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ヨエルの預言(1)


人間にはイエスを信じる自由を与えられているし、また、悪魔を信じる自由も与えられている。どちらにしても、人間の本性はないのです。人間の本性は全く空白です。悪魔を背景にするか、イエスを背景にするか、どちらかです。イエスを背景にしなかったら、悪魔を背景にしているに決まっているのです。

霊であるか肉であるかの違いです。こういう非常にきわどい、いわば剣の刃を渡るような時代です。渡りそこなったら、ずばりと切られてしまう。一刀両断にされてしまうのです。

渡れば大成功であって、イエスと同じ者とみなされて、第三の天において神の右に座する位を与えられるのです。第三の天において神の右に座する位というのは、驚くべき栄光です。全く驚くべき栄光です。私たちはこの栄光を何としても自分のものにしなければならないのです。自分の実感にするのです。これが必要です。

私たちの信仰はまだまだ低いものです。信仰と言えるものではないのです。聖書の端くれがちょっと見えかかっているというだけのことです。ヨエルの預言にどういうことが言われているかを見て頂きたい。そうすると本当の信仰とはどういうものかが分かるのです。

ヨエルは次のように預言しています。

「神がこう仰せになる。

終わりの時には、

わたしの霊をすべての人に注ごう。

そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、

若者たちは幻を見、

老人たちは夢を見るであろう。

その時には、私の男女の僕(しもべ)たちにも

わたしの霊を注ごう。

そして彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ、

下では、地にしるしを、

すなわち、血と火を立ちこめる煙とを、

見せるであろう。

主の大いなる輝かしい日が来る前に、

日は闇に、月は血に変わるであろう。

その時、主の名を呼び求める者は、

皆救われるであろう」(使徒行伝2・17~21)。

私の霊をすべての人に注ぐとありますが、注ぐとはどういうことかということです。すべての人とはすべての肉ということです。英訳では all flesh になっています。大体人というのはいないのです。人は肉の代表者です。肉を代表するのを人と呼ぶのです。人間というのです。これは人の子ではありません。人間です。人間と人の子とは違います。

人の子というのは、神の子である意識を与えられた状態をいうのです。例えばエゼキエルという預言者を神は人の子と呼んでいます。そのように人の子と言われるのは、神の預言を託されるくらいの資格のある人間のことをいうのです。普通の人間とは違います。

人間とは肉体的に生きている人間のことです。肉体的に生きている人間というのは、すべての肉の代表者です。だからすべての肉にわたくしの霊を注ぐということを、すべての人にと訳しても間違ってはいないのです。人間に神の御霊が注がれるということは、万物に注がれることを意味するのです。人間は万物の代表者だからです。だからすべての肉に私の霊を注ぐということを、すべての人にと訳しても間違っていないのです。

人間に神の御霊が注がれているということは、万物に注がれることを意味するのです。人間は万物の代表者だからです。だから、すべての肉に注ぐという感覚を持って受けとめなければならないのです。

皆様の肉体とは何か。時間と空間の成立要素がそのまま人間の格好になっているのです。空間的要素と、時間的要素の両方が固まっているのです。これを仏教では因縁と言っています。因縁が所生しているのです。因縁の塊が人間の肉体です。

人間の肉体という特別のものは実在しないのです。例えば皆様が食べるもの、米とか野菜とか魚とかいうものが肉体に化けているのです。太陽光線、空気、水が肉体に化けているのです。さらに時間があるということが、命があることを意味しているのです。

そのような時間の成立要素と、空間的構成要素が加わって、人間の肉体があるのです。人間の肉体があるのではなくて、構成要素があるだけです。ただ、万物は神を意識することができないし、神の知恵を学ぶことができません。人間にはそれができるのです。それが違うだけです。

そこで神の知恵、知識を学ぶことができる人間は、当然万物の代表者として学ばせられていることになるのです。自分が学んでいるのではないのです。万物を代表して学んでいるのです。神の言葉を学びそこなった人は、万物に対する責任を全部負わされるのです。これが地獄です。自分の罪だけで苦しめられるのではない。万物の嘆き、万物の苦しみが全部その人の魂を苦しめる結果になるのです。

人間ずらをして生きているということは、それほど恐ろしいことです。魚を取ってきて刺し身やてんぷらにして食べます。そんな権利を誰が与えたのか。魚にしたらいい迷惑です。それを人間は堂々としているのです。うまいといって舌つづみを打つのです。神はそれを許している。なぜ許しているかというと、皆様が魚を成仏させる資格があると認定しているから許しているのです。

