top of page
検索
  • 管理人chaya

今生まれた幼児のように


十字架によって悪魔が滅ぼされ、古き人が滅ぼされた。この神の処置を受け取れば、百人が百人、万人が万人共、皆救われるのです。ただ素直に神の処置を受け取ればいいのです。大人の考えを全部やめてしまって、赤ちゃんのようになればいいのです。

五官というものが、神が人に与えている命の感覚です。五官の感覚をじっくり味わうことが、情緒であって、情緒を人格的にマスターする気持ちが情操です。情操というのはやや芸術的なものです。情緒はやや肉体的なものです。やや芸術的、文化的なものが情操で、これが生活的、現実的になると情緒になるのです。

こういうものが一体人間にどうしてあるのか。この情緒や情操と人間の命とはどういう関係にあるのかということです。例えばチョコレートに味がありますが、これは何であるかということです。老人は夢を夢みると聖書にありますが(使徒行伝2・17)、私たちが現実に生きていることが、そのまま命の文になっているのです。

これを今までの大人は全部人間の文にしてしまっているのです。今私たちは、生きていることが、そのまま命の文になっているという実体を教えられているのです。

人間はまだ生まれていないのです。肉体的にこの世に、出てきたのは生まれたのではないのです。携挙(けいきょ)されて初めて、生まれるのです。神に携挙されなければ生まれないのです。

ヨエルの預言の話、ペテロの感覚、パウロが聖書を見ていたその見方がよく分かってこなければいけないのです。聖書にはすべて書いていますけれど、人間が素直さを持っていないので、分からないのです。人間は人間的なまじめさがあるからいけないのです。結論的な言い方になりますが、人間が今肉体的に生きていることが、生まれていない証拠です。

人間は色々な食べ物によって味を味わっていながら、それが何か分からないのです。従って今人間が感じている味は、嘘の味なのです。本当の味ならそれをはっきり説明できるはずです。今の大人がおいしいと思っていることは嘘の味なのです。自分が生まれていないことが分かると、初めておいしいということが分かるのです。自分が胎児であることが分かると、人間の情緒の意味が分かってくるのです。胎児でなかったら情緒は分からないのです。

今生きていることが人生だと考えると、人間の人生は三文の価値もないのです。何にもならないのです。そうして地獄へ行かなければならないのです。自分が生きていると思っているからです。

自分が生きているのではない。そんな力もないのに、自分の力があると考えている。自分の命があると考えている。自分の力で頭が働いていると考えているのです。この思考方式がそのまま悪魔の思考方式です。自分が一人前ではないのに、勝手に一人前だと思いこんでいるのです。今、神によって生かされているという特別な取扱いが、自分自身の力になっているのです。生かされているという事が、力になっているのです。ところが、自分が生きているから力があると考えている。これが悪魔の思考方式です。

冬の日に、日向ぼっこをしていると日向ぼっこの味が分かります。これは風呂に入っているのと同じ味です。日向ぼっこをしている味がどうして分かるのかということです。日向ぼっこをして気持ちが良かったということを、人間はどこかで経験したはずです。経験したことがなければ、いい気持ちだということを感じるはずがないのです。

チョコレートの味でも、一度経験しているのです。幼子に初めてチョコレートを食べさせても、何の不思議もなく食べるのです。幼子でもおいしいものと、おいしくないものとを、ちゃんと味わい分けることができるのです。味わい分けるということは、未経験ならできないのです。感覚があるから、ただ味わうということはできますけれど、味わいを分けることはできないはずです。

味わうということは情緒的ですが、味わい分けることは情操的です。情緒と情操が人間の舌の感覚にあるのです。これをどこで仕入れてきたかということです。

人間が生きていることがそのまま神の救いですが、それが分からないのです。あまりにも恐れ多いのです。この身がこのままで生ける神の子です。今皆様がいることが、そのまま父の中にいることです。我父にありと言う以外に、言いようがないのです。そういう環境におかれているのです。

人間がこの世に生きていて、精神の状態が正常に発酵していない状態ですと、皆毒になるのです。霊的な乳を飲んだら、それが救いに到るべき所へつれていく。そうして皆様の中にとこしえの命の芽が出てくるのです。人間の霊魂から、とこしえの命の芽が出てくるのです。

