宇宙には周波数の働きしかありません。これが言(ことば)の働きです。思想も物質も同じです。周波数を受けとめる機能をマインド(精神)というのです。これが人の子です。言が肉となったというのはこれを意味しているのです(ヨハネによる福音書1・14)。
私たちの本体は周波数です。これが肉となっている。肉というのは外形の形態であって、形態だけが周波数とは違うのです。人間のマインドの現われが、周波数になっているのです。
肉はないけれど、人間の精神によって勝手に発生しているのです。実体的には実在していない。これが形です。これを般若心経は色即是空とはっきり言っているのです。
般若心経の思想は、見事な思想です。非常に概念的、抽象的な思想のように見えますけれど、非常に科学的な思想です。
ヘブル人への手紙の十一章三節で、「もろもろの世界は、神の言葉で組み立てられている」と言っています。「見えるものは現われているものから出て来たのではない」と言っているのです。これは非常に重要な意味がありまして、周波数を説明しているのです。これが分かると初めて自分の本体が分かるのです。
言が肉となっている。肉となっているというのは、人間の感覚になっているということです。
周波数が肉となっている。これは形態だけの問題とは違うのです。感情的にも、理性的にも、感覚的なものも、周波数の現われです。感覚とか意識というのは、皆周波数の問題です。
人間は言ではないが、言が肉となったということが、人間になっているということです。人間になっているという面を捉えると、人の子とは違うのです。
言が人間になっているというのは、あり方の問題です。周波数を受け止める機能が人の子であり、人間は人の子を肉の面からだけ見ているのです。
ローマ人への手紙の十章九節には、「イエスが主であると自分の口で告白し、心で神がイエスを死人のうちから甦らせたと信じる」とあります。これは魂の働きを示しているのです。
ヘブル人への手紙の十一章三節は、御霊の働きを示しているのです。
人間のマインドは神の周波数を受けて、それを変質、変態させることができるのです。それをどのように変質、変態させることができるのか。受け止める能力が精神です。これに気づいた時に人の子になるのです。
私たちは人間をやめて、人の子にならなければいけないのです。人間はどこまでも蛇の末です。人の子にならないと女の末にならないのです。人間は人の子のなるために存在しているのです。
イエスが主であることを、口で言い現わす。そして神がイエスを死人の中から甦らせたことを信じるのです。
心で信じて、口で言い現わすのです。
まず、イエスが主であると言い現わすのです。そうすると、主であるという事実が心の中に起こってくるのです。主という認識が起こってくる。そうすると、自分の心に主が発生するのです。主が発生したことによって、主の御名を呼び求めることができるのです。
主が発生しなければ、主の御名を呼び求めることができないのです。
主の御名を呼び求めなければ、救われないのです。ところが、主の御名を呼び求めることの発端がどうしてできるのか。口でイエスが主であると本当に言い現わせるかどうかが問題です。
十五節に、「ああ麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は」と書いています。これが分からないとだめです。
イエスは、「新しく生まれよ、生まれ直せ」と言っています。生まれ直すことができないといけないのです。
ラーメン屋の前に行くと、ラーメンの味と香りがします。これが十五節のことです。味の世界、香りの世界という、全く違う世界が開けてくるのです。お風呂に入っている時もそうです。
良き訪れを告げる者の足の麗しさを直感した時に、心は赤ちゃんに帰っているのです。そうするとイエスが主であると言い現わすことができるのです。
イエスが主であるというためには、イエスがなぜ主であるかを、まず知らなければならないのです。ただ思想的に分かり、論理的に分かって、イエスが主であると言ってもだめです。
周波数の原素が原理となって作用する。そうすると原則が発生するのです。神はこれを私たちに理解させようとしておられるのです。これを私たちが正当に理解できたのなら、世界に命の波紋が広っていく原点になるのです。これは非常に重大なポイントです。
周波数ができる原素があるのです。この原素の受けとめ方が原理です。原素を受けとめる原理が分かってくると、原則が発生するのです。
ユダヤ人を初めとして、人類の中から若干の人が選ばれることになるのです。
イエスの弟子たちが、イエスに、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と聞いています(使徒行伝1・6)。
イスラエルの復興と言いますと、ソロモンの当時のようにすると思われるのですが、これは復興とは違うのです。キングダム、王国が実現することです。現世の国が復興するのではありません。
イスラエルが持つべき本当のキングダムが、現われるのです。本当はモーセの時にキングダムが来るべきだったのです。それをユダヤ人は受け取りそこなったのです。モーセがキングダムではない人間の国を受け取ってしまったのです。そのために間違ってしまったのです。
ソロモンの時はキングダムに近いものだったのですが,内容的に精神が伴っていなかったのです。だからキングダムと言えるようなものではなかったのです。
弟子たちは復活したイエスが目の前にいるので、復活したキリストに対して、国をイスラエルに、いつ返したもうか、いつキングダムをイスラエルの所へ持っていくのかと聞いたのです。イスラエルをキングダムの状態になさるのかと聞いたのです。
キリストはそれに対して、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなた方の知る限りではない」と答えているのです(同1・7)。
キリストが返そうと思っても、ユダヤ人の気持ちがそこになかったらだめです。キングダムというのは、ユダヤ人自身の本心がローマ人への手紙の十章十五節の状態にならなかったらだめです。良き訪れを告げる者の足は麗しいということが分かったらいいのです。
