top of page
検索
  • 管理人chaya

千年王国の原理


人間文明の最終段階で、神が私たちに開いている神と霊魂の係りは、新しい次元の光というべきものです。新しい次元の光の基本的な考えは何かと言いますと、今までは、神は人間を中心にして文明を営むことについて、それを黙認していたのです。使徒行伝の十七章三十節では、「このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていた」と言っています。人間が人間の欲しいままの考え方で生きることを、見過ごしていたのです。ところが、二十一世紀になって、キリストの復活が地球存在の実体として登場する時がきているのです。

日のために設けられたあげばりが、幕屋ではなしに、本物に移行することを神が考えているのです。太陽系宇宙というのはタバナクル、即ち幕屋です。この幕屋が神の国に移行する最初のでき事がイスラエルの回復です。イスラエルが回復すれば、イスラエルがまともな思想を持つようになれば、太陽系宇宙という幕屋が、神の国になるのです。

幕屋というのは神の国ではなくて、神の国を形造る基本的な原理の構想ですが、これが移行するのです。その基本になる必要条件がイスラエルの悔い改めです。

イスラエルの悔い改めが実現すれば、神の時が熟するのです。そうして神の国が具体的に実現する端緒になるのです。これが宇宙完成の第一歩になるのです。私たちはその使命を託されているのです。これは非常に大きい使命でありまして、今までの宗教や道徳や、人間主義の文明のあらゆる分野で考えられていなかったことです。

私たちは宇宙を完成するための基本的な捨て石として、日出ずる国の天使の役割りを与えられているのです。これはもちろん宗教ではありません。宗教ではないだけではなくて、人間のことがらとは違うのです。神のことがらです。人間が幸いになるとかならないという小さな問題とは違うのです。

太陽系宇宙というものが発生して、それが完成する段階の基本的な原理を、私たちに任されていることになるのです。物理的に存在するものと心理的に存在するものが一つになって、新しい世界を造っていくのです。神の栄光が全地に満ちるという聖書の目的が、そのまま実現することが、私たちの信仰目的です。

私たち自身が、気にいるか気にいらないかの問題とは違うのです。神に対する認識が新しくなったということ、命に対する考え方が新しくなったとかいうことは断片的な問題です。

聖書の原理が宇宙構造の原理であって、これは人間の世界のこととは違うのです。宇宙構造の原点が、聖書の真理です。これが神という宇宙人格であり、この宇宙人格が聖霊の降臨という形で私たちに働いているのです。

神が命の文なる聖書を人間に遣わしたのですが、これは大いなる白い御座の原理を聖書として人間に与えた。その原理原点がそのまま私たちに対する責任になっているのです。自分ができるとかできないとかということとは違うのです。気にいったとか、気にいらないとかということとは違うのです。

これはモーセやイザヤが与えられていた責任とは問題にならない程大きいのです。ほとんどイエス・キリストが復活したのと同じような重大な責任と使命感とを、私たちは要請されているのです。

だから天へ引き上げられましたら、私たちはまずキリストの側近になるでしょう。一番最後に選ばれた私たちは、今までもろもろの形で神を信じていた人、預言者として神に仕えていた人たちから抜きん出て、最高の位置におかれることになるのです。ですから、この責任感を持って頂きたいのです。これは私たち個々の人間の問題ではありません。自分が救われるか救われないかという小さい問題とは違うのです。

日のために設けられたあげばり、手で造られず、ですから、この世界に属していない、さらに大きく、完全な幕屋が、完全な神殿になるため、完全な聖所になるために、私たちは奉仕しているのです。

太陽系宇宙は神の聖所になるものです。現在の物理次元というのは不完全なものです。地球存在という物理次元は、非常に不完全なものです。新しい次元の光というのは、完全次元であって、現在の未熟な物理次元、人間の思考方式の次元とは違うのです。キリストの復活昇天によって、明示された完全次元です。これを地球上に実現することが私たちの使命です。

実現すること自体は神の全能力です。復活によって神の右に座せしめられているキリストの力です。それが自ら完全になるのですが、私たちはそのための前駆者として立てられたのです。

イエス・キリストの復活と昇天という驚くべき事実が、今の世界に隠れているのです。全世界に公然として言われていないのです。今の宗教家は神をもてあそんでいる、命をもてあそんでいるのです。けしからんことをしているのです。こういう人々を尻目にかけて、神は私たちを世界に福音を持ち行く器として選ぼうとしているのです。

