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  • 管理人chaya

悪魔の業を毀つ


悪魔の仕業を毀つこと、破壊することが、イエスがこの世に来た目的です。私たちがイエスを信じる時に、私たちも同じように、悪魔の仕業を毀つ者になるのです。そうならなければならないのです。

悪魔の仕業が毀てないような者は、イエスを信じていない者になるのです。イエスを神の子と信じる者は、自ら自分の内に神の子としての証を持つべきだということを、ヨハネの第一の手紙の三章に記されています。

皆様は神の子としての証を持たなければならないのです。それを持つことになりますと、皆様はイエスが神の子であったように、皆様自身が神の子としての自覚を与えられることになるのです。神の子の自覚を与えられることになりますと、初めて、悪魔の仕業を破壊することができる人間になるのです。

イスラエルに約束の真髄を伝えることになりますと、この地球上に現われた文明という形の悪魔の仕業、この世の君の仕業を、土台から毀ってしまうことになるのです。

悪魔の仕業を毀つというのは、私たち自身がこれからしなければならない絶対的な使命そのものでありまして、そのためには、まず私たちは、自分自身の中にある悪魔の仕業を徹底的に毀つ必要があるのです。自分の中にいる悪魔の仕業を毀たずに、文明、社会の中にある悪魔の仕業を毀つということはできないのです。

私たちはまず自分の目の中にある梁(うつばり)を取り去って、イスラエルの目の中にあるちりを取り去ってあげるべきなのです。注意してあげるべきです。まず私たちの中にあるうつばりを取り去ってしまうことです。そうすると、兄弟の中にある目のちりが見えるでしょう。それを取り除いてあげる具体的な方法が分かるのです。

私たちはイスラエルの中にあるちりを取り除いてあげる責任を、神から与えられていると考えて頂きたいのです。そのちりとは何かと言いますと、悪魔の思想がしっかりとイスラエルの中に住み込んでいることです。イスラエルの中にある悪魔の仕業を毀つことは、世界全体の悪魔の仕業を毀つことになるのです。

イスラエルは全世界の神の長子です。全世界の人間の長男です。この長男が世界を指導しているのは、当然のことです。ユダヤ人の指導によって世界は動いている。これは当然のことです。私たちはこの長男を指導することになるのです。そうすれば次男、三男は、勝手に長男についていく事になるのです。

これは口で言うのは簡単ですが、実行するのは至難の業です。古今未曾有の大事業です。未だかつて誰もなしえなかった大事業です。人間歴史六千年の伝統を覆すような、驚天動地の大事業です。これが私たちに与えられている指命です。しかし皆様はどうもこの指命を感じていないようです。ただ自分の信仰を全うすればいいと考えている。神の子としての自覚を持っていないのです。

イスラエルの中に住み込んでいる悪魔の種、悪魔の業とは何か。具体的に悪魔とは何であるのかと言いますと、自我意識と現象意識です。これが悪魔です。自我意識と現象意識の両方をひっくるめて肉の思いと言います。肉の思いは悪魔の思想ですが、この思いが一つの生命形態をとって、ユダヤ人の中に住み込んでいるのです。

肉の思いが形となって、ユダヤ人の中に住み込んでいる。これは異邦人の中にももちろん住み込んでいます。異邦人の考え方の基本には何があるのかと言いますと、肉の思いが根を張っているのです。だから汝ら互いに相愛せよと言われても、なかなか実行できないのです。

愛しあうということは、本当にすばらしいことです。本当に心から愛しあっている人が一緒にいると、それだけでその場が喜びと感謝とにあふれるような感覚になってしまうのです。これが私たちのグループの実体にならなければいけないのです。

第三の天が下りてくるのです。汝ら互いに相愛せよというのは言葉では簡単ですが、これを実行する事は本当に難しいことです。愛は全ての非礼を取り除くとか、すべての過ちを許すとか、すべての欠点を見ないとか、色々パウロが書いていますが、惚れた目で見ると、あばたがえくぼに見えるのです。他人の欠点が見えなくなってしまうのです。

お互いの欠点がなくなってしまって、良い所だけが見えるのです。こういう状態でいると、いるだけでお互いがわくわくするのです。ですから腹に一物、背中に荷物ということがないのです。胸に何かを持っておべっかを言うとか、人の機嫌を取るとかということがなくなるのです。心からありのままの気持ちをありのままに与えることができるのです。

