の本質である骨の骨と非常に大きい秘密になっているのです。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とあります。神のかたちにとは、神のイメージのようにということです。神のイメージとは男と女のイメージということです。

男と女の感覚の原点を見ると、とても大きいものになってくるのです。女の本質である骨の骨は何を狙っているかです。女は男の中に入らなければいけないのです。女のままでこの世を去ってしまいますと、その人は必ず火の池へ行きます。

女というものは本来存在していないのです。女は男の中へ入るものです。男から取られたから女と名づけられたのです。現世に生きている間に、女は絶対に男の中へ入らなければいけないのです。ところが、これがなかなか入りにくいのです。なぜかと言いますと、女の骨の骨は本性です。女の本性が願っている男はめったにいないからです。

私たちのグループは一霊一体にならなければいけないのですが、その中の女の人は精神的に男の中に入らなければいけないのです。女の人が男の中へ入るというのはセックスの問題ではないのです。霊的に、精神的に女が男の中へ入るのです。

イエスが言っています。

「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことが分かる」(マタイによる福音書24・43)。

ユダヤ人の動きによってキリストの再臨の時期が分かるのです。ユダヤ人の動きという言葉の中に、枝の動きが入っているのです。その枝が柔らかくなって、葉がでるようになると、夏が近いとありますが、夏が近いというのは、キリスト王国(千年王国)が現われるのが近いということです。

ダビデの家の枝が日本になって現われているのです。昔から日本の国のことを瑞穂の国と言いました。ミスホ、またはミズラホと言います。日が出る所をいうのです。

東にダビデの家の枝があることをユダヤ人は知っているのです。ダビデの紋章は十二弁の菊の紋章です。日本の天皇家は十六弁になっています。十六弁というのは分家の紋章です。本家の紋章は十二弁です。十二は完全数です。エルサレムのダビデの墓には十二弁の菊の紋章があるのです。

ユダヤ人がいるから聖書は神の言葉であると断言できるのです。ユダヤ人のことが聖書に書いてあるから、聖書は真実の書になるのです。従って、ユダヤ人のことが分からなければ、世界歴史は分からないのです。ユダヤ人のことが旧約聖書に書かれています。ですからユダヤ人のことを命がけで勉強する値打ちがあるのです。

ユダヤ人がいるということが、キリストの再臨の具体的な例証になるのです。枝が柔らかになると葉が出てくる。そしてやがて花が咲くのです。日本が聖書を読む国に参加してから、日本はめきめき良くなっているのです。

現代ではアメリカでも、日本のことを考えなければアメリカのことは成り立たないようになっているのです。また、ロシアもそうなのです。今、日本が東西両洋において、経済的に注目の器になっているのです。しかも戦争には関係がないと悠然としているのです。

日本では勝手なことが何でも言えるのです。これは枝が柔らかになっているしるしです。こういう客観条件を神が日本に対して造ったのです。そうして私たちを押し出そうとしているのです。これは全く神の処置です。神の処置であると考えて皆様が一致協力すれば、皆様の信仰のとおりになるのです。

リビングが人間の本質です。リビングのシールが永遠の命です。リビングとは存在です。存在を最も適格に表現するとリビングになるのです。リビングの半分は存在であり、半分は思想(論理)です。思想と存在の真中に立っているのが、私たちです。存在が思想を証明する。また、思想が存在を証明するのです。これは宗教観念とは全然関係がないのです。アブラハムの信仰とぴったり一致しているのです。

アブラハムの思想がそうだったのです。モーセになったらもうだめです。アブラハムの思想は信仰と存在とが一つになっている。これがわが前です。

脳波の中に万物がある。万物の頂点に脳波があるのです。今の地球が存在していることが人間の脳波になっているのです。脳波を人格や存在と関係なく受け取っていると、やがて止まります。人格があること、五官があることが命であると分かりますと、脳波の内容が変ってくるのです。そしてエホバの御名、神の御名がその人の脳波の中に入ることが、いちじくの原点になっているのです。そうして枝がいちじくの本家になるのです。枝が柔らかくなる時に、いちじくの本当の時期がきているのです。

枝が柔らかくなるということは、一時的に枝の方が本家になるということです。これがユダヤの中心になるのです。枝が中心になって千年王国が現われるのです。いちじくの枝が柔らかくなって葉が出てくると、実がなるのです。実の中に花があるのです。皆様が選ばれて、現在神から直接教えられているということが、花が開いていることです。

神から教えられて、それが実践実行できて、自分自身の信仰になるということが、枝に実ができていることなのです。

自分自身が神に導かれている状態を、じっと見たらいいのです。自分が生きているということは、実が結んでいるということです。自分が生きていることの実体を勉強すれば、花が開いている事が分かるのです。

自分が生きているということの中に、花が開いているのですから、これを見ればいいのです。私たちが神によって現在導かれているということが、花が開いていることなのです。これを冷静に認識すれば、救われるのです。

個々の人間の立場を捨てて、ただ冷静に認識するという条件だけがあればいいのです。自分自身の立場を持たないことです。私たちの群が花です。個々の人間のことを考える必要がない。ただ群だけがあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:10回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

本当の恋

女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。 エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。 見るにうるわ

bottom of page