神の期待に背くことになりますと、魚の怨念が全部皆様に集まるのです。釣った魚が皆様を恨むことになるのです。魚だけではありません。イモでも豆でも、人参でもゴボウでも、レタスもキャベツも、とにかくその人が飲んだもの食べたものが、全部その人の敵に回るのです。

責任を果たした人には、飲んだもの食べたもののすべてが、その人の魂を賛美するのです。この人が現在の地球が消えた後にできる新天新地の王になるのです。皆様は万物に賛美されるほどの信仰を持つか、万物に呪われるほどの罪を重ねるか、どちらかになるのです。

人間は本当に恐ろしい存在です。「すべての肉に私の霊を注ぐ」という短い言葉の中に、こういう意味が含まれているのです。私の霊を注ぐとありますが、注ぐとはどういうことかです。神の御霊によって万物が造られたのです。現在既に神の御霊によって万物は造られているのです。旧約時代にもそうでした。ところが、イエスが復活して昇天なさるまで、または聖霊が降臨なさるまでは、御霊によって万物が造られていたけれども、御霊が万物の中に閉じ込められていたのです。

万物が生きているという形においては、御霊の働きはあったのです。例えば地球が回っていた、太陽が輝いていたというのは御霊の働きです。そういう意味では御霊の働きがあったのですが、まだ注ぎ出されてはいなかったのです。地球が回っているという状態だけに限定されていたのです。物理的な働きだけに神の御霊が限定されていたのです。

ところが、注ぎ出すというのは、その肉が破れたことになるのです。肉が破れて、満々たるプールの水があふれ出すような方法で、流れ出したのです。何億立方メートルとも何十億立方メートルと言えない巨大なプールの一角が破れて、水がほとばしり出ますと、恐ろしい鉄砲水になります。家や木はむろんのこと、あらゆる物を流してしまう勢いになるのです。今まで物理的に隠蔽されていた神の御霊が、心理的に恐ろしい勢いで流れ出したのです。

神の御霊は元来、物理的な働きの意味と、心理的な働きの意味と、両面性を持ちたもうのですが、それが旧約時代には物理的な面だけに限定されていたのです。それがイエス・キリストの復活と昇天、聖霊の降臨によって、すべてのものに御霊が注がれた。「私が父の元に行ったら、私のかわりに真理の御霊をおまえたちに注ぐであろう」と言っていたことが実現したのです。これは恐ろしい恵みです。

新約の時代、イエス・キリストの時代は、神の恵みの御霊の大氾濫時代です。そこで私たちが今、御霊の恵みを受けて聖書を見ることができるのです。ヨエルの預言というのは、旧約から新約への端境期になるのです。

ペテロが聖霊降臨の直後において、ヨエルの預言を引用して話したのです。これはもちろん神の処置であったのですが、ペテロ自身もヨエルの預言の意味が本当にどこまで分かっていたのか、どのように自覚していたのか、不明です。とにかくヨエルの言葉を引用して、今私たちがブドウ酒に酔っぱらったような形になっているのは、肉の酒ではない。天来の酒なのだと言ったのです。

かつて、アブラハム以来、二千年の間、イスラエルの歴史に未だかつてなかったような大事件が起こった。これはまさに驚天動地という言葉が使えるような大事件なのです。宇宙全体のあり方が全く変わってしまったのです。旧約と新約との転換というのは、肉のこの世から、一気に神の国に歴史がつっこんでしまったような状態になっているのです。肉のエルサレムが霊のエルサレムに変わったという、全く驚くべき事なのです。

例えば、初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は即ち神である。その言によって万物が造られた。造られたもののうち、一つとして言によらないものはなかったとあります(ヨハネによる福音書1・1~3)。言によって万物が造られたという堂々たる宣言も、新約の光でありまして、旧約時代にはこのように言われていなかったのです。

天地創造の大秘密が、一気に展開されたということは、物質的に構成され、物理現象として展開されているこの現象世界が、霊理現象にいっきに高揚されたのです。ここに天地万物の絶対的と言えるほどの発展的進展が展開されたのです。物質現象として展開された世界が、発展的に解消して、霊理次元の世界が現われたのです。これが十字架によるのです。十字架の奥義が、神の御霊によって遺憾なく実証されたのです。

