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  • 管理人chaya

十字架の奥義


パウロは次のように述べています。

「また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人のうちから甦らせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

そして万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしている方が、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙1・19~23)。

ここに、キリストのあるべき力、置かれている宇宙的な位置がどういうものであるかということを、パウロが要約しているのです。神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように祈っているとあります。

神の力強い活動によって働く力とはどういうものかということです。神の御稜威(みいつ)が十字架において、いかんなく顕現されたのです。十字架において顕現された神の御稜威というのは、人間の思想の範囲内では分からないのです。これは信仰によらなければ分からないのです。

人間の思想と信仰とがどう違うかということについてさえも、正しく理解をすることは、並大抵のことではないのです。キリスト教が考えていることは、人間の思想です。あらゆる神学、あらゆる哲学は、人間の思想であって、これは信仰ではないのです。キリスト教に人間の思想はありますが、神の信仰はないのです。そういう所で人々は学んでいるのです。

思想的に聖書を理解するということは、信仰的に聖書を理解するための妨害になるのです。例えばキリスト教の贖罪論は、聖書の罪の贖いということの本質を理解することについて、非常に妨害になるのです。

人間の罪が許されたと考えるのです。これがキリスト教の贖罪論の中心になっているのです。罪の下に売られた人間の罪が贖われると考えるのです。そうして人間が救われると考えるのです。これが人間自身の思惑による神の言のすり替えです。

罪の下に売られたはずの人間が、罪が許されて救われるというように考えることは、明らかに人間の肉の父である悪魔の欲を行おうとしていることになるのです。

「おまえたちは悪魔の欲望どおりを行っている」とイエスが言っています(ヨハネによる福音書8・44)。アブラハムを父だと言いながら、ユダヤ人はアブラハムの信仰を行おうとしないで、悪魔である父の欲を行っているのです。

悪魔である父の欲というのは、色々あるのです。現世において名声を得ようとか、現世で快楽を貪るとか、この世を楽しもうとか、色々な欲がありますが、その中で最も悪い欲は、天から落とされた天使長ルシファーがもう一度天へ帰ろうという欲です。これは最も悪質な欲です。

天使長は、あわよくばキリストに取って代わろうという野心を持っているのです。教会をそそのかして、イスラエルをそそのかすことに成功すれば、彼がもう一度天に復活する可能性があるというように妄想しているのです。ところが、実は、彼は十字架によって既に滅ぼされているのであって、彼が天に帰る可能性は万に一つもないのです。

しかし仮に、新約聖書を学んでいるすべての者を、現在のユダヤ人のように騙すことができるとすれば、旧約の民全体と、新約の民全体をことごとく騙すことができるとするのならどうなるのか。天使長ルシファーがもう一度天へ帰るというよこしまな考えを持ったとしたなら、どうなるかということです。

そこで皆様は、新約聖書の本当の光を絶対に離してはいけないし、退けてはいけないのです。それこそ最後の一人まで、断固として新約信仰の砦を守るべきです。

ところで、新約信仰の砦の最も重要な本丸は、どこにあるかということです。三の丸、二の丸は破れても、本丸が破れなければその城は陥落しないのでありまして、本当の新約という神の城閣の本丸はどこにあるかということです。

これはエペソ人への手紙の一章二十節、二十一節にあるのです。神はその力をキリストの内に働かせたということです。英訳ではその力という言葉はありませんが、直訳しますと彼はキリストの内に彼自身を働かしたとなるのです。キリストの内に彼は装置した、準備したとなるのです。これはイエス・キリストを死から甦らせたことです。

彼を天的に、また天の事がらにおいて彼の右手に置いたのです。神はキリストを自分の右の手にしたという意味にもなるのです。日本語訳では天上においてご自分の右に座せしめたとなっていますが、右に座せしめたということは、自分自身の右の手にしたということです。全能者である神が全能者である神の右の手として、さらに主イエス・キリストを加えたというようにも読めるのです。

オール・マイティ・ゴッドである彼が、さらに自分自身の強力な右の手として、復活のキリストをすえたというようにも受け取れるのです。

新約のキリストは、オールマイティ以上です。これは宇宙の秘密です。旧約の神は第一創造における全能者です。アブラハムに対して、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言われたのは、第一創造におけるものであって、新約におけるオールマイティを意味しないのです。