愛している人には良い所しか見えないから、良いことばかりを言うことになるのです。思春期の友情はこういう事ばかりです。ところがひがんだ大人になると、そういう気持ちが全くなくなってしまうのです。

本当に愛しあう者どうしが集まると、本当に思春期の友情がもっと深い形で現われるのです。新約聖書の雄大な世界観と、すばらしい深い価値観を兼ね備えて、心から愛しあえるのです。皆様にはこういう経験をどうしてもして頂きたいのです。これが新しい友愛、恋愛の形です。

皆様はパラダイスの生活を現世で経験しなければならないのです。例えばパウロとヨハネが話し合っている光景を想像して下さい。ヨハネの愛の深さ、パウロの雄大なスケールの信仰の展開です。この両巨人がお互いに話し合っているのは深いものがあるのです。

エリアとモーセとイエスの三人が変貌山の頂で話しあっていた。これが愛の世界です。神の約束の宇宙的な展開です。現世も来世もないのです。神の国が変貌山の頂に現われていたのです。その時イエスの肉体の姿が変わっていたのです(マタイによる福音書17・1~5)。これが本当のパラダイスです。私たちはここまで行かなかったらいけないのです。本当にお互いが相愛すれば、ここまで行けるのです。

こういうことが実現するためには、どうしてもお互いの自我意識がなくならないといけないのです。本当に愛しあうと、自我意識がなくなってしまうのです。だから、あばたがえくぼに見えるのです。自我意識があったらあばたがえくぼに見えないのです。神は皆様にこれを期待しているのです。神の期待は必ず実を結ぶでしょう。

神の子が来たのは、悪魔の仕業を毀つため、破壊するためです。悪魔の仕業は目に見えない、霊的な仕業です。自我意識と現象意識、即ち肉の思いが悪魔の仕業です。人間の肉の思いが、人間社会の罪悪の根源になっているのです。肉の思いがなければ、犯罪行為があるはずがないのです。肉の思いを毀たなければ、霊に従いて歩むことはできないのです。従って、現世で神の国に生きることはできないのです。

皆様の中に、神の子としての信仰が発酵していきますと、自分の肉の思いは破壊されるのです。パウロが言っています。私が今肉体において生きているのは、私のために十字架にかかって下さった人の信仰、神の子の信仰において生きているのです。神の子を信じる信仰で生きているという訳もあります。これは自分が神の子であることを信じる信仰です。タルソのサウロは十字架によってなくなっていて、今いるのは神の子の自分であると言っています。これを基礎として、彼の生活が成立していたのです。

パウロの場合は、日常生活が全て信仰でした。愛しあう人が二人、三人いますと、その集まりが、ただお茶を飲んでいるだけであふれるような喜びと平和があるのです。

例えば皆様の新婚時代を考えてみて下さい。お互いに愛しあっているという経験をしたはずです。どんなにひがんだ人でも、新婚のときには、へそを曲げないでしょう。たいがい日本晴れのようなすがすがしい気持ちになっています。これが神の国です。そこには第三の天があったはずです。自我意識はなかったはずです。

なぜか、妻は自分を夫に捧げてしまったからです。夫は、妻を愛しているからです。お互いにお互いを捧げている。汝ら互いに相愛せよとは、このような心境が霊的に働くことを意味しているのです。

皆様は幼児としての経験も経てきましたし、新婚の経験もしてきました。それでもまだ第三の天が分からないというのは、念入りにひがんでいるからです。このひがみ根性を精算して頂きたいのです。

肉の思いを持っていることは、地獄を持っていることになるのです。肉の思いは死です。死の後には裁きがあるのです。だから肉の思いを持っている人は、死を持っているのです。死を持っている人は地獄を持っているのです。ばかなことをしているのです。

こういう愚かな状態から逃げ出すことです。イエスが主であることを信じるのは、こういう所から始めていかなければならないのです。

愛というのは不思議なものでありまして、いわゆるあばたがえくぼになるのです。欠点が逆に長所のように見えるのです。

普通、肉の思いで現象世界を見ていますと、いわゆる道徳とか、掟、世間の慣わしとか言うもの、伝統、常識にいちいちこだわることになるのです。共産主義社会では、共産主義を無視して行動することはできないのです。日本人社会では、日本人的な意味での常識を無視することはできないのです。ですから父、母、妻子、兄弟を憎めと言われても、なかなか憎むことができないのです。