皆様はこの世の人間ではないのですから、今までのこの世の生活を見切って頂きたいのです。この世がある間は、神は男性を主体とする社会構造を認めていたのですが、もはやこの世は終るのです。神の国が実現するのですから、私たちがリーダーシップを取る意味において、男を中心にする社会構造を否定しなければいけないのです。

男を中心にする家庭意識、社会構造を否定するのです。千年王国(キリスト王国)の原理は、骨の骨を骨の骨とすることから始まるのです。ですから男性は女性に対する態度を、衿を正して粛然として改めて頂きたいのです。そうすると女性が肉の肉から骨の骨になっていくのです。女性を肉の肉として扱っているのが間違っているのです。

女性を本来の女性とする。これが男性の役目です。これが王国への基礎的原理になるのです。とにかく現世は男性を中心にした社会構造です。これが間違っているのです。私たちは衿を正して、この転換をしなければならないのです。これをエホバかく言いたもうというように受け取って頂きたいのです。

ご主人は、奥さんに対する態度を、根本から改めることです。最初は芝居でいいのです。芝居のような気持ちでしていると、芝居が本物になっていくのです。初めからしようと思ってもできないのです。まず初めに芝居をするのです。芝居の癖がつくと、だんだん本物になっていくのです。

まず女性が骨の骨を十分に弁えて、骨の骨の位に立つことです。これが王国の原理になるのです。これはこの世が始まって六千年の間、考えられなかったことです。聖書にさえもこのことは明言されていないことです。しかしこれは聖書の流れを類推する結果、このようなことにならざるをえないと思われるのですし、またそうすることによって、男性がキリストの花嫁としての女性的な位置を許されることになるのです。

男性はあばら骨の一本を取られているのです。ハートの生粋を取られているのです。あばら骨を持っていない者は、あばら骨を持っていないという位置につくべきです。女性はあばら骨であって、頭ではない。そのことを女性が自覚すれば、いよいよあばら骨としての優れた性質があぶり出されてくると思います。女性のボディーが持っているような優しさ、美しさが、そのまま男のものになるのです。これが花嫁の備えという言葉の概括的な思想になるでしょう。

これは私たちから始めなければ、誰もしないのです。女性の位置を聖書的な正しい位置に引き上げることは、神が私たちにさせようとする第一段階です。ですから芝居であっても造り事であっても構いません。作為的なことになるかもしれませんが、まず作為的なことを実行できるという謙遜な気持ちが必要です。芝居ができるような謙遜さが、まず男に必要です。やがてその芝居が芝居でなくなるのです。生活の原点になるのです。世の中の人にも芝居を勧めるのです。

神が太陽系宇宙を造ったことの原義は、大いなる白い御座(great white throne)が発露したものです。これが創世の原義になっているのです。大いなる白い御座は何を目的にしているか、何のために太陽系の宇宙ができたのか、宇宙構造の中心はどういうものか、だいたい宇宙存在とは何かということです。これが大いなる白い御座です。白い御座が存在することの原義が、宇宙が存在することの原義です。これが父なる神の絶対性です。

神というものは、現世の人間が、現世の立場から考えてもだめです。現世が存在する前提条件が神です。これは今までの思想になかったことです。現世が存在するということは、キリストの次元です。父なる神の次元とは違うのです。イエスが言う天にいます私たちの父の御名というのは、太陽系宇宙の原義ではないのです。太陽系宇宙ができたことの原義です。太陽系宇宙が存在することの原義は、キリストの原義です。これはキリスト計画です。キリスト計画に属するのです。

天にまします我らの父よというのは、キリスト計画の原点になるものです。これは未だかつて日本では、考えられたことも、言われたこともないのです。これがエホバです。我はありてあるものとはこれを意味するのです。

キリストの原義というのは、太陽系宇宙の原義です。「日(太陽)は新婿が祝いの殿を出ずるごとく、丈夫(ますらお)が競い走るを喜びに似たり」と聖書にあります(詩篇19・5)。これが太陽系の原義です。太陽が現われたこと、地球が存在することは、新婿が祝いの殿を出るような喜びがあふれているのです。神のエクスタシーがそのまま地球存在の栄光、光栄として現われているのです。

