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悪魔の自滅


人間は働くために生まれてきたのではありません。現世に生きるために生まれてきたのではないのです。命を見つけるためです。死なない命、とこしえの命を見つけるために生まれてきたのです。

人間には生きているという事実があります。生きているという事実がある以上、命を知らないでは通らないのです。生きていながら命が分からない者は、地獄しか行く所がないのです。

生きているということで、明々白々に神と自分の魂とがつながっているのですから、このつながりがありながら神が信じられないというのは、恥ずかしいことです。

皆様は神を信じていません。神に関する理論を信じているだけで、神を実感していないのです。神を信じるというのは、神をハートで実感することです。

自分の魂のレベルをイエスの所へ持って行くことです。イエスを自分の魂のレベルにすることです。そうして考えるのです。イエスと同じレベルにあるべきだという自覚を持つことです。

言(ことば)が肉体となったという条件は(ヨハネによる福音書1・14)、イエスも皆様も同じです。肉体があるのではない。言があるのです。

言が肉体になったというのは、言が肉体に化けたということです。化けようが化けまいが言は言です。肉とか肉体はどこにもないのです。

肉は形はあるが実体はないのです。それでは形があるのかというと、形はただの感覚です。実体ではありません。これがはっきり分かると、天使が皆様に仕えるくらいの霊魂のランクに座らせられることになるのです。

皆様は神の使命に対して責任者になるという自覚がありません。例えば、エゼキエル、ダニエル、イザヤ、ギデオンという歴代の人物と同じ自覚を持っていないということです。

イスラエルの預言者と同じ自覚を持つのです。そうすれば新約の預言者になれるのです。

皆様はイスラエルの救いのために立てられた人材です。ヨハネの黙示録七章二節に、皆様のことが書いてあるのです。皆様は聖書に書いてある人物です。永遠不滅のヨハネの黙示録の第七章に、はっきり書いているのです。これを信じていただきたいのです。

イエスは言(ことば)なる神です。ヨハネは、「すべてのものは言によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と言っています(ヨハネによる福音書1・3)。言であるイエスが十字架につけられたので、万物が消えたはずですが、森羅万象はいぜんとして目の前に展開しています。春になれば青葉若葉が満ちて桜が咲き、夏にはさんさんと陽が照って、おいしいスイカができます。

十字架によって神の言が否定されたので、万物が消えているはずなのに、万物はいぜんとして存在している。

十字架は嘘だったのかという疑問が当然でてくるはずです。まじめに聖書を学んでいれば、こういう根本的な疑問がわいてくるはずですが、こういう疑問を持たないということは、聖書をまじめに勉強していないことになるのです。

十字架によってすべての人間が死んだはずなのに、いっこうに死んでいない。こういう分からないことが沢山あるはずです。これは神に聞いたら分かるのです。

私たちは全世界の人間を代表して、聖書の勉強をしなければならないのです。私たちを通して御霊により世界を指導しなければならないのです。

現在の肉性文明は、ユダヤ人が神の実体を誤解しているために起っているのです。霊なる神を肉なるもののように誤解しているために、このような文明現象が起っているのです。そのためにユダヤ人が世界各国において神の清き名を汚しているのです。

言が肉となったという事実があるだけです。これは実体がないのです。これは機能を意味するのです。言が肉となって働いているということを意味するのです。これを魂というのです。これには実体がないのです。

形があるように見えますが、形は働きのことです。働きが形のように見えるのです。

身長が一メートル七十センチに見えますが、これは働きです。大きさではなく働きです。体重が七十キロというのも働きを意味するのです。

肉体は生理現象であって、生理現象は働きを意味するのです。肉体という物質ではないのです。消化機能、排泄機能、呼吸機能という色々な機能が連関して働いているのです。

言が肉となったというのは、言が肉に化けたということです。言はどこまでも主体です。言という主体が肉という客体になった。なったというのはそのような現象が起きたということであって、言がなくなったのではないのです。言がなくなって肉になったというのではないのです。

言が肉にチェンジしたのではない。変ってしまったのではないのです。ビケーム(became)したのです。あるのは言だけです。肉となった言があるのです。これを働きというのです。