私たちの霊をすべての肉に注ぐというのは、関が切れたように、一気に神の御霊の光が物象的な万物を押し流して、その後に霊理現象的な大世界が忽然として現われたのです。

すべての肉に私の霊を注ぎ出すというのは、そういう現象です。信仰の眼によって霊の眼を開いて現在の世界を見れば、正にこういう世界が実現しているのです。これが旧約のあらゆる預言者が押し計り、尋ね求め、さんざん苦労して願い求めていたその答えが、聖霊降臨というすばらしい神的事実によって、具体的に現われた。これが神の国です。

神の国が現われたということは、いわゆる過去完了ですが、同時に未来完了にもなるのです。聖霊降臨によって、神の国が現われることになったのです。しかしまだ現われていないのです。だから未来完了でもあるのです。過去的事実ではあるが、同時に未来的事実でありうるということが、新約時代、教会時代の秘密です。

この事実に眼がさめた人、この事実が実感的に感じられる人を、預言者というのです。これが新約の預言者です。旧約の預言者はこのような事実がありうることを預言した。新約の預言者はこのような事実が成立したことを預言するのです。

やがてこれが具体的に実現することを世界に宣布するのです。すでに聖霊降臨によって、預言が実現してしまっているのです。それが具体的事実として、やがて全宇宙に顕現することは、明らかなことです。このことを私たちはイスラエルに示さなければならないのです。これがイスラエル伝道の中心ポイントです。

神の国が来ているということは、十字架を信じて、イエスがキリストであることを受け入れなければ、魂の事実として実現しないのです。イエスがキリストであることを信じなければ、既に現われている神の国を、具体的に見ることはできないのです。

既に現われているということと、具体的に見るということとの間には時間がいるのです。これが二千年間です。これを新約時代というのです。このことをイスラエルを初めとして、全世界の人間に、特に欧米人にはよく知らせてあげなければならないのです。

神は日本にこういうすばらしい預言の奥義を示されたのです。ヨエルの預言の秘密が開かれたことは、その場所に聖霊が降臨したことを意味するのです。かつてエルサレムにおいて、ペテロの口からこの預言が語られた。今私たちにその事実が示されている。これは聖霊降臨と同じ意味を持つのです。

ヨエルの預言の本質は、新約時代になってからでも、具体的に解明されたことはなかったであろうと思えるのです。すべての肉に私の霊を注ぐとありますが、これは外から流し込むのではなくて、あふれ出るという意味があるのです。外から流し込むより、中から自然にあふれ出すという意味があるのです。

すべて福音の原理は皆このようになっているのです。皆様の存在の中からイエスの御名がふき出すのです。皆様が生かされているという事実の中から、イエスの御名という救いの御名がふき出すのです。皆様の口から救いがふき出すのです。これが預言です。

ユダヤ人は皆様が語る一口一口に、びっくりするでしょう。そうして世界に新しい時代が来た事を悟るのです。皆様はそういう役割を演じなければならないのです。とにかく宇宙の秘密を神が私たちに示しているのです。これは宇宙の実体を変化させるような全く驚嘆すべきことなのです。

あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見るとありますが、これは、すべての肉に私の霊を注ぎ出すという意味がよく分かれば、幻を見るということの意味が、自ら分かるのです。

天地万物というものは御霊の力によってできているのです。御霊の力によらなければ、森羅万象が構成される道理がないのです。美しい花が咲き、鳥が歌い、川が流れ、魚が泳いでいる。雲の流れといい、日の出、夕陽の雄大なスケールといい、月の光の神々しさといい、これが御霊の処置でなかったら、一体どうしてこういうものありうるでしょうか。

ベートーベンはいろいろな曲を造ったのですが、御霊の力が加わっているから、素晴らしい音楽を作曲できたのです。これも新約の時代の現象です。旧約時代にはそこまで分からなかったのです。

「名月や四つ橋を四つ渡りけり」という芭蕉の句でも、名月を観賞しながら、四つの橋を四つ回り歩いたのです。何が彼をしてそのような感激を与えたのか。新約の御霊によるのです。新約の御霊が芭蕉にそのことを直感させたのです。

大自然の中に含まれている幽邃無双の神の奥義、奥深さがちらっと見えたのです。異邦人でさえも見えたのです。

とにかく新約になってから、人間の芸術的センスが、格段に引き上げられたのです。旧約時代の芸術センスと新約時代のそれとは、本質的な違いがあるのです。これは聖霊降臨によるのです。

