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  • 管理人chaya

父と子の交わり


ヨハネは次のように書いています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちの言(ことば)についてーこのいのちが現われたので、この永遠のいのちを私たちは見て、その証をし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今や私たちに現われたのであるーすなわち、私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、私たちの交わりにあずかるようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子(みこ)イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、私たちの喜びが満ちあふれるためである」(ヨハネの第一の手紙1・1~4)。

この箇所は読むのは簡単ですが、その深さを理解するのはなかなか簡単ではないのです。私たちが現在生かされていること、見たり聞いたり、触ったりしていることが何なのか。ヨハネはここで何を言おうとしているのか。私たちが聞いたもの、見たもの、よく見て手で触ったものが、命の言であると言っているのです。この命の言は、とこしえの命だと言っているのです。

初めからあったいのちの言は、とこしえの命そのものだと言っているのです。これは何となく分かるでしょう。直感的には分かることですが、私たちが見たり聞いたり手で触っているものが、命の言であるということ、しかもそれがとこしえの命であるということは、実感することがなかなかできないのです。普通の肉の感覚のままの人間には分からないのです。

その次に、このとこしえの命の言は、元は父と共にいましたが、それが今や私たちに現われたのだと言っているのです。とこしえの命というのは、本来父と共にあったのです。それが今私たちに現われたと言っているのです。私たちが今、見たり、聞いたり、触ったりしていることが、とこしえの命だとすると、私たちは現在とこしえの命に触っていることになるのです。とこしえの命そのものを見たり聞いたりしていることになるのです。

それはヨハネによると、ヨハネが見たもの、聞いたものを告げ知らせて、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりにあずからせるためだと言っているのです。ヨハネはいのちの言を見た、聞いた、手で触ったのです。そのことがそのまま交わりにあずかっていることだと言っているのです。

何の交わりかというと、父とその子イエス・キリストの交わりなのです。その交わりにヨハネがあずかっていた。その交わりに人々をあずからせるためだと言っているのです。そうすると、皆様が見たり聞いたり、手で触ったりしていることは、そのまま父と子の交わりにあずかっていることになるのです。これはなかなか重大な問題です。

現在皆様は、見たり、聞いたりしています。この見ること聞くこと自体が命の交わりにあずかっていることになるのです。皆様が現在生きている感覚と、ヨハネの交わりの感覚とは非常に大きな相違があるのです。

ところが、ヨハネによれば、皆様は今、父と共にイエスの交わりにあずかっていることになるのです。皆様が目で見ていることは、そのまま父とイエスとの交わりにあずかっていることになるのです。聞いていることもそのとおりです。皆様が見ていること、聞いていることが、そのままとこしえの命なのです。私たちが現世に生きていること、五官の働きにおいて現世に生きていることは、大変なことをしているのです。

ヨハネは死んでから天国へいくというバカなことは言っていないのです。現在生きて、見たり聞いたり、触ったりしていることが、父なる神とイエス・キリストとの交わりなのです。その交わりにヨハネが交わっていたのです。その交わりの仲間に皆様を入れてあげようと言っているのです。これが本当の救いです。

これを考えますと、死んでから天国へ行くということが、とんでもない大嘘であることが分かるのです。イエスが私を信じなさい。私の愛にいなさいと言ったのは、このような事実におりなさいと言っているのです。このような事実の中に住みこみなさいと言っているのです。

父なる神と子なる神の交わりというのがあるのです。私たちが見たり聞いたりしていることが、そのまま、父なる神と子なる神の交わりそのものなのです。私たちが生きていることが、父なる神と子なる神の交わりだということを、今まで感じた人がいるのでしょうか。誰が思ったのでしょうか。私たちが生きているということは、本当に大変なことになるのです。もし聖霊の降臨がなければ、私たちにこんな秘密が分かるはずがないのです。

このヨハネの第一の手紙のことが、まだ私たちに具体的に経験できないとしても、ヨハネのように練達、官能な形で経験できないとしても、ヨハネがこのように書いている序文の意味でさえも説明できるはずがないのです。もし聖霊が降臨されなかったら、説明ができないのです。聖霊降臨という事実がなかったら、さすがのヨハネでも、こんな経験をすることができなかったでしょう。また私たちにこのような手紙を書き残そうと思わなかったでしょう。

既に聖霊が降臨しておられることによって、ヨハネはこのことを経験したし、またこの手紙を書き送ろうと考えたのです。この手紙を書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためだと言っているのです。ヨハネはこの手紙を書きながら、喜びにあふれていたのです。また、この手紙を書き送ることが、喜びに満ちあふれることになるのです。