言は働きを意味するのです。物質というものはない。物理があるだけです。物理という働きが物質のように、また、物体のように見えるだけです。見えるというのは実体を意味しないのです。そのように感覚されているという事です。

これは人間の肉体だけではありません。青葉、若葉が美しく見えること、花が咲いていることは、皆言が肉となっているのです。その事実を人間は見ているのです。人間の肉体も、植物も動物も鉱物も同じです。

花が咲いているのは言です。私たちは花を見ているのではなくて、言を見ているのです。そういう感覚で見ることが、神を神として認めることになるのです。

働きの根源はエネルギーです。人間と人間との関係もエネルギーの関係で成り立っているのです。商売という働きも人間関係のエネルギーです。

エネルギーには心理的なエネルギーと物理的なエネルギーがありますが、人間関係は心理的なエネルギーによるのです。聖書を学ぶというのは心理的なエネルギーによるのです。

信仰はエネルギーです。エネルギーですから、水がぶどう酒になったのです。紅海の水が裂いたのもエネルギーです。喉が渇いた時に水を飲むことも信仰によるのです。

信仰とは何か。ストーブに火を付けたら暖かくなると思う。これが信仰です。スーパーマーケットへ行けば買いたい野菜や果物があると思う。電車に乗れば目的地へ到着すると思う。これが信仰です。

パウロは言っています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙11・1)。

人間の生活において信仰ではないものは一つもないのです。望む所を疑わない。見ていないものを確信するのです。これによって人間の生活が成りたっているのです。

コーヒーを飲めば必ずコーヒーの味がすると思って飲む。果してコーヒーの味がするのです。電話で商品を注文したら、必ず商品がくると思う。果して自分が注文したとおりの商品が到着したのです。

人間のしていることはすべて信仰です。夜寝たら、明日も必ず太陽が出ると確信する。だから安心して寝られるのです。もし明日太陽が出なかったら、安心して寝ることができないのです。

そのように人間は毎日、毎日、信仰を実験しているのです。これは言が肉になっている証拠です。肉体があるのではない。神の言が肉になっているのです。

物理現象はすべてエネルギーの働きです。エネルギーの働きは何か。これが神の御霊の働きです。

こういうことを毎日黙想し、実行していくとだんだん実感がわいてくる。これを信仰の訓練というのです。信仰は訓練しなかったらだめです。訓練しなかったら上手にならないのです。

訓練をすれば、初めは下手でも、だんだん上手になっていくのです。絵を書くことも、文章をつくることも、訓練すれば上手になるのです。肉体の人間はいない。自分の固有名詞の人間は一人もいないということを考えるのです。そうすると聖霊が助けてくださって、実感になってくるのです。そうすると、霊に従いて生きることができるのです。

まず理論的に学ぶことです。これを毎日、毎日実行するように訓練するのです。そうして少しでも実感することができたら、神に感謝したらいいのです。

こういうことを堂々と人に言えるようになれば、信仰の証がその人の中にあるのですから、信仰の証によってその人は救われるのです。信仰によって証せられないようなら、救われないのです。

自分が魂だと分かった人は、リビングが分かったということです。それではリビングとは何かということです。これが神です。リビングのことをエネルギーと言います。エネルギーがなかったら生きておれません。

あらゆることがエネルギーの働きです。太陽が輝いていること、動物、植物が生きていること、人間が生きていることはすべてエネルギーによるのです。このエネルギーが神です。

人間がいる所はすべて神ばかりです。神で、神で、神がいっぱいの所に人間が置かれている。これでも神が信じられないのはどうかしているとしか言えないのです。

人間はリビング・ソールです。リビングがエネルギーです。エネルギーは神です。ソールも神です。神が人間に化けているのです。自分は神だということに気がつけばよいのです。イエスはそれに気がついたのです。

