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  • 管理人chaya

罪の下に売られた人間


パウロは次のように述べています。「このように、あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたは死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

私たちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3・1~4)。

これをまともに読んでみますと、おかしいと感じるところがあるのです。例えば、上にあるものを求めなさい。あなたがたは上にあることがらを精神におくべきだと書いているのです。上にあることをあなたがたの心象とすべきだと書いているのです。

人間のいわゆる精神構造は、その人の心象が造っているのです。心象または表象が、その人の基礎になっているのです。

ところが人間は、この世に生まれてきてこの世の心象で大きくなっているのです。例えば人間は肉体で立って歩いているに決まっているのです。犬は犬、猫は猫と決まっているのです。この世に生まれて、この世で育って、この世で大きくなってきた。その人のイメージがそのままその人の心理構造になっているのです。ところがおまえ達の心理構造は、上に基づけと言っているのです。上にあることを基礎にして考えなさいとなると、私たちは皆落第です。全部落第です。

第三の天におけるキリストが、空中の権をとる者を押さえてしまっている。従って空中の権の基になるこの世の思いに勝つためには、第三の天におけるキリストの位に立って考えなければ、勝ちようがないのです。私たちは現世に生きていることの中で、第三の天においてキリストが神の右に座しているということにおいて、精神構造を用いなければならないのです。

キリストが第三の天において神の右に座しておられる。この第三の天のことがらに従って精神を用いなさいと言っているのですから、私たちの今日までの考え方は、全く問題にならないのです。いいか悪いかの問題とは違う。全然次元が違うのです。

人間についての考え方が間違っているのです。パウロによれば、上のことだけを考えるのが人間だと言うのです。地上のことを考えるなと言うのです。地上のことを考えているのは人間ではないというのです。このように全く大上段に言っているのです。

果たしてこれが聖書を勉強している人に分かるでしょうか。皆様程にレベルの高い人でも、三十年、四十年の勉強をしてやっと分かる段階です。キリスト教の教役者、先生で、こういうことが分かるはずがないのです。

パウロは、「私は肉につける者であって、罪の下(もと)に売られているのである」(ローマ人への手紙7・14)。と言っています。肉体人間は罪の下に売られている者なのです。従って肉体人間の考えは、ピンからキリまで、罪の下に売られた者の考え方なのです。

罪の下に売られたとはどういうことかと言いますと、死に渡されたことを意味するのです。死なしめられたことを意味するのです。コロサイ人への手紙の三章三節では、あなたがたはすでに死んだものであると言っているのです。人間は死んでしまっているということです。これとローマ人への手紙の七章十四節の、人間は罪の下に売られているのと同じことです。

罪の下に売られているということは、死んでいるということです。これはどういうことかと言いますと、神は現在の第一創造の世界において、悪魔(ルシファー)を天使長とする創造を実行した。この時神は現象体としての創造、いわゆる肉なる創造を容認する意味での創造を、許可せざるを得なかったのです。

肉なる意味での創造を許可して、この状態に人間を送ったのです。肉なる状態の中へ魂を放りこんだということは、死なしめたことになるのです。人間の魂をわざと死なしめたことになるのです。

この世に人間が生まれたということが、死なしめられたことを意味するのです。生まれてきておめでとうどころの騒ぎではありません。イエス以外のすべて人間は例外なく、罪によって孕まれているのです。性欲の結果生まれているのです。こんなものをおめでとうと言えるはずがないのです。生まれておめでとうという考えが、異邦人の物知らずを示しているのです。

現世の人間の考えは、土台から全く間違っているのです。私たち異邦人のすべての考えは肉の思いである、死であるという理屈は理論として知っていますけれど、実感としてもう一度聖書の言葉に基づいて正確に考えてみますと、人間が現世に生まれたのは生まれたのではなくて、死なしめられたということです。死に渡されたことを意味するのです。例えば、神の生みたまえる一人子が、わざわざ死に渡されてこの世に生まれてきたのです。これと同じ条件で、私たちも生まれてきたのです。

キリストは死なしめられてこの世にきたのです。誠にナザレのイエスという人は、大工の息子です。しかも、父なし子として、姦淫の子供として生まれてきたのです。

これはイスラエルの掟から考えますと、死なしめられたことになるのです。姦淫の子供のような形で生まれたことは、掟的にも社会的にも、はっきり死なしめられたことを意味するのです。その証拠に、死人の装束の白い衣で巻かれて、馬の飼い葉おけにおかれたのです。これは葬式と同じやり方を示しているのです。この世に人間が生まれるというこは、葬式と同じ意味なのです。

この世に人間が生まれてきた事ほど、悲しい事はないのです。人間は誕生日がくるたびに、自分がこの世に死んで生まれてきたという悲痛な状態を心にとめるべきなのです。お祝いどころではないのです。