アブラハムの場合はそれで良かったのです。もしイスラエルが、ストレートにアブラハムの信仰を受け取ったのなら、旧約において千年王国は実現したのです。キリストはそれを狙ってユダヤ人に伝道したのです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)と言ったのは、イスラエルに悔い改めを迫ったのです。

ところがイスラエルは裏切った。救い主を十字架につけてしまったのです。無茶苦茶なことをしたのです。救いの君、命の君を十字架につけた。キリストを十字架につけてしまったのです。アブラハム以来、二千年の間、望みに望んだキリストを、十字架につけてしまったのです。これは横暴とも非道とも言える悪逆無道のことなのです。この悪逆無道の大変なことをしたのです。その結果において、オール・マイティ・ゴッドにさらに強力な、右の手がつけ加えられたのです。

ここに第二創造(来たるべき新天新地)が、輝かしい状態で隠密の上に整備されたのです。神の驚嘆すべき新しい創造が、整備されてしまったのです。これは天下の秘密、歴史の秘密です。世々隠れていた神の奥義です。世々隠れたる神のミステリーを、ユダヤ人が、また悪魔が、とうとう引き出してしまったのです。

そうして、旧約のイスラエルが想像することさえもできないような、新天新地という輝かしい、極めて大いなる、限りなき重き栄光、言語に絶するような神の栄光が、全く完璧無類、完全以上、全能以上の大能が神の国に整備されてしまったのです。これが神の約束全体の本丸です。

これは、普通の人間では考えられないことです。アブラハムに言われた神のオールマイティなら、本当に静まって考えたら、普通の人間でも、神のすばらしさまでは分かるかもしれないのです。

旧約時代の人間でも、静まりて神を知れと言われたのですから、ダビデのような素朴な感覚で神を見たら、神の愛の大きさ、その力の偉大さは、ほぼ想像できたかもしれないのです。これがアブラハムに対する、オール・マイティ・ゴッドです。

ところが新約は、そうではないのです。旧約の時でさえも、神の力強い活動によって働く力が働いていたのです。それがキリストの内にセットされたのです。神の力がキリストの内にセットされたことによって、キリストご自身の持ち前の力の上に、神の全能力がさらにプラスされたのです。神の全能力と、キリストの絶対力との二つの連合軍が組織された。言語に絶する完璧無類の状態が完備されたのです。

そこで悪魔の力を徹底的に打破して、完璧無類の完成を帰することができるのです。これは人間の想像に絶することなのです。普通の人間では分からない力です。秘密の力です。それが彼を死人のうちから甦らせた。そうして天上においたという事になるのです。これは天的なとか天の事として見ればという訳の方がいいのです。

天的という意味が、異邦人である日本人には分からないのです。天のようなものとして考えるという意味が天的ということです。普通の人間の思考方式、人間の思想のジャンルの中には、天的という言葉はありません。そういう意味で、人間の思惑には隠れていること、人の心に思い浮かびもしなかったこと、次元の違った事がらとして、キリストが神の右に座せしめられたのです。神の右の手とせられたのです。

神の右の手というのは、旧約聖書にも神の大能の手と言われているのです。「エホバその右の腕(かいな)を伸べたまわば、誰か押し返すことをえんや」とあります。神が右の腕を伸ばしたら、誰もこれを押し返すことができないという絶対的な神の腕です。

それにキリストの忠誠無類、真実無類の神を絶対的に愛し通したイエス・キリストの力が加えられたのです。愛の力には絶大なものがあるのです。これが神の右の手に加えられた。これは全能という言葉で言い現わせないものです。黄泉をも死をも、どんな悪逆無道であっても、どんな巧妙な戦術を用いても勝る、二重の全能です。父なる神の全能と、主イエス・キリストの全能の両方を兼ね備えた全能です。

第一創造における神の絶対力と、第二創造におけるキリストの絶対力が、完璧無類の全能力として、宇宙全体を圧倒するような力を持って、すでに新約の時代にセットされているのです。これが神の約束という城の本丸の光景です。

第一創造において、神がアブラハムに言われた全能という言葉は、いわゆるノーマルな意味での全能という言葉です。新約において神に啓示された全能、ダマスコ途上の光として啓示された全能は、もはや全能というだけの言葉では言い現わせないものです。