これを共にいます神、インマヌエルの神というのです。私は父のうちにいると言っている。私は父にいる。父は私にいる。これは当り前のことを言っているのです。

こんな当り前のことがなぜ信ぜられないのかと言いたいのです。ユダヤ人はこれが分からなかった。分からないから世界中で神を汚して歩いているのです。

神が分からないから、自然科学とか哲学とか、法律、経済と言っているのです。これは皆仮のことを本物のように言いふらしているのです。

法律の実体は何か。エネルギーです。政治の実体もエネルギーです。経済の実体もエネルギーです。エネルギーの他に何があるのでしょうか。何もないのです。

原理は父なる神を意味します。エネルギーは原則でもあり、また、原動力でもあるのです。原則も原動力も同じものです。

存在という形になって現われる場合には、エネルギーが原理になるのです。心理構造になると、心の動き、考えるということ、思想になるとエネルギーではない別の言い方になりますが、その場合でもエネルギーと言えなくもないのです。

例えば信仰はエネルギーです。エネルギーは有形的なことばかりではなく、無形的な場合もあるのです。これを聖書は霊と言います。スピリット(spirit)です。

エネルギーの実体は何かと言いますと、神です。神の実体は何かというと命です。命は神です。神はエネルギーです。命がエネルギーになって働いているだけなのです。

生きているということは神を経験していることです。現実に神を経験しているのです。簡単な事です。最も単純な事です。一番単純なことを神というのです。

人間は形を見て形があると思っている。物に目方があると思っているのです。例えば自分の肉体に体重があると思っています。五十キロの人は五十キロの体重があると思っているのです。本当に体重があるのでしょうか。

ロケットに乗って、地球の重力圏を脱して、宇宙ステーションに行きますと、人間は皆浮いているのです。五十キロの人も、百キロの人も皆浮いているのです。

皆様はテレビの宇宙中継によって、このような光景を何回もご覧になったでしょう。もし人間に固有の体重があれば、浮かぶはずがないのです。

人間の肉体に目方はありません。目方は地球の引力に対する抵抗が現われているだけです。

神を信じるというのは一番単純で、一番簡単なことです。それを難しく考えすぎているから分からないのです。この原理さえ分かれば、聖書はどんどん分かるはずです。

皆様は魂と神と命の原理がきちっと分かっていないから、聖書を読んでも自分の命にならないのです。

聖書は神の論理を述べています。神の論理というのは、エネルギーの働きを論理構造にして見せているのです。エネルギーは物理構造として働く場合と、論理構造として働く場合と、両方があるのです。御霊というのは心理的にも物理的にも通用することです。

イスラエルが現在神に背いています。そして私たちに神の国が教えられているということは、天地創造以前の神の計画にあったのです。私たちはそういう人材ですから、これをはっきり自覚して頂きたいのです。

だから固有名詞の人生を捨ててもらいたいのです。固有名詞の人生をいくら幸せにしてもだめです。死んでしまったらそれで終わりです。

固有名詞の人間は死ぬに決まっているのですから、自分のことを一切忘れることです。自分が幸せになりたいとか、御霊を受けたいということを忘れてしまうのです。

ただ神の御心が全世界に成就しますように、そして特にイスラエルの上に成就しますようにということだけを願えばいいのです。これをすれば神に必ず祝せられますし、神の約束の中へ入っていけるのです。

神の約束の中へどんどん入っていくのです。約束の中へ入っていくことが、聖書の中へ入っていくことなのです。これがとこしえの命の中へ入っていくことなのです。

肉体を持っている人間が真理を学ぶことは大変なことです。しかしこれをしなければ、地獄へ行くしかないのです。難しくても、分かりにくくても、どうしてもしなければならないのです。

ですから、自分の運命をあきらめてしまうことです。女の人は幸福な結婚をしようという気持ちをやめてしまうことです。やめてしまえば、神がしっかりした相手を見つけてくれるのです。

自分が救われたいという思いを全部捨ててしまうのです。ただ神の計画が成りますように、神の御心が成りますようにと願うのです。神の約束がすみやかに成就しますようにと願うのです。そのためにはイスラエルの回復が絶対必要です。