もし私たちがこの手紙の内容を理解できなかったとしても、ヨハネはこの手紙を書くことが喜びに満ちあふれることなのです。これが預言者の魂です。預言者の心です。ヨハネはもちろん使徒でしたから、預言者以上ですが、ヨハネやパウロやペテロは、ありありととこしえの命の実体をつかまえていたのです。

見たり聞いたり触ったりすることが、そのままとこしえの命の実物だということを知っていたのです。不肖ながら私も、とてもヨハネには及びませんが、いくらかは分かるのです。分からなければこんな説明はできないのです。

こともあろうに、とこしえの命の実物を私たちは見ているのです。見ていることがとこしえの命なのです。目で見ていること、耳で聞いていることが、それがそのまま父と御子の交わりであると言っているのです。この事がらの意味を、皆様が本当に理解したら、皆様の生きている顔つきが変わるでしょう。般若波羅密多になるでしょう。この世に生きていないで、神の国へ渡ってしまったその人柄が、皆様の中からにじみ出てくるでしょう。

現在とこしえの命の言を見ている、聞いている、触っているとすれば、父なる神、全知全能なる絶対者、造り主なる神と交わっているのです。これは般若波羅密多です。向こうの岸へ渡ってしまっているのです。神の国へ行ってしまっているのです。

父なる神と子なる神の交わりというのは、天国のできごとです。天のできごとです。天のできごとを今皆様が経験できるとすれば、今いる所が天です。

聖霊降臨という事実は、全く驚くべきことです。真理の御霊、なぐさめ主、この方がいまして、私たちの霊の眼を開いて下さるのです。私たちが生きていること、目で見ていること、耳で聞いていること、五官の働きを通して生活の営みをしていることが何であるかを、聖霊は私たちに教えて下さるのです。

真理の御霊はあなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせて下さるとイエスが預言されたのです。そのままの事実が私たちのグループに現われようとしているのです。真理の御霊自らが、私たちを導いて下さるのです。

私たちが見ていることがとこしえの命である。聞いていることがとこしえの命であると言われると、哲学的に何となく分かったような気がするのです。しかし、実感的にはどうも分からないと言われるかもしれません。父なる神と交わっていると言われると、なるほど生かされているということは交わっているということなのかということが、何となく分かるのです。しかし、実感的にどうもはっきり分からないと言われるかもしれないのです。

実感的にそれをどのように受け取ったらいいのか、命を受けとるというのはどのようにしたらいいのかという疑問が起きるかもしれません。とこしえの命を受けとめる、父なる神との交わりを実感的に受けとるというのは、どうしたらいいのか。

聖書は考えだすと無限に難しいのです。しかし、素直に肉の思いを問題にしないで、人間的な利口さ、大人的な理屈めいた考え方を問題にしないで、幼子的な素直さで受けとればいいのです。例えばヤコブが、「植えられた御言(みことば)には魂を救う力がある」と言っているのです。素直にその御言を受けなさいと言っています(ヤコブの手紙1・21)。

植えられた御言とは五官のことです。植えられた御言には魂を救う力があると言っています。一つの御言が五つに分かれて働いている。目で見るということ自体が一つの言(ことば)の働きです。ヨハネは聞いていること、見ていることは、初めからある命の言だと言っていますが、例えば聞いているとします。聞いていることが言だという意味が、どういうことになるのか。

川のせせらぎが聞えているとします。そうすると、せせらぎが命の言なのか、聞いている耳が命の言なのか、どちらなのかということです。川のせせらぎと、耳の働きとが一つにならなければ、聞くということは成り立たないのです。人間の耳には聞くという意味でのロゴスがあるのです。川のせせらぎには、聞かせるという意味での神の言の働きがあるのです。

そうすると川のせせらぎの音は、外なる神の言です。それを聞きとめる力というのは、人間に植えられた言です。人間に植えられた言の方は、聞くという形で外なる神の言を受動的に受けとめるという意味での働きをするのです。外なる川のせせらぎは、聞かせるという意味での能動的な、他動的な言の働きです。

例えば脳波で言いますと、大宇宙を構成している非常にすばらしい全能者の全能力がエーテルとなり、波長となり、光波となり、無数の宇宙線と言われるものが、目に見えない形で働いているのです。これが地球を地球としているのです。生物を生かしているのです。口で言えない最高のメカニズムが働いているのです。

