top of page
検索
  • 管理人chaya

ノアの洪水


ノアの洪水ということの意味が、現在のキリスト教の人々、神学者、歴史学者に、全然分かっていないのです。これは大変な意味があるのです。これはバプテスマを授けられた事と同じです。バプテスマを授けられた事に対して、今のキリスト教はただの儀式としか考えていないのです。そういう事とは全然違うのです。

イエスが水から上がった時に、聖霊が鳩のように下ったということを考えてみても、水のバプテスマの持つ意味の大きさが分かるのです。人間に対して神からの決定的な和解のしるしを与えたのです。

この和解のしるしとはどういうものかと言いますと、実はノアの洪水の昔に帰ったしるしです。神が和解したのです。神が和解するようなレベルの信仰をイエスが見せたのです。この時初めてノアの洪水の意味がイエスによって正しく理解されたのです。

洪水の意味がイエスによって正しく理解されたので、神がそれを良しとした。そのしるしが聖霊が鳩のように下ったのです。この時神は、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と言っていますが(マタイによる福音書3・17)、これと同じことを神が変貌山の時にイエスに言っているのです(同17・1)。

イエスの洪水の受け取り方が、変貌山のイエスと同じ状態です。私たちもイエスのように光輝く者にならなければいけないのです。私たちはどうしても、新約聖書が示す標準どおりの信仰にならなければいけないのです。絶対にそうならなければいけないのです。難しいとか何とか理屈を言ってはならない。聖書を勉強する者は全員、変貌山のイエスの信仰にならなければいけないのです。そうしないと水のバプテスマの意味が徹底しないのです。

ノアの洪水の後に、神が色々な事を言っています。これに対する考えが甘いのです。キリスト教的なセンスを全部洗い出さないといけないのです。水で造られた地球が水で消えてしまった。これがノアの洪水の事件です。神の約束の次元が変わっているのです。

創世記九章の契約は人間に対する契約ではないのです。人間を含めた生き物全体に対する契約なのです。それを人間に対する契約として、勝手に自惚れているのです。そうすると、ノアの洪水とはどういうものだったのかということです。人間を中心にした契約と考えてもいいのですけれど、人間を中軸にして、その回りに生き物が集まっているのです。

ノアの箱舟の状態です。あらゆる生き物が集まっている。これに対して神は契約を与えたのです。だから、人間だけに対する契約とは違います。従って創世記の一章二十六節、二十七節には何の関係もないのです。これはキリスト教神学に対する全く新しい、一大警鐘になるのです。新約聖書のイエスの言葉を引用すると分かりますが、キリスト教神学の大刷新が必要です。

イエスは伝道の第一声で、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言っています(マルコによる福音書1・15)。また、「私が神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と言っています(マタイによる福音書13・28)。神の指示によって悪霊を追い出したとすれば、神の国はそこに来ているのです。新約の時代とはどれほど高いものかということです。

私たちは今まで現世で生きてきました。いよいよこの世から巣立ちする時が来たのです。この世を後にして、神の国に巣立っていくことになるのです。神は私たちを、本来神の民にあるべき状態にさせようとしているのです。従って、全く今までの自分自身のイマジネーションを捨てて頂きたいのです。

本当に頭が良い人なら、現在の人間のイマジネーションがおかしいということは、分かるはずです。もうだいぶ前に亡くなられた奈良女子大の岡潔教授もそのことを言っておられました。

点と場はあるけれども面積はない。こんなおかしな事はあるはずがない。場があれば面積があるはずです。面積があるから場があるのです。場があるけれども面積がないというそんなインチキな理論を、数学者はなぜ認めるのでしょうか。場があるけれど面積がないという概念を承認しなければ、数学の理論が成り立たない。これ一つを考えても、現在の人間が生きているのは、インチキな世界であることははっきりしているのです。

ありえないことを、ありうるように思い込まさなければ、学問という概念が成立しないのです。これが虹の契約の特長です。犬の嗅覚は人間の嗅覚の一千万倍の性能があると言われているのです。嗅覚の分析をするのです。従って人間が感じる嗅覚の一千万と言えるほどの範囲があるのです。これが虹の外の世界です。虹の外の世界には、そういう奥行きや面積があるのです。このことは目についていても言えますし、耳についても言えるのです。味についても、栄養価についても言えるのです。

私たちが考えている世界は、本当に限定された、小さな世界だけしか意識することができない世界です。人間はそういう世界、限定された牢獄の独房に押しこめられて、それだけが世界であるような感じを持たされているのです。肉体生活だけが人生だと思いこまされてしまっている。幼稚とも何とも言えないような、ばかげた錯角に陥っているのです。

