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  • 管理人chaya

神の力と神性


神を信じるということと、キリストを信じるということとは違うのです。これが分かっている人が意外に少ないのです。神を信じるということと、キリストを信じることとは次元も違うし、範囲も違うのです。神について知りうる事がらを、私たちが理解できたとしても、それだけでキリストが理解できたと思ったら大間違いです。

神を知ることと、キリストを知ることとは事がらが違うのです。神を知るということは、人間存在、地球存在の基本原理を知ることなのです。存在の基本原理を知ることが、神を知ることなのです。これが父なる神を知ることになるのです。

神というお方は存在の根元であって、我はありてあるものと言われるように、存在の根元です。何でも存在することは皆神です。

あわれみを創造し、恵みを創造する神は、同時に災いを創造し、呪いを創造するのです。神は恵みを与えることもできるが、災いを与えることもできるのです。キリストはそれができないのです。キリストは裁きはしますが、災いを造り出すことはしません。キリストに裁かれた結果、災いになることはあります。これはキリストが裁いたものを、神が罰するのです。専門分野が違うのです。

キリストは救い主であり、贖い主であって、裁き主ではあるけれど、災いを人間に与えるとか、ある人を呪うとかはしないのです。キリストは裁きはしますが、呪いはしないのです。

キリストに裁かれた者に災いを下すのは神です。父と御子との働きが違うのです。神の右に座するというのは、救いそのものの本質を意味するのです。贖い、または救いの本質を意味するのです。

神が救い主であると言えなくもないのです。もちろん神が救い主であると言えますが、神と言えどもキリストが神の右に座する以上、キリストの意志を無視してまで人を救うことを神はしません。できないのです。キリストがはっきり分からなければ、救いは理解できません。ここが旧約の信仰と新約の信仰の違いであって、私たちは贖いとは何かということを、十分に理解しなければいけないのです。

異邦人でも、神を知るということは割合にたやすいのです。ところがキリストを知ることがなかなかできないのです。

パウロは次のように述べています。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の全地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ人への手紙1・18~21)。

神について知りうる事がら、知らねばならないことがらは、神が人間自身の存在によって現わしているのです。だから皆様は、自分が存在しているという状態を子細に点検して、自分自身の存在状態をよく見れば、神について知らねばならない基本的な事がらは、皆分かるのです。

パウロは異邦人について次のように述べています。

「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、私たちもみな、かつて彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、他の人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった」(エペソ人への手紙2・1~3)。

罪過とは咎のことです。犯した罪です。自分の咎と罪とのために、完全に死んでいたのです。元々、異邦人は罪と咎とのために、完全に死んでいたのです。

その時の生活状態はどんなものであったかというと、空中の権をとる悪の霊、肉の霊、肉の思いの霊に丸められ、この世のならわしによって生きていたのです。現世のならわしに従って生きていたのです。現世のならわしに従って生きるという生き方が、実は生きているのではなくて、罪と咎との内に死んでいるのです。死んでいるという状態が、肉の生活という格好で現われているだけのことです。これがおまえたちの状態だったと言っているのです。

仮に私たちが正しいと考えていることでも、それは今までの生活のレベルにおいてそう思っているだけです。今までの生活のレベル、または日本社会の通念という角度から見れば、私たちの生活態度は正しいに決まっているのです。

ところが日本人の生活態度自体が、罪と咎との内に死んでいるのです。肉の思いで生きているのは死んでいることを意味するのです。

皆様は現世における仕事のやり方を、アブラハムの信仰のような、イスラエルの模範的な状態に切り替える心構えが必要です。それが完全無欠に実行できないとしても、できるだけそうしたいという律儀深い考え方を皆様に持って頂きたいのです。

そうして異邦人でありながら、ユダヤ人的な感覚で、自分の仕事を経営するという決心を持つとすれば、神の祝福は目をみはるほど現われると思います。今はユダヤ人自身がユダヤ人本来の生き方をしていないのです。それを異邦人である皆様が、もしユダヤ的な生き方を断行するとすれば、神の祝福は集中的に皆様に与えられるでしょう。また、日本にも与えられるのです。

神は人間を祝したいのです。人間を恵みたいのですが、恵まれるに足るような信仰を持っている人が、世界にいないのです。だから神の恵みのやり場がないのです。

ユダヤ人が神の恵みを受けられない状態に転落しているのです。それを異邦人がイエス・キリストの福音を信じることによって、仮にアブラハムの信仰のレベルにまで何とか達することができて、自分が割礼を受けるだけでなくて、家族一同、また従業員一同が受けることができるとすると、神の恵みは大きいのです。アブラハムの場合は、三百何十人もいた従業員一同に割礼を施したのです。神の命令で行ったのです。そこでアブラハムに対する神の信頼と、アブラハムに対する神の祝福とが、恐ろしく加わったのです。