神とつきあっていたら、苦しくても悲しくても、乗り越えていけるのです。生きている間中、ずっと神とつきあうようにしたらいいのです。
専門学は王国の指導原理にはなりません。私たちが王国の指導原理を提示しなければならないことになるのです。他に王国の指導原理を提示する人がいないからです。だから預言の霊を受けなければならないのです。
タルムードではなくて十戒が重要です。これが千年王国の世界の憲法になるのです。その時に、どういう世界が現われるのでしょうか。
イエスは「あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」と言っています(マタイによる福音書6・22)。英訳では、if therefore thine eye be single,thy whole body shall be full of light.となっています。
ホールボディ(whole body)がフルオブライト(full of light)にならなければ、天使の上に立つことができないのです。天使は機能であって、機能的にしか働かないのです。バラの木にはバラしか咲かない。それ以外には働かないのです。天使はとにかく融通がきかないのです。
現在の混乱した人間文明は、自滅するに決まっています。やがてイスラエルの王国が実現します。王国はイスラエルを中心に展開するに決まっています。
今までの共産主義や資本主義というインチキででたらめなものではなくて、全く新しい指導原理になるでしょう。
新しい世界を天使とか天使長という機能的なものに任せないのです。天使長に任せたから、今のような世界になったのです。今度は、新しい人々に任せようとしているのです。私たちが神をどのように受け止めるかということです。
聖書の勉強は、概念の世界に落ち込みやすいのです。これに気をつけなければいけないのです。
ユダヤ人は神が約束したのですから、約束から逃れることができない、約束の民であることをやめることができないと考えていますが、これは全く三百代言の理屈です。彼らは約束という言葉の使い方を知らないのです。
例えば、日本人の場合なら、日本の法律に従うことが必要です。自分は好きで日本人に生まれたのではないから、日本の法律に従う必要がないと言って、平気でいることもできないのです。日本人であることは、その人の霊魂と関係がないのです。
ところが、ユダヤ人の場合は違います。約束というのは契約関係であって、相互契約を意味するのです。与えた方は与えた責任と義務があるのです。また受けた方も受けた責任と義務が生じるのです。それを果たしていない場合には、約束の民であることを自動的に解約されてしまっているのです。
もし、ユダヤ人が本当に約束の民であるなら、アウシュビッツのような大量虐殺は起きなかったでしょう。もしユダヤ人が約束の民であるなら、神はユダヤ人を助けにくるはずではないかという異邦人の言い分は正しいのです。約束の民なら神が助けなければならない責任があるのです。助けに来ないということは、彼らは既に約束を解除されているのです。
セックスとは何か、セックスを享楽的にすることは、けしからんことです。情欲的な感覚で女を見ることは姦淫になるのです。最高のものを、情欲として扱ってしまうからです。命の最高の味わいを、情欲として扱うことになりますと、救われないことになるのです。
肉の思いは死であるとはどういうことか。肉体的に経験した感覚を本当だと思う。肉体が存在していると考えて経験し、それをそのまま記憶していると、悪魔の記憶と同じ記憶になるのです。神が悪魔の記憶を滅ぼす時に、その人も一緒に滅ぼされることになるのです。
霊的に記憶するとはどういうことか。悪魔の記憶から逃れるためにどうすればいいのか。これは命の根本に係る大問題です。
私たちはメロンを食べると、その味のすばらしさを感じることができるのです。それをとこしえの命に結びつける方法を知らないのです。桃の味のすばらしさを知ることができるけれど、それが自分のとこしえの命にどうして結びつくかということです。
人間はいつもおいしいものを食べたいと思います。おいしいものを食べたいとなぜ思うかと言いますと、永遠の命をつかまえたいと思っているからです。
人間はただおいしいものを食べたいだけと思っているかと言いますと、そうではない。五官の味わいは、とこしえの命の味わいを味わうことができる本性を持っているのですから、これがすばらしいのです。
いい服を着たい。いい車に乗りたい。いい家に住みたいというのは、永遠の生命につながっているのです。この一番端的なものがセックスです。上等の料理もおいしいのですが、セックスの味わいは独特のものがあるのです。
これは生まれる前の味です。肉の肉の味わいは生の生の味わいです。肉の肉の味わいが、骨の骨の味わいです。陥罪前のアダムはこれを見破ったのです。
肉の肉は生の生です。骨の骨の味わいは、新しい命を生み出すための必然的な味わいです。
目で見たこと、耳で聞いたこと、手で触ったことが初めからある命の言だと言っています。ヨハネもパウロも同じことを感覚していたのです。
パウロがローマ人への手紙の十章で書いていることを、ヨハネはヨハネの第一の手紙の一章で書いているのです。同じことを書いているのです。
イエスは神の子です。神の子は水と血とによって来るのです。水だけでなく、血を兼ねていたとあります。水と血と御霊(みたま)が証しているのです。
そうすると肉体はなくなってしまいます。生きていることが霊になるのです。目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが霊になるのです。
神の言が開かれると、それがそのまま人間の命になるのです。これを命として受け取らずただの話として聞いてしまうと、呪われるのです。
福音は神の言葉が直に、人間のハートに働くのです。神の言葉の持ち味が、直に人間のハートに作用するのです。これがイエスの証です。イエスはこういう感覚で生きていたのです。イエスの証は預言の霊です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)