神の大組織工学、宇宙工学によって地球ができているのです。すばらしい神の全能力が働いているのです。神の全能力のほんの一部が、川のせせらぎとして聞こえるのです。私たちは宇宙脳波の働き、命の波動の働きを、小川のせせらぎとして聞いているのです。

私たちの耳はそれを受けとめているのです。神の能動性は永遠の男性です。我は全能の神なりと言われる永遠の男性が、人間に川のせせらぎを聞かせているのです。人間の耳は、この小川のせせらぎを受けとめているのです。それを受動しているのです。能動的な神の言の働きと、受動的な言の働きと、両方の言の働きがあるのです。

宇宙の命が働いている。これはメール(male)としての働きです。聞いているという受動的なロゴスの働きは、フィメール(female)としての働きになるのです。男性的なロゴスと、女性的なロゴスと、両方のロゴスがあるのです。

「言は肉体となって、私たちのうちに宿った」とヨハネが言っていますが(ヨハネによる福音書1・14)、私たちの魂は本質的に神の言です。神の全体のほんの一部が、人間として現われている。全能者、絶対者である永遠の男性である神と、御心によってこの地上に遣わされた女性としての魂とが、聞く、見るということを通して、現在私たちは神と交わっているのです。

小川の流れと、私たちの耳が、具体的に交わっているのです。この交わりは一体何なのか。これが父と子との交わりなのです。絶対者と人の子の交わりです。これは何をしているのか。

人間に与えられた五官、魂を救う言は、神の宇宙的なロゴスの大きい働きから比べると、小さな小さなものですが、この小さいロゴスが生意気にも小川の流れを聞いているのです。小さなあるかないかのロゴスが、カジカの声を聞いたり、川の流れを聞いたりしているのです。これは何をしているのか。父なる神と交わっているのです。交わりとはそのまま愛の交わりなのです。

父なる神と子なる神との交わりとは、愛の交わりを意味するのです。皆様は小川の流れを聞く時に、カジカの声を聞く時に、何を感じるのでしょうか。美しいとか、楽しいとか、うれしいとかを魂が直感しているのは、命の本質を味っているのです。

人間が生かされていることは、愛によって生かされていることを、直感的に知っているのです。直感的には知っているけれど、実感的には知らないのです。直感と実感とどのように違うのかと言いますと、直感というのは潜在意識的なものです。人間自身の先天性を意味するのです。実感というのは、顕在意識として生活態度の基本的な感覚になるのです。直感は先天性です。実感は顕在意識による生活感覚の基本性です。これは後天性と言えるかもしれないのです。

神を信じる信仰と聖書にありますが、これは自分の霊を神に渡して神の信仰に同調している状態をいうのです。改訳聖書ではそういう言い方をしています。パウロはイエス・キリストを信じる信仰という言葉を使っています。永井訳ではイエス・キリストの信仰と言っています。信じる信仰というのは、自分自身の主観によって神を捉えるのではないのです。自分自身の主観的能力を神に渡してしまうのです。霊を渡してしまうのです。渡してしまったその時点で、神を信じるということが言えるのです。

そうしますと、人間の先天性の潜在意識と後天性の顕在意識とが一つになってしまうのです。イエス・キリストによって現在生かされているという事が、そのまま生活意識の実感として私たちにはっきり目が開かれるのです。目が開かれるだけでなく、それが定着する所までいくのです。

そうしてイエスがかつて父なる神を信じて、父なる神の力を、自由にと言ってもいい程自由闊達に用いました。父なる神の力を自分の信仰によって用いたのです。もっと極端な言い方をしますと、自分の都合によって、父なる神の信仰を用いたのです。

その場合のイエスのご都合というのは、神と同じご都合であったのです。神の御心を信じて神の御心に従って生きていたイエスは、神の力を自分の意志によって用いる程の自由さを与えられていたのです。父を信じていた彼は、父の御心を、また父の全能力を自分自身の気持ちで自由に用いるような資格を与えられていたのです。

例えば水の上を歩くというような事は、人間イエスとしては考えられないことです。しかしキリストというものは、神の被造物全体を統括する大祭司です。エホバの被造物全体を統括する大祭司であって、彼の前には被造物の形、定形がなかったのです。

例えば水が水であるという定形はイエスの前には通用しなかったのです。山が山であるという形は、イエスの前には通用しなかったのです。

あらゆるエホバの万軍の働きは、彼の前にはただ一つの現象でしかなかったのです。現象を実体としないという建前をとっていたイエス、霊に従って歩んでいたイエス、肉の思いを捨てていたイエスは天使の上に立って、天使に号令をかける信仰を持っていたのです。これが水の上を歩くという動作に、ごく自然に現われているのです。