「汝の子孫を空の星のようにする」と神が言ったのです。古今に絶するような神の祝福がアブラハム一家に注がれたのです。このような恵みと祝福は、皆様にも与えられるに決まっています。信仰の内容があるかないかのことだけです。私は私たちに与えられている神の使命を貫徹するために、アブラハムが神を信じたような信じ方をなすべきではないかと言っているのです。

これは何かをしなければならないという掟的に考えられやすいのですが、これをローマ人への手紙の第一章十九節から考えますと、私たちが生活的、または、事業経営的にそうしなければならないのではなくて、私たち自身の本質が、本来信仰的であるのが当たり前ですから、私たち自身の本質、本性に基づいて、本質、本性のような生活をすべきなのです。

自分の本性に基づいて自分の仕事とか生活を営んでいくのです。人間が現在生かされている本質、本性は何であるかと言いますと、ヤコブの手紙によれば、神が人間に言(ことば)を植えたのです。その言は魂を救う力を持っているとあります。

神が私たちに植えた言というものを、子細に点検していけば、そこに神の救いが明らかに存在するはずです。言が植えられているという事実を、パウロは神について知りうべき事がら、神について知らねばならぬ事がらは、すでに神が人間自身の内にそれを現わしていると言っているのです。これはヤコブが人間に言を植えていると言っているのと同じことです。

神は人間にとこしえの命である神の言を植えているのです。植えられている言を子細に点検すれば、自らとこしえの命が分かるに決まっているとヤコブが言っているのです。

それなら、神が人間に言を植えているという事実はどういう事実をさすのであるか。何を植えているのか。人において、知るべき事がらを、神は人間に現わしているとパウロは言っている。そうすると、人間存在において、神について知らなければならない事がらを、人間自身に現わしているのですから、これは何かということです。

言というからには論理的、または物理的に働く状態、ある表現形式をとって働く状態をいうのです。例えば、人間の生理機能の働きを見てみますと、肺の働き、心臓の働き、呼吸機能の働き一つを取り上げてみましても、この精密な働きぐあい、しかも人間の生存に必要なだけの酸素を、絶えず呼吸機能において補給しているのです。

人間の生理機能によって、外にある酸素を注入している状態が、過不足なく、極めて適量に取り入れられるのです。少し運動をして、体が過労した時には、その過労状態を回復させるのに最も適合した量の酸素が吸入されるのです。

このような微妙な状態を、神の言と言わずに何と言ったらいいのかということです。このような生理的な合理性の中に、宇宙に存在する物理的な合理性と同じ力が与えられているのです。言が植えられているというのは、このような事実をさすのです。

宇宙物理の働きというもの、また地球物理の働きは、神のロゴスに決まっています。宇宙には命があって、この命が電波として、また、律動として働いていますが、これが総合的に地球に結集されているのです。これが地球の自転、公転になっているのです。

太陽と地球との関係、また太陽系宇宙の他の宇宙との関係、引力関係とか、電気関係とか、そういう物理的な意味においての言い尽くすことができない、認識することもできない複雑多端な宇宙構造の中心が命です。この命が地球の森羅万象になって現われているのです。

命は言です。「この言に命があった。その命は人の光であった」とヨハネが言っています(ヨハネにより福音書1・4)。宇宙の命は神の言です。この神の言が人間に植えられている。これが生理機能としてはっきり感じ取れるのです。

また、消化機能、排泄機能の驚くべき精密な合理的な働きを見て下さい。それに伴う五官の働きです。目は何を見ているのか。見ているのは何をしているのか。何を見て、何に感心しているのであろうか。目の働きと人間の脳髄の働きの微妙さです。脳髄が延髄を通り、延髄が背髄を貫いて、一本の線になって人間の脳髄から貫いているエネルギーがあります。これが骨髄ですが、骨髄の微妙な働きによって、人間の生理機能が運営されているのです。目で見るということは、人間の生理機能全体に甚大な影響があるのです。目で見ていると脳髄に影響があります。脳髄が延髄から背髄に働いているのです。