愛の実質は、神から出たものである決まっているのです。なぜかと言いますと、愛の実質が働き始めると、醜いものがきれいになるのです。難しそうに思えたものが、簡単になるのです。角ばったものが、丸いものに感じられるのです。醜い汚いと思っていたものが、きれいな美しいものに変わってしまうのです。これが愛です。神が愛によって私たちを見てくださるのです。もし愛による見方がなければ、私たちの罪が許されるはずがないのです。

肉の思いで生きている私たちが、霊の思いで生きることができる。愛を感じることができるというのは、神が愛によって私たちを処置しているからです。今の私は過去の私ではないことが、はっきり分かっています。神がそう見ておられて、神の信仰が私に映っているからです。だから過去の私ではない私になっているのです。

そのように、神の目からごらんになると、現世におけるできごとで、悪いものは一つもないのです。悪いものとか、悪いこととかというものはないのです。すべては皆清いのです。ペテロが幻で、四つ足の獣が下りてきた。お腹が空いてたまらない時に、豚の肉がおりてきたので、そんなものは食べられませんと言ったのです。そうしたら天から声があって、神が清めたものをなぜおまえは清くないというのかと言われたのです。

皆様が現在生きている状態、自分自身が生きている状態、また皆様が見ている人は、神によって既に清められているのです。お互いに清められているのです。聖霊降臨によって、すべての汚れは取り払われているのです。

ところが、人の欠点が見える。自分の欠点が見えるのです。肉において人を見ているからです。肉において自分を感じているのです。自我意識によって自分を見ているのです。なぜこんなことをするのでしょうか。神が既に清めたものを、私たちはなぜ清くないと思っているのでしょうか。そんなことをする権利があるのでしょうか。

神は十字架によって、すべてのものを清めたのです。この世には罪はないのです。神を信じるという信仰はこういう信仰になるのです。神の信仰がそのまま自分の信仰になって働く時に、私たちが生きている世界はそのまま第三の天になるのです。だから、汝ら互いに相愛せよと言っているのです。

まず私たちはこういう世界を、こういう生活を実感しなければならないのです。皆さまは世間の人から比べれば、ひがみやねたみはありませんが、それでも完全にないとは言えないのです。あの人は得をしている。私は損をしていると思っているのです。他人から見たら得をしていることでも、本人は得をしているとは思わないのです。こういう感覚は皆、悪魔の仕業です。悪魔の働きがその人の中に働いていますと、どうしてもひがみ根性や自惚れ、人を裁く気持ちがあるのです。

私たちはイスラエル伝道する前に、こういう気持ちから抜け出さなければならないのです。神の国に生きるのでなかったら、現世において神の国を具体的に経験するのでなかったら、神はイスラエル伝道を許さないのです。神が伝道の門戸を開かなければ、ユダヤ人に福音を伝えることはできないのです。

伝道の門戸を開いてくれるのは神です。私たちがユダヤ人に接触して、聖書の話をしてもだめでしょう。神がユダヤ人の心の門を開いてくれるのでなかったら、異邦人が力を尽くして話してもだめでしょう。相手は天下のユダヤ人です。彼らは問題にしないでしょう。

まず私たちが、愛なる神、神の愛を、経験しなければならないのです。そのためには、私たちはまず、見ている世界がこのまま愛の世界であることを、感じることから始めなければならないのです。

自分の心がかたくなであって、人を裁くような気持ちがある、ひがむような気持ちがある間はだめです。なぜひがむのか、なぜ裁くのか。なぜ人の欠点が目に見える気持ちになるのでしょうか。これはすべて愛を魂に感じてないからです。原因はこれです。そうしたら、愛を感じることを勉強すればいいのです。愛を感じることの勉強とは、愛されていることを感じることです。そうすると心が開けてくるのです。