こういう思想は未だかつて東洋にはなかったのです。釈尊も老子も、考えられなかったのです。私たちは人間文明における最終段階の預言者の集団として、神から示されたのです。まず、家庭の人間として完成されること、そうして社会の人間としてリーダーシップが取れるような経国済世の原理を示されるのです。

経国済世ということは、家庭人としての位置が正常でなかったら言えないのです。経国済世が言えないような人は、宇宙を治めることはできないのです。まず家庭を治め、それからこの世を治めるのです。それから全宇宙を治めるのです。私たちはこの三つの段階を、整然として行っていくのです。これはできるのです。できなければいけないのです。そのためには、自分が生きていないということを原則にしなければならないのです。

これは大言壮語ではなくて、キリストの花嫁の位置が、そういう位置にあるのです。これがニューエルサレムの中心構造になるのです。キリストの婚宴に列する者が、ニューエルサレムの中心メンバーになるでしょう。皆様はそれに擬せられているのです。その意味で、家庭の構造から、人間の生活のいろんな形に到るまで、できることをしなければいけないのです。しなければならないことを実行しなければならないのです。

女性があばら骨として男の中へ帰りますと、男の感覚が正常になるのです。例えば本当の恋愛をしますと、女性が男性の中へ帰れるのです。そうすると男性自身の精神構造が格段に向上されるのです。恋愛は男性自身の性格を理想的に向上するような効力を持っているのです。その意味でも恋愛的な感覚に基づいて、女性が男性の中へ帰ることが必要です。

イエスとマリアたちの関係が、現世の最終段階において、精神的なつながりになるのです。十字架にかかる前の一週間は、イエスはベタニアのマリアの家からエルサレムへ通っていたのです。こういうことがイエス自身の現世における最終を飾っているのです。

これはすばらしい恋愛の一つです。こういうことがあり得るのです。現在までの男と女の状態では、本当の恋愛が分からないのです。本当の恋愛を男も知らないし、女も知らないのです。恋愛構造というものは、女性が男性のハートに帰る状態であって、帰ることによって男性自身のあり方が、格段に向上するのです。女性が男性に帰ることによって、男性が女性化するのです。これが花嫁の完成になっていくのです。これは恋愛至上主義の最高のものです。

今までそういうことが考えられなかったのですが、イエスがそういう足跡を残しているのです。イエスが復活昇天の前提に、そういうことが伏在していると考えられるのです。

恋愛はすばらしいエネルギーを持っているのです。聖霊を受けることの精神的なエネルギーと、ほとんど違わないものがあるのです。女が男の所に帰ると、アダムが完成するのです。アダムが完成するという状態が、イエス・キリストの再臨を受けとめることと、大きい係わりがあるのです。これが人間歴史最終段階における恋愛です。皆様はこういうすばらしい人に擬せられるのです。これを名誉と心得て頂きたいのです。

これは人間完成というよりも、宇宙完成のためです。太陽系という幕屋を神殿にしてしまうことです。太陽系宇宙の完成によって、神の国が見事に完成されるのですが、それへの踏み台になるもの、テストケースになるものが私たちの目標になるのです。

私たちはしようと思えばできるのです。私たちが小さな見識を捨ててしまうと、キリストの大きい見識、私たちの花婿となるべきお方の見識が、私たち自身の見識になってくるのです。ですから、男のプライドを捨てると、キリストのプライドが私たちに与えられるということを、決して疑ってはならないのです。小さなプライドを持っていると、大きなプライドが与えられないのです。そのために、まず小さいプライドを捨てるのです。そうして大きいものを受けとめるような人格性になって頂きたいのです。

こういうことのために、宇宙の原義を知ることが必要です。宇宙構造の原義を受け止めないと、人間存在の公義が分からないのです。私たちが小さなプライドを捨ててしまうと、公義の位置をたてることになるのですが、人間が自分自身の公義を立てると、宇宙の原義がたつのです。

私たちがあるべき本来の位置に立って、女性をはっきり女性として認めると、それが私たち自身の人格の完成につながって行くのです。そして私たち自身の人格完成は、宇宙全体の完成につながっていくのです。

まず私たちの家庭のあり方が変ってしまうことです。これから始めなければいけないのです。お互いの見方が変ってしまうことです。皆様の個々の家庭のあり方が変わりますと、グループ全体のあり方が変わってしまうのです。