ノアの洪水以後の人間のイメジネーションというのは、虹の範囲に限定されているのです。犬には犬のイマジネーションがあるのです。象には象のイマジネーションがあるのです。鳥には鳥のイマジネーションがあるのです。イマジネーションにはそれぞれ違いはありますけれど、人間で言うなら、人間が見ている虹のイマジネーションの範囲しか見えないのです。あらゆる生き物のイマジネーションを全部プラスすれば、神の国になるかもしれないのです。神の性格がそのまま現われているのが万物です。これが統合されて元に帰るのですから、神になるのです。

虫けらでも、それぞれのイマジネーションを持っているに決まっています。海の魚、空の鳥、地に這うものはすべて、それぞれのイマジネーションを持っていますが、それを全部合わせると神のイマジネーションになるのです。私たちは神のイマジネーションをイマジネーションとして生きなければならないのです。風にもイマジネーションがあるでしょう。波にもイマジネーションがあるでしょう。これが分からなければ、風や波を叱ることはできないのです。

私たちは、画時代的に、全く画次元的に、新しい次元の人間として、御霊に導かれていくことになるでしょう。従って、肉体的にこの地上にいた自分の人生を忘れて頂きたいのです。こんなものは錯覚の自分だったのです。

今までの人生経験はそれなりに意味があるのです。それは新しい次元的な展開において、もう一度検討して頂きたいのです。神からの新しい霊の光によって、もう一度検討しなおして頂きたいのです。

私たちの存在のままで、次元的に上ってしまうのです。今までの生き方、生活の経験というのは、非常に低次元の意識でした。ヨハネの黙示録の第四章四節にある二十四人の長老の経験でした。これが分かりますと、喜んで私たちの霊(人生)を明け渡せるのです。

人間と長老の関係はどうなるのか。一体魂とは何かということです。これは二十四人の長老のことです。四人の長老と二十人の長老とが、黙示録全巻を通して大活躍をしているのです。ある時は長老、ある時は生き物が、御座に対して進言しているのです。長老が万物に命令しています。

人間は私たちが思っているようなものとは違うのです。聖書を学んで、イエス・キリストの変貌山のあり方を基準にすべきだという、大それたことを考える者は人間でないのです。肉の生き物として十把一からげに虹の契約をたてられる者とは違うのです。独自の存在です。

今までの自分は動物次元のものだということを、まず考えることです。従って、今までのイマジネーションに基づいて理屈を言ったり文句を言ったりしないことです。今までのイマジネーションということ自体が、根本的に神によって葬り去られたイマジネーションです。エノクの時代とは全然違うのです。

エノクの時代は、良心の時代、理性の時代でありまして、理性や良心が正常に働いていましたが、現在は正常に働いていないのです。まず自分の考え違いを修正することが基本になるのです。今までの自分の気持ちで質問をしているのは、自分が理解したいので質問しているのです。

今までの自分の理解というのは、神が否定してしまった人間のイマジネーションですから、そんなイマジネーションで分かるとか分からないとか言ってもだめです。それは十把一からげにした肉の生き物の考えです。

肉の生き物ではない、人の子になるのです。「人の子よ帰れ」と神が呼びかけている人間の意識に立つのです。今の皆様には正確にその意識は分からないかもしれませんが、今までのイマジネーションは亡霊のイマジネーションであると考えて、一切こだわらないことです。そういう考えを自分で錬成して頂きたいのです。変貌山のイエスのあり方が当たり前だと考えて頂きたいのです。今生まれた幼子という気持ちで生きるのです。

神がしたのは対人契約ではありません。これは神が決めたこと、またそのような原理を設定したことを意味するのであって、神は創世記の六章七節で、次のように言っています。「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、私はこれらを造ったことを悔いる」。この場合の人というのは、神にかたどりて、神のかたちのようにという神の理想に基づいて造られた人をさしているのです。この人を地からぬぐい去ろうと言っているのです。

これは九章にある生き物を含めた人とは違うのです。九章の方は人間のイマジネーションが間違っている。獣と同じ状態になっている人をさしているのです。

今の人間は獣と同じ状態の自分を見ているのです。唯物主義的に、人間も動物も同じだという概念を持っています。ホモ・サピエンスというのがそれです。ホモという概念が成立するのは、創世記第九章の人間です。現在の人間の人間像で言えば、九章になるのです。六章は神が創造した人間であって、これは現在の社会には一人もいないのです。

一章二十六節、二十七節は預言的な意味が非常に強いのであって、二章七節の命の息を鼻から吹き込んだという意味での人間、リビング・ソールとしての人間でさえもないのです。

そこで人間を動物存在と見て、人間という動物はあらゆる動物の総合的な形の良さと悪さを持っているのです。だから虹の契約を人間に与えたと仮に神が言ったとしても、なおそれは人間だけを意味しないのです。