とにかくイスラエルを返したまえと祈るのです。神の計画だけに生きるのです。それに徹底するのです。全世界のキリスト教が間違っていると、はっきり言うのです。

神我らの味方なれば、誰か我らに敵せんやです。全世界のキリスト教を敵に回すということは、キリスト教を中心にして世界に展開されている白人文明を敵に回すことになるのです。人間文明が間違っている。これを言うことは、全世界を敵に回すことになるのです。

たった一人で世界中を相手に、喧嘩することになるのです。これはナザレのイエスと同じ考え方です。ナザレのイエスは世界中の人間を相手に喧嘩したのです。そして見事に勝ったのです。

世界中を相手にして一人で闘っても、必ず勝てるのです。人を頼りにしたら負けるかもしれないのですが、自分一人で闘う場合には誰も相手にしてくれません。そうすれば神が助けるに決まっているのです。そうしたら、極めて大いなる限りなき重き栄光、大いなる無限の栄光がその人のものになるのです。自分の名誉とか自分の欲望を捨てても、全然損にはならないのです。

アブラハムは十字架なしに神に義とされた。これには秘密があるのです。

イエス・キリストの十字架とは何か。何がどうなったのか。十字架によって古い神の言がなくなってしまったのです。神の言によって万物が造られて、神の言によって万物が保たれているのです。

パウロは言っています。

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も、主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ人への手紙1・15~17)。

神の言によって造られ、神の言によって保たれ、神の言のために造られた万物は、なくなったのです。神の言によって造られた万物は、神の言が否定されたために、なくなったのです。

なくなったとはどうなったのかと言いますと、造られる前のエネルギーに還元したのです。元のエネルギーに帰ってしまったのです。

ところが、イエス・キリストが復活したことによって、イエス・キリストの信仰が復活したのです。イエス・キリストの信仰というのは、万物を完成させる信仰です。これがメシアの自覚です。メシアの自覚によって、万物を完成させるという信仰が神によって義とされた。

神の言はなくなったが、イエス・キリストの信仰が神に取り上げられることになった。これがイエス・キリストの復活です。

イエス・キリストは復活によって、第三天の神の右に座せられたのです。そこで第三天におけるキリストの祈りが、宇宙に作用することになったのです。彼の信仰と彼の祈りが、万物に作用することになった。神は私たちにこのことを教えておいでになるのです。

ヨエルの預言に、「私の霊をすべての人に注ごう」とあります(使徒行伝2・17)。すべての人というのは英語ではall flesh になっていますから、すべての肉と訳すべきです。

すべての肉とは万物のことです。すべての万物に霊が注がれた。神の御霊が万物に注がれた結果、万物がエネルギーに還元されてしまったのです。

イエスは生きている間に、万物を従わせる信仰を持っていた。水をぶどう酒に変える信仰を持っていた。水の上を歩けるような信仰を持っていたのです。彼自身の肉体が存在しないことが分かっていたからです。

ところが、イスラエルを回復させるためには、旧約時代の現象世界を、そのままの状態で残しておかなければならないのです。全世界はイスラエルのためにあるのです。万物はイスラエルのためにあるのです。

万物を完成するために、イスラエルを回復するために、教会を完成するために、新しいエルサレムを完成するために、万物という現象世界を残しておかなければならない。そのために、現象世界が保たれているのです。

イスラエルが回復するまでは、万物が消えたら困るのです。そこで神は、万物の完成のために、私たちがイスラエルの救いのために祈るという大芝居を打たしているのです。

イスラエルのために祈るということは、地球が存在する根本目的のため、地球を完成するために祈っているのです。これは大変なことをしているのです。

神は神の経綸のための切り札として、私たちを用いようとしているのです。ですから喜んで固有名詞の自分を捨てて頂きたいのです。自分の利害得失を一切捨てて頂きたいのです。

現在目に見えるものは全部既製のエネルギーによって成り立っています。このエネルギーに勝つものは、イエス・キリストの信仰という新しいエネルギーです。これは復活によってできたエネルギーです。これが今新約の信仰として、私たちに与えられようとしているのです。私たちは天地万物を指導するためのエネルギーを与えられようとしているのです。これがイエス・キリストの信仰です。