全能という言葉は普通に存在する、ノーマルに働くべき全能です。花が開くとか、水が流れるとか、水の流れを止めるとか、紅海の水を裂くというのは、ノーマルな全能です。

岩を叩いたら水が出たということは、ありえないことではないのです。ありうる不思議な全能です。モーセはこれをしたのです。モーセは全能の神を信じて紅海を渡った。荒野の真中の岩の中から水を出すことができた。またマナが空から降ってきた。これはありえないことではないのです。ありうる意味での神の全能です。

ところがパウロがダマスコ途上で見たものは何か。キリストが光となって現われた。そして「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言われたのです(使徒行伝9・4)。

キリストが光の中から呼びかけた。そしてタルソのサウロが完全に神の虜になってしまったのです。この神の現われはもはや全能ではないのです。太陽の光よりもさらに輝く光をパウロは見たのです。太陽の光よりもさらに輝く光という言い方が、ノーマルな全能以上の全能であることを示している。これはもはや人間の言葉では言い現わしようがない全能です。

オールマイティという言葉では現わせないのです。何と言ったらいいのか。絶対能とでも言うべきものです。すべての事がら、すべての事実を構成する原理を宇宙の格率というのですが、これを越えているのです。これはもはやどんな方法をもってしても、どんな力をもってしても争うことができないものです。

悪魔がどんなに悪巧みをめぐらしても、知恵を用いても、神がキリストをご自分の右に座せしめたということに対しては、もはや抗う余地がない、争う余地がないのです。どうしようもないのです。どうしようもないという言葉では言い尽くせないものであって、これは宇宙の格率に対する概念が優先されたものなのです。

宇宙から闇がなくなったのです。これは何を意味するかというと、パウロが端的に説明していますが、彼を死人のうちから甦らせたと言っています。彼を死の中から甦らせたと言っているのです。

大体死というものは、宇宙の格率です。命に対して死があることが、宇宙の格率でしたが、死が破られたのです。死が破られたということは、万物が存在するという原理が無視された、破壊された、あるいは修正されたことです。

死の法則というのは、命の法則と相拮抗するだけの力を持つ法則です。命の法則、生の法則に対抗することができる絶対です。生きるということが絶対なら、死ぬということもまた絶対です。生の法則に対して死の法則があったのですが、この死の法則が打ち破られたのです。

彼一人を死から甦らせたということは、死の権威が叩き潰されたということです。甦ったのはたった一人ではないかと言いますが、一人が甦ればそれで十分です。

私はある大学の教授に、イエス・キリストが復活したことは人間が死を破ることができたということで、学の対象として取り上げなければならない重要なことだと言ったのです。そうしたら教授曰く、人間が死から甦ったということは大変なことですが、しかしたった一例ですからと答えたのです。たった一例を学の対象として取り上げるのは、宗教学ならともかく、一般学としては難しいというのです。

私がいう学の対象というのは、宗教学ではなく一般学として取り上げなければならない必然性を持っていると言ったのです。例えば科学、哲学の原理として、イエス・キリストの復活という大テーマを設定しなければならないと言ったのです。それはできないと教授が言うのです。ただの一例だからできないというのです。

ところが死を破るというのは一例でよいのです。大体人間は本質的には一人です。質的には、一人しかいないのです。ところが全世界に七十億の人間がいるという妄念に取りつかれている人間にとっては、一人くらい甦っても、七十億分の一ですから、学の対象として取り上げることは、数字的にできないと言うでしょう。

数というの何なのかということです。数はなくて、あるのは質だけです。地球上に存在するものは質的に存在するのであって、数的に存在するのではないのです。数は肉の人間の発想から生じる所の人間的な思索方式です。神的に言えば、質があるだけです。信仰は一つ、主は一人、すべてのものの父なる神は一つです。

命は一つ、死も一つです。そこで人間は一人であって、一つの血液と、一つの理性によって造られているのです。魂という言い方をしますと、どこまでも一人であって、複数の人間は存在していないのです。

魂は単数です。こういう原理が、肉の人間では分からないのです。霊の思いで言えば、存在は一つです。その意味では、イエス・キリストが死から甦ったということは、死の法則が破壊されたことを意味するのです。宇宙における生の絶対に対して、徹底的に拮抗していた死の絶対が、消えてしまったのです。消滅したのです。