この世に生まれて、この世で生きていた人間は、この世の生き方しか知らないので、生きていれば生きているほど毒になるのです。その結果、完全に死んでしまうのです。

どうしたらいいのか。今生まれた赤ちゃんのようになればいいのです。これが決め手になるのです。今生まれたばかりの赤ちゃんのような感覚で、自分が生きているのをじっと見るのです。そうすると魂に救いの芽が出てくるのです。

今生きているということが、母の胎内にいることだということが理解できない者には、赤ちゃんのようになれないのです。今生まれた赤ちゃんというのは、今という瞬間の前までは、母の胎内にいたのです。今生まれたばかりという条件でここに生きているのです。ですから三十年生きてきた、五十年生きてきたということはないのです。

赤ちゃんでも臍の緒がついていないとだめです。臍の緒がついている赤ちゃんだと、神の御霊の意識がそのまま自分の生活意識になっているのです。お母さんの命で生きているという実感で、この瞬間を見ることができたら、今生きているのは母の胎内にいることであって、携挙される時に生まれるのだということが分かるのです。

そうすると不思議な現象が起こるのです。人間の脳細胞の中に携挙のイメージが発生するのです。「神の宇宙的な処置に基づいて、信仰によって、キリストの霊があなたがたの内にあるなら、その死ぬべき肉体が甦るであろう」とパウロは言っている。

死ぬべき肉体が甦るのです。この働きがキリストの霊によって、なされるのです。普通の肉体の遺伝子は、マイナスの遺伝子です。このマイナスの遺伝子が、キリストの霊によって、プラスの遺伝子に変化するのです。

人間が現在生きているということは何か。鼻から息をしているということは、空気に植わっていることなのです。鼻を通して空気に植わっているのです。鼻が人間の根っこになっている。鼻による呼吸の働きが神の命の息なのです。神の命の息が人間に与えられているのです。これが根っこになっているのです。

人間は空気に植えられているのです。人間が息をしているのではなくて、神が息をしているのです。息が神を意味するのです。命の息は神にしかないのです。神の息がそのまま人間に与えられているのです。人間という個別の存在はない。地球があるだけです。地球の命があるだけであって、人間の命はないのです。

別々の命があるのではない。命は一つです。霊は一つです。地球が生きているという事実があるだけです。人間は命の長(おさ)として、地球の命を認識するために、この地上に生まれたのです。認識の主(あるじ)としてこの地上に生まれたのです。人間がそれを認識しなければ、認識するものがないのです。私たちが生きていることが、地球の命なのだということを認識することによって、地球全部が生きるのです。

もし私たち一人ひとりが、私たちの命と地球の命が別のものだと考えるとすると、万物は死んでしまいます。万物と私たちが一つの命で生きていることを信じることによって、万物が救われるのです。これをパウロがローマ人への手紙に述べているのです。

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」(8・19~20)。神の子たちが現われると、滅んでいくべき万物と、自分自身の命が一つだということを神の子たちが宣言してくれる。そうすると万物が救われるのです。

私たちの命が万物の命と同じだということを認識すると、万物が救われる。例えば植物が発散している酸素を人間が吸い、人間が出している炭酸ガスを植物が吸うということを考えても、植物の命と人間の命が一つであることが分かるのです。そのように、人間は植物の命と同じ命で生きている。だから花を見たらきれいだと思うのです。そのことを私たちが認識すると、花が救われるのです。

地球と自分が一つの命で生きていることが分かりますと、地球の命は死なない命ですから、私たちがこの世を去っても、黄泉(よみ)には行かないのです。

現実に生きているという命のすばらしさが、皆様には分かっているのです。だから死にたくないと思うのです。生きていることのすばらしさが分からなければ、死にたくないと思わないのです。生きていることは、鼻の穴で地球の命と人間の命がつながっているのです。地球は死なない命で生きているのです。死なない命が物理的な形で顕現しているのが地球の命です。この命をそのまま私たちは受け取って生きているのです。

私たちの霊魂がそのことに気がつけば、私たちの霊魂は死ぬことがないのです。従って今まで何十年間か固有名詞の自分が生きていたという事実は、全く嘘になるです。今まで自分が感じていたことが、全部嘘です。