私たちはこのイエス・キリストの信仰によって、天地を従わせることができるのです。万物を己に従わせる力を持って、やがてイエス・キリストが来たりたもうのです。天を裂きて来たりたもうのです。この天を裂きて来たりたもうキリストの力が、今聖霊によって私たちに与えられようとしているのです。

私たちは当然天地を従わせるべきであって、天地万物に命令すべきです。それは固有名詞の自分がするのではありません。肉の自分がそんなことができるはずがないのです。

滓の自分がなくなって、ダイヤモンドが現われるのです。滓の自分は全部死んでしまう。そして神の宝石になるのです。十二色の宝石になるのです。

十二色の宝石はニューエルサレムの城壁になるのです。城壁の石垣が教会です。イスラエルが真ん中に住んで、神の教会がイスラエルを囲んでしまうのです。十二色の宝石によってニューエルサレムの壁垣ができるのです。これは私たちの霊的状態のシンボルです。

パウロが言っています。

「このように、あなたがたはキリストと甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのです。

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

上にあることを思え、地のことを思うだにするなと永井直治氏は訳しています。これを分かりやすく言いますと、地上のことを全く意識するな、問題にするな、考えるなということになるのです。一切取り上げるなというのです。

上にあることを思え。そこではキリストが神の右に座しておられるのです。神は古い人を全く問題にしていないのです。

神はキリストが十字架についたことによって古い人、即ち、アダムの罪によって原罪のままで生きている人間を一切認めていないのです。

十字架によって罪を征伐した。肉を殺してしまったのです。神がイエス・キリストに対してなされた処置は、全人類に対してとった神の処置です。

神は肉体的に生きている人間を全部殺してしまったのです。肉体的に生きている人間を神は認めていないのです。肉体的に生きている人間を認めていないということは、肉であるすべてのものを認めていないということです。人間を初めとして、肉的に存在しているもの、現象的に存在している動物、植物、鉱物の一切を認めていないということです。

動物、植物は認めるが、人間は認めないということを神がするはずがないのです。人間は動物、植物を集約したものです。それを認めていないのですから、万物は皆存在していないはずです。

神はイエスを十字架につけたことによって、万物を認めないという原則をはっきり打ち出したのです。ところが、現在もなお万物があるのです。神は万物を認めないのですが、神の右に座している方が認めている。だから現在もなお万物が存在しているのです。神はしかたがないと思っているのです。

イエスを十字架につけたことによって、神は悪魔に完全勝利したのです。悪魔は完全に見当違いをしたのです。神は悪魔の願いをそのまま聞いた結果、肉が完全に滅びることになったのです。

神は悪魔がイエスを十字架につけるように訴えたので、それをそのまま取り上げたのです。悪魔はイエスに罪があると考えた。そこで十字架につけるように主張したのですが、実際にイエスに罪はなかったのです。

イエスに肉の思いがないのに、悪魔はイエスに肉の思いがあると考えた。このイエスを十字架にかけたことによって、すべての肉、悪魔自身が十字架につけられたのです。悪魔が完全に否定された。悪魔自身が負けたのです。

悪魔はどこへ尻を持っていったらいいのか、悪魔は自分が思ったとおりにイエスを十字架につけたのです。そうして全地、全人が皆滅びたのです。一体誰が負けたのか。悪魔が負けたのです。悪魔は地団駄を踏んで悔しがったのですが、後の祭りで、どうしようもないのです。

神は悪魔が言ったとおりにイエスを十字架につけたのですが、その結果、悪魔が負けたのです。そして現象意識そのものが全部滅ぼされたのです。肉の思いがだめになったのです。原罪が消えたのです。悪魔が完全に敗北したからです。

ところが、人間にまだ肉の思いが残っている。これは一体何か。人間はいぜんとして肉体的な自分がいると考えている。なぜなのか。人間の肉にまだ悪魔の意識が働いているからです。

まだ、人間の内に常識、顕在意識が働いているのです。ところが実質的には神が現象を一切否定したのです。

神は悪魔の要請でイエスを十字架につけたが、イエスに罪はなかった。そこで悪魔自身の肉が十字架につけられた。悪魔自身が十字架につけられたのです。

悪魔は自分で勝手に自滅したのです。従って現在は、悪魔に遠慮する必要は全くないのです。自分の内にある肉の思い、自分の思い、自我意識に、少しも遠慮する必要はありません。