私たちは神が人間を造った目的が何であるかを、もう一度考えなければならないのです。神が人間を造った目的は、空の鳥、海の魚、家畜と地のすべての獣、地のすべての這うものを治めることです。これは万軍のエホバが被造物全体を治めることを意味するのです。

エホバの万軍の全体をすべて治める力、支配権を持てという神の要請に従って、今私たちは聖書を学んでいるのです。キリストを信じる魂はこのような魂です。従ってイエス・キリストが神を信じていたのと同じような信仰の霊が、私たちにも働くのでありまして、私たちはそうなる資格があることを、御霊によって証明されているのです。神の御霊が与えられたということは、そういうことになるのです。

私たちは宗教観念によって御霊を受けたのではありません。神を信じる信仰によって御霊を受けたのです。なぜなら私たちには神の御名を教えられているからです。神の御名、イエスの御名が働く所には、宗教観念はありえないのです。御霊を受けた者が肉の自分を認めている、固有名詞の自分を信じているというのは、いけないのです。こういう悪い肉の習慣を引きずっている状態を切ってしまえば、肉の自分の今日までの経験を信じることはないのです。肉体的な自分が経験した一切の経験、記憶を信じる事がないのです。

新しく生まれるとすれば、今までの記憶には何の関係もないのです。それを強引にするのです。暴力を振ってするのです。自分自身に対して暴力を振うのです。肉体的に生きていたという記憶を断固としてけっとばすのです。そして別人として行動するのです。この勇気さえあれば、御霊は喜んで私たちをキリストの花嫁と称するにふさわしい信仰を与えてくださるでしょう。私たちはそこまで行かなければならないのです。

イエスが天使の長(おさ)であって、天使を自由に使いこなして見せたのです。水をぶどう酒にして見せたように、風や波を叱ってみせたように、私たちもまた、天使に号令をかける程の信仰が与えられなければならないのです。かつてイスラエルの指導者であるモーセは、紅海の波を裂いたのです。ヨルダンの流れを二つに分けたのです。

自分の肉の記憶を捨てて、固有名詞の自分と何の係りもないということを勇しく信じるなら、新しい人を与えられるのです。古い自分を引きずっていますと、いつまでも固有名詞の自分が責任を負わなければならないのです。これを乗り越えてしまわなければ、信仰にはならないのです。

先天性の潜在意識という感覚で自分を見ますと、人間が現世に生かされていることは既に神の国であることが分かるのです。これが新約時代の特長です。旧約時代の人間は、自分自身が生きていることが神の国であるということに、気づけなかったかもしれないのです。

今は奇妙な現象が起きているのです。この世に生きているということが、神の国にいることだということを、すべての人間が潜在的に知っているのです。これは非常に希簿ですが、今現在人間が生きていることが尋常一様の事ではないことを、何となく感じているのです。これが死にたくないという気持ちになっているのです。

聖書に何の関係もない全くの異邦人は、罪の意識がなかったかもしれませんが、生きている有難みもあまり感じなかったようです。掟がきたことによって罪が現われたのです。罪が現われたことによって、死が来たのです。もし掟が現われなかったら、人間は罪を知らなかったでしょう。罪を知らなかったという状態においては、気楽でいいかもしれませんが、生きているという喜びが少なかったのです。旧約時代の人間は死に対する恐怖心も現代の人間より小さかったと想像されるのです。

人間存在の心理状態と、神が人間を生かしている原理とをつなぎ合わせて考えますと、そういうことが考えられるのです。現在の人間が死にたくないと思っているのはなぜか。生きていることの有難さを非常に深く知っているからです。文明が進歩すればするほど、人間が肉的にこの世に生きていることの良さを深く感じるようになるでしょう。文明が堕落すればするほど、人間は現世に執着するのです。生活の原理の堕落が大きくなればなるほど、人間は現世に強く執着するのです。

ところが、人間が現世に執着している気持ちは何であろうか。欲望を満足させるためと思っている人もいますが、欲望を満足させるということは、何を意味するのかと言いますと、そういう形で神の愛を貪っているのです。

本当は神の愛として受けとるべきものを、欲望として受け取っている。こういう行き違いがあるのです。もし現在の人間が神の御霊に目覚めるとすれば、今生かされているということ、目の欲、耳の欲、体の欲を神から許されているということについて、全く驚くほど神の恵みを吸収している自分に気づくはずです。