ただ経験したことはあるのです。胎内の赤ちゃんは、経験はしているが認識はできないのです。私たちは経験したことが認識できるのです。経験したことが認識できる状態で生きているので、自分が胎内の赤ちゃんであるのと同じ感覚で、自分の経験を認識することができると、神の子になるのです。

人間は神によって生かされているという味を知っているのです。その味を知っていながら、自分が生きているという大人の常識を持っている。神に生かされているという味を知っていながら、自分が生きているという気持ちを持っている。これが矛盾しているのです。

「はかなしとまさしく見つる夢の夜を驚かで寝る我は人かは」という泉式部の歌には、二重性がよく出ているのです。泉式部の気持ちが出ているのです。これはすばらしい歌ですが、この歌を正しく解釈した人がいないようです。

この世の中ははかないものだということをよくよく承知していた夢の夜にいながら、また、はかないものだと現実に見ていながら、ぐうぐう寝る私は一体人間だろうかと言っているのです。この世ははかないものだということを、よくよく承知していながら、ぐうぐう寝ているのです。ここに人間の二重性が現われているのです。

この歌を読んだ時に、泉式部の恋人が死んだのです。恋している人が死んだという悲しみがよくよく分かっていながら、ぐうぐう寝ている自分は何という女だろうかと自分が自分にあきれている歌です。恋している泉式部とぐうぐう寝ている泉式部がいるのです。ぐうぐう寝ている泉式部と、恋人に死なれてがっかりしている泉式部と二重になっているのです。恋人に死なれてがっかりしているのは、大人の女の泉式部です。ぐうぐう寝ている泉式部は、子供の泉式部です。これが母の胎内の泉式部です。

日向ぼっこの感覚、風呂に入っている時の感覚が、母胎にいる感覚です。おいしいものを食べて喜んでいるのは、日向ぼっこの感覚と同じです。これは母胎の中にいて、母親の血液の流れを聞いているのと同じです。母親の血液の流れの音というのは、赤ちゃんにとっては命のリズムです。これが日向ぼっこの原理です。これが命の文です。人間はこれが聖書であることに気がつかないだけです。

これが聖書であることに気がつかないといけないのです。気がつかないのは自分の命になっていないからです。人間が生きているということが、母親の胎内にいる赤ちゃんの感覚です。今生まれたばかりの赤ちゃんの感覚です。過去が全然ない感覚です。この世とも人間の知恵とも何の関係もないのです。これが救いです。人間が生きていることがそのまま命の文になっている。聖書はこれを書いているのです。

これが神の御名であることに気がついて、御霊(みたま)を崇めることができればいいのです。泉式部のままではいけないのです。泉式部であることが消えてしまわなければいけないのです。

生きていることを通して、神の御名を最も具体的に崇めますと、自分の心臓が動いているというそのこと、目が見えるということが、そのまま父なる神になるのです。この神をつかまえたらいいのです。

人間は死にたくないと思います。死にたくないというのは、母胎の中にいる胎児が、生まれたくないと思っていることと同じ気持ちです。母の胎内にいる方が気持ちがいいに決まっているからです。今生まれた幼子のように、乳を慕いなさいと言っています。母の胎内にいた時の記憶をそのまま生かして、そのままの気持ちで聖書を勉強するのです。

私たちは毎日、飲んだり食べたりして、神の胎内にいることを実感するのです。我父におりということは神の胎内にいるということです。父とは何か。地球存在が父の栄光の存在です。地球存在という御名の栄光の中にいるのですから、父の胎内にいるのです。

その次に自分が生かされている事がらを通して、御霊をどのように崇めるかということを、聖書を通して学ぶことです。神が人間に肉体を与えたということは、天の魅力の味わいを知るためです。欲を満足させるためとは違います。霊なる神の恵みを具体的に経験するためには肉体がいるのです。だから言(ことば)が肉になったのです。

我父にいるということが、神の前で堂々と言える感覚になるために、大人であることを一切やめるのです。大人として生きていた年数は嘘だったのです。自分が欲望的に経験してきたことは、一切嘘であったということにはっきり気がついて、その通りに自分の心を変えてしまうことです。これが霊を渡してしまうことです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:8回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

本当の恋

女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。 エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。 見るにうるわ

bottom of page