自分の一生なんかどうでもなれと言っても、誰も文句を言わないのです。レメクの恫喝は全く通用しなくなったのです(創世記4・23、24)。悪魔は完全に自滅したのですから、悪魔の言い分、即ち、自分の思いにすべて耳をかす必要はないのです。

ところが、キリストなんか信じたらこの世でばかを見るとか、世間の信用を失うとか、家庭がうまくいかなくなると悪魔の思いである自我意識が言うのです。

これは自滅した悪魔のたわごとです。こんなばかな事はないのです。夫婦とか親子、兄弟というのはこの世の人間のつながりです。これは皆現象意識です。十字架以後、現象意識はもはや存在しないのです。一人ひとりが生かされているというリビングだけがあるのです。リビングということはすばらしい事です。これだけがあるのです。この世の人間関係、家族関係、夫婦関係、友人関係というのはあるように見えるだけで、実は存在していないのです。そのことをイエスが証明したのです。

ある時、イエスの所へあなたの母親が来たと言われた時、「私の母はどこにいるのか。神の約束を聞いているのが私の母だ」と言ったのです。イエスは、夫婦もない、兄弟もない、家族もないということをはっきり言っているのです。イエスは宇宙の必然性によって人間を見ていたのです。

現在の人間関係は譬です。それに親しみを感じるのはいいのですが、それを頼りにしてはいけないのです。だいたい家族というのは譬であって、親子関係は神と人の雛形です。

宇宙にファミリーは一つしかありません。神と人間との関係をニューエルサレムというのです。ニューエルサレムというファミリーが一つあるだけです。聖書が言う兄弟姉妹というのはニューエルサレムです。

これが本当の兄弟姉妹です。だから夫婦関係でも人間関係でも永遠につながるような形で見ていかなければならないのです。

現世の人間の思想、道徳、法律、哲学も、皆間違っているのです。人間の考えは皆間違っている。それは人間の顕在意識が悪魔の思想だからです。

顕在意識は現象を実体とする意識です。現象に基づいて考えるのです。自然科学は現世に生きている間は通用しますが、現世から去ってしまえば通用しません。自然科学は永遠の学ではないのです。暫時暫定的に通用するのです。

私たちが勉強しなければならないのは、永遠の真理です。永遠の真実であって、瞬間的な真実ではありません。瞬間的な真実というのは、本質的に嘘ということです。永遠の真実だけを真実というのです。

人間が現世に生きている間だけ通用するというのは、本質的には嘘です。だから現世に置ける人間の常識を信じてはいけないのです。

イエス・キリストの信仰が見事に悪魔に勝ったのです。その結果、彼は第三の天において神の右に座したのです。

そして神は万物を認めないという原則を打ち出したのです。有形的な存在を認めないという原則を打ち立てたのです。それが復活という新しい物理次元の誕生によって証明されたのです。それをパウロはダマスコ途上で見たのです(使徒行伝9・1~19)。

天に新しい物理次元が誕生しているのです。従って古い物理次元は存在する必要がないのです。新エネルギーが誕生しているからです。

これがダマスコ途上で現われたのです。太陽よりも輝く光が現われた。新物理次元のエネルギーが現われた。これをパウロははっきり確認したのです。

今私たちはその確認を神に迫られているのです。これを信じるなら、古い物理次元を信じない人間にならなければならないのです。イエス・キリストの復活を信じるなら、現象世界を否認しなければならないのです。

現象世界を信じるなら、イエス・キリストの復活を否定することになるのです。現世の夫婦、現世の家族を信じるなら、ニューエルサレムを否定することになるのです。

やがて、この世は去るに決まっています。だから、現世にあるものは信じてはいけない。イエス・キリストの復活を信じるのです。

「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたせたと信じるなら、あなたは救われる」とあります(ローマ人への手紙10・9)。