現在の人間は、猫のような所もありますし、犬のような所もある。熊のような、象のような所もあるのです。地に這うあらゆる生き物を総合したような感性を持っているのです。だから契約を人間と生き物全体に与えたと言っても、人間だけに与えたと言っても、同じことです。生き物を代表するポイントが人間です。人間というあり方が、生き物全体を意味するのです。これは創世記二章七節の、鼻から命の息を吹き込んだ人間とは違うのです。

結局、ノアの洪水によって神が創造した人間の歴史は終わったのです。洪水の後に、動物人間の歴史が始まったのです。洪水が始まった時点において、神が創造した人間の歴史は終わったのです。良心時代、理性時代と言える時は、完全に終わってしまったのです。

ノアの場合には人間が二重性になっているのです。動物の代表者である人間と、エノク時代の人間の残像がある人間と、だぶっているのです。セム、ハムはエノク時代の人間に触れた記憶があるに決まっているのです。そうすると洪水以前の人間のイマジネーションがあったと言えるでしょう。

洪水以前と洪水以後とではどのように違うかと言いますと、端的な言い方が許されるとすれば、洪水以後は第二の創造という言葉が使えるかもしれないのです。これは現在の地球が消滅した後における第二創造ではなくて、現在の世界における第二の創造と言えるのです。創世記第一章の人間創造を第一の創造とすれば、第九章は第二の創造になるのです。

神は改めて、人間と生き物を造ったのです。これが虹の契約です。これはある意味で悪魔が勝ったという信号です。それまでの歴史とは全然違った歴史になったのです。人間が変わったように、動物の質も変わったのです。

洪水以前の世界が洪水以後に持ちこされたのとは違うのです。形はそうですけれど、洪水以前の生き物の状態が洪水という画時代的なできごとによって、別の存在になってしまったのです。だから食べ物から生き方まで全部変わってしまったのです。

ノアの洪水は、創世記第一章と第二章によって言われていた第一の創造ではない、次元の低いものになってしまったのです。動物も人間も全体が、低次元の存在になっているのです。悪魔の王国と言ってもいいような次元になってしまったのです。神はかろうじて参画はしていますけれども、原理的にはほとんど悪魔が牛じってしまったという世界が現われたのです。これが洪水以後の状態です。

神が負けたのではないのです。仮に洪水の時にノアがいなかったとする。ノアの家族とすべての人間が滅ぼされてしまったとしますと、悪魔が勝って人間が全部滅んだのですから、神が負けたことになる。悪魔が最終的に神の計画をこわしてしまった。そこで悪魔が勝ったことになるのかというと、そうではない。エノクがいるのです。

エノクは神と共に三百年歩んだのです。三百年というのは地上における人間の天寿です。百というのは現象世界の完全数です。三は神に対する数です。三百というのは人間に与えられた寿命の完全数です。その間、エノクは神に生き通したのです。

その事によって、エノクはキリストであり得る準備が、完全にできていたのです。ですから洪水によって人間が全部死んだとしても、やはり悪魔の負けです。エノク一人が目を覚ましたからです。一人でも目を覚ましたら、ルシファーの代わりはできるのです。だからルシファーの負けです。死んでない人間を一人でも造ったら悪魔の負けになるのです。

洪水の時に神は第二段の悪魔が承知するような、悪魔が承認できるような第二世界を造ったのです。第一世界は滅んだのです。そして、第二世界ができたのです。現存する世界は第二世界のことです。私たちはそういう人間を見て、ホモだ、サピエンスだと言っているのです。全然世界が違っているのです。

ところがこの第二世界が十字架によって、また新しくされた。今や洪水の後の世界はないのです。本当は私たちは虹の契約に束縛されない存在になっているのです。こういう人間にならなければいけないのです。

この世界は反(アンチテーゼ)がなければ、無限に発展しないのです。ところがアンチテーゼがあれば、必ず第二のルシファー(神に反抗する者)が生まれるのです。そこでアンチテーゼはあるけれども、絶対に第二のルシファーが発生しないという理想世界が必要なのです。発展はあるけれども、反逆はありえないという確証を神が求めているのです。だから第一世界、第二世界を神が造っているのです。これが二十四の長老です。二十四というのは完全数です。ヨハネの黙示録の第四章の天の光景は驚くべきものなのです。

皆様が二十四人の長老の自覚をお持ちになれば、皆様自身の中にあるアンチテーゼは皆様自身の信仰によって克服されるでしょう。皆様自身のアンチテーゼが、皆様自身のテーゼによって克服されて、ジンテーゼがどんどんできていくのです。これが正当な意味での預言の霊です。イエスの中には預言の霊が働いていたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:10回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

本当の恋

女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。 エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。 見るにうるわ

bottom of page