すべての肉に神の御霊がふき出しているのです。肉の中に閉じこめられていた御霊の働きが、肉の外へふき出したのです。物理現象という形の中に閉じこめられていた御霊の働きが、心理現象の世界へどんどん流れだしてきたのです。

十字架と復活、昇天があっても、聖霊降臨がなかったら、具体的に新約時代という幕は開かれなかったことになるのです。ところが有難いことには、主イエスが父の元に帰りたもうことによって、なぐさめ主なる真理の御霊が自ら下りたもうた。そして人間の心に驚くべきアピールを始めたもうたのです。

そこで人間が万物の霊長としての目を開き始めたのです。人間の肉体的存在は、森羅万象の集約的存在です。森羅万象の構成要素が、そのまま人間の肉体を形成しているのです。従って人間の肉体存在は、森羅万象の集約的存在になるのです。

すべての肉に霊が注がれた。このすべての肉というのは、肉の人間そのものを意味するのです。そこですべての人に私の霊を注ぐと訳されても、間違ってはいないことになるのです。すべての人と言っても、すべての肉と言っても、実は同じことになるのです。

私たちは聖霊の降臨を拝受しました。幸いにしてこれを受けとめることができました。私たちは万物の代表者としてそれを受けとめたのであって、私たち個人として受けとめたのではないのです。

人間存在は森羅万象の代表者です。人間の肉体は天地万物の集約的存在です。この肉体を持つ私たちは、森羅万象の贖い主として、救い主として、森羅万象の運命を背負わなければならない義務があるのです。

パウロは次のように述べています。

「私は思う。今のこの時の苦しみは、やがて私たちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」(ローマ人への手紙8・18~21)。

これはパウロの宇宙的大哲学です。万物の嘆きという重大な問題です。これは新約聖書の全くの圧巻です。万物に対する責任を感じる者こそ、預言の霊が与えられる資格があることになるのです。

イエスが私たちの贖い主となりたもうたように、教会は万物に対する贖い主とならなければならないのです。この責任はまず第一に私たちにありますが、第二にはイスラエルにあるのです。アブラハムの子孫であるイスラエルです。だから彼らに、私たちと同じ認識を与えなければならないのです。

若い者が幻を見るであろうとあります。幻を見るという言葉の中で、一番注意しなければならないのは、見ると言う言葉です。見るというのは現実に見ることを意味するのです。現前的にはっきりこの目で見ることです。これをいうのです。一つの幻ではない、多くの幻を見るのです。多くの幻をこの目で確認するのです。

これは直接的にはユダヤ人の息子、娘をさしていますが、今このことをユダヤ人の息子、娘はこのことを知りません。私たちは今その光栄に浴しています。この光栄に浴していることを、そのままユダヤ人の青年男女に言うべきです。ユダヤ人の青年男女をつかまえて、君たちはこれを見なければいけないのだと言うのです。

イスラエルの若者である君たちは、幻を見なければいけない。天地森羅万象は、幻であるという事実です。新約時代における天地森羅万象は、はっきり幻なのです。これを見なさいと言うべきです。イスラエルの若者たちに、現実的に見なさいと言うのです。

「新約聖書を受け入れなさい。イエスがキリストであることを信じなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。そうすれば神はあなたがたに、まず第一に万物が幻であることを見せて下さるでしょう」。これをイスラエルの若者に言わなければならないのです。

若い者が幻を見る。若い人たちは、どうしても現世的な感覚が強いのです。老人と比較すれば、現世的な感覚が強いのです。これは当然でしょう。肉の命が盛んであることが、肉的に若いことを意味するのです。従ってそれは、現世的な感覚が盛んであるということになるのです。この若者に対して幻を見よと言っているのです。

物質的現象は幻です。これは般若心経がいう色即是空という意味とは少し違うのです。色即是空というのは、物質的現象がただ空であると言っているのです。ただ空であるというのは、物質的現象には本質がないのだ、本体がないのだと言っているのですが、本体がないというだけでは、物質的現象の解明にはならないのです。

本体がないと言っても、例えば、日の出という物質的現象がある。朝日が上るという物質的、物理現象があります。これが空だと言っても、日の出という事がらはあるのです。

太陽は物ではありません。水素原子がヘリウムに変化するという働きを繰り返しているのです。そこには核融合の働きがあるだけであって、物質があるのかというとないのです。水素原子、ヘリウム原子は物質かと言いますと、物質ではありません。