人間存在はすべて女性的な存在であって、愛されていることが分かりますと、人間は安心するのです。女性は特に愛されていることが分かると安心します。現在皆様は愛されているのです。まず第一に、今はキリスト紀元の時代です。イエス紀元の時代です。二〇一二年というのは、明らかに新約の時代であって、もはやアダムの子孫、罪人である人間は存在していないのです。神の子ばかりが生きている時代です。これが愛されているというという証拠です。第二に、今の時代に生きている私たちは神の目から見て、すべて神の子に見えるのです。そういう時代です。もはや悪魔の子であるアダムの子孫はいなくなっているのです。

私たちはイエスと同じ神の子として、神の前に立たされているのです。そういうすばらしい条件におかれているのです。私たちは生まれる前から救われていたのです。生まれる前から神の子でした。それを知らなかっただけのことです。異邦人の社会で、異邦人の習わしに従って肉の思いで教育された。肉の思いで育てられたのです。そのために魂がひがんでひがんで、ひがみ倒しているのです。

自我意識で自分を見ることが当たり前のように思い続けてきたのです。そういう習慣にとらわれているだけのことです。自分自身の中にある悪魔の仕業、肉の思いを取り去ってしまえばいいのです。

私たちの外側にあるものは、時間的には新約の時代ですし、空間的には全く愛の表現ばかりです。太陽の輝きであっても、雨の音であっても、雲の流れであっても、川のせせらぎであっても、蝉が鳴いたり、コオロギが鳴いたり、鳥が鳴いているのです。これが愛でなくて何でしょうか。カジカの鳴き声は、愛でなかったら何でしょうか。ウグイスの鳴き声は、愛でなければ何でしょうか。なぜ神はカジカの声を聞かせるのでしょうか。これは人間に聞かせるのではなくて、魂に聞かせているのです。

夏の夕暮れに、さわやかなそよ風が頬をなぜるように吹いてくる。これは神の愛のタッチです。愛によって人間に触れているのです。これが愛でなくて何でしょうか。青葉の輝きといい、花の美しさといい、また、口にあう料理が食べられるのです。健康が保たれるような天候、気候が与えられている。これは愛と言わなければどういう言い方をしたらいいのでしょうか。

神が人間の魂を愛している。その愛の現われが私たちの生活条件として現われているのです。何も自惚れなくてもいいのです。過大に評価しなくてもいいのです。カジカの鳴き声といい、そよ風といい、人間の魂がなごやかになれる条件が神から人間に与えられているということは、神の愛の働きでなくて何なのかということです。

カジカの鳴き声を聞かせたり、そよ風を与えることによって、神は人間に何か代償を要求しようとしているのでしょうか。代償を要求していない行為というのは、愛としか言いようがないのです。何の償いも求めないで、ただ好意だけを流しているのです。これが愛です。人間は風が吹くのは当たり前だと思う。夏は暑いのが当たり前、冬が寒いのが当たり前だと思う。当たり前ということはないのです。

神は青葉若葉を人間に見せています。青い色というのは、人間の魂の疲労を回復する色です。脳神経の疲労を回復するのが、青葉の色です。青葉をじっと見ているだけで、人間の心に安らぎがあるのです。これに対して神は何かの代償を期待しているのでしょうか。神は何らの代償を期待しないで、ただ純真な好意をそのまま私たちに与えているのです。本当に神のご好意によって、私たちは養われているのです。それを感じている私たちの魂は、神の愛を感じているのです。皆様は知らず知らずに、神と愛の交わりをしているのです。認識はしていないけれども、神と愛の交わりをしているのです。

ただ主観的な意識が肉の思いであるだけに、こぼれるような神の愛を、あふれるような神の愛を実感しないで、まだ足りない、まだ足りないと、足らない方ばかりを考えているのです。もっとよい条件、もっとすばらしい条件を与えてほしいと願っているのです。

ところが、自分の中にある肉の思いをまず変えなければ、すばらしい条件は与えられないのです。自分の中が荒れているのです。荒廃しているのです。自分のハートが荒れているのですから、自分のハートを変えるのは自分の役です。神が愛をはっきり見える形で見せておられることを、素直に、素朴に受け取ってみてください。そうすると自分の中にある肉の思いが、どれほど嘆かわしいものであるかが分かるのです。