公義が私たちのグループで通用することになるのです。これがそのまま、山上の垂訓の実行になっていくのです。私たちは世界のトップリーダーになるべきですから、山上の垂訓をまず家庭的に、人間的に実行することが当然なさるべきことですし、これを神が望んでいるに決まっているのです。

創世の原義というものと、創人の公義というものとが一つになって、神の前に完成することになるのです。まず小さいことから、自分の前にある石を取り除いていく所から始めていけば、宇宙の大きい矛盾を除くことができるでしょう。

唯一の誠の神であるあなたを知ることが、宇宙原義を知ることになるのです(ヨハネによる福音書17・3)。これが宇宙原義の中心を知ることになるのです。それからイエス・キリストを知ることが人間の公義を認識することになるのです。

これを実現していくことが、神が私たちに神の国を始める幕を開けることになるのです。キリストの再臨という幕を、神は私たちに引かそうとしているのです。キリストの再臨の幕を引くという仕事が、イスラエルに対して福音を伝えることになるのです。

ユダヤ人に福音を伝えるためには、今私がお話ししたことが整然として、私たちの家庭のあり方になり、また、グループのあり方にならなければ、神がユダヤ人伝道をさせないでしょう。

生ける神の印を持つ東方の天使というのは、グループとして神が認めているのです。個々の人間とは違うのです。天使としてこれを認めているのです。

日出る所の天使というのは何か。まず私たちが本当に一つの人格、一つの認識、一つの考え方になることが必要です。そうなるためには、今お話しした原義に基づいて公義が認識されることです。聖書全体の流れに従って、私たち個々の人間の家庭が変わってしまうことです。家庭が変わればグループが一つになるのは簡単にできるのです。問題は家庭です。個々の人間がそれぞれの家庭を持っているからだめです。

「汝ら互いに相愛せよ」というイエスの言い方は、お互いにプライベートをなくしなさいという言い方です。山上の垂訓はそういう原理を私たちに示しているのです。

天地の創造の原義に、エホバの御名の根源がきちっと出ているのです。エホバの御名の根源というのは大きく言えばビックバーンに始まっているのです。小さく言えば、今日の食事の味になっているのです。家庭生活における主人と奥さんの係りに到るまで、エホバの御名が貫いているのです。

公義というのは、その原義に基づいて命をどのように扱うかということです。人間の心理構造をどのように扱うかということです。原義を学ぶことが第一で、公義を学ぶことが第二になるのです。原義と公義の二つのバランスが千年王国における指導原理になっているのです。

私たちはこういうことを理論的に学ぶだけでなくて、実践することです。また、実践することによって生きている喜びを如実に感じることができるのです。

皆様方の家庭が皆様の家庭でなくなるのです。創世の原義が皆様の家庭の原義になるのです。そうすると生きていることが神と交わっていることに移行していくのです。神に生きること、神に生かされることが無理なく実現できるのです。まず主人と奥さんの係りのあり方が変わってしまうことです。そうすると実現するのです。山上の垂訓が実現する家庭はとってもいいものです。

キリストが復活したことは、神の事実です。そうして、五百人の人が見ている前で、天に上げられたのです。使徒行伝の一章を見ますと、「おまえたちが天に上って行ったキリストを見たように、キリストは再びきたる」と言っているのです(使徒行伝1・11)。

あなたがたが見たように、キリストが再びやって来る。キリストの再臨というのは、こういうことなのです。キリストが再臨するためには、イスラエルにいる人々がイエスを受け入れなければならないのです。そうして、第三天にいるキリストが再臨しなければならないのです。

第三天とはどこかと言いますと、キリストの復活を信じる者の信仰の天です。キリストの復活を信じる者のハートの中にある天です。これが第三の天です。この第三の天を持つことができる人は、現世にいても天にいるのと同じ状態になるのです。コリント人への第一の手紙でパウロが、「私は肉にてこれを言っているのか、霊において言っているのか分からない」と言っています。これが第三の天です。

キリストの復活をはっきり信じた人は、パウロが現世に生きているような気持ちで第三の天にいるのです。第三の天にいるような気持ちで、キリストを見ることができるのです。これが花嫁の信仰です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:4回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

本当の恋

女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。 エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。 見るにうるわ

bottom of page