太陽は果たして物質であるかどうか分からないのです。自然科学者は太陽を物質の範中に入れたいでしょう。しかし太陽は固体でも液体でもガス体でもないのです。物質の三体の中に入らないのです。ただの動体です。動体ではあるが物体ではないのです。物体であるなら、ガス体か、固体か、液体のどれかに当てはまらなければならないのです。

こういうことを皆様は、目で見ているのです。また、末の時代ですから、自然科学の発達によって、私たちは太陽の正体を科学的に教えられているのです。しかし末の時代になると人間が愚かになるのです。愚かすぎるほど愚かになったので、神が自然科学という限定された理論を許して、人々にそれを教えているのです。

自然科学というのはないのです。これはただの理屈ですけれど、ただの理屈を利用して、太陽が物質ではないことを知るのです。物はすでに存在していないのです。聖霊降臨によって物は幻になっているのです。しかしまだ物があるように思えます。その物質現象を利用して、神は自然科学的なテクニックを悟らしめて、太陽が物質ではないことを教えているのです。

太陽は働きです。しかし物ではないのです。そうすると、目の前に一輪の花があるとしますと、この花は何なのかということです。花は物か。物ではなくて現象です。働きです。物だと言えるかもしれないが、厳密に検討しますと、花には絶えまない変化があるのです。谷川の激流のような激しい変化が、花自身の中にもあるのです。これが緩慢な状態で現われていますから、何日間の間、花があるように見えるのです。

花があるように見えますけれど、流動現象があるだけです。そうすると、やはり太陽と同じように、動体はあるが物体はないということになるのです。こういう事実を自然科学という方式によって、神から教えられているのです。

自然科学という理論を展開したのは、ある意味でユダヤ人の功績と言えなくもないのです。しかしそれは真理ではないのです。絶対真理ではないのです。純真理とか純々真理というべきものです。本当の真理ではないのです。

ですから自然科学を信じてはいけないのです。私たちは真理だけを真理とすべきであって、純真理を真理と言うべきではないのです。このことをユダヤ人たちによく教えなければならないのです。

科学は純真理であるかもしれない。しかし絶対真理ではないことを、ユダヤ人たちははっきり知るべきなのです。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、絶対真理だけを真理というべきなのです。ここにアブラハムの約束の燦然たる光輝があるのです。汝らイスラエル人よ立ち上がれというべきです。

こういう話し方ができるとすれば、ユダヤ伝道への情熱が彷彿として沸いてくるでしょう。とにかく現世の人間たち、ユダヤ人を初めとして異邦人も、物質が現存すると考えているのです。ところが物質はないのです。

太陽が最も端的に物質現象の実体を教えているのです。太陽系の宇宙における私たちは、太陽に基いて考えるのが、一番正確で簡単です。太陽は物ではありません。物理現象です。物理現象はありますが、物はないのです。これが色即是空ということの本当の意味です。般若心経はここまではっきり説明していないのです。

一体物理現象とは何であるのか。これが神の御霊の働きです。神の御霊の働きである物質現象が、今や心理的預言として皆様の中に働いておられるのです。物理現象の大エネルギーが心理的預言の大エネルギーとして働くのです。これがヨエルの預言の本体です。

これが日出る所から出る生ける神の印を持つ天使のすばらしい業です。日本から出るであろうと預言されている預言者の集団の力として現われているのです。とにかくイエスの御名を崇めさえすれば、こういうことが分かるはずです。

太陽は物質でない。従って地球における森羅万象の働きは、いわゆる流動的であり、弁証法的であって、実は物ではないのです。太陽と地球の相関関係がなくなれば、地球は一遍に解体します。例えば金星と太陽との相互関係、火星と太陽との相互関係、太陽系宇宙の各星の相関関係がくずれたらどうなるか。地球は一度に解消するでしょう。

地球という物体があるのかというと、そうではない。まず大宇宙全体というマクロコスモスがあるのです。銀河系というマクロコスモスがあります。さらに太陽系というマクロコスモスがあります。そうして地球があるのです。

マクロコスモスの相乗作用、相関作用が、地球を存在させているのであって、地球という固体が存在するのではないのです。一体固体とは何か。物質間の相互作用、相乗作用の現象であるだけです。時間や時間の構成要素が人間の肉体になって現われているように、大宇宙を構成している時間、空間の要素が、やはり地球を構成しているのです。

マクロコスモスを構成している相乗作用、相互作用、相関関係の要素が、地球になって現われているだけです。従って地球という固体が存在するという考えは、極めて肉的な考え方です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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