今の人間のハートは死んでいるのです。現象世界を一生懸命に信じているために、ハートは死んでいるのと同じ状態ですから、神を信じることができないのです。

神を信じるためには、本当に悔い改めて自分が本当に間違っていたということを明らかにしなければいけないのです。

新約聖書の中に金持ちと乞食ラザロの記事があります(ルカによる福音書16・19~31)。乞食ラザロは物欲しそうな顔をしていなかったのです。金持ちがほかしたものを拾って食べていただけです。

今の人間は物欲しそうな顔をしています。幸福になりたいとか、もっと聖書を知りたいとか、死んでから天国へ行きたいと考えています。そういう根性が全部なくなってしまわなければ、ラザロの心境にはなれません。ラザロは自分を完全に捨ててしまったのです。だからこの世にいる時から神の国に入っていたのです。金持ちは燃え尽きない火炎の苦しみに置かれたのです。

人間は現世を取るか永遠の命を取るかどちらかにしなければならないです。両方を取る訳にはいかないのです。

人間が現象世界に生きているというのは、ごくわずかな間です。やがてこの世から去っていかなければならないに決まっているのです。いくら力んでも二百年も三百年も生きることはできないのです。一千年も一万年も生きることはできません。現世を去った後の世界は永遠です。永遠に無限に裁かれることになったら悲劇です。

神は現象世界を認めていません。ところがイエス・キリストが神の右に座せしめられて、祈っているのです。イスラエルを回復したまえ、イスラエルを返したまえと祈っているのです。

神はイスラエルが回復しないままで、現世を消してしまう訳にはいかないのです。神はイスラエルに約束を与えた。神の約束が成就しなければならない。神の約束が成就するというのは、この世がある状態のままで神の国が現われなければならないのです。そうでなければ神の約束が無意味になるのです。このためにキリストは神の右に座しめられているのです。

そこで神は現象世界を否認しているけれど、キリストが祈っているから消滅させる訳にはいかないのです。

キリストの祈りによって、やがて千年王国という驚くべき永遠の平和が実現するでしょう。千年間の絶対平和です。地球の物理状態が変ってしまうのです。地球環境の状態が完全に変ってしまいます。海の状態、天候、気候の状態が全く変ってしまいます。

その結果、地球に黄金世界が現われるのです。人間が願って願ってやまなかった理想の平和が、地球に実現するのです。その時、私たちがイスラエルを指導しなければならないのです。

神がユダヤ人に与えた約束は完全に成就するのです。今、私たちがイスラエルのために祈ることは、第三の天におけるキリストの祈りに協力していることになるのです。

私たちは宇宙を改造するための祈りに協力しているのです。これ以上の哲学、宗教は必要がありません。これを絶学の境というのです。これは絶対最高の原理です。

人間はこれ以上のことを知る必要がありません。だからこれを信じなければならないのです。私たちの祈りは、第三の天におけるキリストの祈りに協力しているのです。神のイスラエルを救いたまえという祈りは、神ご自身、全能者の祈りです。私たちはこの祈りに合わせて祈らされているのです。

アブラハムは「我は全能の神なり」という言われて張り倒されたのです。へたばったのです。私たちはまだ張り倒されていません。

御霊を受けたくらいでは、張り倒されたとは言えません。私の考えは本当に間違っていたと心から言える時に、張り倒されたのです。再び立ち上がることがないように、神に徹底的に叩き潰されてしまうのです。そうすると私たちはちりに帰ることができるのです。

神は、「人の子よ、帰れ」と言っています(詩篇90・3)。この聖書の言葉どおりにならなければいけないのです。

イスラエルの回復を願う祈りは、万物を完成し、地球を完成する祈りです。神を完成する祈りです。これはキリストの第三天における祈りです。この祈りを、できるだけ毎日、朝食、昼食、夕食、就寝、の前に真剣にして頂きたい。

その祈り方が分からない方は参考例の骨子を述べておきますので、このような内容で祈って頂いたらよろしいと思います。

参考例1

主よ感謝致します。

現在あなたの御民イスラエルが、あなたに背いて悪魔の子になり、悪魔の思いを世界に広げています。これが、世界中の人間が死んでいく原因になっています。

しかし、イエス・キリストの十字架によって、悪魔が完全に否定され、地球から死がなくなりました。どうかイスラエルがこの事実を受け入れて、一日も早く地上に本当の平和がきますように、お祝り致します。