人間は現在生かされているということが、非常にけっこうなことだと思い続けているでしょう。都合がいい、けっこうなことだと思えるのは、実は愛されているという意識なのです。これが近代文明の様相になっているのです。

人間が現在生きていることの心地良さは、「何とまあ間がいいでしょう」ということになるのです。自分にとって願ったりかなったりです。夏には夕涼みがありますし、冬には炬燵、ヒーターがあります。テレビでは世界中の景色が見られますし、車で好きな所へ行けます。電話やインターネットで何でも注文できるのです。こういう生活をしていると、「なんて間がいいでしょう」となるのです。

問題はお金と時間があればということですが、しかもそのお金と時間は、明治や大正時代の日本と比べると、現代では非常に多くのお金と時間があるのです。

人間が現世に生きていること、食べること、飲むこと、着ること、眠ること、住むこと、人間の衣食住について回る生きていることの心地良さです。それを味わうことの気持ち良さです。これを人間は生きている間にさんざん経験しているのです。

今から百年、二百年前の人間とは比べものにならないほどの心地良さを経験しているのです。日本は世界一の長寿国になったと言っていますから、それだけ住みやすい国になっているのでしょう。

人間は生きていることの味わいを、非常に良く知っています。この味わいというのは、何であるかと言いますと、これは愛されることの味わいを経験しているのです。自分の思いが非常に心地良いということは、愛されているということです。

神は人間の肉を愛しているのではありません。神が人間を生かしているのは、霊を生かしているのですが、人間はそれを肉の思いで受けとめているから、肉の心地良さとして感じられることになるのです。

神の御心は、人間の魂を生かしているのです。従って神の処置を正しく認識するとすれば、神が人間に与えている恵みは、すべて本質的には霊であって、肉ではないということに気づくはずですが、このことが人間に分からないのです。

このことが分からないから、肉の喜びで喜んでいるのですけれど、喜んでいるということは、霊にしても肉にしても、愛を受けとめることになれば、嬉しいに決まっているのです。霊において神の愛を受けとめれば、もっともっと嬉しいはずです。

肉においてそれを受けとめていますから、その嬉しさ楽しさは、神が人間に与えている愛の何百分の一しか感じていないのですが、やはり愛を感じているということは言えるでしょう。これが生きていたい、生きていたい、死にたくないという気持ちになって現われているのです。

現在の人間は、潜在意識的には神に愛されていることを知っているのです。しかし、顕在意識的、常識的には知りませんが、生きていたいと直感的に考えていること自体が、神の愛から離れたくないという気持ちになるのです。

人間はこのような形で、神に愛されていることを知っています。愛されているから生きていたいのです。死にたくないのです。神の愛が人間の魂に照射されている。人間の魂に行きわたっている、届いているということは、原則的には神の国であることを意味するのです。今私たちは心を開きさえすれば、神の国がすぐ分かるような状態になっているのです。

「神の国は近づいた」とイエスが言いました。近づいたというのは、英訳では at handでありまして、神の国は人間の手の内にあると言っているのです。イエスの時代にすでにそうであったのです。そのイエスが十字架にかかって復活した。しかも聖霊が降臨された。イエスの復活、昇天、聖霊降臨の三つのことがらは、既にこの地球上に神の国が実現していること、とこしえの命が保証されていることを、明瞭に証明しているのです。

もし肉の思いさえ捨ててしまえば、私たちの精神(マインド)のあり方、精神のくせ、精神の根性を捨てさえすれば、神の国が分かるのです。人間の肉的方程式を否定して、やり直すことができれば、今ここですぐに神の国を掴まえることができるのです。

イエスの時代には神の国は手の内(at hand)にあったのです。聖霊降臨の後の新約時代は、もっと近いのです。 in hand と言ったらいいでしょうか。

私たちは神の国を手の内に持っているのです。神の国を持たされているのが、今の時代です。このことに正しく気づきさえすれば、私たちが肉の生活状態から抜け出してしまうことは、何でもないのです。すぐに神の国へ入ってしまえるのです。

今いる所が神の国だと考えることが正しいのです。このことをヨハネが言っているのです。父とその子イエス・キリストとの交わりに、私たちが預かっているのです。目で見ているのはとこしえの命である。手で触っているのはとこしえの命である。このとこしえの命は、元は父と共にいましたが、今は私たちに現われていると言っているのです。

見ていること、聞いていることがとこしえの命ですから、私たちは神の国にいるのです。ただ自我意識と現象意識で見ているから、それが全く分からない。この自我意識と現象意識を捨てさえすれば、今、ここにいることが神の国にいるということが、明らかに分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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