大体、死人を甦らせるというのは、無茶苦茶です。死んでしまったから死人というのです。死んでしまったということは、永遠に永久に絶望状態です。神から切り離れたことです。これが死です。それがもう一度甦るということ、もう一度神につながるということは、違法です。第一創造における宇宙の格率から考えますと、してはならないことなのです。してはならないことを、神がやらざるをえなかった。

神はイエス・キリストをひいきして、また、意識的に味方をして彼を甦らせたのではありません。神は正当に判断して、最も公平に判断して、イエス・キリストを死人の中から甦らせなければならなかったのです。

なぜ神はやってはならないことをやったのか。やってはならないことを悪魔が先にしたからです。イエス・キリストを訴えたことです。これはやってはならないことだったのです。やってはならないことを悪魔がしたのです。イエス・キリストを十字架につけることは、やってはならないことです。生きているものを殺してはならないのです。ところが生きているものを殺したのです。生きる資格があるものを、殺してしまったのです。

アダムは死ぬべき理由があって死んだのです。ところが第二のアダムであるイエスを、第一のアダムと同じように扱った。これが悪魔の決定的な大失敗だったのです。生きているものは生きているのです。これを殺してはならないのです。悪魔は生きているものを殺したのです。悪魔はイエス・キリストを訴えた。悪魔は肉の思いで訴えたので、肉のイエスを訴えたつもりです。肉のイエスを訴えたつもりですが、肉と霊は、一つの状態でイエスは生きていたのです。

悪魔はイエスの肉の面だけを見て訴えたのです。神がイエスを裁くとすれば、肉と霊とが張り合わさっているので、肉の面だけを十字架につける訳にはいきません。悪魔がイエスを十字架につけよと言ったので、十字架につけた。あにはからんや、このイエスは肉だけではなかったのです。霊が張りついていたのです。いや、イエスの肉は実は霊だったのです。これが分からなかったのです。

そこでイエスは肉にて殺されたが、霊にて生かされたという奇妙な現象が起きたのです。これは天下の奇現象です。悪魔が宇宙の格率をまず破ったので、神はそれに対して、格率を破らざるをえなかったのです。皮肉な言い方をすれば、神が悪魔を滅ぼさざるをえなかったのです。

創世記の第一章で、神は創造したものを見て、甚だ良しとされたとありますが、これがイエスをキリストと呼びたもう前提条件です。第一創造というのは、実は悪魔に対する全能者の、完全なトリックだったのです。

現在の創造、第一創造とは何かと言いますと、「無から有を呼び出した」(ローマ人への手紙4・17)のです。全く存在していないものを、あたかも存在しているように見せかけている。これに悪魔が騙されたのです。

復活ということは、宇宙の格率の新しい創造です。このことによって命のあり方が、本質的に変革されてしまったのです。復活までの命というものは、死の面と生の面が張り合わされていたのです。生の法則と死の法則とが縒り合わさって命が成立していた。いわゆる新陳代謝的な法則原理が、物理次元においてはなければならなかったのです。

ところが復活という新しい法則の設定によって、死の面が脱落した。滅びてしまったのです。死によりて死の権威を持つものを滅ぼしたということが、ヘブル人への手紙の二章にありますが、そのようにイエス・キリストが自ら死を味わうことによって、死の権威が滅ぼされてしまったのです。

死の権威がなくなったということは、命という本質の概念が革新された、創造されたことになるのです。新しい命が創造されたのです。生と死とが縒り合わさっていたものが廃棄されて、生の命だけの純粋な命、死をまじえない命、生きているだけの命が格率されたのです。これは神の約束の完成を意味するのです。これは大完成と言った方がいいかもしれません。いわゆる新天新地は海がない世界です。海がない世界というのは、新陳代謝がない世界を意味するのです。物理次元を超越した世界であって、ここにはもはや新陳代謝というべきものはありません。

神はその世界を御使いに任さないで、信仰に任せたのです。御使いの働きを原理にする場合には、必然的に新陳代謝が必要になりますが、信仰に委ねられることになりますと、もはや物理次元を超越した神の信仰が一つ宇宙に輝くことになるのです。そこには新陳代謝の心要がないのです。三次元の世界で考えられる時間とか、空間とかいうものはすべて新陳代謝に基づく弁証的原理による存在ですが、新陳代謝的な存在が必要でなくなるのです。