この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致します。

参考例2

主の御名を讃美致します。

現在イスラエルは悪魔にそそのかされて、悪魔の子になっていまして、イエスをキリストとして受け入れようとしていません。

イエスこそイスラエルに与えられたメシアでありながら、メシアとして受け入れようとしません。

彼らの頑な心を変えて、イエスをキリストとして受け入れる日が、一日も早く参りますようにお祝り致します。

この祈りを主の御名によって御前にお捧げ致します。

参考例3

主の御名を讃美致します。

現在イスラエルは固有名詞の自分を絶対とし、目に見える現象世界が絶対に存在していると固く思いこんでいます。

これは悪魔が考えた思想でありまして、悪魔に騙されたユダヤ人がこの思いを固く信じています。彼らはこの思想を全世界に広めてきました。

固有名詞の自分は存在しないし、目に見える現象世界も存在していません。人が生かされている実体はイエスでありますし、神の国が地球に展開しているのです。

イスラエルの人々が、一日も早くこれに気がつきますように、どうぞ彼らの頑な心をやわらかくして下さい。

この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。

参考例4

主よ感謝致します。

イスラエルは選民、約束の民であると言って、世界の民族をリードしていますが、彼らは神が与えた約束を誤解しているのです。

神がアブラハムを通して与えた約束とは、ユダヤ人に永遠の命の宝物を与えるという意味です。ところが彼らは、現世で幸福になること、現世で王国を造るための選民だと考えているのです。

現世は悪魔を騙すために神がつくった幻の世であって、これは暫くの間、現われてやがて消えていくものです。

永遠不滅の新天新地こそ、彼らが目指すべき国です。

この事に一日も早く彼らが気がつきますようにお祈り申し上げます。

この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。

参考例5

主よ感謝致します。

アブラハムに与えられた約束の実体は、永遠の生命でしたが、イスラエルはこれを正しく受け取りませんでした。

神はイスラエルの間違いを正すために、多くの預言者を送りましたが、聞き入れませんでした。最後にイエスを送って、永遠の生命の実物、その受け取り方を実際に見せたのですが、彼らはそれを受け入れずに、逆にイエスを殺してしまいました。

これは誠に困ったことでありまして。ユダヤ人が約束を正しく受け取らなければ、万物の創造の目的、地球創造の目的も、人間創造の目的も、すべて無効になってしまうのです。

神が地球を造られた目的、人間を造られた目的を成就するために、彼らが新約聖書を受け入れ、イエスを受け入れますように、また、アブラハムの心境を受け入れて、神が与えた約束が成就しますように心からお願いします。

この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。

祈る内容は全く自由ですが、どのように祈ったらいいのか分からない人は、以上の例を参考にして下さい。

イスラエル回復の祈りは、神に最も喜ばれる祈りです。これを続けたら、健康的にも、経済的にも、家庭的にも、すばらしい恵みを与えられるでしょう。私自身も、この祈りを続けているために、すばらしい恵みを神から与えられました。現在も与えられていますし、これからも与えられるものと確信しているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

生まれる前に、人の命があったのです。 現在私たちはこの世に生まれてきましたが、これは、結果なのです。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければならないのです。 生まれた時、人はほぼ完全だったのです。生理的にも、心理的にも、ほぼ完全だったのです。 心理的に言いますと、現世における知識、常識はありませんが、人間の霊魂の本能性は、十分に持っているのです。 それが現世に生まれたことによって、

本当の恋

女性を男性に与えているというのは、神の特別の計画です。本来女性は、あるべきではないのです。アダムが鈍感であったために、わざわざアダムを深く眠らせて、あばら骨の一本を取って女性を造ったのです。神がわざわざそうしたのです(創世記2・22)。これは特別の計画です。 エデンにおいて、アダムは神と一緒に生きていたのです。アダムは神と一緒に生きていることによって、神を信じるだろうと考えたのです。 見るにうるわ

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