さらに聴覚でもこれと同じような事が言えるのです。音楽がどれほど人の魂を癒すのでしょうか。人によって好みの音楽が違いますが、音楽が持つ魅力は人間の心理機能に計り知れない深さを与えるのです。これは人間だけではありません。動物でも、ガラガラへびでも笛を吹けば踊るのですから、人間のデリケートな脳神経に対しては、音楽が与える生理的な影響には甚大なものがあるのです。これが聴神経の働きです。

臭覚も脳髄に直線的に作用しています。視覚、聴覚に劣らない作用をしているのです。その次に味覚があります。おいしいものを食べた時の気持ちです。何とも言えない、天にも上るような気持ちが与えられるのです。舌つづみをうつ時の愉快快適な満足感、天にも上る気持ちがあるのです。おいしそうだという匂いを嗅いだだけでも、脳神経が癒されるのです。

このように神は五官を通して、人間の脳神経の新陳代謝を行っているのです。見るもの、聞くもの、味わうもの、嗅ぐものを通して、人間の脳髄の有機的な新陳代謝が行われているのです。

甘いという味とは何でしょうか。辛いという味は何でしょうか。人間の舌が接触しているのは、いつでもロマンチシズムです。五官はロマンチシズムばかりに接触しているのです。色を見ている。形を見ている。音を聞いている。これは地球全体がロマンチシズムであることを意味しているのです。

自然科学の科学主義的合理主義の考え方は、非常に次元の低い、範囲の狭い見方です。ある部分では合理性を持っているが、全体的に考えますと、実は科学主義は合理性を持っていないのです。地球は決してメカニズムで存在しているのではない。人間の命もメカニズムで存在しているのではない。人間の営みの全体は、根本的にロマンチシズムであるということは否定できません。ここに、どのように生きればいいのかということの原則があるのです。

人間が生かされていることの基本原理は、神から遣わされて、この世で神ご自身を経験するためなのです。イエスが「私を遣わしたものの御心を私はしなければならない」と言っているのです。イエスを遣わした方の御心というのは、今もなお、私たちに対する御心であって、イエスが父の御心を知って、父の御心を行う生き方をしたように、私たちもまた、父の御心を行う生き方をしなければならないのです。

父の御心を生きるということが、そのままとこしえの命であることになるのです。「父の御心は子を見て信じる者が、とこしえの命を得ることである」(ヨハネによる福音書3・16)とイエスが言っています。この世に遣わされた人の子たちが、とこしえの命を獲得することが、父の御心です。結論的に言えば、私たちはとこしえの命を獲得するために生きているのです。

そこで、どういう気持ちを持って生活すれば、それが実行できるかということですが、これは結論的に言いますと、とこしえの命のために生きるということです。父の御心を行う者のみ天国に入ることができるとイエスが言っています。そのような生き方は自分のために生きないことです。神のために生きることです。

山上の垂訓はすべて霊において貧しい人間のあり方を説いています。これは自分のために生きないで、神のために生きる人の典型的な基準をイエスが教えてくれているのでありまして、これは自分のために生きないことになるのです。

自分のために生きるという事ほど、矛盾した生き方はありません。人間自身の存在原理というものが、神のイマジネーションによって造られたものであり、神のイメージが人間の本性であるとすれば、これは神の御心に従って生きることが、存在の本質そのものに適合することになるのです。だからこの生き方こそ、神のために生きるというイエス的な生き方であり、最も正当な順当な生き方になるのです。

正当な順当な生き方をすれば、そのままでとこしえの命につながることになるのです。これは説明をするまでもないことだと思います。

神によって植えられた言を神のために用いるのです。神によって人間に与えられた人間の能力、力を、神のために用いる時にその能力性は最も高度に発揚されるのです。人間の理性は聖書が示す方向に向って用いると、最も有効に、有能に活動します。

例えば聖書を信じてイエスがしたことを私たちもしようと覚悟します。そういう願いによって人間が生きていますと、人間の理性は最高度に作用します。私のような凡人であっても、神の御名を信じるということだけで、この知能は驚くべき高さに引き上げられているのです。

皆様方のような優秀なお方であれば、私より数倍、数十倍に引き上げられるでしょう。そのように、本当に神のために生きると言う覚悟を決めたなら、皆様の賢さ、鋭さは驚くべき力量を発揮するようになるでしょう。力を尽くして主なる神を愛するとは、このことなのです。人間の持ち前の力を神のために注ぎ出して用いるのです。

御名を崇めるとはこのことをいうのです。御名を崇めるという生活原理が人間の一生を最も有効に有能に用いる方法なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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