完成された存在になるのです。これが宇宙における復活という新しい次元の登場であって、現在の人間の理屈ではとてもたどりつけない完絶した状態です。これが復活次元です。これに到達することなしに、人間に救いはありません。地球の万物が完成される方向と、速度と原理に一致して、人間の魂が完成されるのです。これ以外に救いという言葉は使えないのです。

これは宇宙の完成の方向へ向っている神ご自身の完成であり、また万物の完成であり、その万物を司るべき人間の完成です。人間の完成ということは、信仰じたいの完成です。信仰は驚くべき宇宙エネルギーの根本原理です。新しい宇宙エネルギーの基本原理です。従って人間が知識や常識で生きているのと、全然違った感度で生きることになるのです。

人は神の幕屋に住んでいる、神は人と共に住んでいたもう。これが新天新地であって、この状態が復活において実証されているのです。イエス・キリストの復活ということは、まじめに考えますと、人間の学問の最高の、または唯一の目標になるべきはずのものです。ですから、私は、イエス・キリストの復活は学の対象の中心になるべきものだと考えているのです。

千年王国においては、人々は復活について徹底的に学ばされるでしょう。復活の栄光に与るというのは、異邦人の時代という間だけです。この無秩序、無責任、無目的の時代だけです。この時にだけ復活の栄光に与かることができるのです。今がそのチャンスです。

イスラエルがイエス・キリストを受け入れることになると、もはや異邦人に対しては聖霊が働かなくなるからです。イスラエルが目を覚ます時には、もはやイスラエルの時が来ているからです。従って聖霊は異邦人をお救いにならないのです。しかしどうでもこうでも、特別に頼みますお願いしますと言えば、それはどうか分かりません。多分だめだろうということになるでしょうけれど。

イエス・キリストの復活ということは、地球存在と人間存在の驚くべき急所です。復活を学ぶことは、霊魂に関する最高の勉強になるのです。これを真剣に学ぼうという人がいないのです。自分が救われたいと思っても、復活にあやかりたいという人はいないのです。

さすがにパウロは、復活に与るために、すべてのことを損として、後ろにある一切のものを忘れて、前に向って一直線に突進すると言っているのです。イエスが復活したことによって、人間の価値観、世界観が一変したのです。復活によって宇宙に新しい格率が設定されたのです。格率というのは事がらが成立するための基本原理です。事がら、物がらが成立するための基本原理です。これが格率ですが、格率が新しく設定されたのです。ところが復活はレザレクション(ressurrection)を意味するのであって、ライズアゲン(rise again)を意味するのではないのです。

イエス・キリストの復活とラザロの甦りとは違います。ラザロは甦ったのです。復活したのではありません。甦りということは、三次元世界に住んでいる人間が、一時死んだような状態になって甦ったのです。これが甦りです。

これは、物理的に、また生理的に、全く新しいものにされたのではないのです。なぜラザロが甦ったのか。これはラザロだけではないのです。ヤイロの娘も甦ったのです。息が絶えて数時間しかたっていないので、娘が完全に死んだと言えないのかもしれないのです。ところがラザロの場合は、死んで数日たって、臭くなっていたのですから、これは間違いなく甦りということがはっきり言えるのです。

これとイエスの復活とはどう違うのか。これはヨハネによる福音書の十一章をじっくり読んだら分かるのです。ラザロはイエスによって甦ったのですが、また死んだのです。ところがイエスは復活して永遠に死なない状態になった。ここが決定的な違いです。

現われた現象はただの現象であって、実体ではないのです。人間が現世において、色々なことを経験しているだけです。これは実体ではないのです。ラザロが死んだような状態になったことも、イエスは一つの経験だと考えていたのです。決定的な意味における事実というものは、現世には存在していないのです。

三次元の世界には、決定的な事実というものはないのです。決定的な事実と言えるものは、インマヌエルということだけです。それ以外は皆過程の存在です。損をするのも得をするのも、病気になったとか治ったとか、善と悪とか、年中言っていますけれど、それは全く実体ではないのです。経験です。ただ経験しているだけのことです。このことをよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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