人間は死んで生まれてきたのですから、救われる可能性は万に一つもないのです。絶対にないのです。はっきり死んでいるのですから。ここからまず考え直さなければいけない。そうすれば、聖書をまっすぐに受け取ることができるのです。死んでいるのですから、自分のことを思い煩って、ああなりたい、こうなりたいと思うことがもう間違っているのです。思うことが皆死人の妄想です。

神は私たち日本人を通して、世界の人間に向って、新約の光がどんなものかを明らかにしようとしているのです。暗きと死の陰に座している全世界の人間に、黎明の光を照らさせようとしているのです。

バプテスマのヨハネは、暗きと死の陰に座している民に、義の太陽の光を照らすために現われたのです。私たちはそれと同じことを、全世界の人間に向ってやらされるのです。

今の人間は暗きそのものです。死の陰そのものです。死そのものです。死んでいるのです。そういう人間に向って、皆様を遣わす以上は、皆様は完全に生きたものにならなければならないのです。

今の人間はリビング・ソールとは言えないのです。デッド・ソールです。リビング・ソールは神によって造られた直後の状態を示しているのです。アダムの陥罪以後の人間は、デッド・ソール、死にたる魂になっているのです。

今の人間は死んでいる魂です。魂が死んでいるのです。ですから人間の考えは何もかも、全部間違っているのです。人を愛しても間違っている。愛されたと思っても間違っているのです。正しいことをしたと思っても間違っているのです。聖書を勉強したと思っても間違っているのです。すべて間違っているのです。

「御破算で願いましては」という言葉がありますが、人生そのものを御破算にしなければいけないのです。すべてやり直して、人間は死んでしまっているという所から出発しなければならないのです。

私は肉なる者で、罪の下に売られているとあるのです。罪に渡されている自分、死に渡されている自分を考えてみますと、幸福になるどころの騒ぎではないのです。

罪の下に売られている。死んでいるということがはっきり分かりますと、初めて、もやもやから解放されるのです。どうかならなければならないという妄念から解放されて、さばさばした状態になるのです。そうしてコロサイ人への手紙の三章一節から四節までが、私たちに与えられたコースであることが分かるのです。

あなたがたは死んでしまっている。命はどこにあるかと言いますと、キリストと共に神の内に隠れているのです。今、第三の天に隠れているのが私たちの命であって、現世に生きている私たちは、第三の天においてキリストと共にあるということが、出発点になるのです。

第三の天において、キリストと共に神の右におかれていると思うことが、皆様の出発点です。そこから現世に出向を命じられているのです。これがはっきり分かると、新約聖書の不明だと思われる箇所がだんだん明らかになってくるのです。

イエスは「すべてを捨てて私に従ってきなさい」と言っています。これはまだ手ぬるい言い方です。パウロのほうがきつい言い方をしています。「人間は全部死んでいる」と言っているのです。イエスは死んでいるとは言っていないからです。

イエスはイスラエルに向って発言しました。約束の内にあるのですから、ひょっとしたら死んでいると言えないかもしれないのですが、異邦人ははっきり死んでいるのです。全く弁解の余地がないのです。人間は罪の下に売られてしまったのです。神がそうしてしまったのです。この世に生まれたということが、罪の下に売られたことをはっきり意味するのであって、これが肉体存在の人間です。

ですから権利も人権もないのです。自尊心を主張するのはもってのほかです。乞食ラザロでもまだまだ上等だと言わなければならないのです。紫衣の富める者の門口におかれて、余りもので命をつなぐことを欲したのです。これでも上等です。イエスは異邦人は犬ころで、イスラエルは福音を受けとる値打ちがあったとみなしていますけれど、神の民イスラエルは全くの死人ではなかったかもしれないのです。イスラエルに向って、イエスはおまえたちは死んでいるという言い方をしていないからです。

パウロは異邦人に向って、おまえたちは死んでいると言っているのです。イエスはユダヤ人にだけ発言しているのです。ユダヤ人は約束のために、おまえたちは死んでいるとは言われなかったのです。これだけでも有難いのです。

私たち異邦人は死んでこの世に生まれてきたので、本当の命を一日も経験していなかったのです。今まで何十年間の間、本当の命を一日も経験していなかったのです。死んだ命を経験していたのです。これは経験にならないのです。何十年間か生きてきた経験に基づいてと言っても、死んだ経験です。命を経験していなかったのです。

ユダヤ人の場合、アブラハムに与えられた約束で、神はまず私とおまえとおまえの子孫とに契約を与えると言っています。天下の多くの人々は、あなたによって幸いを得るという約束を提供しています。約束を与えられたということ自体が、基本的に神に認められていることを意味するのです。神が認めていないものには約束を与えません。その意味でも、約束を与えられていない異邦人は、生きているものとして認められていないのです。

イスラエルはそうではない。約束を与えられたのですから、生きている者として認められているのです。イスラエルと異邦人とは、こういう大きい違いがあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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