他人の行いが嘆かわしいのではない。自分自身の思いが嘆かわしいのです。他人の肉的な欠点を気にする気持ちが嘆かわしいのです。人の欠点さえ見なければ、皆すべて愛すべき人ばかりです。肉によって人を見るから、憎みたくなるのです。

パウロは言っています。「今より後、肉によって人を見ることをしない」とはっきり宣言しているのです。肉によって人を見なければ、愛しあうことができるに決まっています。あばたが気になるのは、肉の人を見ているからです。肉によって見なければ、えくぼに見えるに決まっています。どうか肉によって人を見ることをやめて、愛によって人を見るということを、まず実行して頂きたいのです。神が愛です。神は無条件で人間に好意を持っておられるのです。善意を持っておられるのです。

出エジプト記の三十三章に、神がモーセに向って、「私はもろもろの善をおまえの前に通らせる。そうするとおまえは、私の名前の栄光を知ることができるだろう」と言っているのです。モーセの前に、もろもろの善が通るのです。神の善が通るのです。神の善とは何か、砂漠に照りつける太陽です。これが神の善です。

また、岩から水が湧き出ることも、もちろん善です。モーセが百五十万人もの大群衆を引き連れて、エジプトを出たのです。荷物や、家畜をひきつれての大移動ですから、大変なことです。百五十万人の人間に食物が与えられ、水も与えられた。健康も守られ、四十年間衣類が古びなかったのです。こういう驚くべき事実があったのです。

もろもろの善が、毎日、モーセの前を通っていたのです。モーセは自分の目の前の森羅万象が神ご自身の善であるように、受け取っていたのです。神の善が通っているのです。瞬間、瞬間、景色が変わっていく。瞬間、瞬間、時間が流れていく。これが神の善が通っていく姿です。

神の善が時間になって、彼の前を流れていたのです。モーセは時間の流れを神の善として受け取ることができたのです。その時、神はモーセを助けない訳にはいかなかったのです。

皆様もモーセが見たように神の愛を見て頂きたい。涼しいのは当たり前だと思わずに、涼しいのは神の愛だと善意で受けとめて頂きたい。そうすると神は皆様の魂を愛さない訳にいかなくなるのです。神の愛を受けとめれば、いよいよ愛が注がれるのです。愛を受けとめなければ、神の愛がさっぱり分からなくなるのです。

例えばお互いに愛しあっていても、愛のシグナルをある人に送っても、送られた方が知らん顔をして横をむいていたら、愛が通じないのです。そのように皆様は神の愛の贈り物を、愛の贈り物として受け取れるようになれば、自我意識は自然に消えるのです。消そうと思わなくても、自然に消えていくのです。

現象意識と自我意識が肉の思いです。これを消そうとすることは大変です。神の愛を受けとめますと、肉の思いは自然に消えるのです。愛のある所には、苦しみ悲しみ、ねたみ憎しみは、自然になくなるのです。愛のある所にこだわりはありません。何でも言えるのです。何でもできるのです。他人から見て嫌いなことでも、愛によってお互いに見ていると、嫌いな事がなくなるのです。嫌いなことが好きな事に変わってしまうのです。

神の愛を愛として受け取ってください。当たり前だと思わないのです。自分は神に愛されているという自信で受け取って頂きたい。自分は神に愛されているとはっきり信じるのです。

これは夢物語ではありません。皆様が現在生かされているのは二〇一一年であって、イエス・キリストの十字架によって、人間のあらゆる罪は全部消えているのです。イエスが肉にて殺されたように、皆様も肉にて殺されているのです。肉にて殺され、霊にて生かされているのです。肉にて殺されているのですから、肉の思いで自分を見てはいけないのです。これは本当かどうかと疑わなくてもいいのです。愛されているから安心したらいいのです。

イエスは悪魔の仕業を毀つために来たのであって、皆様は既に神の子として扱われているのですから、自分の中にある悪魔の仕業を破壊したらいいのです。罪の思いを毀ったらいいのです。

神の子が現われたのは、悪魔の業を毀つためです。福音とは何かというと、互いに愛しあうことです。愛しあわなければ、私たちに福音は実現しないのです。

肉の思いを捨てて、霊の思いで生きるのです。霊の思いで生きているかどうかは、愛しあっているかどうかで決まるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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